第3話 楽市
主要登場人物別名
藤十郎… 後の蒲生定秀
弥五郎… 朽木植綱 朽木家当主
庄衛門… 伴庄衛門 保内商人の頭分
浅井備前… 浅井亮政 浅井備前守を名乗った 京極家臣
――――――――
明けて大永四年(1524年)三月
中野城からご機嫌伺いに観音寺城に伺候していた藤十郎は、対面の間でぶすっとした定頼を前に挙動不審になっていた。
「あの… 手前共が何か不始末でも…」
心当たりは、ある。あり過ぎたと言った方がいい。
昨年の戦で実権を失った当主秀紀は、毎日鬱々と定頼の文句を言って過ごしている。
父の高郷も度々諫めるのだが、元々裏切者と思っている秀紀は一切耳を貸さず、遂には鎌掛城内で定頼を呪詛しているという噂まであった。
中世の宗教観念が色濃く残る戦国時代の事、呪詛するという事は相手に毒を盛るのと同じくらいの語感で受け止められる。
いつ蒲生家を潰すと言われるかわからぬ状況ではあった。
青ざめた顔をしながら定頼の胴の辺りに視線を落としていると、おもむろに何かを取り出す仕草が視界の端をよぎった。
「読んでみよ」
「は。失礼いたします」
藤十郎は差し出された書状を受け取って目を走らせると、不機嫌の理由に納得すると共に安堵した。
少なくとも、今の不機嫌面の理由は秀紀ではない。
書状は京で権勢を誇る細川高国からだった。
「公方様(足利義晴)の為に三条第を上京に移築するから、銭を出せとせびってきおった」
「長い間ご苦労されておられましたからな」
「フン。散々にタカられただけだ。わしは上洛などカケラも興味はないというのに」
盛大なため息を吐く定頼に、藤十郎は安堵もあって思わず笑ってしまった。
―――銭を使う事を嫌っておられるのだ
当節誰も彼もが上洛して権勢を振るう事を狙っている中で、京の隣にいながら上洛を極端に嫌う定頼は、変人と言っても差し支えない男だった。
元々十六年前の永正五年、周防の
時の管領は細川高国だった。
ところが六年前の永正十五年に領国の騒擾に不安を感じた義興が帰国すると、阿波に逼塞していた細川澄元が三好之長と共に摂津国へと上陸する。
高国は独力で対応して二年ほど一進一退を続けるが、池田城で敗北するとそのまま近江に遁走してしまった。
大内帰国以後、高国との間がギクシャクしていた将軍義稙は、高国を見捨てて澄元一統に接近する。
進退窮まった高国は、近江において六角・京極の両佐々木を味方に付けて巻き返しを図った。
定頼は面倒がって上洛軍の指揮を弟の
これを契機にして京洛中に近江六角氏の武名が轟き、高国の主力軍として扱われる羽目になった。
もっとも、定頼自身は上洛には興味を示さず、ひたすら近江国内の安定化に尽力した。
京の政争などに介入する気はさらさら無かった。
義晴の将軍宣下に伴う一連の儀式にも参加しようとせず、宣下の終わった三月になってようやく上洛して義晴に対面している。
しかし、義晴の面目を保った後、二か月後にはさっさと近江に帰っている。
帰国したさらに二か月後には音羽城攻めを開始しているから、蒲生秀紀には良い言い訳を作ってくれたとすら思っていたかもしれない。
自身は領国に居て名代を遣わして京に影響力を及ぼすという定頼のスタイルは、後に織田信長に継承される事になる。
定頼は『天下を取りたくない天下人』だった。
「泣いて頼むので仏心で援助したのが運の尽きだ。あれ以来あれやこれやとタカってきおる。
わしは無駄銭を使うのが何より嫌いだ」
「しかし、お断り為されればしこりを残しませんか?」
「しこりがあったとしても何も出来んさ。わしが居らねば回らぬと泣き言を言って来るくらいだからな」
定頼の放言ぶりにさすがの藤十郎も心配になり一言申し上げたが、当の定頼はどこ吹く風だった。
「そんな事よりも、だ。近頃商人達の
「そんな事、ですか…」
「おお、そんな事だ。人の銭だと思って好き放題に言いおって。誰が銭を稼いでやっていると思っている」
「御屋形様… 目が銭になっておられますが…」
「おお、イカンイカン。銭の話が絡むとつい、な」
思わず熱が入った定頼は、人差し指と親指で丸を描いていた手を引っ込めた。
中世の商業界を支配していたのは『座』という商人集団だ。
座はそれぞれに特権を支配者から保証され、戦国期の物流を支えていた。
国質とは
例えばある保内商人がある横関商人に荷を奪われたとすると、保内側は奪った個人ではなく『横関商人』全体をターゲットにして報復活動を行った。
自然とグループ間での抗争が激しくなり、座は徐々に権力と結びついて他郷の国質を回避しようと動き始めていた。
定頼の本拠である観音寺城下の石寺新市では、そういった国質を止めて市場を共有する『楽市』としようという申し合わせの元、湖東・湖南各地の商人達が安心して荷を持ち寄っていた。
