第15話 神谷有恒 中 ①

今まさに本格的な夏の準備をしていると、頭上に広がる真っ青な空が訴えかけてきている割には、実際はこの時期にしては珍しくカラッと乾燥した空気のお陰で、日差しの温もりこそ肌ではヒシヒシと感じながらも、過ごしやすいと言えば過ごしやすい陽気の範囲内に収まっていた。

だが、やはりこのような晴天が苦手というか、もっと言えば嫌いと言っていい私からすると、こうして見上げた時に視界に入ってくる、太陽からの容赦ない”光撃”によって生じさせられた目の痛みに、苦々しく思うのを隠そうとしないまま顰めたその顔を前方に戻した。

そこには、もうこの道に通い出してから彼此四年ほど経つお陰か、すっかりお馴染みとなった寂しい風景が広がっていた。

民家は建っているには建っているのだが、本当に人が住んでいるのか、空き家としか思えないような、人気の無い家々の間を通る道を歩いて行くと、古ぼけた、苔生してる箇所もチラホラと散見出来るブロック塀の上から、これからがまさに我らの天下だと言いたげに、青々と元気溌剌と繁茂する木々の枝葉が、今歩いている私の頭上に広がっていた。

そんな様子だから、この周辺でも取り分けパッと見では人が住んでるようには思えないこの日本家屋が、私の目的地だった。

…ふふ、いつも異常にやたらと勿体ぶって見せたが、もうお気づきだろう。そう、また私は義一宅へと訪れる事となった。前回訪れてから二日後が今だ。


…さて、先ほどチラッと触れたように、私が義一宅、宝箱に通い出してから、小学五年生から単純計算で四年ほど経つというのに、これほど間を開けずにここを訪れたのは初めてなのだが、何でまたここを訪れたのかについて話したいと思う。

前回は絵里と三人で宝箱で和やかに過ごしたわけだったが、その日の晩、寝支度を終えて、両親に挨拶をして自室に引きあげたその時、スマホの液晶が光るのが目についた。見るとそれは電話だった。

まるでタイミングを図ったかの様だったので、その時点で何となく察していたが、その察しの通り、相手は義一だった。

以前にも話したように、今現在の私は、自分では何一つとして疚しいことをしている気がサラサラ無いのに、一々細かいことに気を使うのが馬鹿らしくなっていた時期だったのもあって、それまでは義一からの電話に出る前には、一度部屋の外の様子を窺ったりしていたのだが、この時に限らず最近は躊躇なく電話に出ることにしていた。

「…はい、もしもし」

と私が出ると、「あ、もしもし。僕だけれど」と義一もすぐに返してきた。

「今って大丈夫?」

「え?え、えぇ…大丈夫よ」

私はベッドに腰かけていたのだが、顔だけドア付近に顔を向けた。

「あ、そう?なら良かった」

「…で?今晩はまた急に何の用件なの?」

我ながらもっと可愛らしい返しが出来ないものかと思うのだが、自分を弁護すると、声色自体は柔らかいので、字面でのイメージから来る印象とは違う…うん、はずだ。

「あ、うん。あのねぇ…」

と義一がここで一旦口を止めたが、受話器の向こうで、何やらガサガサと音が聞こえた。

何かを探しているのか、まるで書類の束でも動かしている風だったのだが、その音が鳴り止むと、義一は続けて言った。

「…ふふ、ほら、結構時間が経っちゃったけれど…ちょうど一ヶ月くらい前になるの…かな?君が修学旅行から帰って来て一週間後くらいに、お土産と共に持って来てくれたじゃない?その…プリントの山を」

「…ふふ、えぇ」

と、このように平静を装って返したのだが、自分が意を決して持っていって義一に渡したというのに、実際はこの時に久しぶりに思い出したので、同時に一人でハッとした表情をしていたのだが、しかしこうして平静を装えたのは、義一がいかにも、例のプリント群を纏めてどういった単語を使えば良いのか、それに悩んでいる様子が受話器越しでも伺えたので、思わず笑みを零してしまった次第だ。

「ふふ、それなんだけれども…ふふ、ようやくというか、こないだね読み終えたからさ、その感想を是非君に直接言いたいなって思って、それで君の都合の良い日でいいから、またこっちまで来てくれないかな?って、電話だったんだけれど…」

「あ、そうなんだ…」

義一の言葉から発せられた『感想』という単語に、思わずドキッとしてしまい、そのあまりに背筋を伸ばしてしまったのだが、ふと一つの疑問が湧いたので、まずはそれを聞いてみる事にした。

「いや、良いけれど…って、その前に、それだったら今日だって良かったじゃない?せっかく宝箱に行ったっていうのに」

「んー…そうなんだけれどさ」

と、私からの質問というか疑問の呈示に、一瞬間を開けたが、既に私からこのような質問が来ることは想定内だったようで、すぐに答えた。

「ほら…今日は絵里も来ていたでしょ?だから…どうかなぁー?って思ってね」

「…っあ、うん、まぁ…」

「…ふふ。まぁ何となく絵里だったら、琴音ちゃんも構わないって思うかも知れないかな?…とは思ったりもしたんだけれど」

「…ふふ」

と私はただ微笑むのみに留めた。

今の義一の話した内容が、ずばり正鵠を射抜いていたからでもあったが、しかし何も言わなかったのは、それは…ふふ、普段からあまりにも、私の心理というか考えを見抜き過ぎてくるせいで、これくらいの反抗はしたくなったからだった。

とは言っても、勿論このように、的確にこちらの心理を読んでくる事について、不満なり嫌悪感なりは私には無い。

…ふふ、口先で言ってるのみだから、本心かどうかは別にして、絵里はそこが不満だったり、癪に障るらしいけれど。

「で…どう?時間は取らせないからさ?」

「あ、えぇっとねぇ…」


ふふ、別にそこまで気を使わなくても構わないのに


と受話器では聞こえないくらいに小さく笑いながら、頭の中のスケジュール帳で確認してみた。

…だが、この確認作業は早く終わってしまった。

何故なら、そもそも何度も触れているように今は”試験休み”。部活などの例外を除けば基本的には、テストの答案返却がある終業式の前日までずっと休みとなっていた。

管弦楽同好会の紫や、新聞部の麻里は部活動で学校に行ってるようだし、律は地元のバレーボールクラブへ足繁く通っているし、藤花も自宅の防音部屋で毎日歌唱の練習をして、裕美は言うまでもなく、来たる大きな水泳大会への追い込みに励んでいる。

…と、こうして考えると、勿論毎日朝食後から正午過ぎくらいまでピアノの練習、その後は気分転換に数少ない趣味であるサイクリングや、後は本を読むくらいはしているのだが、側から見れば一番暇そうなのが私なのだった。

…ふふ、義一の影響から始まり、私が言う暇は”良い意味”なので一切卑下はしていない…と、言えば言うほど誤解されそうだが、取り敢えずそんな私だったので、ピアノの練習だけでも出来るのならば、後はいくらでも調整が出来ると、その旨を実際に口にしつつ続けて答えた。

「…とまぁ、今はそんな感じで過ごしているから、時間は別に作ろうと思えば作れるからさ?そうだなぁ…うん、明後日にでも、ピアノの練習を終えて、少し遅めの昼食を食べたら、そのままそっちに行かせて貰うわ」

と言い終えると、

「うん、待ってる」

という言葉を義一が返した後は、何回か会話のリターンを繰り返し、その後は良い頃合いとお互いに「おやすみ」と挨拶を交わして、それでお開きとなった。 

…という経緯があって今日となる。本編に戻ろう。



塀に沿って”緑”の下を歩いて行き、玄関の方に近づいていたその時、その玄関側に一台の車が停まっているのが見えた。軽自動車だ。

助手席側を塀に近づけて停めていたが、ちょうど運転席から人が出てくるのが見えた。


…あれ?今日って誰か来客があったのかな?でも…うん、今日は一昨日と違って、別に早く無いし


腕時計に目を落とすと、時刻は二時半丁度を指し示していた。予定通りだ

不思議に思いながらも、歩くスピードを緩めて、少し遠目から相手を観察する事にした。

後ろ姿しかまだ見えなかったが、中肉中背の極々一般的な女性のように見受けられた

服装にしても何にしても、こう言っては何だが一般的過ぎて、これといって取りあげようも無い。

だが、それでもジッと眺めていたのだがその時、後ろ向きだったのが、ふと車内を覗くために横顔が見えたのだが、どこかそこに見覚えがあった

「…あ」

と私が思わず声を漏らしてしまうと、その女性は作業していた手をパタっと止めて、腰を上げてこちらを見てきた。

…うん、やはり、見覚えのある女性だった。

「…あら?えぇっと…あ、そうそう!琴音ちゃん…で良いのよね?」

と、初めのうちはマジマジとこちらを眺めてきたのだが、何かを思い出した様子を見せた直後には、満面の笑みと言って良い表情を浮かべつつ、運転席側のドアを半開きにしたまま近づいて来た。

