第14話 初夏のアレコレ
「…よし、じゃあ頂きまーす」
とお母さんがこちらに笑顔を向けて言うので、「ふふ、はい召し上がれ」と私も若干照れつつ返した。
今日は師匠と一緒に数奇屋に行った土曜日の二日後、七月は第一月曜日の朝だ。
こうして私とお母さんは、テーブルを挟んで向かい合って座っている。
朝起きて自室から出て一階に降りたタイミングで、丁度居間からお父さんが出てくるところだったので、お互いに挨拶は出来たのだが、朝早くに病院に行かなくては行けない用事があるとかで、こう言っては何だがあまり興味無くて
質問してないせいで、その中身については私は知らない。
取り敢えず、家を出るお父さんを、お母さんと玄関で並んで見送ると、それから改めて朝の支度に入っての今だ。
…ふふ、私自身が照れ臭いのもあって、中々触れられずにいたのだが、そう、結論から先に言ってしまえば、お母さんの私への挨拶からも分かるように、今日の朝食は私が作ったものだった。
誰得とは思いつつも、内訳を一応述べれば、全体的に予め私自身で作って置いた昆布と鰹節の合わせ出汁をベースにした物で纏めた。
ここで急に話が飛ぶようだが、毎月ある一泊二日の医師会主催の旅行からお父さん達は、二日目である日曜日の早くて夕方の五時、平均して夜の六時か七時に帰って来ることが多かったのだが、私はというと、数奇屋から深夜に自宅に帰ってきて、寝支度を済ませると大分夜も深まった頃となり、自分で言うのも何だが普段は早起きの方だというのに、”数奇屋明け”の時は朝寝坊気味となるのが常だった。
とは言っても、遅くても十時まで寝てることはなく、一人で朝昼晩と料理をして食べるのが習慣となっていた。
…と、何故急にこんな話をしだしたかと言うと、昨日で言えば、師匠からのピアノの課題や予定していた分の本を読み終えても、まだ時間があったので、ふと、明日の朝の食事当番が自分だったのを思い出し、だったら暇潰しにと、陽がまだ沈み切らないうちに夕食を摂った後だったのだが、まず出汁を作ろうと思い至ったのだった。
…ふふ、ここでようやく、長々と話してきた理由が、ほんの少しでも分かっていただけただろう…多分。
…ふふ、さてと、この時どう出汁を作るか、水出しと煮出しのどっちで取ろうかと少し迷ったが、ふと冷蔵庫を開けてみると、スペースに余裕がありそうだったので、水出しにしようと決めた。
水出しはまろやかで雑味のない香り豊かな出汁という、煮出しは煮出しで言うまでも無く良いものだが、それとはまた違った面白みのある味で気に入っていた。
因みに我が家では、水出しの場合は最低でも十二時間は材料を浸ける事になっていたが、丁度今浸ければ、翌日の朝食時には良いタイミングになるという、そんな計算もあった。
さて、決心するとそのまま早速私は、自宅にある昆布を引っ張ってきて、濡れ布巾を使って表面の汚れを拭き取り、それを水を張った鍋に浸けた後、お母さんが備蓄している、”水出し用”のお茶パックを取り出すと、その中に花カツオを入れて、お母さんの教えの通りな正しい分量分をまた鍋に投入した。
…ふふ、今”教えの通り”と言ったばかりだが、お母さんが作る場合は、鰹節を自分で削って作るくらいの凝りようなので、勿論その方が美味しいのは、娘としていつも食べてきた私自身が身をもって体感していても、これは…ふふ、これが私の怠惰なところだが、勿論鰹節の削り方なりも”師匠”に教わっていたし、実際に何度か削ったことはあるのだが、ただの思いつきで始めた出汁作りだったのもあって、そこまでの情熱が湧かずに、結局はこうして市販のもので済ます結果となった。
ここで慌てて訂正するが、この市販品も、お母さんが吟味して普段から使っているものなので、別にこれだからといって”不味い”訳ではないと付け足しておこう。
…とまぁ、そんな作業を台所でしていたのだが、出来たそれを冷蔵庫に仕舞かけたその辺りで、お父さん達が帰宅した…と、そんな昨晩なのだった。
話を少し戻すと、朝起きてお父さんを見送った後は、顔を洗ったりと朝一の習慣を済ませた後で、早速一晩中冷蔵庫で寝かせていた出汁を取り出すと、それを存分に使って調理に入って行った。
献立としては、主食に白いご飯と、
出汁を別の鍋に入れて火にかけて、その間に私と家族は皆が大のネギ好きなので、大量の長ネギをまな板の上でぶつ切りにした後で鍋に投入させて火を付け、丁度出汁が沸騰し始めたのを見て火を止めて味噌を溶く…そう、つまりは長ネギの味噌汁に加えて、
鮭に塩を振ってグリルに入れて両面焼いている間に、器に大根おろしと大葉を予め添えておき、
鮭が焼かれている間に、小鍋に出汁と、薄口醤油、ミリン、塩を少々入れて一煮立ちさせて冷まし、別に茹でていたほうれん草を冷水にとって水気を絞った後は、適当なサイズに切ったほうれん草を、冷ましておいた出汁に漬けた。
本当はこの日は出し巻き卵まで作る予定だったのだが、鮭が焼き終わったのがタイムアップとお母さんに言われてしまい、断念する形となった。
…ふふ、まだまだ修行が足りないといったところだ。
実際にもお母さんにニヤケながらそう言われてしまったが、しかしそれでも味から見た目から褒めてくれたので、「そう?なら良かったわ」と、表面上は思春期特有なスンとした態度で素っ気なく返してしまいつつも、しかし正面でにやけるお母さんの顔に負けてしまい、最終的には親子揃って笑顔を浮かべ合うのだった。
「しっかしねぇ…」
と、そんな朝食中に、毎度の通りにお母さんが話を振ってきた。
「こないだ聞いて驚いちゃったわぁー。…まさか、絵里さんがいつの間にか師範になってただなんて」
「ふふ、驚いたよねぇ」
と私はニヤケつつ答えた。
そう、お母さんはこの時点にして漸くというか、絵里が師範試験を受験して、そして合格したのを知った。
話はほんの少しだけ遡るが、先週の金曜日、つまりは京子がフランスに戻った、そして私が師匠に数奇屋へ行かないかと誘いに行った木曜日と、実際に一緒に数寄屋へ行った土曜日の間である金曜日の事だ。
その日は、目黒にある絵里の実家が稽古場である日舞の稽古日というので、お母さんはいつも通りに出かけて行ったらしいが、その時に、ここからはお母さん自身に話を聞いたが、通常の稽古が終わった後で、絵里の実父であり師匠でもある家元が生徒たちを集めて、その場で口頭で教えてくれたらしい。
勿論家元の横には、師範になっていたとはいえ、まだ生徒達には内緒とまだ指導員”補助”の立場で立っていた絵里がいたのだが、家元の言葉の直後、歓声が上がった…というのは、これまたお母さんの弁だ。
その後で本当に家元がその日の分の稽古の終了の旨を言うと、礼をした後で、生徒たち、特にお母さん達のような仲の良い生徒たちを先頭に、一斉に絵里の周りを取り囲んで、改めてお祝いの言葉を掛けたとのことだ。
その後もお母さんの友人たちで絵里を待ち伏せし、支度を終えて出てきた絵里と一緒に近くの喫茶店に入って暫く歓談したとの事で、確かに私が学校から帰ってきても、まだ帰ってきていなかったので、これはでも普段通りではあったし、
…あ、今日は稽古に行ってる日だったか
と、単純な感想を思ったのみだったが、それから暫くしても、普段よりも帰りが遅かったので、「今どこにいるの?」といった様な連絡なり電話をするタイプでも無い私は、いっその事自分で夕食を作ってしまうかと思った頃に、お母さんがスーパーの袋を下げて帰ってきたのだった。
ふふ、まぁこれも見慣れてはいるのだが、日舞帰りというので、当然お母さんは着物姿であり、しかも我が母ながら身のこなしを含めて完璧な佇まいをしている…というのに、両手に全国チェーンのスーパのレジ袋を提げてる姿がとてもアンバランスに感じられ、毎回だがこの時も思わずクスッと笑みを溢してしまった。
「何よー?」とお母さんは呆れ笑いを浮かべた後、そのまま流れる様に着替えと夕食の支度を済ませて、親子揃って夕食を共にしたのだが、この時の話題は絵里の師範試験合格に終始したのだった。
