第24話 左兵衛大夫

主要登場人物別名


弾正… 六角定頼 六角家当主

四郎… 六角義賢 定頼の嫡男

藤十郎… 蒲生定秀 六角家臣

山城守… 進藤貞治 六角家臣


公方… 足利義晴 十二代足利将軍

六郎… 細川晴元 細川京兆家当主


女院… 勧修寺藤子 後奈良天皇の生母 豊楽門院

右大臣… 三条実香 公家の三条家当主


――――――――


 

 京の治安維持に働いていた蒲生定秀は、細川晴国軍を追い出して京を回復したことで、朝廷にも接する機会が多くなった。

 武家が天下を差配しているとはいえ、未だ諸々の儀式には朝廷の権威が必要であり、将軍職の叙任ですら形式的には朝廷が選任する形を取っている。必然、足利将軍を後援して上洛させようとする六角家としても朝廷との交渉は必要だった。


 しかし、日本最高の権威といえども応仁の乱以降は各地の荘園や御料所などの多くが武士や寺社に横領され、朝廷の収入は往時の十分の一ほどにまで窮乏し、各種の儀式にも支障をきたすようになってきている。

 本来は足利将軍家がその不足分を負担していたのだが、今の将軍家にその力は無く、将軍義晴を保護する六角家としてはそういった朝廷への献金も請け負わざるを得ない。


 さらに、それとは別に蒲生家は独自に朝廷との繋がりがあった。

 定秀の祖父蒲生貞秀は文人としても名高い人物で、貞秀主宰の歌会には甘露寺権中納言元長から和歌を贈られているし、三条西実隆からは源氏物語の花散里の巻を贈られている。

 定秀の伯父にあたる蒲生秀行は、独自に刑部大輔の官位を授けられてもいた。


 もっとも、独自の繋がりがあるのは蒲生家に限らず、三雲家の三雲資胤は定持に家督を譲ってからは気ままに京へ来て公家衆と交流していた。

 京に滞在する蒲生・後藤の陣にも何くれと三雲資胤が陣中見舞いに訪れている。

 そんな中、定秀は女院の勧修寺藤子ふじこの元を訪れていた。



「蒲生殿。常からの帝への忠勤まことに感心な事でおじゃりますな。此度の献上品も帝に成り代わって御礼申しますよ」

「恐れ入ります。女院様にもご機嫌麗しゅう存じ、祝着至極にございます。

 此度の贈り物は、我が主よりの心ばかりの忠勤とご笑納くだされば幸いにございます」


 藤子は先代の後柏原天皇の側近く仕えた典侍で、時の帝である後奈良天皇の生母にあたる。朝廷でも穏然たる力を持つ女帝だった。

 だが、すでに七十を超えてその体調は必ずしも優れないと聞く。定秀は太刀や馬の献上品とは別に、琵琶湖の鮒を使った鮒鮨ふなずしを藤子個人に献上していた。


「妾が鮒鮨が好物だということもよく知っておじゃるな。有難くいただきますよ」


 藤子が上品にほほ笑む。乱世の中を女官として生き抜いた老婆からは、その穏やかな微笑みからは想像も付かないほどの苦難を乗り越えてきた威厳が感じられた。

 釣られて定秀も相好を崩す。この老婆の前ではどのような仮面も無意味に思え、自分の祖母や母に接するような心持にさせられる。

 暖かさに満ちた女性だった。


「父や祖父から女院様が鮒を好んでおられるということは聞き知っておりました故…

 今年の鮒は格別に出来が良うございます。楽しんでいただければ幸いにございます」

「ほほほ。ほんに楽しみな事よ。近江は弾正のおかげで平和であると聞いておじゃる。この乱世にあって、何ともうらやましき事…」


 藤子の目が遠くを見る目になる。

 藤子の夫である後柏原天皇は、足利幕府からの献金が途絶えたために先帝が崩御してから二十一年間即位する事が出来なかった。即位式どころか先帝の後土御門天皇の葬式すら出せずに四十日間遺体が御所に放置されるような有様で、その間自筆の書を売ったりして帝自ら銭を稼がざるを得なかった。


 当代の後奈良天皇も自筆の書を売るなどしているが、他方で後奈良天皇は清廉潔白な気質もあり、翌年に土佐の一条房冬から任官と引き換えに一万疋(百貫)の献金を約束されていたが、この献金を断っている。

 任官自体は望み通りにしている事から、上洛して京の治安維持に当たるでもなく、ただ金を積めば官位を下さると朝廷の権威を侮られる事に我慢がならなかったのだろう。


 それもこれも全ては戦乱の世の中こそが朝廷の窮乏を招いていると思えば、藤子には帝という地位にありながら自ら銭を稼いで費えを賄って行かざるを得ない我が子が憐れでならなかった。

 世の乱れは足利の失政であることは明らかであるのにも関わらず、息子である後奈良天皇は全て自分の不徳の故と自らを責めている。

 その姿を見れば見るほど藤子の心は痛み、その分だけ近江の平和を維持している六角氏が京の治安維持に当たる事を喜んだ。今や藤子にとっても六角定頼だけが微かな希望の光だった。