「あ、はい、そ、そうです…。で、えぇっと…」

と私は、この時点で既に彼女の名前は思い出せていたのだが、しかし失礼がないようにと、もう一度頭の中で確認してから口に出してみた。

「ふ、房子さん…ですよね?神谷先生の娘さんである…」

そう、彼女は今私が述べた通り、神谷さんの娘である房子だった。

最後に会った…というか、それが初対面だったわけだが、忘れもしない今年の初め、一月の初め辺りに、今日のように宝箱を訪れた時に、その当時はまだ編集長だった文芸批評家の浜岡洋次郎と共に神谷さんがいた事があったが、神谷さんが帰るという時に、迎えに来たのが彼女なのだった。

これもその時に触れたし、それこそ最近でも触れたばかりだが、そこで神谷さんに提案されて、房子と連絡先を交換して、どんな事でもいいから、気軽に連絡を入れてねとは言われたけれど、しかしそこはまだ私も中学三年生の女子であり、年齢が祖父と孫ほどに離れているだけではなく、やはり義一が私淑して止まない神谷さんに対して、私も少なからず敬慕の情を持っているのを自覚していたのもあり、気軽にと言われても、そうは問屋が下さなかったのだった。


…あ、…ふふふ。私も絵里さんの事を言えないなぁ…


と一昨日の事をふと思い出して、そのまま自嘲気味に笑ってしまいつつ、それと同時に今まで連絡の一つも入れなかった事への、負い目とは言わないまでも若干のバツの悪さを覚えている中、房子は朗らかに私に話しかけて来た。

「あらー、よく覚えているわねぇ?あれは確か…今年も初めだったのに」

と記憶を辿りながら房子が言うのを受けて、その飄々とした態度で緊張の解れた私も、自然と笑みを浮かべながら返した。

「房子さんこそ、私の事なんか良く覚えていらっしゃいましたね?」

「え?あははは!」

私の言葉の直後には、何故か何を言われてるのか分からない様子だったが、クスッと一度吹き出したかと思えば、途端に明るい笑い声を上げた。

「そりゃそうよ。だって…」

とここで房子は意味深に笑いながら続けて言った。

「…あなたみたいに端正なお顔立ちで、雰囲気も洗練されたお嬢さんは、今まで生きてきて見たことなかったものだから。…って、あ、ごめんなさいね?義一さんもそうだったけれど、彼と同じであなたも容姿をアレコレ言われるのは苦手というか、嫌な方なのよね?」

「あ、いや…」

確かに今房子が言ったように、私、それに義一の二人は、共通して自分の見た目をアレコレ言われるのに抵抗があるのはその通りなのだが、今回は矢継ぎ早に言葉を繰り出されたせいか、嫌な気持ちになる前に謝られてしまったのもあり、気持ちの整理が追いつかないというのが率直な自分の状況なのだった。

だが、しかしまぁ気を遣って貰った心意気は嬉しかったのは間違いなかったので、

「…ふふ」

とただ小さく、しかし含みを持たせない事を意識しつつ微笑み返した。

その意図が伝わったのか、一瞬ホッとしたような顔つきを見せた房子は口を開いた。

「義一さんから事前に聞いていたのに、やだわ私ったら変に舞い上がっちゃって…ふふ、許してね琴音ちゃん。まさかこのタイミングで会えるなんて思っても見なかったものだから」

「あ、いえいえ」

と、さっきと代わり映えのしない返しをしてしまうと、房子はここで急にニヤッと笑い、その表情のまま上体を少し前に倒しつつ言った。

「でも…ふふ、そんな私なんかって言ってはダメよー?義一さんもそうだけど、あなた方は不用意に卑下しすぎるんだからねぇ。ふふ、勿論それはあなた方二人の美徳であり魅力の一つではあるんだけど、そんなあなた達二人を、普段はロクに他人を褒めない私の父が、とても買っているのだから」

「あなた…たち?」

と、私は思わず自分の顔に指差してしまったが、房子はただ笑顔のままコクッと頷くだけだった。


確かに、折角褒めてくれたのに、それに対して上手い対応が出来ず、褒めてくれた事を否定してしまうのが私にしても、それに私から見た義一もそうで、私たち二人は揃って、その謙遜な態度がむしろ相手に嫌な気持ちを少なからず生じさせている事があると、それも自覚しているのだが、これも持ったが病というのか、どうしたって自分で自分を評価している以上に褒められると、やはり照れてしまうし、まだ対処法が見つかってない以上、相手の意見を否定するしか今だに方法が無いのだ…と開き直る他に無い。


そんな事を思いながら同時に、こう言っては何だが初対面の時には感じなかったのに、意外とこれまた年相応というのか、グイグイくるおばさん特有の強引さを房子から感じた。

…っと、こう言うと少し悪く聞こえたかも知れなかったが、そんな房子の態度に対して、別にというか一切嫌な気はしないとだけ付け加えさせて頂こう。

…ふふ、誰とは言わないが、グイグイ来られるのは普段から慣れているのもあり、これは大分昔に言ったと思うが、私みたいなタイプとしてはグイグイ来られる方が、口先では一言二言くらいの文句は言いつつも、ありがたかったりするのだった。


「あ、そういえば」

と、私は不意に房子に話しかけた。

「今日は何用で義一さんの家に来られたんですか?」

「え?ふふ、それは勿論…」

と房子は顔を玄関に向けながら続けて言った。

「…お父さんのお迎えだよ」

「…あー」

『やっぱり』と心の中で続きは呟いた。

まぁ考えなくても分かる事ではあったが、ただ義一から、今日という日に神谷さんが来るという話を聞いていなかったし、何だかんだ直接神谷さんとは久しぶりに会う事になるのもあって、何となく心の準備が欲しかった私は、それで確認の為もあって話を振ってみたのだ。


「さてと…あ」

と、どこから取り出したのか、いつの間にか手に持たれていたスマホを見た房子は声を上げると、

「じゃあ琴音ちゃん、私たちも行こうか?」

と言うので、「えぇ…ふふ、はい」と戸惑いげに笑いながら返すと、それから私たち二人は、早速家の中へと足を踏み入れるのだった。


玄関は既に空いており靴を脱ぐ段階に来ると、義一の普段使いのスニーカーの脇に、年季の入った男物の革靴があるのが見えた。

二人してスリッパを履くと、そのまま真っ直ぐに宝箱の入り口へと向かった。

到着すると、一昨日と同じようにドアは閉められていたので、中の様子は分からなかったが、今中に神谷さんがいると思うと、自分でも不思議なくらいにドアを開けるのを躊躇ってしまったが、しかしいつまでもそうしている訳にもいかないだろうと、後ろから房子の視線を背中に感じながら、あくまで自然体を装いつつ開けて入った。

「ぎ、義一さん、来たよー」

と、普段通りに声をかけつつ宝箱に足を踏み入れると、一昨日とは違って、入ってまず目の前に見える書斎机の向こうに、鼻眼鏡をした義一の姿が見えた。

これまた一昨日とは違って、髪は所々が跳ねているのが象徴するように、程よく”良い加減”に緩めに纏められており、服装も無地の細めなグレーTシャツと、今は座っていて机に隠れて見えなかったが、履き古した様子のジーンズを履いているという、この時期にありがちな”義一ファッション”だった。


と、私が入ってきたのに気づくと、眼鏡を元の位置に戻しながら義一はこちらに顔を向けて、「やぁ、来たね」と腰を上げつつ微笑みながら言った。

「うん。…」

と私はグルッと宝箱の奥の方まで顔を向けると、やはり以前と同じく、一昨日は義一が座っていた二つあるうちの一つのソファに、外は初夏の陽気で暖かくなっているというのに、病気で寒気がするのだろう、ギブスかと見間違うような厚めのネックウォーマーを首にした神谷さんが、深く腰掛けて背中を背もたれに預けていた。

と、私と視線が合うと、それまでも義一と歓談していたせいか朗らかな表情を浮かべてはいたのだが、次の瞬間には、その笑みをより一層強め…たように私は受け取ったが、それはともかく、神谷さんは背もたれから背中を離しつつ口を開いた。

「…あー、琴音ちゃん。久しぶりだね」

「はい、神谷先生。お久しぶりです」

と、正直ここまで、繰り返しになるが連絡先を交換したというのに、一度も連絡をしなかった事への引目を若干でも覚えていたのだが、その好々爺然とした笑みにすっかりこ事が解れた私も自然な笑みと態度で返せたのだった。

「あ、房子さん、そろそろですか?」

「えぇ」

と、私と神谷さんが挨拶を交わしている間に、義一と房子も言葉を交わしていた。


それからは、私は立ったままで、神谷さんはソファに腰掛けたまま、房子は私の真横に立ち、義一も書斎机の方からこちらを眺めてくるというフォーメーションのまま、雑談に入っていった。