食事を終えてお茶を飲んでる時にも、話は寝支度の段階に入るまで延長した。
自室に入った時に、ふとお母さんと話した内容について、軽く絵里に連絡を入れようかとも思ったのだが、少し先回りした情報を開示すると、実は近々にまた絵里と直接会う約束をしていたので、この時はそのまま何も連絡を入れずにベッドに入った。
…のだが、ご存知の通り、翌土曜日になり、さていよいよ師匠と数奇屋に行く段階となり実際に行ったわけだが、そこでまさか絵里と会うとは思っても見なかったとは、その時にも言った通りで、あの他にもこの様な理由が実はあったのだった。
マスターのフレンチに舌鼓を打ち、ママの手作りのデザートでホッと息を吐きつつ、私たちは少しの間雑談に花を咲かせていたのだが、その中でチラッとあの中でも触れた通り、絵里の日舞の話も出ていた。
その時の会話で、ポロッとどちらからだっただろう…ふふ、恐らく軽率な私からだろうが、実は私のお母さんも絵里が師範試験に通ったことを知ってるという話が出た。
そんな話題が出た途端にドキッとした私は、まず絵里に顔を向けると、絵里は絵里でこちらにハッとした顔を見せていたが、徐々に苦々しい笑みを浮かべ始めると、今度はゆっくりと視線を私の隣に流したので、それに釣られて同じように顔を向けると、そんな私たちの態度とは真逆に、「そうだったんだー」と義一は呑気な声色で返しながら、ある意味でポーカーフェイスの笑顔を浮かべるのみだった。
そんな反応を見せられて、恐らく同じ感想を持ったのだろう、私と絵里は同時に顔を見合わせると、どちらからともなく苦笑を浮かべ合っていた。
…とまぁ、そんな事があったのだが、その後でマスターとママの、料理人としての心構えの話へと移って行ったので、それ以上は特にそこから話が発展しないで終わった。
…ふふ、毎度お馴染みとなってしまっているが、長めの説明はこの辺で終えるとして、月曜日の朝に、自分で言うのも何だが仲睦まじく親子二人で過ごす朝食のひと時に戻るとしよう。
「凄いわよねぇ、絵里さん」
と、一旦緑茶を啜ってからお母さんは言った。
「私の流派の中で、そもそも今だに名取の最年少記録保持者なんだし、元々舞踏家として凄いのは知っていたけれど…」
…『お母さんは、何で名取の試験を受けないの?絵里さんにしても、まだ私は会った事無いけれど、絵里さんのお父さんである師匠さんだって、お母さんの舞を評価してるみたいだったけれど…』
と、お母さんが名取という単語を言ったのに釣られて、絵里がladies dayで話していたのを思い出したので、そのまま思い付いたままに聞いてみようと思ったのだが、我ながらどんな不都合があってなのか、今思い返しても不思議な事に、口が途端に重く感じ、思った通りに言葉が出てこなかった。
そのせいでタイミングを逃して、話題は次に流れていってしまった
「…ふふ、これは前にも聞いたけれど、琴音、あなたは知っていたのねぇー?絵里さんが今月…いや、今は七月だから六月…ふふ、いや、五月末にって話だったわね?って、そんな細かい事はともかく、絵里さんがそれくらい前に師範になっていた事を」
「え?…ふふ、んーん」
と私はニヤケつつも顔を数回左右に振ってから答えた。
「確かに六月時点では知っていたというか、知らされたけれど、でも…ふふ、私だって、絵里さんが師範試験を受けてるだなんて、全く知らなかったよ」
「あら、そうだったわね」
とお母さんはすぐに柔らかい笑みを浮かべたが、しかしそれも束の間、今度は口元は緩めつつも、目元は細めつつ、上体も若干前に倒しつつ言った。
「…でも、やっぱり知ってた事には違いないじゃない?本当にこの娘は…ふふ、なんで教えてくれないかなぁ?」
「ふふ、だって…」
と私はニヤけっぱなしで返した。
「お母さんとしても、絵里さん自身の口から聞くのが良いと思って」
「まぁ…それもそうね」とお母さんはすぐには納得しなかったが、最終的には腑に落ちた様子だった
「絵里さんにも聞いたのよー?」
とお母さんは今度は不満げな口調で笑みを絶やさずに続ける。
「友人の私になんで教えてくれなかったの?って。そしたら絵里さんは…ふふ、ただ苦笑いで謝ってくるだけだったけど」
「…ふふふ」
と、その場にいなくても容易にその光景が目に浮かんだ私は自然と微笑んでから返した。
「それはだって…ふふ、お母さんだけ例外作るわけいかないものね。友人とはいえ、教室の生徒さんだし」
と私も真似して前傾になりながら、今朝一番にニヤケて見せると、「私もすぐにそれくらいは察したわよー」と、お母さんはさも心外だと言いたげに拗ねて見せたが、それも長くは続かず、自分で吹き出して笑ってしまっていた。
といった会話を楽しむと、食器などを”今度は”手分けして整理し、それからは二手に分かれてそれぞれが朝の支度に掛かった。
パウダールームに行き、朝一には簡単に済ませていたのを、本格的に取り掛かった。
まぁ単純に、櫛で髪を梳かしたり、歯を磨いたりなどだ。
それを終えると、そのまま自室に直行し、制服に着替えて姿見の前で最終チェックをすると、鞄を手に持ち一階へと降りた。
居間に寄ると、まだ洗い物の最中だったらしく、水音が鳴り渡る中、下を向いて何やら作業をしていたが、「じゃあ、行ってきまーす」と居間の出入り口から声をかけると、気づいたお母さんは顔を上げて、一旦水を止めてから「行ってらっしゃーい」と明るく声を返してきたので、「えぇ」と私も最後に返して居間のドアを閉めてからは、そのまま玄関に行き、腰を下ろして学校指定の革靴に足を通すと、すくっと立ち上がり、爪先を床でトントンと鳴らしてから玄関から外へと出るのだった。
因みに、本当に豆知識だが、今のこの私の癖である、爪先を床で鳴らして慣らすのは、実は足に悪いと言われているらしい。その理由は具にはここでは触れないが、理由を見る限りは納得いく事があっても、私の場合はただの癖というか、そこで触れられてる様な事が靴の中では生じていなかったので、私はこれからもこの癖を、続けるつもりって程にはこだわりなど一切無いが、しかしまぁ直す予定もないとだけ言っておこう。
…って、ふふ、本当に個人的すぎる事にして、しかも全く具体性が無いくせに、無駄に長く話してしまった。
こんな話をしてるくらいなら、さっさと足を進めるとしよう。
七月に入り、まだ梅雨明けとは天気予報などでは聞かれなかったが、しかし見上げると、すっかり初夏というか、そろそろ本格的な夏が来る気配を滲ませる様な、そんな真っ青にして高い空が頭上に広がっていた。
どこかどんよりとした梅雨特有の濃い灰色ではなく、真っ白な雲が点々と浮かんでいるところなど、普通の感覚で言えば”清々しい”と言える天候だとも言えるのだろう。
だが、私があまりにもしつこく言ってきたせいで、無駄にご承知してしまっているだろうが、そう、かく言う私はいわゆる快晴や、晴天といった晴々とした天気が、苦手というか好きではない。むしろどんよりとした灰色に占められた雲の下を歩くのが好きなので、こんな天気の下だというのに、あまり足取りは軽くなれず、心の中で梅雨空を懐かしみながら駅へ向かって歩いて行った。
その途中、ある歩道の地点に差し掛かったその時、「おーい、琴音ー」と声をかけられた。
声のした方向を見ると、丁度マンションのエントランスから早足で近づいて来る、笑顔の裕美の姿があった。
その顔が初夏の陽気に当てられてキラキラと輝いて見えて、
まさしく私と真逆なタイプねぇ…ふふ、本当に裕美は快晴が似合うわ。…どっかの誰かさんみたいに
と感想を覚えていると、不満げな声を掛けられてしまった。
「…ちょっとー?」
「…え?」
と私が声を漏らすと、目の前には仁王立ちして両手を腰に当てて、こちらにジト目を向けて来る裕美がそこにいた。
「なに?」
と私が続けて聞くと、「『何?』じゃないよ、もーう…」と裕美は呆れ笑いを浮かべて言った。
「急にボーッとしたりして…ふふ、それに何?『どっかの誰かさん』がうんたらかんたらって」
「…あ」
…ふふ、聞こえてたのね?