石寺楽市への参加は座に所属する者に限られ、後年にあるような誰でも彼でもというものではなかった。
その上、石寺新市内でも縄張りが分かれていたが、ともあれ楽市内であれば国質による荷の強奪はしないという申し合わせを商人同士で行っていた。
広く湖東・湖南地域を治める定頼のお膝元だからこそ実現できた事だった。
もっとも、石寺新市を一歩外に出れば国質の慣習は生きており、長く抗争を続けていた商人達はどこかの商人とは必ず争っていると言っていい状態だ。
必然的に荷の安全を確保できる石寺の『楽市』は隆盛を極め、領主である六角氏にも巨額の銭を運んでいた。
また、遠く堺から敦賀・伊勢・美濃・尾張まで広がる湖東の商人達のネットワークは、各地の富と産物を観音寺城下に集めていた。
定頼はその富の一部を京の帝や公家・将軍家などにおすそ分けしており、対価として合戦時には敵対勢力に味方しないように中立勢力に根回しを依頼するなど、お互いに利の有る関係を築いていた。
「近頃では敦賀や丹後との交易を巡って高島の商人と争いがひどくなっているという話だ。弥五郎殿にもいずれ話をせねばならん」
「御察しいたします」
「他人事ではないぞ。日野市でも保内衆と横関衆が争いになりそうだと庄衛門が言っておった。藤十郎もしっかりと抑えておかんと、銭をとりっぱぐれるぞ」
「御屋形様… また目が…」
「おっと、イカンイカン…」
物流は物の流れであると同時に、人の流れであり情報の流れだ。
石寺新市には諸国の情報が飛び交い、定頼は近江に居ながらにして天下の動きのほとんどを把握していた。
特に保内衆を束ねる伴庄衛門は、定頼にちょくちょく情報を売りに来る。
求める対価は争論の有利な判決だった。
六角家と保内商人の結びつきは癒着と言って差し支えないほど親密な物だったが、それは銭以外の付加価値を売りつけた保内商人の知恵だった。
また、保内商人は権門から発給される文書によって特権を主張し、数々の争論に勝利したが、このやり方を学んだ小幡や横関の商人も権門に銭を払って独自に特権を認める文書をもらうようになる。
それまでは故実・しきたり、つまり『今まで特権を持っていたから』という曖昧な理由によって特権を主張してきたが、裁判となれば文書がある方が断然有利だ。
その為、商人が文書を得るために上納する礼銭は権門の貴重な財源となり、比叡山などではその銭を融資することでさらなる利殖を行っている。
日野市が争いによって寂れれば、その分特権を狙って上納される礼銭も減るのだから、市の平和を確保することは武士の収入にも直結する一大事だった。
※ ※ ※
夏になると、真桑瓜が定頼の元に届けられた。
「おお、暑くなってきたと思ったらもう瓜の季節か」
「ええ、今年も沢山届けていただきました」
ニコニコと弾けるような笑顔で頷いた志野は、既に一つ井戸で冷やしていたという瓜を侍女に持って来させた。
並んで縁側に座って瓜を食べていると、志野が嬉しそうに話し出す。
「本当に甘い瓜です事。
そうですわ。この瓜の半分を近衛様にお届けしようかと思いますがいかがですか?御屋形様」
「志野はほんに良く気が付くの。では、志野の名前で送るとよい」
目尻と鼻の下を伸ばした定頼がうんうんと頷く。
もはや話の内容は半分ほどしか耳に入っていなかった。
「亀寿丸も美味いか?」
「はい。おいしゅうございます」
「そうかそうか。たんと食え」
「はい!」
志野に似て整った顔立ちの亀寿丸は健やかに育ち、この年には五歳になっていた。
可愛い盛りの我が子を前に、定頼は再び目尻と鼻の下を伸ばしきっていた。
たまたま報告があって来ていた進藤貞治は、余りのだらしない顔に堪えきれずに笑ってしまった。
笑われた事に拗ねた定頼をなだめるのにひと汗かいたが、人払いを頼むと真剣な顔に切り替わって対面する。
「小谷で何やら不穏な動きがあるようです」
「ほう。
定頼の目がキラリと光る。
京極佐々木氏の家臣として京極高清に従っていた
京の事にはとんと興味が無い定頼だが、相手が北近江となれば話は別だ。
美濃や越前への街道を扼する京極家は定頼にとって鬱陶しい相手だった。
何より、商人の邪魔をされてはたまったものではない。
「こちらを伺う動きを見せておるとの由。いかが為されますか?」
「ふむ… 朝倉に根回しをしておくか。取り急ぎ、北の防備を厚くせよ。
来年の夏頃には小谷を攻める事とする」
「承知致しました。北近江の国人衆に手を回しておきまする」
「頼む」
定頼は朝倉・土岐・朽木へと文を書いた。特に越前の朝倉は南北から小谷を挟撃できる好立地だ。
儀礼上、京の細川高国へも事の次第を報せておく必要がある。
戦は年が明けてからとなるだろう。
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