内容としては、CMを除けば一時間半あまりの衛星放送の情報番組に義一と揃って出た事や、義一がパーソナリティと言って良いのだろう、テレビ番組オーソドックスの番組に出ていたのを観た事と感想を簡単に話したりした。

その話を聞いて、神谷さんはお礼を言いつつも照れ笑いを浮かべて、丸坊主とは言わないまでも程々に剃り上げた頭を撫でたりしていたが、ふと私の隣にいた房子が、スマホを覗くと神谷に話しかけた。

「お父さん、そろそろお暇しなきゃ。この後で…」

「ん?あ、あぁ…そっか」

と、神谷さんも壁に掛けられている時計に目を向けると返した。

私も釣られて見ると、時刻は三時になろうとしている辺りだった。

「じゃあ…よっこらせっと…」

と神谷さんが徐に立ち上がろうとするのを見て、その難儀な様子から、考えるより先に体が動いた。

「あ…」

と私が前に出て支えようとすると、同時に前に出た気配が隣からしたので見てみると、房子がこちらを柔らかな笑顔で見てきているのに気付いた。

「あ、いや…」

と、このような事態にどのように対応するのか、そのストックが無かった私は、ドギマギとしてしまったのだが、「あははは」と笑う神谷さんに間を埋めてもらった。

「ははは。ありがとう琴音ちゃん。その心遣いだけで嬉しいよ。でも、私がよろけてしまって、君の大事な手を痛めるのも悪いし、ここは房子に任せてもらえるかね?」

「あ、そ、それは…はい」

と私が、神谷と房子の顔を交互に眺めつつ返すと、「ありがとう」とまた一度神谷はお礼を言い、その後は房子に支えられながら神谷がゆっくりと立ち上がるのをただ見ていた。

この時、いつの間に来ていたのか、私の横には義一が立っており、こちらに声を掛けるのでもなく、そのまま同じように眺めているのだった。


「ふふ、せっかく久しぶりに会えたのに、この後少し用事があってね」

と房子に支えられつつ玄関から外に出る神谷さんに話しかけられたので、

「いえ…ふふ」

と後をついて行く形となった私は、笑みを意識しつつ相槌を打った。

「本当はね?」

と私の隣に来た義一が会話に加わる。

「先生も琴音ちゃんが今日来るのは、ついさっき知ったんだ。先生がこの後にどんな用事があるのか話してくれた後で、『君はこの後で用事はあるのかい?』と聞かれたから、君がここに来る事を言ったんだ」

「へぇ」

「そしたらね」

と義一はここで悪戯っぽい笑顔を浮かべると続けて言った。

「いつ来るのかって言われるから、その時が丁度二時ちょっとくらいだったから、『あと数十分で来ますよ』って返したら…ふふ、先生ってば、君が来るまでじゃあ待ってるって言われたんだよ。せめて顔だけでも見たいと言われてね」

「へぇ…」

と、感情としては嬉しかったのだが、表面上には何だかシミジミと返してしまうと、「おいおい…」と、ちょうど房子に手伝って貰いながら後部座席に座るところだった神谷さんが、苦笑交じりに口を挟んだ。

「…ふふ、義一くん、そのような事は、一々言わんでもよろしいんだよ?」

「あはは、すみません先生」

と義一が頭を掻きつつ照れ笑いを浮かべると、私と房子は顔を見合わせて、どちらからともなくクスッと笑い、

終いには、神谷さんと義一も加わって微笑み合うのだった。


笑いも収まり始めた頃、神谷さんが私に話しかけてきた。

「じゃあ…ふふ、じゃあ琴音ちゃん、また会おうね?」

「はい」

と私も笑顔で返す。

「気軽に私の娘に連絡でも入れておくれね?」

という神谷さんの後を続けて、「遠慮しないで良いから。何なら遊びにきて頂戴?」と明るく笑いながら房子は言いつつ、後部座席のドアを閉めた。

閉められた後部座席のパワーウィンドウを下げた神谷さんと、運転席に乗り込もうとする房子の二人を見て、不意に私の中で”ある”欲求がムクムクと膨らんでいくのに気付いた。

そして、その膨らんだ塊が、今が良いタイミングだろうとせっついて来るのに、受け入れた私は、抵抗せずに押されるがままポロッと口に出してみる事にした。

「あ、あの…」

「ん?なーにー?」

と房子が返す。私の視界の隅には、神谷さんがこちらを興味津々といった調子で眺めてきているのが入っていたが、私は臆する事なくそのまま続けて言った。

「わ、私実は…今、学校が期末試験後というので、試験休みという長めな休みが一週間と少しほどあるんですが…今週中なら私自身はいつでも都合は付くので、その…今週のどこかで、神谷先生のお宅にお邪魔しても…よろしいでしょう…か?」

「…え?」

と、私の言葉を聞いた瞬間、これは隣にいた義一も含めて、驚きを隠せないといった声色で返してきた。

横からは義一からの好奇の満ち満ちた視線を痛いほどに感じていたのだが、神谷さんと房子はというと、同じように一度はこちらを興味ありありと見つめてきてから、今は二人で顔を見合わせていた。

そんな様子に、


…いきなりだし、困らせてしまったかなぁ…


と反省し掛けたその時、二人はクスッと小さく微笑みあったかと思うと、同時にこちらに顔を戻した。

その顔には、二人が同じ類の笑みを浮かべており、どうでも良いがその笑顔が二人よく似ていて、流石に親子なんだなぁと思っていると、神谷が口を開いた。

「…ふふ、今週かぁ…うん、今日はたまたま用事が入ってしまっているけれど、それ以外は基本的に私は暇しているよ。今や私はただの…ふふ、引退した身の年寄りなんだしね?」

と神谷が視線を逸らしたので、その方向を見ると、「あはは」と誤魔化し笑いを浮かべる義一の姿があった。

顔を戻すと、今度は房子が話しかけてきた。笑顔だ。

「ふふ、今お父さんが言ったけれど、今週中は取り敢えず、私たち親子は家にいるから、都合も何も、いつでも大丈夫よ?」

と笑顔で口も軽く言うのを聞いて、先程に少し生じていた緊張も薄れた私が、

「では、後で…はい、今晩にでもメッセージを改めて送らせて頂きます」

とほんのりと笑顔を浮かべつつ言うと、

「えぇ、待ってるわね」

と房子が返し、神谷さんはただ小さく頷いた。


「ではまたね」

「お邪魔しました」

と言う神谷と房子に「お気をつけて」と返す義一の横で私がペコっと一度お辞儀を返すと、房子が運転する軽自動車はゆっくりと発進し、その車が土手に沿って走る首都高下の道路に入って行くまで眺めていた。


車が見えなくなると「…じゃあ、戻ろうか」と声をかけてくる義一に、「えぇ」と私が返すと、二人並んで家の中へと戻って行った。


「しっかし、君には驚かされるなぁ」

と、茶器の乗ったおぼんを持って宝箱に戻ってきた義一が開口一番に漏らした。

「まさか先生のお宅に行きたいって、君の方から提案するなんて」

と、おぼんからカップを私の前に置きつつ言うのを受けて、「まぁね」と、何が『まぁね』なのかと自分で突っ込みたくなるような返しをした。

義一宅に戻ると、お茶の準備をすると言うので居間の前辺りで義一とは別れて、一足先に宝箱に戻っていた。

そしていつもの、お茶をする専用と今は化しているテーブル席に座って待っていた。

「いつからそんな事を計画していたの?」

と椅子を引き腰を下ろしながら義一が聞いてきたので、「いつからって、それはまぁ…ふふ、今年の一月に、ここで神谷さんと遭遇してからよ」

と返した。

「だから…ふふ、突然と言えば突然だけれど、私からすると、むしろ『行きたいな。訪問したいな』、『でもああは言われたけれど、実際に行きたいなんて言ったら、先生たちに気を使わせちゃうかな?』って考えてと言うか、大袈裟な言い方をすれば葛藤して、数ヶ月経っての今だから、そんな急でもないのよ」