「…ふふ、聞こえてたのね?」
と私が微笑みを意識しながら返すと、「丸聞こえだよー」と裕美はますます呆れ度合いを強めるばかりだったが、それからはどちらからともなく笑い合うと、朝の挨拶を済ませて、そのまま地元の駅へと歩み出した。
初めは簡単な雑談を二言ほど交わしていたのだが、実は今日初めて見かけてから、裕美の手に何か握られてるのが見えたので、歩き始めた途端に早速声をかけた。
「…で?裕美、私こそあなたに質問したんだけれど…」
「え?何?」
と裕美はキョトン顔で相槌を打ってきたが、私はそのまま視線を落としつつ続けて聞いた。
「ふふ、『何?』じゃないわよ。なに、その…手に後生大事に握られてるのは?」
「あ、あー…あはは、これね?」
と、先ほどまでの呆気顔は何処へやら、普段通りの明るい笑みを浮かべると、裕美は手を顔の高さまで持ってきて、持っていたものを見やすいようにこちらに向けながら言った。
「なにって、そりゃあ…ふふ、スマホだけれど…それを聞きたいんじゃないよね?」
と裕美が悪戯っぽく笑うので、「まぁね」と私も声は素っ気なくだが、しかしやはり同じ類の笑みで返した。
そう、スマホなのは分かっていたのだが、一瞬とはいえチラッと見えた限りでは、マンションのエントランス前でスマホを真剣な面持ちで見つめていた姿が今も記憶に残っていたのもあり、だからこそ質問したのだった。
私からの返しを聞くと、裕美はスリープ状態だったスマホの画面を起こして、何やら簡単に操作をし、それを終えると液晶画面をこちらに向けてきながら言った。
「ふふ、勿論…これよ」
と見せてきた画面には、英単語が幾つか纏めて映し出されているのが分かった。
どうやら手書きらしく、左側に英単語、その右側に和訳が書かれていた。
「あー」
と私はすぐに察して声を漏らしたのだが、裕美はニコッと笑うと、スマホをまたスリープ状態に戻し、今度はそれをカバンの中にしまいながら言った。
「なんせ今日から期末試験だからねぇー。今日は英語あったし、あんたを待つ間に少しでも復習というか、見直そうと思ってねー」
「…ふふ」
と、裕美の言葉を聞いた瞬間、一気にある時の光景がフラッシュバックし、同時に自然と笑みを零してしまった。
その光景とは…そう、小学五年生の頃、まだ私たちが塾で出会ったばかりの頃に、一緒に受験勉強をしようという私からの提案で、二人では初めて絵里の勤める区立図書館を訪れた事があった。
その図書館の前で待ち合わせしたのだが、その時に一足先に来ていた裕美が、熱心に塾の教科書に目を落としていたその姿を、今ふと思い出してしまったのだった。
「…ふふ、そっか」
と私がまた笑みを零しつつ呟くと、
「何よその笑みはー?」
と目敏く気づいた裕美に早速突っ込まれてしまったが、
「なんでもー?」
と私は視線を明後日の方向に飛ばしつつ、間延び気味に惚けた直後、少し速度を上げて歩き出した。
「ちょっとー、待ちなさいよー」
と後ろから声をかけれたので振り返ると、そんな不満げな声とは程遠い、満面の笑みを浮かべる裕美を見て、「あはは」とただ私は高らかに笑うのみだった。
裕美がすぐに追い付いてからは、一般的な女子学生らしく、期末試験の話に終始し、それから途中の乗り換え駅である秋葉原で紫と合流した。
「お姫様は今日の試験の自信はどうなのー?」
と朝の挨拶もそこそこに、通勤通学客で混み合うホームの列に並ぶ中で、紫がニヤケつつ声をかけてきたので、
「だから姫じゃないってば…」
と溜息交じりに一旦は突っ込むと言う通過儀礼を済ませると、「ボチボチ…かな?」と最後に意味深に首を傾げつつ答えた。
「ボチボチかぁー…」と紫はシミジミと呟いたが、その直後にはまた企み笑顔に戻りつつ続けて言った。
「…っま、姫は英語がかなりの得意科目だからねぇー。余裕が見られますわな」
と最後の目をギュッと瞑って見せたので、
「ちょっと、そんな風な事は一言も言ってないでしょう?」
と私が呆れるのを隠す事なく顔全面に押し出しながら返すと、それまで私たち二人のやり取りを笑顔で眺めていた裕美が口を挟んだ。
「あはは。まぁ姫が英語が出来るのは当然としても…」
「だから姫じゃ…」
「あー、はいはい。今はそれは良いから」
「いやいや…私が良くな…」
「あはは、でもさぁ」
と、私が反論しようとするのを、尽く受け潰してきた裕美だったが、今度は紫にニヤケ面を向けると、口調も私に対してと同じトーンで言った。
「あんたは人に言う前に、まず自分の事を言ったらどうなのー?どうせまた学年のトップファイブに入るんだから…ね、学級委員長さん?」
「ちょ、ちょっとー」
と紫はここにきて初めてタジタジな苦笑を浮かべた。
「ふふ、そうね」
と私もここぞとばかりに裕美に続き、二人で顔を見合わせてニヤニヤしている中、「別にそんなの、今回もとは限らないよぉ」と紫はますます苦笑いを強めるので、私たち二人もますますニヤケ顔を強めるのだった。
…とまぁこんな具合に、以前通りに表面上は見える調子で、私と紫の間でも軽口を言い合ったり、勿論裕美も混じって三人で『やんややんや』と朝からテンション高くやり合っていると、その時丁度電車がホームに滑り込んできたので、一旦お喋りを止めて、人の流れのままに車内へと入って行った。
ギュウギュウとまではいかない車内状況なのが手伝って、三人で先程とはまた違った、少々真面目な期末試験の話を延々としながら四ツ谷に着くと、改札を出てすぐのところに地下鉄への連絡口があるそこには、既に丸の内線組である藤花に律、そして南北線組の麻里が既に立っており、遠くからでも和かに会話してるのが見て取れた。
私たちが近付く数メートルのところで三人同時に気付くと、お互いに歩み寄り、腕を伸ばせば手が届く距離まで近づくと、足を止めてまず「おはよう」と挨拶をし合った。
それからは一言二言簡単に言葉を交わした後は、またしても期末試験の話をし合いつつ、前から紫と麻里、真ん中に私と裕美、そして最後尾に藤花と律という、これまた毎度お馴染みとなった隊列を組み、お喋りは続けながら他の通学途中の生徒たちと共に学園内へと入って行くのだった。
…っと、急に話が飛ぶ様だが、まぁこれ以降の試験に関する話をしても仕方がないだろうという事で、唐突に聞こえるだろうが話を、計三日に渡る期末試験の最終日に進めよう。
午前中で終わった私たちは、早速学園を後にして、御苑近くにある例の喫茶店へと足を運んだ。
大会目前とはいえ、期末試験の最終日は空いてたという裕美の都合に合わせた…と、向かう途中で大袈裟な冗談で各々が口々に声を裕美に掛けたりしていると、いつの間にかという体感的な具合でお店前に到着した。
早速店内にゾロゾロと入ると、ちょうど昼飯どきも過ぎたのが良かったのか、一階部分だけ見ての判断は早計とは思いつつも、皆共通して思ったのは、空いてて良かったといったものだった。
「いらっしゃいま…あ、いらっしゃーい」
と、初めはマニュアルなのだろうか他人行儀の声色だったが、私たちの姿を認めた瞬間に、この様なくだけた調子でカウンターの中から声を掛けてきたのは、私たちの学園OGで、今現在は都内にある大学生の里美さんだった。
シフトの関係もあったのだろう、何気に里美さんとお店で会うのは、中学三年生に上がっての今学期に入って二度目という久しぶりだったのもあって、裕美と紫を先頭に、後から藤花と、今日で二度目というまだ初対面に近いというのに、これは裕美たちの態度が良い影響を与えているのか、麻里も後から続いた。
そんな四人を、私と律の二人で後ろから微笑みつつ眺めるという構図が出来上がっていたが、いくら空いてるとはいえ、他にお客もいるというのもあり、いつまでもお喋りするのも、むしろ里美さんに迷惑をかける結果となるという、自分達で言うのは馬鹿馬鹿しいのと同時に恥ずかしいのだが、なかなかな良識が働き、後は順々に注文をしていくのだった。
それから暫くして、少し先回りする事になるが、普段通り私と律はシンプルにアイスコーヒーを注文し、裕美がアイスティーを頼んだ以外の他の三人は、今こうして思い出そうにも何て代物だったが思い出せない様な、しかしまぁ如何にも女子が喜びそうなものを頼んでいたのだけ覚えている。
それはさておき、何故今こんな話から振ったかというと、本来ならシンプルな私や律、そして裕美のだけは先に受け取っても良さそうだと思われそうだが、これは里美さんがいる時限定で、
『どうせなら、皆が一斉に飲み物なりを受け取った方が良いでしょ?』
という提案を受けて、それは良いと満場一致で採用してから今まで続いていた。