「いずれ、我が主が公方様の権威を回復させましょう。そうなれば帝にもいま少し心安らかにお過ごしいただけるかと」

「ほんにお頼み申します。弾正には足利だけではなく朝廷も期待しておじゃりまする」

「この藤十郎、一身に代えましても」


 穏やかに頷いた藤子がつと威儀を正し、改めて定秀の顔を見定めた。


「此度の蒲生の忠勤に対し、帝も何か報いねばなりません。何か望みの向きはあるかえ?」

「はっ… されば、左兵衛大夫への任官をお願いいたしたく」

「左兵衛大夫… それでよいのか?」

 藤子は不審な顔をした。


 左兵衛大夫と言えば無位の官職で、昇殿の権利すらない末席だ。

 六角定頼の従四位下以上に任官するわけにはいかないとしても、昇殿が許される五位くらいの官位には就けて然るべきだった。

 事実、定秀の伯父の秀行は正五位下の刑部大輔の位に就いていた。


「かまいませぬ。父が任じて頂いていた左兵衛大夫を継ぎとうございます」

「左様か… わかりました。帝へは妾が確かにお伝えいたしましょう」

「よろしくお願い致します」




 ※   ※   ※




 天文三年(1534年)五月

 蒲生・後藤の地ならしも終わり、細川晴国の軍勢は丹波から摂津に追い出され、京は六角軍と法華宗門徒の制圧するところとなっていた。

 先遣隊に続いて進藤・永原の軍勢も上洛し、将軍上洛に向けて各種の根回しに当たっている。

 進藤貞治と蒲生定秀は三条実香に事の次第を報告すべく、この日も京の三条邸に出向いていた。


「山城守よ、話は聞いておじゃる。間もなく公方が京へ戻って来るそうじゃな」

「はっ。右大臣様には朝廷での根回しをお願いいたしたく」

「それは構わぬ。六角弾正が後押しするとなれば、公家衆にも否応はあるまい」

「ありがとうございます。それと、近衛様との婚姻の件ですが…」

「それも問題ない。道永が死んだとはいえ、准后じゅごう様は六角が後ろ盾に付くのならば公方との縁組は予定通り行うと申されておじゃる」


 三条実香は上機嫌に笑っていた。親高国派の公卿として大永七年の上洛には同行していたが、定頼が高国を見限った時にはそのまま京に残り、息子の公頼を細川晴元との窓口にして自身は六角との窓口となっていた。


「婚儀と言えば、我が孫娘と六郎の婚儀はいかがなっておじゃる?」

「六郎様が一向一揆に手を出されました故、それの始末が終わってからと主は申しております」

「ふむ… 必要ならば朝廷からも勅使を出してもらうように申し上げても良い」

「お心遣いありがとうございます。なれど、この件ばかりは六郎様自身の手で決着を付けさせようというのが主の意向でございますれば」

「…左様か。弾正も中々に厳しい義父上ちちうえ殿よな」

 三条実香は扇で口元を隠すと一つため息を吐いた。


 細川晴元への輿入れを予定していた定頼の長女初音はつねは、大永の和睦不成立を受けて高島郡の北を安定させるために若狭の武田信豊の元へと嫁いでいた。

 当初は細川晴元に京を任せるつもりであった定頼も、一向一揆に手を出した晴元の愚かさに実の娘を輿入れさせる気持ちを失っていた。

 そのため、元々晴元と親しかった三条公頼の娘を猶子とし、名目上は六角の娘として輿入れさせる予定になっていた。

 三条家としてもこの婚姻で細川・六角両家との縁を結ぶ事が出来るので悪くない縁組だった。


 将軍義晴の上洛は天文三年の六月とし、定頼の嫡男六角四郎と定頼の弟の大原高保が供奉する事に決まった。

 今回も定頼自身は上洛する意志は無かった。




 ※   ※   ※




 当初六月に予定されていた義晴の上洛は最終的に九月にまでずれ込んだ。

 表向きは義晴の病気の為という事になったが、実情は摂津の情勢がキナ臭くなっており、細川晴元が上洛して出迎える事が出来なかった為だ。


 摂津の越水城を本拠とした三好長慶は投降した一向一揆の足軽達を自分の家臣として召し抱え、戦力の増強を図った。

 三好家の庶流でありながら本家の元長を裏切って対立していた三好政長は、元長嫡男の長慶の勢力が回復する事を嫌って一向一揆討伐を理由に長慶方を攻めた。

 政長は細川晴元の家老の地位にあったが、篠原長政が「本願寺とは和睦したはず。それらを召し抱えて何が悪い」と抗弁した為に両者の仲が益々険悪になった。


 晴元は未来の舅の定頼から出迎えはまだかとせっつかれたが、手間取る晴元を尻目に将軍義晴が我慢の限界を迎え、先に上洛してしまう。

 面目を失った晴元は、最終的に十月には長慶の言い分を認め、また若年であるという理由を持って三好長慶の行動を許し、三好政長との間を晴元が仲介するということで決着させて慌てて義晴の元に馳せ参じた。