「あー、なるほど…ふふ、そっか」

「そうなの。…ん」

と、このやり取りの間に、義一が各々のカップに紅茶を注ぎ入れた後だったので、早速私はカップを手に持つと、殆ど言葉は発しないままに義一に差し向けた。

それを見た義一は、すぐに何のことか分かって、自分もカップを手に持つと、それを私のカップに近づけて、コツンと軽く当てた。

要は乾杯をしたのだが、私と義一の二人っきりの時は、大抵の場合はこのように『かんぱーい』といったような掛け声はしないのが通例となっていた。

理由としては、まぁ…ただ単純に、気恥ずかしかっただけだ。それは義一もそうだろう。


さて、無言の乾杯を終えて、一口ずつ飲み終えると、まず早速、何故今日神谷さんが宝箱に来ていたのか、その理由について質問を飛ばした。

「あー、それはね…」

と義一は不意に、チラッと横目で書斎机の方に視線を一旦流した。


相変わらずというか、これまでも折につけて触れてきたし、一昨日段階でも触れた様に、義一は目に見える部分でお洒落には気を使わない性質だが、決して不潔な事は見た目が長髪であるにも関わらず相手に一切感じさせないくらいに、私も男性を知ってる方では全くないので説得力が皆無なのを承知の上で言えば、恐らく一般から見てもかなり男性にしては清潔感に気を使っているタイプだろうと思うし、それは自分だけではなく、今いる宝箱を含む家全体も清潔に保たれていたのだが、今年に入ってからは、これまで話してきた通り、書斎机の上には大量の本と書類群が乗っていないのを見た事が無いし、書斎机の斜め後ろに設置されているホワイトボードには、日本語から英語から、恐らくドイツ語とフランス語、もっと言えばラテン語まで混じっている文字でメモが書き散らされていたり、マグネットを使って、ここでも書類が留められていたりという光景が、すっかり私の目にも馴染んで当たり前に感じるまでになっていた。

それでも別に、それらによって不潔に見えるかと言われたら、そうとは微塵も見えないと答えるけれど。


「大した用事では今日は無かった…って言うと、先生に失礼かも知れないけれど、ふと久しぶりに区内に出て来たと言うのでね、次の予定まで時間もあるし、せっかくだし久しぶりにと立ち寄って頂いたんだ。で、今僕が手掛けている新著の事とか、雑誌の話なんかをしていたんだよ」

「へぇ、そうだったのね。だから私が今日ここに来る事を、先生は知らなかったんだ」

「ふふ、そういう事だね」

「ふーん…」

とこの時、義一が口にした”新著”という単語にとても興味が惹かれたが、これはいつでも聞けるだろうと何とか我慢をして、先程来出ている近場の興味から聞いてみる事にした。

「ところで…今日の神谷先生は、何だか忙しそうにされてたけれど…この後の用事って一体何なんだろう?」

「ん?あ、あぁ、それはね…」

と義一は一度紅茶を啜ってから、カップをテーブルに戻しつつ答えた。

「何でもね、今の総理大臣である岸部さんに招待されてね、夕方は少ない議員の間で二時間くらいの勉強会に講師として行って、その後で夕食というか、会食をするんだっておっしゃってたよ」

「へぇ…総理大臣と」

「そう。まぁ一応あの人も先生の教え子の形ではあるしねぇ…形式上は」

と義一はイラズラっぽく笑った。

その物言いに、若干のトゲが含まれているような気がしたが、しかしこれは毎回岸部の話になった時にしていた義一の手法だったので、慣れっこだった私は、何故刺々しく言ったのかは聞かずに、ただ笑みを浮かべるのみだった。


ここで一応、何度か過去にも触れたが繰り返し述べておこうと思う。

岸部純三。現段階で確か六十一歳くらいだったはずだ。政治家としては年齢は若いし、総理としても歴代と比べればかなり若くみえるが、政治家歴自体は九十年代からなのでそれなりにベテランと言えるだろう。

実は過去に一度総理を経験しているが、その当時のマスコミなりに叩かれたのと、体調を崩してしまったダブルパンチで、一年足らずで退陣してしまったという苦い経験の持ち主だ。

彼は何かにつけて『天皇、皇族を大事にします。万世一系を守ります』と口にして、『アメリカが作った占領憲法である日本国憲法を改正したい』とまた口にする為に、私たちの立場から見ると”右陣営”から支持を集めていたのだが、退陣してからは右陣営がそそくさと、泥舟にいつまでも乗っていられないと彼から離れていったらしい。

その様子を見た神谷さんを始めとするオーソドックスの面々が、元々口先だけで中身の伴わない綺麗事しか言わないという、これまでの戦後の政治家と何ら違いがないと岸部に批判的だったのだが、しかしそれは抜きにして、単純にあまりにも可哀想だと、彼を励ますという意味を込めて何年間か勉強会を続けていたのだった。

だから今義一は、岸部も形式的には神谷さんの教え子の一人だと表現したわけだ。

さて、それで復活したとでも言うのか、岸部は現在あの通りに奇跡の復活を遂げて、今現時点で総理に復権してから三年目に入ろうといったところだが、それからはご案内の通り、神谷さん達オーソドックスは彼にはなるべく近付かないようになっていた。

ここでまさか誤解は無いだろうが、一応念のために付け加えると、それは第一次政権の時に彼から離れて行った右陣営とは理由が全く異なっている。

というのも、ご承知の通り、オーソドックスというのは、勿論”真正保守”を掲げており、その旗印の元でたまに左陣営を批判することもあるのだが、それと比べると圧倒的に多いのは、右陣営への批判だった。

具体的な中身については、散々触れてきたので今更言わないが、大体予想通りに、岸部が政権を取ると、またぞろ一度離れていったはずの右陣営の輩どもが、彼の周りに集まりだしたので、それを見てというか、それを見通していた神谷さん達は、距離をおいたという経緯があったのだ。

さて、そんな神谷さん達だったが、何とか距離を置こうとしているというのに、こうして岸部の方から何かにつけて付き合いを続けようとしてきているらしく、これは義一からよく聞く言い方で、今日も同じように言われたが、

「先生も好き好んで行くわけでは無いけれど、まぁ昔に出来てしまった縁もあるし、先生も人情派だからねぇ…ふふ、断りきれなくて、こうしてたまに、多い時で月に一度、大抵は三ヶ月に一度か半年に一度のペースでお会いになっているんだ」

との事だった。


「僕も今日は、せめて夜の会食の席だけでもどうかと先生に誘われたんだけれどねぇ…」

と義一は、溜息交じりに言った。

「断ったんだ」

「へぇー、何で?」

と、何となく理由を察していたにも関わらず、敢えて意地悪く聞くと、それら含めて気付いている義一は苦笑交じりに答えた。

「いやぁ…だってねぇ…ほら、こないだ君もようやくと言うか会えた、議員の安田さんいるでしょ?彼も今日の勉強会のメンバーだというのでその場にいるらしくて、他にも数人の議員がいるらしいけど、安田さんが一人いるお陰で何とか浮かずに済みそうではあるんだけれど…なんかねぇ…ああいった、肩の凝りそうな場には、極力行きたく無いからさぁ」

「…ふーん」

と、本当は今言った以上の理由があるのを、さっきも言ったが察していたので、これを鵜呑みにはしなかったが、これ以上は話が膨らみそうにも無かったので、”コレ”で済ましてあげると、別に急いでいたわけではないのだが、ただ単純にもう我慢が出来ないと、今日来た本当の目的を達成することにした。

「で…いきなりで何なんだけれど…」

と私は少し俯き加減から口を開いたので、そこから向かいに視線を向けると、必然的にブリッ子な上目遣いになってしまったのを自分で気付きつつも、そのまま続けて言った。

「…ほら、あの例の…私があげたアレについての…さ?」

「…ふふ、うん」

と義一はクスリと小さく笑うと、「ちょっと待っててね?」と一言断りを入れて、ゆっくりと腰を上げると、ゆったりとした動作で書斎机の方に歩いて行った。

この間ずっと私が顔ごと動きに合わせつつ見守っている中、義一は書斎机の上からプリントの束を手に取ると、そのまま席に戻ってきた。

そして義一はそれをテーブルの自分側で空いたスペースに置いたので確認すると、言うまでも無くそれは私がプリントアウトした、『夢ノート』『詩』『世を見て何となく感じた事や、それに対する自分なりの意見をまとめた日記のような物』の三点セットだった。

久しぶりに自分で持ってきたこれらを見たのだが、今更だがやはり気恥ずかしさが、胸の奥から込み上がってくる心持ちにさせられた。

…だが、その一番上に置かれた『夢ノート』しか現時点では見えなかったが、その表紙というのか一枚目の部分だけ見ても、手で持った時や紙をめくる時にでも付いたのだろう、所々に指圧の跡が散見されて、それだけ何度も手に取っては真面目に読んでくれたのが、その様子だけから見て取れたので、結局恥ずかしいのは変わらないまでも、同時に嬉しく思うという、何とも落ち着かない気持ちになっていた。


「さてと…」

と義一は一度そう漏らすと、片手をプリントの山の天辺に置いてから続けた。

「…ふふ、琴音ちゃん、君が持ってきてくれたこの大作の数々なんだけれどもねぇ…」

「…うん」

とただ小さく慎重に合いの手を入れる。

「んー…自分で、これらの感想を直接言いたいからって事で、わざわざ一昨日の今日で来てもらったというのに、これはある意味で一番返すのが難しいんだけれど…」

と、ここにきて妙に勿体ぶって、頬を掻いたりして見せるので、勿論ドキドキしっぱなしではあったが、しかしこれ以上は我慢の限界と、「…ふふ、良いから、私のことは気にしなくて良いから、こう…ズバッと、言っちゃってよ」と苦笑交じりに促した。