というわけで、注文を終えると私たちはそそくさと二階へと上がり、空いていたいつもの御苑が見渡せる窓際の位置に、フォーメーション通りに座り、おぼんに六人全員の注文の品を乗せて持ってきてくれた里美さんにお礼を言うと、すっかり通例となった乾杯をし合い、各々が一口ずつ飲み終えると、先ほど終わったばかりの試験の話が少し膨らんだが、早く記憶からも解放されたいというのが皆共通した思いだったらしく、実際は試験の話はそこそこに、女子らしい流行物などの話へと入って行った。
この手の話には、実はこの中で一番乙女な趣味趣向の持ち主である律であるから、積極的に話の輪に入る様な事はしないまでも、他の四人の話す内容に事あるごとに頷いたり、ボソッと相槌を打ったりしていたが、その中で唯一置いてきぼりを食うのが毎度私だけで、今回も例外では無かった。
既にこうして触れていながら、具体的に何を話していたのか思い出せない時点で察せられるというものだろう。
しかし、とはいえ別に居心地が悪く思う様な事はなく、まぁ…確かに、よく裕美や紫を中心に、これ知ってるかあれ知ってるかと振ってくるので、知らないと素直に返すと、途端に”姫談義”が始まってしまうので、これには一つ一つ突っ込まなくてはいけないのもあり大変なのだが、しかしその後は、冷やかしもなく、逆に、これは私の好意的解釈なのだろうが、律まで含む他の五人が、そんな世間知らずの私に対して、面白がってくれながら今時に何が流行っているのかを教えてくれるので、んー…ふふ、まぁ実際は、教えてもらっておきながら、この通り何一つとして覚えていないのだが、しかし、そうして教えてもらいながら過ごす、この時には限らないそれらの時間は、とても楽しかったという感想だけは確かな記憶として覚えているのだった。
さて、この手の雑談にも一区切りがついた頃、ふとこの喫茶店まで来るまでの間のお喋りした内容を思い出した私は、それに関連した言葉を口に出してみることにした。
「裕美、そういえば裕美の大会前提とした本番さながらの練習っていつだっけ?」
そう、裕美のクラブは、大会への一週間か二週間前くらいに、これまでの練習の総仕上げという意味合いもある、大会を想定したクラブ内限定の練習試合をするのが恒例らしく、これを観に行きたいとこの時点で既に私は伝えていた。
クラブ内というのもあって、部外者である私が観に行けるとは、聞いただけではそう普通は思わなかっただろうが、裕美にとって幸か不幸か、この話が出たその場には、ヒロがおり、今の私みたいに不意に話を振ってきたので、それに私が食いついたのだった。
私が興味を示すと、ヒロもこの練習試合を含めてたまに行ってると言うのを聞いて、裕美としては、もしかしたらヒロだけに見て欲しかったのかも知れないが、私は考えてみれば同じ地元だというのに、一度も裕美が所属するクラブに行ったことがなかったのもあり、今のようなことも言いつつ頼むと、勿論本人が側にいたので具体的には言わなかったが、しかしほんのりと当事者ならヒロの事を言ってるのだとすぐに分かるように、言葉の節々に滲ませたのに対して、顔をほんのりと赤らめつつ慌てた様子を見せた所を見ると、きちんとこちらの意図が伝わったらしい裕美は、顔をまだ上気させつつも、
「はぁ…もーう、まぁ良いよ」
と諦観まじりの笑みで答えてくれた。
因みにこれは別の日だが、私と裕美とで絵里のマンションに遊びに行った時にも、この時点で私は裕美から話を聞いていたので、もしかしたら絵里と裕美の二人の仲だから知ってるかなと思いつつも、話を振ってみると、案の定絵里も、裕美のクラブの練習試合がクラブ在籍の者の親しい人なら観戦に来ても良いという旨まで知っていた。
だが、この練習試合という日が夏休みに入ったばかり、しかも平日というのもあって、夏休みに入ったばかりの時期にあたる私たちはともかく、絵里も口だけではなく体全体を使って行きたがって見せたが、この時は司書の仕事があるというので叶わないという事だった。
自分が観戦に行けない代わりに、絵里に写真を撮る様お願いされたが、
「競泳用とはいえ水着姿だし…ふふ、流石に女の私でも撮る事は無理よ…ね?」
と私が振ると、
「あはは、うん…ダメだね」
と裕美は顔はこちらに向けたままだったが、視線だけ絵里に流しつつ返した。その顔には、先ほど私がヒロを滲ませた事によって生じていた赤ら顔はすっかり引いていて、代わりに裕美印の明るい笑顔が広がっていた。
残念がる絵里とその後は、裕美の練習試合の日が何と、奇しくも去年私が出場したピアノコンクールの決勝と同じ日付だったというので、その偶然を面白がりつつ、去年の思い出話で盛り上がるのだった。
さて、話を今現時点に戻そう。
裕美に練習試合の話を振った後、私は続け様に今触れてきた事を話していたのだが、それが終わるとまず最初に紫が反応を示した。
「あー、もう一年経つんだなぁ…お姫様の決勝から」
「だからお姫様じゃ…って、もう良いわ」
と私が、誰もおそらく自分のツッコミをただ流すだけだろうと察して、仕方なく自分で呟くと、そんな私を尻目に他の皆は小さく微笑んだ。
「懐かしー」
と高めのよく通る声で藤花が相槌を打ち、「うん…」と律もボソッと小さく反応をしたその時、
「あの後、文化祭にも来てくれたけど、あなた達二人の仲良しな絵里さんとは、あれから何だかんだ会ってないし…ふふ、久しぶりに会いたいねぇ」
と予想通り、紫は私のツッコミをスルーして、その代わりにシミジミと思い出にふける様な声色と表情で独り言ちた。
「私も会ってみたーい」
と、当然というと何だか言い方にとげがある様だが、私と律からすれば中学三年生にして初めて知り合い友人となった麻里だったから、絵里のことも写真などでは見た事はあっても会ったことが無かったので、私や裕美を始めとする、その他の絵里と会って話した経験を持つ他の皆で、麻里に教える体で少しの間は絵里の話で盛り上がった。
勿論、絵里が師範になった事も含めてだ。
これに関しては、まず日舞の説明から何から私が率先して説明役を引き受けたのだが、ここでクスッと笑ってしまったのは、その私の補助をする様に、後から裕美が情報を付け加えてきた為だった。
裕美も一般の女子中学生同様…というか、一般人には中々日舞に興味をそこまで持つ人自体が少数派だろうに、私の知らないところで自分なりに日舞について調べたらしい痕跡が、その言葉の端々から感じられて、『本当にこの子は、余程に絵里さんの事が好きすぎるんだなぁ』と感想を覚えるのだった。
さて、粗方絵里と日舞についてお喋りが終わった頃、話はまた裕美の水泳関連へと戻った。
紫たちも、以前に夏休みをどう過ごそうかと計画を今の様に喫茶店で屯しながらお喋りしていた中で、その日は都合が悪いと裕美が言い、それに対して皆で理由を問い詰めると、練習試合があるからと説明していたので、現時点で全員が私の触れた事については知っていた。
その時には既にヒロから話を聞いていたので、自分は観戦に行くと口を滑らすと、絵里と同じ様に一斉に『私も行きたい』と盛り上がったのだが、しかし意外にも事態は早めに収束した。
というのも、絵里とは違って、私たちの地元まで他のみんなは気軽に来れる様な距離に家が無かったし、そもそも大会本番へは観戦に行く約束を取り付けていたのもあり、本番までお楽しみはとっておこうという事を、その時だけではなく、期末試験直後の午後もその様な会話の流れとなり、一度は『それでもせっかくなら観てみたい』といった声が少なからず挙がったが、やはりすぐに収まると、そのまま裕美の出場する七月末の水泳大会の話を深めていった。
そんな中、それなりにと言っては何だが盛り上がっていたその時、
「そういえば、さぁ…裕美?」
と私は今までの雑談で使っていた声よりも、トーンダウンさせて聞いた。
「あなた、大会が今月末まで迫っているけれど…もう腰の方は大丈夫なの?」
…そう、これはもう何度か何かにつけて触れてきたので、ご承知だと思うが、今年の初め辺りから腰周辺に違和感があると、何でも無い風ではあったが裕美が口にしたのが、今の今まで私の中に留まっていた。
そんな裕美の言葉を聞いたからかも知れないが、しょっちゅうとまでは言わないまでも、背中を摩ったりする姿を見かけるのが、側からでは多めに目につく様に感じていた。
そうした様子は今現在まで続いており、増加する一方とは思わないのだが、減っていってるようにも見えなかったので、本人は平気と聞くたびに答えていたが、それを鵜呑みには出来ずにいた。
この件について、紫たちにも意見を聞いてみようかと何度か思いつつも、我ながら不思議と中々踏み出せずに、ズルズルと先延ばしてしまったのだが、実は裕美の異変に私だけが気付いて、また心配していたわけでは無かったのが、修学旅行後の平凡なある午後の中で判明する事となる。
…そう、ここでまずお分かりになられると思うが、期末試験直後の今現在、私は話を振った内容は、今日が初めてでは無かったのだ。