 最終的に三好長慶は再び細川晴元の一武将として仕える事となった。



「ほほほ。この度の四郎の働き、天晴であったぞ」

「は。勿体ないお言葉でございます」


 上京の室町御所に戻った義晴は上機嫌だった。ようやく念願の帰京が叶い、かつ六角定頼の弟の大原高保が今後側衆として京に常駐すると言う。

 正に願ったり叶ったりの上洛だったが、安心したら気が抜けたのかこの頃から体調が優れない日が多くなっている。

 今も青白い顔をして上座に座っていた。


「公方様にはお体の具合が優れぬと聞いております。上洛を果たした今こそ、御身お大切に為されませ」


 義晴を気遣う四郎を補佐するように進藤・後藤・蒲生・永原の四将が控える。

 後は細川晴元が将軍義晴に拝謁して正式に義晴への忠誠を誓えば、定秀たち上洛軍の仕事は終わりだった。


「うむ。これからは幕府をよりよく治めて行かねばならん。今後もそこもとらの忠義には期待しておるぞ」

「はっ!」


 六角家の面々が頭を下げた所へ大舘尚氏が大声で下座に声を発した。


「六角四郎。公方様は此度のその方らの忠勤に痛く感じ入っておられる。そこで、足利家の通字である『義』の字を下さるとの仰せである。以後『義賢』を名乗るが良い」

「有難きお計らいに感謝いたします。謹んでお受けいたします」



 天文三年(1534年)九月

 六角四郎は将軍義晴の一字を賜り、同時に従五位下左京大夫に任官され、六角左京大夫義賢を名乗ることとなった。

 通常名前の一字を与えるのは通字以外の字となっており、義晴であれば『晴』の字を与えるのが通例だ。

 細川晴元、朽木晴綱、武田晴信、島津晴久、伊達晴宗、南部晴政など…

 足利家の通字である義の字を臣下に与える事は異例であり、それほどに義晴は六角家を頼みとしていた。


 その後の十月には細川晴元が上洛して将軍義晴に拝謁し、改めて臣従を誓う旨言上すると、再び慌ただしく摂津芥川山城に戻った。

 一向一揆の後始末もまだ完了しておらず、さらには細川晴国ともまだ摂津で対決しており、晴元はまだまだ腰を落ち着けて上洛する事はできなかった。




 ※   ※   ※




 宿舎に戻った定秀は、進藤貞治と共に保内衆の馬五郎と対面していた。

 対面と言っても蒲生・進藤は寺の濡れ縁に座り、馬五郎は土間に膝をつく形だった。


「保内衆の商売が制限されているとな?」

「はい。一向宗を打ち払った京は法華宗の勢威が強くなっておりますが、法華宗は京の商人を多く檀家に持っております。

 法華の僧兵は我ら保内衆にも京で商売をするのなら段銭を寄越せと言って参りました。逢坂の関を通る事にすら関銭を要求しております」

「ふぅむ… どうやら法華宗は此度の乱で比叡山を抑えて自分達が京を握ろうとしておるようだな…」


 京は昔から比叡山の影響力の強い土地だったが、鎌倉期以降は禅宗の勢いも強くなった。

 比叡山は公家に、禅宗は武家に広まる事でその勢威を得たが、後発の法華宗は商工業者に広まった。

 商人の稼ぐ銭もお布施として法華宗寺院に集中しており、経済力は馬鹿に出来ないものがある。

 民衆に広まった浄土宗・浄土真宗を京から駆逐したことで、京の銭は自分達の物と思い始めていた。

 保内衆の本拠地である得珍保とくちんのほは元々比叡山の荘園だったこともあり、今も本所として比叡山にも段銭を納めている。この上法華宗にまで段銭を上納すれば、商売あがったりになる事は確実だった。


「して、保内衆の商売には支障をきたしておるのか?」

「今の所、伊勢や美濃・若狭・越前への販路がありますのでそこまでの事は…

 ですが、京に店を出さぬとなれば、弾正様にとっては面白からぬ事になるかと」

「確かにな… わかった。戻ったら御屋形様に申し上げて何らかの対策を取ろう」

「よろしくお願いします」


 畿内各地に商売の販路を持つ商人衆は定頼の重要な情報源だ。

 保内衆を始めとした近江商人の販路の広がりは、そっくりそのまま定頼の元に入る情報の精度に繋がる。

 京から西の情報が入らないとなれば、六角家として捨て置ける事態ではなかった。



 天文三年(1534年)十二月

 上洛軍の役目を終えた蒲生勢は、一年半ぶりに近江への帰路に就く。京での治安維持は将軍側衆となった大原高保に一旦は任せる事となった。


 この天文三年五月に一人の男児がこの世に生を受ける。

 幼名を吉法師。長じてからの名を織田信長と言った。

 六角定頼の働きによって天下は定まるかに見えたが、宗教戦争に端を発した京の戦乱は、未だ完全に収まったわけではなかった。

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