「…そうかい?じゃあ、結論だけ言わせて貰うと…」

と義一はまた間を空けたが、今度はツッコミこそが邪魔だろう事は気づいていたので、私は固唾を飲んで次の言葉を待った。

と、私と同じように苦笑気味だった表情を、スッと変化させて柔和な笑みになったかと思うと、義一は穏やかな口調で続けて言った。

「…いやぁ、うん、ただただ読んでいてね?まず驚かされたよ…この完成度に」

「…ん、ん?」

と、私はギャグならずっこけそうになる程にキョトンとしてしまった。

何故なら、もっと具体的な言葉を食うと思っていたからだった。

だが、そんな私の反応を他所に、義一は言葉を続けた。

「それはこの三つ共だったけれどもねぇ…君が言った、この『夢ノート』で言えば、君自身が見た夢をそのまま書きつけただけとは言ってたけれど、その割にというか、内容が内容だけにダークファンタジーとでも言うのか、その描写なり何なりが、これがまた君独特の表現方法、つまりは言葉遣いでなされていて…ふふ、君とそれなりに長く付き合いさせて貰ってきた僕としては、本当に読み物として大変に面白く読ませて頂いたよ」

「へ?え、あ、い、いやぁ…そぉーお?」

と、今度はいきなり『夢ノート』の中身に関する具体的な感想を述べられてしまったので、作者…って、ふふ、そう自分を称するのは恥ずかしすぎるが、書いた本人としては、勿論嬉しかったのだが、この時この瞬間は圧倒的に恥ずかしさの方が際立っていて、それを証拠に鏡を見なくても自分の顔が火照ってほんのりとピンクに染まっているだろう事が想像出来るほどだった。

そんな私の反応を微笑ましげに眺めつつ、義一は続ける。

「そうだよー?…ふふ、何でも、君から聞いた話では、まだ今もこの『夢』を見続けていて、見る度に今も継続して書きつけ続けているって聞いていたし、だから増え続けているという『夢ノート』自体も、僕に今回くれた分が全体の三分の一だって言ってたでしょ?んー…ふふ、上手くやっぱり言えないけれど、君さえ良ければ、早くこれの続きを読みたいなって思ってるんだよ」

「あ、う、うん…ふふ、そっか」

とこの様に、あまりというか、全く適切とは思えない相槌を打ってしまったが、恐らくこんな私の分かり辛い態度からでも、義一はしっかりとその反応を起こさせた私の心内を分かってくれていると、身勝手ながら確信していたので、それでよしとした。

「で、次に…」

と、義一は一番上に乗せていた『夢ノート』の印刷されたプリントの束を、もう片方の空いてるスペースに置くと、下から現れたプリント群の上に片手を置いて口を開いた。

「…ふふ、ここでまずというか、僕がどんな順で読んでいったのかと言うとね、まずは『夢ノート』を読んで、次に今手を置いている『詩』、それから最後に『日記』と、まぁそう読んでいったんだけれども」

「うん」

「でね、さっきも言ったように、すっかり『夢ノート』でテンションが上がったままに、今度は『詩』に向かっていったんだけれど…」

と義一が、今度は見るからにわざとらしく溜めてきたので、「…義一さーん?」とジト目で思いっきりニヤケつつツッコミを入れると、「あはは、ごめんごめん」と途端に明るい笑顔を浮かべた義一は、その笑みが治りきらないままに続けて言った。

「…ふふ、詩に関しては、百編以上あったから、それをこの場で一つずつ感想を言うのは…ふふ、いや、言いたいところなんだけれど、でもそれはあまりにも時間が無いから勘弁してね?」

「…ふふ、確かに、もう少し小出しに持ってくるべきだったわね」

と、いくら心を許し切っている義一相手とはいえ、事が事なだけにすっかり気が張り詰めていた中、ようやくそれが解けてくるのを自覚的に感じつつ返すと、義一は微笑を浮かべつつゆっくりと顔を左右に振ってから続けた。

「だから、詩に関しては大雑把な言い方になってしまうのだけれど…うん、どれもね、まず単純な感想を述べれば、どれも良かったよ」

「…本当?」

と、ここでまたほんの少し緊張がぶり返してきたが、義一はと言うと、そんな私を解そうとでもするが如くに微笑を強めて答えた。

「うん、勿論。君も知ってくれてると思うけれど、僕は普通の人と違って、社交辞令というのが苦手だからねぇ…ふふ、昔から絵里には『空気が読めなさすぎ』ってよく怒られてきて、今も変わらずなんだけれど」

「ふふふ」

「ふふ、だからね、これは…うん、本心からだよ、全体を通して言うなら、何て言えば良いのかなぁ…ふふ、普通はね?詩というのはその人の個性というか、書き癖みたいなのが現れるもので、これは優等なものでも劣等なものでも、その点では同じなのが多いんだけれど、君の詩というのは、これまた本人を前にして言うのは何だけれど…ふふ、良い意味で、その詩を書いた顔がハッキリと見えないのが、面白いなってまず思ったんだ」

「作者の顔が…見えない?」

と私が聞き返すと、義一は大きく一度頷いてから返した。「そう。つまりね、君は自覚的かどうかは分からないけれど…ふふ、君は全体の詩のうちでどれ程の数を占めているのかから単純計算するに、僕の個人的な見解を述べれば、基本的には形而上詩人だと思うんだ」

「形而上詩人…ジョン・ダンみたいな?」

と私が咄嗟に思いついた詩人の名前を出すと、義一は見るからに顔をパァッと明るくさせると答えた。

「ふふ、そうそう!ロマン主義を代表する詩人にして保守思想家のサミュエル・テイラー・コールリッジや、ロバート・ブラウニング、そしてまた詩人にして保守思想家だったT・S・エリオットだとか、後半生をイギリスはロンドンの金融街である”シティ”にあるセント・ポール大聖堂の首席司祭に任ぜられたダンの説教の一節から、”For Whom the Bell Tolls”『誰がために鐘は鳴る』を取って作品を書いたヘミングウェイなりと、名前を挙げればキリがない程に後世への影響は多大なものがあった訳だけれど…」

「ふふ、私も自覚がなかったけれど、ダンも当然読んでいたし、今あなたが挙げた四人の作品も一応全て読破しているから、気づかない間に私は、彼らから影響をがっつり受けていたって言いたいのね?」

と悪戯っぽく笑うと、「かも知れないなぁ…って、僕個人は思ったんだ」と義一も同じ笑みで返した。

「彼らみたいな偉大な詩人たちから、影響を受けられるというので、その時点でまず驚いたのだけれど」と枕を添えてから義一は続ける。

「元々”形而上詩人”という言葉は、ダンよりも後の時代の十八世期を代表する文学者であるサミュエル・ジョンソンが”Lives of the Most Eminent English Poets”、『詩人伝』の中でそう書いたのが始まりな訳だけれど、こんな話は以前にも君と議論してきた事だから端折るとして、せっかくジョン・ダンと具体的な名前を出してくれたから、それに関係づけて続けると、今現代の日本に鋭い批評を向けたような君の詩は、二流の詩人、尊大な廷臣といった面々についてや、法体系が堕落していたエリザベス朝で頻繁に起こっていた出来事をテーマにした、知的洗練さの際立った初期のダンの風刺詩を彷彿とさせられたし、それに…ふふ、これがまた驚かされたけれど、君は”死”についても詩を幾つか書いてるよね?」

「え?あ、あぁ…えぇ」

とここにきて私はまた、アタフタとふためいてしまった。

何故なら、私みたいな若干まだ中学三年生の女子学生が、偉そうに”死”に関連した詩を幾つも作るのが、何というか…世間的な視点から見れば、それは一言で言ってしまえば『生意気』だと思われかねないと、ここにきてようやく気づいたからだった。


とは言っても、詩作段階では、ただ流れ出るままに書いていっていただけなので、これといった意図も無かったのだが、それだけ私にとっては、”死”についての関心というか興味を強く持ち続けていたという事なのだろう…と、当時を思い返してそう思う。


さて、でもそもそも『世間的には』とか『一般的には』という凡庸な見方をするような人物ではないと、私としては一応頭では分かっていたはずなのに、まだ分かりきっていないのだとこの時にふと分からされた。

そう、義一はそんな詩を書いた私を嗜める気など毛頭なく、むしろとても喜びを持って受け入れてくれていたのだった。

「ふふ、いやぁー、君の歳でここまで”死”について関心を抱けるなんて、元々その事も知っていたつもりだったけれど、いやはや…ふふ、しつこいようだけれど、実際に形を見せられて本当に驚いてしまったよ。さっきから引き合いに出しているダンと関連づけて言えば、ダンも後期は、たくさんの病気、経済的な貧窮、友人たちの死のすべてが、陰鬱で敬虔なトーンで書かれたのが多くて、それを象徴する様な、この時の彼の有名な説教で『死の格闘』というのがあるけれど、彼は死ぬまで、死んだ者は永遠に生きるために天国に送られるというキリスト教的な考えに基づいた、司祭らしい思想に基づいた詩を書き続けていた訳だね。でも…ふふ、君は別にキリスト者では無いのにも関わらず、これまた無自覚だろうけれど、君の”死”に関連する詩も、そこまでは強烈では無いにしても、偏狭な、偏執なって意味ではなく、本来の意味での純粋な宗教的な香りが滲み出ていて、それがまた陰鬱ながらも、読んでいて気持ちが良かったんだ」