ある平日の放課後、裕美が練習だといって放課後に足早で帰った後で、その他の私含む他の五人で今日の様に喫茶店に立ち寄ってお喋りしてる時、その時も練習に行くんで先に帰ったというので、まず話題は来たる裕美が出場する水泳大会に向かったのだが、実はふとその中で、ここがチャンスかと思った私が、これまた今の様に口火を切ったのだった。
「少し心配というか、気になっていることがあるんだけれど…」
と注目を集める意味で、この様に思わせぶりに言った後で、続けて裕美の最近の異変について、あえて気付いているかは聞かずに、どう思うかを聞いて見たところ、「だよねぇー?」と素早く反応する藤花から始まり、最後は普段の物静かな調子より数段テンションを上げつつ律も同意してきた。
その反応の良さに言い出しっぺの私自身が戸惑ってしまったが、自分だけでは無かった事に対して、嬉しいに近い感情に胸を占められるのを覚えていた。
皆が口々に言う感想をまとめてみると、何となくそうかもとは思いつつ、要は、この事を気になっていたのは私だけではなかったようで、律の様な体育会系は勿論のこと、普段の裕美の様子から、他の皆も裕美が体を労わる様子をたまに見せるので、素人ながら少なからず気になっていた…というのが、大体皆に共通した意見だった。
次いでに、この中で出た話として、普段は口数少なく大人しい律が積極的に話に加わってきたのは、今触れた通りだが、律も自分の体験を元に、ヒロと同様に腰に問題があるのは厄介だから、特に心配だと力説していたのが印象的だった。
さて、話を現在に戻そう。
その時に裕美へのこういった会話をした事は、何となく本人に知らせない方がお互いに良いだろうと意見を一致させて、今の今まで内緒にしていたので、
「あなた、大会が今月末まで迫っているけれど…もう腰の方は大丈夫なの?」
と今私がこうして話を”改めて”振ると、裕美は当然として、他の皆も急に何を言い出すのかとキョトン顔を浮かべていたのだが、
『あー、話しちゃうのね?』と言いたげな表情を共通して浮かべると、その直後には四人が私の後に続いて、一斉に言葉をぶつけた。
私からは小姑よろしく口煩く聞かれていたので、それには慣れっこだっただろうが、こうして私以外の同じグループ全員から、手を変え品を変えて次から次へと心配の滲んだ質問をぶつけられて、流石の裕美も苦笑いでタジタジとなっていた。
「ちょ、ちょっと、み、みんな、落ち着いてってばぁ」
と裕美が最後に言うと、ようやく一同はピタッと口を閉ざした。
それを見て自分自身でも落ち着くためか、一口アイスティーを飲み、それから大きく溜息を吐くと、「もーう…」と裕美は私に薄目で視線を流しつつ口を開いた。
「琴音ってば…ふふ、こんな大袈裟にしちゃうんだから」
「だって…」
と私が裕美から視線を逸らして周囲に配ると、「だってー」と他の皆も間延び気味に続いた。
それを受けた裕美は、クスッと小さく笑うと、「何よそれは…」と呆れ笑いを浮かべた後で、「大丈夫だよ」と自然な笑顔に戻りつつ続けて答えた。
「まぁ…うん、確かに琴音や、他の皆が言ってくれた様に、腰付近に違和感があるのは…本当。だけどね、これもさっき琴音がチラッと言ってたけど、今年の初めくらいの大分前からでさ?ある意味これが通常に成りかけてるっていうか、少なくともね、無理しなければ痛みもないし、別にこの違和感が起こってからも、タイムが落ちるどころか、着実に伸びてきてるし…うん、だから、その…ふふ、気持ちは嬉しいけど、心配しないでね?大丈夫だから」
「そうなのー?」
と藤花が真横に座る裕美の顔を下から覗き込む様に聞くと、「なら良いけど…」と紫が後に続いた。
今裕美が言った事は、常日頃に私が聞いていた内容と大まかに見て同じものだったが、果たしてどこまで皆が納得したのかは定かでは無いながらも、大体藤花と紫の2パターンの言葉をかけていた。
「本当にー?」
と最後に隣に座る麻里が、藤花と同じ様に下から覗き込む様にそう声をかけると、「本当だってばぁー」と裕美は冗談交じりに返すと、ここで一度、ぐるっと私含む他の五人の顔を眺め回してから言った。
「まぁ…どうやら感じやすい敏感なお姫様だけではなく、他の皆にも心配かけちゃったみたいだから、それについては謝るけど、でも本当に今言った通り大丈夫だからね?」
とニコッと微笑みつつだが、それ以上は有無を言わせないという意志の感じられるその言い切り具合に、私たちは一旦顔を見合わせあったのだが、誰からともなく小さく笑みを浮かべると、「分かったよ」とそれぞれがそれぞれのタイミングで返すのだった。
—————————————————————
「少し早いけど、別に良いわよね?」
と、隣を歩く絵里が、どうでも良いと言いたげに言い捨てるのを聞いて、クスッと小さく笑ってしまいながらも、「そうだねぇ…」と私は呟きながら左手首にした腕時計を見た。
時刻は午後の一時を少し過ぎた所で、予定よりも一時間ばかり早かった。
今日は期末テスト明けの初日、話の中で度々触れてきた、例の試験休みの初日だ。
この日も平日なのだが、絵里がたまたま図書館と、そして日舞の方でも、師範になったというので、他の流派は知らないが、絵里の所で言うと、それまでにお世話になった様々な日舞に関連した芸能の師匠さん達に挨拶に行っていたというので、これまでそれなりに忙しくしていたらしいが、それもひと段落が取り敢えずついたというので、今日というこの日に、一緒に”ある所へ”行く約束をしていた。
…ふふ、”ある所へ”だなんて勿体ぶらずとも、絵里のこの態度を見れば、これから私たちが向かう所など、すぐに分かるだろう。
そう、言うまでもなく義一の家、宝箱が目的地だった。
三人で会うのに、別にこれといった大義があったわけでは無いが、三人ともに、特に最近では義一に加えて繰り返しになるが絵里も忙しくしていたのもあり、久しぶりに三人で会えるというので、私がただそれだけの理由で提案すると、場所を提供する義一はすぐに、そして、絵里はというと、提案自体は受け入れてくれたが、場所が場所だけに初めのうちは大袈裟に渋って見せた。
だが…ふふ、これも恒例行事の一つだったのを知っていた私が、もう一度提案すると、あとは難なく素直に受け入れてくれて、それで本日と相成った次第だった。
因みに、その代わりにと義一が、二時からでも良いかなと余計な事は言わずに単純に聞いてきたので、別に構わないと二つ返事で返したのだが、でも今は一時を過ぎたばかりの時刻…ふふ、でもまぁ、これは義一には悪いが、絵里にしろ私にしろ、過去に遅れた事は無かったが、大概前の予定が早く終わることが私たち二人に共通して往々にしてあったので、
まぁ…ふふ、初めてでは無いし、早くても行っちゃっても良いかな?もし今仕事中だったら、時間まで宝箱じゃなく居間の方にいれば良いんだし
と、誠に身勝手な事を考えた私は、「そうね」と言葉は短くだが同調するのだった。
こんなお喋りをしている段階で、既に土手に沿って走る道から、裏寂しい通りに入っていた所だったので、私が同調するのと時を同じくして、緑が上からはみ出ている義一宅の塀横まで辿り着いていた。
玄関前に到着すると、一旦立ち止まった私達は顔を見合わせると、『シー…っ』とお互いに同じ様に立てた人差し指を口に縦に当てると、小さくクスッと微笑みあった。
ここまで来るまでに、
『もしも仕事をしていたとしたら、気を使わせるのも含めて迷惑かけたら悪いし、入っても挨拶とかの声はかけずに、なるべく静かに入ろう』
と、話し合った上での結果だった。
「…よし」
と私は早速鍵穴に、小学五年生以来ずっと使い続けてきた合鍵を差し込み、それをクルッと反転させてみたが、何の引っ掛かりも、鳴るはずである『カチャン』という音もいないのに気付いた。
「あら、鍵空いてるわね」
と後ろから絵里が呟くので、「えぇ、そうみたい」と振り返って返したのだが、「…あ」と私は思い出してまた口元に人差し指を当てると、絵里も倣って悪戯っぽく笑いつつ同じ様にするのを見届けると、「さて…」と私はゆっくりと引き戸を横にスライドさせていった。
ガラガラガラガラ…
と、やはり思った通りの結果となったが、この年季の入った引き戸は、どんなに丁寧に慎重を期しても、けたたましく鳴ってしまう仕様なのだった。
「あはは、やれやれ…」
と後ろで笑み交じりに言う絵里に対して、私からはただ笑顔を向けるのみに留めると、早速中へと入って行った。
と、靴を脱ごうとしたのだが、不意に義一の普段使いのスニーカー以外に、ヒールが低めの如何にも動きやすさを重視した、女物の靴が置かれているのに気付いた。
「…?」
と、見慣れぬその靴を上から覗き込んでいたその時、「…あ」と頭上から声が漏れたのが聞こえたので見ると、そこには、既に靴を脱ぎ終えてスリッパまで履き終えた絵里が、私と同じ様に、その見覚えのない女性モノとすぐに分かる靴を眺めていた。