「そ、…そう?」

と、ここでまた我ながらしつこいと自分で突っ込みたくなるが、生理現象みたいなもので仕方なく照れてしまうのだった。

「ダンもそうだけれど」と義一はまだ話をやめない。

「君の作品はウィット、つまりは機智に富んでるし、またパラドックスや駄洒落、さらに絶妙な類比というか、アナロジーを含んでいるのがまた…」

「あっ!義一さん、それくらいでもう良いから!」

と、流石にもう恥ずかしさも限界と、腰を浮かせて思わず大きな声で遮ってしまった。

そんな私の様子を、呆気にとられた様子で眺めていた義一だったが、ふと私の顔をマジマジと見たかと思うと次の瞬間には、プッと一度小さく吹き出し、「あはは、ごめんごめん」と明るく笑いながら謝ってきた。

…ふふ、この時もまた私は、顔を真っ赤にして苦しげな微妙な表情をしていた事だろう。

そんな返しをされた私も、釣られるように苦笑いを浮かべると、「もーう…」と愚痴っぽく漏らしながら腰を下ろした。

「ふふ、アレコレと調子に乗って言い過ぎたかもだけれど…」

と、私が腰を下ろす間に紅茶を啜っていた義一は、カップをテーブルに戻しながら穏やかに言った。

「でも、今まで話してきた感想は、僕の本心からだというのは信じてね?」


…ふふ、もーう、それが本心からだと分かっちゃってるから、尚更恥ずかしくなっちゃったっていうのに…


と心の中で愚痴った事をそのままに、今度は呆れ笑いをしながら実際に返すと、「あ、そうかい?あははは」と笑い飛ばす義一にまたしても釣られて、私も一緒になって笑うのだった。


「まだ途中だったから、あと一言二言を付け加えるのを許してくれるかい?」

と笑いが収まりかけた頃に聞いてきたので、「仕方ないなぁ…」とぼやきつつも、その直後には笑顔で了承した。

それにお礼を述べて、義一は言う。

「とまぁ、そんなタイプの詩を沢山書いているかと思えば、さっき僕が取り上げたコールリッジと良く比べられる、イギリスの湖水地方にて純朴であると共に情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた、同時代人にしてロマン主義を代表する詩人である、ウィリアム・ワーズワースのような詩も沢山あったり、またまるで幼児に語りかけるような優しい口調であやすが如くの可愛らしい詩があったりと、その多種多様ぶりにね?繰り返せば、君は基本的には形而上詩の詩人だと思われるんだけれど、他の一面も魅力的なおかげで、だから良い意味で詩人の顔が見えないと言ったんだよ」

「ん、んー…ふふ、ありが…とう」

と、自分が求めていたとはいえ、これまでの感想の内容の濃さのせいで、お腹がいっぱい感に胸を占められていた私は、ただこうしてお礼を返すので精一杯だった。

そんな私の心境を慮ってくれたのか、ちょうどお互いの紅茶が無くなり、またポットの紅茶も冷めているというので、お代わりを淹れてくるという名目で義一が席を外してくれたお陰で、私もホッと息を吐けた。


自分で言うのは馬鹿馬鹿しいが事実として、”褒められ疲れた”のが回復してきたところで義一が戻ってきた

そして早速お互いのカップに紅茶を注ぎ入れると、義一は特に前置きなく詩の束も夢ノートの上に重ね置くと、最後の束の上にまたしても手を置いた。

「んー…ふふ、さて、前回までを反省して、これが最後になるけれど、少し抑え気味に感想を言わせてもらうね?」

「…ふふ、えぇ」

と私が返すと、義一はおもむろにペラペラとプリントを捲りながら言った。

「この『日記」…で、今更だけれど良いんだよね?君がそう言ってたし…ふふ。君が話していたように、これは当時の君が、どうその時勢に対して感じたか、感じ取ったか、そして…何を違和と感じて、それに対する君なりの対処法なりも書いてある箇所があったりしたけれど…」

「…」

と、義一が話している間、私はまだ徐々に恥ずかしさのあまりに顔を俯き始めてしまった。

それもそうだろう。…って、当人の私が言えた資格はないのだが、それでも続けて言えば、まだ夢ノートなり詩は形にはそれなりになっている…とは思うのだが、今義一が取り上げているのは、それこそ日々に思いついた事を書き散らしているだけなので、これまでとは全く別物の恥ずかしさを覚えていた。

そんな私を放っといて義一は話を続ける。

「…ふふ、読むたびにね、『あー、こんな事もあったなぁ』とね、思わず当時の時局のことだとか時勢を思い出して、そういった意味でも面白かったんだけれど…ふふ、もうズバリね、変に勿体ぶらずに言うけど…」

「…ふふ、自覚があったのね?」

と私が思わず笑みを零しつつ突っ込むと、「あ、いやぁ…あはは」と義一は笑ってごまかし、私からのニヤケ顔から逃げるように先を続けた。

「一口に言ってね…ふふ、勿論君とは、これまでも散々ここ宝箱で、その時その時に世の中で、国内外問わずに起きていた出来事について、君から質問されたり、また僕から話を振ったりして、二人で数え切れない程に議論を重ねて楽しんできたから、内容でかぶっている部分が多かったりしたけれど、それ以外でもね、僕がラジオやテレビで触れられずにいた事象に関しても、君が取り上げている事があまりにも僕自身が覚えていた違和感の箇所と、全く同じだったりしてね…」

「あ、そうだったの?」

と、口には当然出さないが、この反応から分かられてしまっているだろう事を予感しつつも、嬉しさのあまりにそう相槌を打ってしまうと、義一は「うん」と無邪気な笑顔で頷き返してくれた。

「だからねぇ…ふふ、勿論僕と一緒だからどうなんだって点は残るんだけれど、でも僕個人の感想を言わせてもらえれば、君が書いた『日記』の内容には全面的にって言って良いくらいに賛成だし、しかも、これが不思議だけれど、それだけ意見が一致しているのに…ふふ、面白かったんだよねぇ」

「…ふふ」

と、私は義一のそんな感想を聞いて、嬉しかったのと同時に、ふと、現在のチェコ出身にして、作品数こそ少ないながらも、一般にはブレーズ・パスカル辺りから始まってると目される向きもあるようだが、私…というか、神谷さん達の考えるところで言うと、保守思想家のセーレン・キェルケゴールを先駆けと見ている”実存主義”の見地から注目をされて、ジェイムズ・ジョイス、『失われた時を求めて』で有名なマルセル・プルーストらと並び二十世紀の文学を代表する作家と見做されている、フランツ・カフカの言葉を思い出していた。


それは二つあり、これはうろ覚えなので確かでは無いが、恐らくこの二つは同じ文章の中で見た記憶があるが定かではない。

だがせっかくなので、二つの文を引用してみよう。

これはカフカが本についてと、読書について語ったものだ。

まず一つ目。

”Many a book is like a key to unknown chambers within the castle of one’s own self”

というもので、訳としてはこうなる。

『多くの本は、自分自身の城内の未知の部屋べやを開く、鍵のようなものである』

普段生きていて自分の事ながら分からずにいた事を、何気なくそっと書いて置いてくれている本に出会える事は、何物にも変え難いと、私は初めて読んだ時に覚えて、義一も同じだと返してくれたのを覚えているが、と、同時に、カフカのこんな言葉も思い出したのだ。

二つ目。

”I think we ought to read only the kind of books that wound and stab us”

これも訳すとこうなる。

『私たちは自分を傷つけ刺すような本だけを、読むべきではないかと僕は思っている』

そう、一つ目と関連しているのだが、ここから私と義一で意見が一致したのは、この二つの文から要はカフカが伝えたかったのは、一冊の本を読んでいて、読み終えた後で、その本が概ね自分と同じ意見の内容だったとしたら、その本は読まなくても良かったものだったと、そんな風に時間を無駄にするくらいなら、自分とは思想も何もかも真逆の、読み初めて不快を覚えるくらいの本の方が、その本を通して新たに自分の内面に気付けると、まぁそんな所だろうという事だった。

私と義一は因みにその考えには、実践出来るかどうかはかなり難しいので努力を要するが、内容としては賛成だ。

因みにの因みにだが、三島由紀夫が『最高の芸術は、最初は少し不快感を催す』とまで言っていたのを芋づる式に思い出していたのだが、それはさておき、何故カフカの言葉、ついでに三島由紀夫の言葉まで思い出していたのかは、分かっていただけたかと思う。

話に戻ろう。


「とまぁ、ここでやっと僕からの感想は一応全て言い終えたんだけれど…」

と義一がふと口にしたので、

「ふふ、ありが…」

とお礼を早速返そうとしたその時、まだ言葉の途中だったらしく、結果的に私を遮る形で義一は続けて言った。

「それでね、勿論今まで三つに関して感想を述べてきて、今まで長々と話してきたから、今は単純に一言、『面白かった』って言い置いておくけれど、でもね、もう一つ、君からの宿題というか、それは残念ながら…うん、まだ解けないというのを告白しなければならない」

「…え?私からの…宿題?」


そんなの出してたっけ…?


と一人頭を傾けていると、義一はそんな私の様子に微笑みつつ答えた。

「うん。ほら…君言ってたじゃない?『自分はこの夢を断続的だけれども、内容としては前回を引き継ぐ形で、全体を通して見れば一貫して物語性がある』って」

「え、えぇ」

「ふふ、それは確かに、さっき夢ノートの感想を言ったけれど、確かにその通りで、まるで一から筋道を作って、その通りに話が進んでいくようだから、夢だと予めに聞いていなければ、あれも君の詩と同じように、君が意識して一から作ったものじゃないかって思ったと思うんだけれど、それはともかくね、君からそのような話を聞いた時にね、僕は勝手に…ふふ、”宿題”って言っちゃったけれど、そう受け取ったんだよ。『この夢を、どうして自分が見るようになって、それは今も継続しているのか?』とね」

「あ、あぁ…」

と、記憶が正しければだが、宿題という単語も使わなければ、今義一が言ったような事も頼んだ記憶がなかったので、先ほどはすぐには飲み込めなかったのだが、今の話を聞いて、確かに私は暗にそんな事を頼んでいたのかも知れないと、しかもそれは今の私自身が望んでいた事だというのに、我事ながら今更気づいた次第だった。

「…えぇ、そうかも」

と、思った通りに同意を示すと、それには付け加えずにただ微笑み返した義一だったが、ここでふとその微笑に苦しげな感情を薄らと滲ませつつ口を開いた。

「結論から言うとね、んー…うん、君が断続的とはいえそれぞれが繋がってるその夢が、一体何なのかは”ハッキリとは”分からないんだ」

「”ハッキリとは”…?」

と早速私が食い付くと、義一は少し表情を明るくしながら答えた。

「うん。と言うのもね、君からまず軽くでも話を聞いて、そして実際に夢ノートを読ませてもらって、当然実際に見てないから、あくまで読後感を含めたそれぞれを総合して述べざるを得ないんだけれど…なんとなくね?君のこの夢には、漠然と何だけれど、そうではありつつもかなり示唆的な、かなりのメッセージ性があるように窺える、そんな気配、雰囲気が、何と言うかなぁ…全体を通して、醸し出してくるような印象を持ったんだ」

「示唆的…メッセージ性…」

と私はまた鸚鵡返しをしたのだが、そうしている間も、実は兼ねてから自分でも、義一の言い方ではないが気配なり、雰囲気を朧げながらも感じていた、もしくは推測を立ててはいたところだったので、同じ意見が義一から出てきたことで、ホッとしたのは本当だった。

義一は続ける。

「うん。一応あくまで仮説だけれど、そう思ったものだから、だったら、これも君から話を聞いた限りでは、この夢を見始めたのと同時期に他の二つ、つまり『詩』と『日記』を書き始めたというので、これも何か関連性があるように思えてきてね?それで早速、この二つもまた読み返してみたんだよ」

「あー、なるほど…」

言われてみれば、これくらいのアプローチはすぐに思い付きそうなものなのに、意外や意外…って、別に自分をフォローする気はないのだが、単純な事ほど気付けない典型例みたいなものだと、この時の私はそう思った。

「うん。僕は丁度というか、たまたま夢ノート、詩、そして日記の順に読んだ訳だけれど、ある意味一番俗世の形而下の事柄を書いている日記と、僕が勝手に”形而上詩”と称したように、厳密な意味では違っても形而上のことを扱ってもいる君の詩という両極端を見れば、何か新しい見方というか、新たに何か受け手である自分に示唆してくるナニモノかが発見出来るかもと思って、…ふふ、これはあまり意味が無さそうとは気付いていたんだけれど、ついには三つの作品を通して読むので、その順番を変えてみたりとかまでしたりしてね?試行錯誤をしてみたんだけれど…うん、結局はというか、現時点では、特にこれといった答えは出てこなかったんだ」

「…そうなんだ」

と私がシミジミと返すと、向かいに座る義一は不意に、自嘲気味に笑いながら口を開いた。

「だから、その…うん、その宿題には答えてあげられなくて…ごめんね?」

「…へ?」

と、まさか謝られるとは思ってもみなかった私は、「いやいやいやいや!」と自分でも思っていた以上に慌てて、片手だが顔の前で左右に大きく激し目に動かしながら返した。

「そんな謝らないでよぉー?そんな謂れなんか微塵もないのに…」

と、ここまで自分で話していくうちに、徐々に落ち着いてきたのと同時に、今だに自嘲気味な笑みを顔に湛えたままな義一の顔を見た瞬間、一気にというか、ますます頭の中が良い意味で冷えてく感覚を覚えつつ、それと時を同じくして、シンと感覚が澄まされていくのを感じながら、そんな中で頭に浮かんだままの言葉をつらつらと口に出す事にした。

「…ふふ、むしろ、謝るとしたら私の方だよ。…義一さん、本当に忙しいのに、ここまで真摯に真面目に私の書いたのを読んでくれて、…ふふ、書いた私が凄く照れちゃうくらいの思索の深い感想だけじゃなく、見始めてからずっと私が不思議に思っていた『夢』の考察までしっかりしてくれて、自分では分からないって言ってたけれど、私では気付けなかった、方法論のようなものを今開示してくれたし、…うん、こんな理屈っぽい理由もあるんだけれど、ただ単純に、素直に言葉にすれば、その…ありがとうね」

「琴音ちゃん…」

自分では自然なつもりだったが、した途端に分かるほどに静かながらも満面の笑みを浮かべて言い終えると、義一は私の名前を呟きつつ一瞬目を見開いたように見えたが、すぐさま穏やかな表情に戻ると、「いーえ、どういたしまして」と返してくれた。

その直後には、打ち合わせもなく私たちはふと真顔になったのだが、次の瞬間には、今度は朗らかに笑い合うのだった。



「今言った意味もあるけれど、さっきも言った通り、君のタイミングでいつか読ませてね?…夢ノートの続きをさ?」

と穏やかな空気が宝箱内に流れる中、義一がそう無邪気に頼むので、「えぇ」と私も素直に紅茶を啜りつつ返すと、その返答にニコッと義一は笑ったのだが、ふとこの時、義一は何かを思い出した様子を浮かべると、そのすぐ後で「んー…」と一人唸り出したので、「どうしたの?」と何気なく私が声をかけると、義一は頬を掻きながら口を開いた。

「ほら、こないだと言うか…先週になるのかな?君の師匠である沙恵さんが初めて数奇屋に来てくれた晩の事なんだけれど…」

「うん、それがどうかした?」

と、私は正直にあの時の光景を思い出している中、義一は続ける。

「うん。話は…君と沙恵さんが帰って、その後で絵里と有希さん、その後しばらくして百合子さんと美保子さんが帰っていったんだけれど、それが大体日付が変わったくらいでね?これからまだ夜が更けていくその時に、実は浜岡さんがふとね、数奇屋を訪れてくれたんだ」

「へぇ…そんな深夜に?」

と私が合いの手を入れると、「ふふ、そう、そんな深夜に」とここで義一は、これまでバツが悪そうだった表情を少し引っ込めつつ言った。

「僕も来る事を聞いていなかったから驚いたんだけれどねぇ…時計を見たら、深夜も一時半を過ぎた辺りだったし」

「深夜の一時半…」

と私は呟きつつ、思わず掛け時計に目を向けてしまった。実際の時刻は、四時近くとなっていた。

「そう。でもまぁ…ふふ、これを聞いて君がどう思うかは微妙だけれど、深夜だというのに急な訪問というのは、僕らオーソドックスの面々では珍しくなくてね」

「ふふ、そうなんだ」

「んー…ふふ、うん。だから、それには特別には驚かなかったんだけれど、一応急にどうしたのかを聞くのがまぁ当然ということで、僕らの場合は儀礼的に聞くとね?何やら僕の方に手に持っていた紙袋を手渡してきたんだ。それが…」