玄関と廊下の照明は、点いていたり点いていなかったりとまちまちだったが、今回は一応点いているパターンではあっても、それでも薄暗めな灯りの下だというのに、絵里のその顔にはハッキリと驚きと動揺が現れているのがありありと見えた。
目もクワっと見開かれている中、ふと私の視線に気づくと、絵里は一瞬だけより一層目を大きく開いたが、すぐに「い、いや…その…」と首筋をカリカリと照れながら掻いて見せた。
それを見た私は小さく笑みを零すと、そのまま何も返さずに靴を脱ぎ、そしてスリッパを履くと、まだ照れ笑いを浮かべつつも、動揺の引かない表情を浮かべる絵里に微笑みつつ声をかけた。
「…さてと、じゃあまず早速、義一さんが仕事中かどうか確認しますか」
そう言い終えるのと同時に、ペタペタとスリッパを鳴らして廊下を行く私の後を、数歩ほど遅れて絵里もついて来た。
途中で、絵里は駅中の、すっかり私たちにはお馴染みになってしまった洋菓子セットを、一旦冷蔵庫にしまってくると言うので、居間の前で二手に別れた。
そう、今日は私と絵里は駅前で待ち合わせて、そのまま私たちには御用達となっているケーキ屋さんに立ち寄り、そこでケーキの詰め合わせを買ったのだ。
元は四種類のホールサイズ物なのだが、それを四分の一ずつカットしたのを一セットにしてあるものだった。
ムースに、洋梨のタルトに、生クリームたっぷりのチョコレートケーキに、フワフワしっとりのスフレチーズといったラインナップだ。
さて、私はそのまま廊下の一番奥、この家の最深部でもある宝箱の前に着いたが、勿論完璧ではないにしても防音を施されたドアは閉じられていた。
『これならさっきの引き戸の音は、少しは軽減されてるはずね』
と私は思いながら、そのままドアの取っ手に手をつけた。
「義一さん、早いけれど来ちゃった。もし仕事中なら、時間まで居間の方にいるけれ…ど?」
と話しながら、ガチャっとドアを開けてから中を見たのだが、目の前にある書斎机の後ろにいつも座っている姿が見えないのに気づき、不思議に思いながらクルッと、ほぼ全ての壁を本棚で占められてるとはいえ、二十畳程もあるという、一般的に言ってもかなり広い部屋のサイズである宝箱内を見渡したその時、ふとソファーに座る義一と、その向かいにある同じ種類のソファーに座る、見知らぬ女性が座っているのに気付いた。
二人してこちらに顔を向けてきていたが、揃ってキョトン顔を浮かべている。
宝箱には以前にも触れた通り、いつも私たちが座る椅子とテーブル以外にも、そのテーブルと話の中でたまに登場する大画面のテレビの間には、これまでは必要なかったので、今まで匂わせてはおきつつも具体的には触れてこなかったが、良い機会と言えば良い機会なので触れてみると、テーブルのすぐ近くには、これまた重厚感のある本革製のチェスターフィールドソファが向かい合って設置されており、その間にコーヒーテーブルという配置がなされていた。
匂わせてと敢えて表現したのは、覚えておられるだろうか…そう、あれは今年の一月、本人たちは初めてでは無かったが、私としては神谷さんが宝箱にいるのを初めて見たその時に、私が入室したばかりの時は、今述べたソファに神谷さんが座っていたのだった。
さて、私も彼らと同じ様に呆気に取られた表情をしていただろうが、「ギーさん、冷蔵庫にお土産…って、へ?」という気の抜ける声が漏れたのが後ろから聞こえたので、我に帰ってというのか振り返ると、そこには、先ほどの見慣れない靴を見た時以上に驚きの表情を浮かべた絵里の顔があった。
と、絵里の声が聞こえたのを合図にしたつもりか知らないが、ギシッというソファで動く音が聞こえたので、そんな絵里を放っておいて顔を向けると、義一が上体を前屈みにして、こちらを笑顔で見てきていた。
「ふふ、確かに仕事といえば仕事だけれど…ずいぶん早かったね?」
と義一は部屋の壁時計に視線を移したので、私も見ると、予定よりも、細かいが四十五分ほど早かった。
「まぁ…ねぇ…で?」
と、私は視線を戻すと、先ほどから私と義一の顔を見比べている女性に今度は顔を向けた。
これ以上は言葉を続けなかったが、これだけで何を言わんとしてるのかは分かるという確信があったし、その憶測通りに、義一は片腕をスッと女性の方に向けると答えた。
「うん、こちらの方はね…」
と義一が続けて言った固有名詞は、あまり書物に興味が無い人でも知っているであろう出版社の名前と、それに続けて某有名な週刊誌の名前を述べた。
「へぇ…」
と私は相槌を打ったが、いつの間にか私の横に立っていた絵里の口から、安堵のため息が漏れたと聞こえたのは、気のせいかどうか…は、ともかくとして、義一の紹介の直後、すくっとその女性はソファから腰を上げた。
彼女はシンプルな黒ジャケットに、下はグレーのパンツ、インナーもシンプルな無地の白地シャツを着ているという、典型的なカジュアルスーツスタイルで、立ち上がった事で死角で見えなかったカバンも見えたが、それもやはりシンプルな白の手提げスタイルだった。
如何にもオフィスワーカーらしい女性は、私と絵里の前まで歩いてくると、いつの間に手にしていたのか、名刺を私たち二人に手渡すと、「申し遅れましたが…」と自己紹介をしてきた。
それに合わせてというか、そもそも名刺など貰ったことが無い私で言えば、その名刺を指二本で摘む様にして持ちながら、自分からも簡単に自己紹介をした。
絵里もそれに続いた。
自己紹介が終わると、ここがタイミングと見たらしく、義一がソファに戻って座る様に勧めると、勧められるままにお礼を述べてから、女性は戻って行った。
まだこの時点では詳しくは教えて貰ってなかったが、さっき義一自身が言った様に、仕事には変わらない様子だったので、私と絵里は顔を見合わせると、どうやら同じ考えだったらしく、二人同時にコクっと頷くと、ドアの方に歩いて行こうとしたその時、「あ、二人とも、ちょっと待って」と義一に呼び止められた。
「え?」と私たち二人は同時に振り返って見ると、義一は顔はこちらに向けたまま、視線をまた時計に向けるところだった。
と、その視線を私たちに戻すと、義一は続けて言った。
「ふふ、後もう少しで終わるから、そんなわざわざ外に出なくても構わないよ?…どうでしょう?」
と義一が今度はコーヒーテーブルの向こうに顔を向けると、「え?あ、えぇっと…」
とちょうどソファに腰を下ろすところだった女性は、話を振られるとは思っても見なかったらしく、すぐには返せずにいたが、完全に腰を下ろすと、こちらに顔を向けてきた。
がそれも長くは続かず、今度は義一に顔を向けると、苦笑いを浮かべつつ返した。
「…えぇ、それはもう、私としては全く構わないのですが…”望月先生”と、お二方もそれでよろしいのですか?」
と女性は私たちと義一の顔を見比べる様にしながら言うと、「えぇ、僕は少なくとも構いませんよ」と義一は答えつつ、ゆっくりとこちらに顔を向けてきた。
そこに浮かべていた自然な笑みを見て、私と絵里はまた顔を見合わせたが、ここでも考えが一致したのか同時に頷き合うと、絵里が口を開いた。
「まぁ私たちも別に…ねぇ?」
「え?え、えぇ、まぁ…それはね」
と絵里に返した後で見ると、「じゃあ、普段通りにそこに待っててくれる?」とテーブルを指差したので、私たちは返事を返して言われるままに座った。
「さてと…何の話でしたっけ?」
と、私たちが座ったのを確認した義一は、改めて女性に顔を向けると聞いた。
「あ、え、えぇっとですね…」
と女性もそれまでこちらに顔を向けていたのだが、急に話しかけられた形にまたなってしまったせいか、またしても若干きょどってしまっていたが、これが所謂プロなのか、スッと側から見ても落ち着きを取り戻すと、コーヒーテーブルの上に、義一が雑誌オーソドックス用に使っているのとパッと見同じ機種の、取材時の録音用であるらしいリニアPCMレコーダーを置き、両腿の上にはバインダーに乗せたメモ用なのだろう大きめのノートと、右手には筆記用具を握り締めるという、取材モードへと入って行った。
女性「これで最後になりますが、今更でもありますが、今の時代に望月さんは、オーソドックスという雑誌を出す意義をどう思われているか、そのお考えをお聞かせ願いませんでしょうか?」
義一「意義…ですか…」
女性「えぇ。というのも、多種多様に沢山ある言論雑誌の中でも、望月さんが編集長されているこちらの雑誌は、私個人の主観的な見方になってしまいますが、良い意味で異色なものとして目立っていると思うんです」
義一「ふふ、ありがとうございます」
女性「で、ですね…改めて、今の時代の中における雑誌オーソドックスがどう存在し続けていくのか、どう捉えられていますか?」
義一「んー…」
私・絵里「…」
絵里はどうかは知らないが、私はこの雑誌記者の質問を気に入ったのと同時に、実は私自身兼ねてから心に思っていたのに、何となくまだ聞いた事が無かったので、まさかこの様な形で聞けるとは思っても見なかったのだが、この質問にどう答えるのだろうかと、大袈裟でもなく固唾を飲んで待っていた。
義一「そうですねぇ…ふふ、これが答えになってるかは別にして、初めに申しました様に、この雑誌は評論家と一般的には知られている神谷有恒さんが創刊したのですが、神谷さんが常日頃言われていることに僕自身も全くの同感にして、その精神を引き継いでいきたいなと思った言葉があります。それというのは…”敗北主義”という言葉です」
私・絵里「”敗北主義”…」
女性「”敗北主義”…ですか?」
義一「ふふ…えぇ。まぁこれも説明を要すると思いますので、まずこの”敗北主義”から話してみたいと思います」
女性「はい、是非お願いします」
義一「はい。えぇっと…まず私たちと言いますか、雑誌に集う皆さんの間では、数多くの価値観を共有させて頂いているのですが、その中の一つにですね、敗北主義を大きく二つに分けているんです」
女性「二種類あるんですね」
義一「えぇ。そちらの雑誌は、特にこれといった思想なり主義の立場を取っていらっしゃらないとお見受けするので、僕も話しやすいんですが」
女性「(笑)」
義一「まず前提としてはですね、私どもの雑誌は、”真正保守”を一応旗印にしていまして、中身内容といたしましてもその様になっているというのは、先程来申し上げてきた通りです。
ですが…これも繰り返しになってしまいますが、私どもは今世に沢山出版されています、いわゆる”右”とは違って、これまたカッコ付きで言わせていただきますが、”左”批判というのは本当に極々僅かにしかしてきませんでした。
勿論全くのゼロというわけでは無いのですが、それは余程筋の通らない理屈の伴っていない言論なりが見えたり、それに流される形で世論が流れるのは、批判せざるを得ないと、その様な形ではこれまで表現してきました。
で、ですね、今改めて私どもの立場を表明させていただきましたが、急に話を戻す様ですが、私がまだ若かりし…えぇ、まだ私自身が大学生だったと思いますが、ある時ふと、それ以前からでしたが神谷さんに私淑していたもので、先生の考えには感銘を受け続けてきたのですが、その流れで普段から”右”に対する怒りに似た思いの丈をですね、若気の至りということで、ぶつけてみたことがあったんです。
というのも、いわゆる”左陣営”に対してよりも、あまりにも”右陣営”の言論の程度の低さが目に余ったからなんです」
女性「なるほど、先ほどもおっしゃってられましたね」
義一「はい。この考えは、今申し上げた様に、神谷さんの考えに影響されたというのもあるのですが、そもそも理想主義に舞い上がって、現実を直視しない誇大妄想に取り憑かれてる様にしか見えない”左”が、そもそもおかしく間違っているのは大昔から分かっているので、それを今更批判しても詮無いし、私共としてはどうでも良いのですが、世間では一般的には、”真正保守”を一応標榜している我々とですね、その他の”右系”と目されている雑誌類などが同一視されてしまう事が多く、それ故に、繰り返しますが、そこに寄稿されている人々の言説なり内容の低さが、とても目に余ってしまうんです」
私「うんうん」
と私は思わず音を漏らして力強くうなづいてしまったが、何とか音量を出来るだけ小さくするのに成功した。
女性「確かに、私もこうして直接お会いしてお話をお聞きするまでは、望月さんの雑誌と、その他の…右系統って言うんですか?それらは同じジャンルのものだと勘違いしていました」
義一「あははは。いえいえ、僕の言葉が足らなかったせいで、ついつい誤解を与えてしまいました。僕たち…というか僕個人でも良いのですが、別に世間一般の方々に、その様な違いを判断して下さいとお願いしたいわけでも無いんです。世の中の大半の方は、まずこういった事に関心を抱かないだろう事は重々承知していますから。
ですけれど…いや、だからこそ、世間の評価を当てに出来ないからこそ、自分たちがきちんと己を律して、言論活動をしなくてはいけないと思うんですね。
こう言うのはまた誤解を受けそうですけれど、もしも世間様で関心が得られないのだとしても、それはゼロでは無いわけですから、哲学思想という形而上の事柄から、政治や経済、社会という形而下の事柄などに関心を持っている少数派の読者の方々のために、むしろ敢えて突き放すと言うかですね、その読者のレベルに合わせるのではなく、せっかく関心を抱いてくれているのだから、そこから底上げと申しましょうか、その少数のレベルを少しでも上げる手助けをする、そしてその読者の皆さんが、自分の身の回りに少しでも広げていって頂ければ、そこまで出来たら万々歳と、とまぁ随分と曖昧にして雑な話をしてしまいましたが、そう思うんですね」
女性「いえいえ、なるほどですねぇ…」
義一「あはは…あ、ですけれど、繰り返しますが、いわゆる”右陣営”というのは、南京事件があったか無いかだとかに代表される反中国、慰安婦がどうのとかという反韓国、拉致がどうのなどの反朝鮮、それ以外は国内のいわゆる”左陣営”に対して批判だけする反左翼…とまぁ、こういってはなんですが、普段から何も考えなくても分かる程度の内容しかですね、雑誌の中で論評しないんですね。
別にするなとは言いませんよ?勿論それらは相手陣営の方が間違っているので、それを批判しても良いんですが…ただ批判して、それだけで、まるで自己懐疑が微塵も見られないのに憤ってるわけです。
彼ら右陣営はよく、『日本が大事。日本の伝統文化が大事。日本人は世界に誇る民族性だ』などと良く口にするのですが、自分が自信を持てることに対して誇りを持っていても、それを恥や照れの感情が強い民族であるために表に出さないというのが、ある種最も日本人らしい態度だと思うのですが、それとは全く真逆の自己礼賛、自分たちを褒めるのに熱くなってる様な右陣営の彼らの姿が、あまりにも、その矛盾に気がついてもいない点でも気持ち悪い…っと、ついつい熱くなってしまい、先ほどにも話したことを繰り返し話してしまいましたが、話は…ふふ、敗北主義についてでしたよね?」
女性「ふふふ、そうです」
私・絵里「(笑)」
義一「ふふ、すみません。ついつい脱線してしまうんですよ。…さて、まぁ今申し上げた様なことを大学生だった僕も、神谷さんにぶつけたんですね。『あんな記事を堂々と書いて、あれで知識人と言えるんですか?』と。
その流れですね、続けて言ったんです。
『国内の左翼にしても、右陣営の自称保守と自称している言論人は、ほとんど全員が本音では〈いざとなったら、日本はアメリカに依存すれば良い。アメリカ人が日本を守ってくれるだろう〉と思い込んでるって事ですよね?あの連中は左右問わず駄目だと思います。彼らは敗戦後、延々と表面的な誤魔化しの議論ばかりやってきた、”敗北主義者”に過ぎないと思うのですが』と」
女性・私・絵里「あー…」
…なるほど
女性「なるほど…それがまず、一つ目の敗北主義の意味なのですね?」
義一「はい、僕の思うところの第一がこれでした。
と、この様に申し上げましたところ、神谷さんはウンウンと頷いておられて、僕の話した内容にも大部分は賛成して同意してくださったんですが、ただ一点…そう、僕が言った、”敗北主義”にだけ待ったをくれたんです。
こう反論を下さいました。
『日本の左翼と反左翼が全く駄目な連中だというのは、君が言う通りだけれど、敗北主義自体を貶すのは良くないなぁ。敗北主義は大切な考え方なんだよ?私はいつも、今出している雑誌や言論などの諸々を含めて、いつも負ける事をハナから承知で仕事をしているんだ』と」
私「あー…」
女性「なるほど…それが二つ目と」
義一「えぇ、その通りです。まぁ当時の僕は、慌てて
『いえいえ、先生の敗北主義は別ですよ。左翼や反左翼の安易な敗北主義者どもとは、そもそも先生は思考力のレベルが違いますから』
と安易な返しをしてしまいましたが、しかし、神谷さんの言葉を受けて、僕も同じ様な『正しい敗北主義者になろう』って決意したんです」
私「…あー」
と私はすぐに何を義一が話そうとしているのか察して、特にこれといった意味の無い声を漏らした。
女性・絵里「”正しい敗北主義者”…」
義一「えぇ。これも是非御社の紙面に出来たら載せて頂きたいと思いますが、私が長年に渡って私淑してきた神谷さんという方は、当時の僕に話してくれた通り、今に至るまで”正しい敗北主義”の実践者でした。
負けると分かり切っている闘いに挑み、当然の結末としてその闘いに負けると、その”敗北行為”に哲学的、倫理的、そして宗教的な意義を認める方なんです。