とここで一旦区切ると、義一は予兆もなく立ち上がり、さっきのようにまた書斎机へと向かった。

到着するなり腰を屈めて、私の位置からでは死角の、書斎机の足を入れる部分に手を突っ込んだかと思うと、それを引っ張り出して上体を戻した。

その手には、今言ったソレだろう、紙袋が持たれていた。

義一はそのまま何も言わないままに戻ってくると、椅子に座り、紙袋を足元に置きつつ言った。

「これをくれたんだけれど…ふふ、もし興味があったら、これは後で見せてあげるね?」

「え、えぇ…」

と私はテーブルの下から紙袋を眺めていたのだが、光が足りないのもあって、紙袋の中身までは全く見えなかった。

「ふふ、是非お願いね?」

と諦めた私が体勢を戻しつつ、企み笑顔を浮かべながら頼むと、「うん」と義一は短く返した。

「でね、その後は…」と義一は話を再開する。

「せっかく来てくれたというので、僕、佐々木先生、安田さん、後はマスターとママも加わって乾杯してね、最初は浜岡さんが持ってきてくれた紙袋の中身について雑談が続いたんだけれど、んー…夜も深まっていて、酔いも深まりつつあったから、こういう場合はついつい口が軽くなってしまうんだけれども…」

と後半から途端に口が辿々しくなると、義一は苦しげに笑いながら絞り出すように言った。

「…ついついね、その…君のことをポロッと喋っちゃったんだよ。…このプリント群のことをね」

と義一は、初期状態とは逆に『日記』が一番上に来ているプリントの山の天辺に片手を置いた。

「…へ?」

と、これまた思いがけない言葉を聞いた私は、ただそのまま、義一の手が置かれたプリント群に目をくれる事しか出来なかった。

そんな私の反応に何を思ったが、ますます苦笑度合いを強めつつ義一は続ける。

「うん…実はね?こないだ数奇屋に行った時点で、既に君の作品群は全て読み終えていたのは話していたよね?」

「え?え、えぇ…確か、私がここに師匠を連れて来てもいいかって聞いた時に、そんな風に聞いた覚えが…あるけれど…」

と私は一度義一を経由してから、宝箱内を見渡した。

そして顔を戻してくると、同じタイミングで義一が先を続けた。

「うん、そうだったんだ。でね?君たち師弟や、絵里達四人が帰った後でおしゃべりしている中で、浜岡さんに君達師弟が来たことを話したら、『ならもっと早めに来るんだった』ってすごく残念がってね?それから君たちの話になっていったんだけれど…ふふ、当然君のピアノの演奏スキルに始まり、その他の様々な芸能に関心を持っていて、ジャンルを横断的に明るいって話を、僕が中心に話していたんだけれど」

「…」


…ふふ、また大袈裟に私のことを評価し、話している…


と思ったが、今はそれどころでは無かったので、普段なら突っ込むところを素通りした。

「その芸能に明るいって話をしている中でね?その…ついつい芋蔓式にというか、そのまま勢いでね?…うん、話しちゃったんだ。具体的な内容の詳細は控えたけれど、『夢ノート』や『詩』、それに『日記』の存在を…ね?」

「…」

と私はすぐに反応を返せずに、ただ黙ってしまった。

そんな私の様子を、義一はどう思ったか、笑みがほんのりと滲んでいたがニヤケていた訳ではなく、その目には心配の色がありありと出ていた。

実際のこの時の私はというと、何だか今まで隠していた嘘がバレてしまったような、単純にそんな感覚を味わってはいたのだが、これはまたある種のバツの悪さみたいなモノで、それ以上でもそれ以下でも無かった。

だから別に、ここで予めというか、先回りして心情を吐露すると、口を滑らせた義一には、もちろん『何を話しちゃってるのよぉ』くらいの想いはあったが、それは冗談含みなモノで、当然本気なモノでは無かった。

なので、どれほど反応を返せなかったのか、自分では定かではないが、視線を義一に合わせると、一度大きくため息を吐いてから直後には、顔一面に呆れた心境がハッキリと伝わることを意識して作った笑みを浮かべつつ口を開いた。

「はぁ…ふふ、もーう、何でそんな事を皆さんに喋っちゃうかなぁー?…ふふ、恥ずかしいったらないわよ」

「…ふふ、ごめん」

私の冗談含みな口調が功を奏したか、義一は一応笑みを浮かべてはいたが、その声のトーンからは本気度が半分以上に感じられたので、今度は私も今までの笑みに苦笑いを加えつつ言った。

「別に謝らなくても良いけれど…ふふ、ただただ、義一さんの事だし、さっき話してくれた、その前の雑談の内容から察するに、実際以上に、必要以上にハードルがあがっちゃってるんじゃないかなぁ?…って思ってさ、それが…ふふ、次回に皆さんに会う時に、少し…ふふ、憂鬱だわ」

「あはは…いやぁ」

と義一は悪戯が見つかった悪ガキのように、照れ笑いを浮かべるのみだったが、そんな様子に思わず笑みを一度零してから、わざとスンと澄ました表情を作って口を開いた。

「…で?どんな返しがきたの?その…義一さんの話を聞いて」

と、一応今触れたようにスンとしながら聞いたのだが、実際は、義一からこの話を聞いた段階で既に気になっていた事柄だったので、内心はドキドキと同時にワクワクもしていた。

「あ、うん…ふふ」

と、ここに来てようやく義一は普段どおりの”はんなり”な笑顔を浮かべると答えた。

「僕が君の三つの作品をね、さっき言ったのと大体同じような感想を言ったんだけれど…」

「えー?あれを言ったのー?」

と苦笑まじりに私は突っ込んだが、義一はただ笑みを強めるのみで先を続けた。

「ふふ、うん。どんなことを喋っちゃったのかと言えば、『夢ノート』はただ粗筋というか、君が断続的だけれど継続して見続けている”夢”が原作だというのは”伏せてね”、ただ君が書いたダークファンタジー物って言うだけに留めて、だから当然君がその夢に何か意味があるのかみたいに悩んでるという話はしなかったんだ」

「…うん、それで?」

と、義一の心遣いを感じながらも、口ではこのように単純な合いの手を入れた。

促されるままに義一は続ける。

「うん、後は詩や日記についてだけれど…うん、これらに関しては、結構内容にも触れて話してしまいながら、これまた僕がさっき言ったような感想を、その…うん、言っちゃったんだ」

「やれやれ…」

と私はわざわざ口に出しつつ、大袈裟に顔を左右に振って見せた。顔もそれに合わせようと試みたのだが、結局はニヤケてしまいながらだ。

「ふふ、ごめん」と義一はまた謝ってきたが、その顔には先ほどのような”本気成分”は一切なく、私と同じノリなのが伺えた。

「そしたらね…」と義一は先を続ける。

「あの場にいた先生達全員が興味を持たれてさ?」

「やっぱり…ふふ、また大袈裟な宣伝文句を言ったからでしょ?」

「あはは、そんな事ないよ」

「いやいや、さっきの感想どおりだとしたら、大袈裟そのものだけれど…」

「あははは!…ふふ、でね?んー…ここからがある意味で本題なんだけれど…」

「何?」

と私が聞き返すと、義一はまた何時ぞやの苦笑いを浮かべつつ、少し遠慮深げに言った。

「みんなが、その…実際に、君の書いたこの作品群を、直接読みたいだなんて言ってるんだけれど…どう、かな?」

「…え?」

と、途中から義一が一度軽く手で叩いたプリントの山を眺めつつ、私は声を漏らした。

…まぁ、話の流れからして、大方この様なことだろう事は予想がついていたにはついていたのだが、実際に聞かれてしまうと、返答に困ってしまった。


ん、んー…義一さんに対してすら、時間を不要に奪ってしまうんじゃないかって心配していたのに、…こう言ってはなんだけれど、私なんかを優しく暖かく受け入れてくれてるとは言え、赤の他人である他の皆さんには…どうかなぁ…


などなどと、一人で黙考する私を、義一が見守るという図式がしばらく続いた。

と、不意に私の頭に、先ほど長々と真摯に感想を述べてくれた義一の様子が思い出されたのと同時に、不思議と自信のようなものが、胸の奥から湧き上がってくるのを覚えた。


まぁ…義一さんが、私のコレを他の方々に見せても構わない程度には思ってくれてるのだから、まぁ…良いか


と開き直りに近い心変わりをすると、顔をプリントの山から、今もずっと静かな表情で見守ってきている義一に戻して、一度色んな意味を込めた溜息を深く吐くと、その直後には、我ながら上出来な自然な微笑を浮かべてボソッと小さく答えた。

「んー…ふふ、まぁ、あなたが話しちゃったのは今更しょうがないしねぇ…ふふ、うん、私は別に構わないよ?」

「…え?あ、本当…かい?」

と義一が信じられないとでも言いたげな、大袈裟に感慨深げに言うものだから、それでますます私は笑みを強くしながら答えた。

「まぁ…ふふ、前情報を上げに上げちゃってから読むわけだから、皆さんが実際に読んだ後でその…ふふ、義一さんの見る目に疑いが今後かかる事になるかも知れないけれどね?」

と私が悪戯っぽく笑うと、義一は何も返さずに素直な明るい笑い声を上げるので、私も途中から一緒になって笑い合うのだった。

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