神谷さん本人は、言論という公の場でもそうでしたが、僕たち相手のプライベートな場でも、宗教を嫌う節を隠そうとはせずに表明していましたが、それにも関わらずその生き方には、常に宗教家的な情熱と、宗教家的な使命感が存在している様に見受けられたんです。
それは今も変わらずです。
『勝っても負けても、やるべきことはやるべきだ』。勝敗の計算と価値規範を維持する問題は、全くの別の次元の問題と受け止められておられて、誰からも、少なくとも大勢からは無視されるという敗北を最初から分かっていても、何度も自己懐疑を忘れずに考え考え、自分の能力内では限界まで考え抜いても、やはりおかしいと結論が出た事には批判するという”正しい言論”をなすべきだと、これがまぁ僕の言う意味での”宗教家的な情熱”と成るわけです…って、また長々と、質問の答えになっている様な、なってない様なことを話してしまいました」
女性「あ、いえいえ。…ふふ、先ほどのお話を含めて、とても興味深くお伺いしていました」
義一「あ、いやぁ…ふふ、ありがとうございます。で、ですね、ここでついでとはなんですが、調子に乗って、敗北主義について、とある人物が言った言葉を引用してみたいと思いますが…良いですかね?」
女性「ふふ、どうぞどうぞ。是非お願いします」
義一「そうですか?では遠慮せず…コホン、その人物は、我々の雑誌の中では、数少ない真正保守思想家の一人と見ています、哲学者にして、雑誌の読者の方々に興味を持たれそうな枕を振れば、ノーベル文学賞を受賞した詩人であったトマス・スターンズ・エリオット、通称T・S・エリオットという方がいまして、彼も神谷さんや私などと同じ様な意味合いの事を話していまして、この様に表現していました。
”We fight for lost cause because we know that our defeat and dismay may be the preface to our successors’ victory, though that victory itself will be temporary; we fight rather to keep something alive than in the expectation that anything will triumph.”と」
私「…うん」
と、私は今義一が触れたエリオットの言葉を知っていたので、またしても思わず一人で声を漏らしてしまった。
勿論、今いるここ宝箱内で、女性記者が質問したのとは私のは違っていたが、似た様なその質問に答える形で、敗北主義に関わる話を以前に、やはり今回同様にエリオットの言葉を織り交ぜつつ話してくれたのが最初で、それ以降は実際にそれが書いてある原文を貸してくれたので、それを読んだのが二度目だった。
義一「これを和訳しますとこうなります。
『我々が”lost cause”、つまり失われた倫理や大義、敗北した価値規範の為に闘うのは、我々の敗北が次の世代の勝利に繋がるかも知れないからである。
しかし我々の後継者の勝利も、一時的なものに過ぎないだろう。
我々が闘い続けるのは”something”、つまりはある特定の価値規範や文化を生かしておくためであり、勝利を期待しての行為ではない』」
私「うん…」
絵里「あー…」
女性「あぁ、なるほど…」
義一「つまりエリオットは、負け続けても闘うべきだと。質の高い正統的、古典的な価値規範と、文化、人間の精神を守るために、たとえ敗北を予期しても闘い続けるべきだと言ってるんですね。
この意見に、勿論僕は全面的に大賛成なんです。
で、ですね、ここからようやく本来の質問に答えられる段階に来ました。
というのも、まさか同じとまでは不敬にも程があると、神谷さんが顧問をされていた時とは違って、今僕が編集長をしてる段階でという意味で思うのですが、エリオットはですね、実は1922年から1939年という比較的短い間でしたが、自身が主催して『クライテリオン』という雑誌を出していました。
この雑誌は季刊誌というスローペースの出版速度でしたが、小説『1984年 』で有名なジョージ・オーウェルが『最も知的レベルが高い言論誌』と称した事でも有名でして、実際に当時に限らず、今の水準から見ても、西洋の言論界で最高の季刊誌でした。
ですが、この雑誌は最盛期でもたった八百人の定期購読者しかいなかったんです」
絵里「へぇー」
女性「へぇ…それはまた、随分と少ないですね」
義一「えぇ、そうなんです。当時から詩人としてだけではなく、批評家、思想家としても高名なエリオットでしたが、十七年間も自分は無給で延々と長時間の編集と執筆の仕事を続けてきたのですが、この雑誌は結局一度も黒字になることがありませんでした」
絵里「…そりゃあ、定期購読者がたった八百人じゃあ…ねぇ…」
女性「それはまた…凄い話ですね」
義一「…ふふ、まぁですから、先ほど長めにエリオットの言葉を引用しましたが、自身が実際にストイックな態度で”正しい敗北主義”を実践して見せた彼の”Faith”つまり”Transcendental”、卓越した、超自然的な、超越的な価値に対する忠誠心を生涯通して体現して見せたからこそ、説得力も一入でありまして、付け加えれば、そのエリオットと同じ次元で実践して来られたのが、しつこい様ですが、神谷さんだと私個人は思うんです」
女性「なるほど…」
義一「ふふ、こう話している中で、また一つ思い出してしまいましたが、エリオットが友人たちに話していた言葉があります。
”For us, there is only the trying. The rest is not our business”と。
これも和訳しますと、
『我々に必要なのは、試みる、つまりは努力をし続ける事だけだ。その結果がどうなるのか、そんな事は我々の関心ごとではない』
と、これはかなりの意訳ですが、内容としてはこの様な事を述べていまして、ここでようやく僕からの質問の答えとなりますが、エリオットなり、そして神谷さんをお手本にしつつ、今年から編集長を拝命する事となった雑誌オーソドックスも、今の時代の中で『高次元での”正しい敗北主義”』を貫く言論誌として、あり続けたいと思います」
「それでは、お邪魔しました」
と女性記者が宝箱の出入り口付近で頭を下げてきたので、「あ、いえ…」と私と絵里も椅子から腰を上げてペコっと小さくお辞儀を返した。
「じゃあ、ちょっと待っててね?」
と義一は先に女性を行かせて、私たちに声をかけると、
玄関まで見送るというので宝箱を出て行った。
と、この時初めて、何だか義一の姿に違和感を覚えたのだが、すぐに廊下の暗がりの中に溶けてしまったので、後でで良いかと私たちは、ストっと椅子に座り、少しの間はお互いに一言も発しないまま、なんとなく先程まで義一と女性のいた辺りを眺めていた。
と、先ほどまでの情景を思い浮かべていた私は、ふと、女性が義一に向ける顔つきを思い出していた。
というのも、なんだかとても印象に残っていたからだ。
何故なら、これは私の思い込みによる色眼鏡越しが見せた錯覚なのかも知れないが、一口に言って、義一に向ける彼女の目がギラギラしている様に見えて、また顔も若干上気しているようにも見えたのだ。
それだけ義一の話を真面目に、自分でも頭を使いながら聞いた故の上気した顔だったのかも知れないが、この件について絵里に振ろうかと思ったその時、ふと絵里に話を振られたので出鼻を挫かれてしまった。
「…いやぁ、驚いたねぇ。まさか、私たちとの約束の前に、取材を受ける仕事が入っていただなんて」
「ふふ、そうだね」
と、内心はさっき頭に浮かんだことで占められていたが、別に絶対に振りたい話題でも無かったので、ひとまず絵里に乗ることにした。
「でもなぁ…ふふ、随分な物好きもいたもんだねぇ」
と絵里は今度はニヤケながら続ける。
「あんな変人を取材したって、普通の人からしたら面白くもなんともないだろうにねぇ…。そもそも、何を言ってるのかワケが分からないだろうに…」
「…ふふ」
と私は思わず笑みを零してしまったのだが、これは何も、普段通りの絵里の乱暴な物言いに対してだけではなかった。
というのも、何だかそれまで緊張していたのに、その原因が勘違いによる気苦労だと分かったために、ホッとして、その緊張の時に生じた余剰のエネルギーを発散するかの如くにテンションも若干上がってる様に見えたからだった。
…ふふ、その緊張の原因がなんだったのかまでは、ここでは敢えて触れないでおく事としよう。
その代わりに、私は笑みを零した直後、ニヤケつつ声をかけた。
「でも絵里さんは、確かに驚いてたねぇ…ふふ、玄関で見知らぬ女モノの靴を見た時から」
「…えっ!?あ、あぁ…って、いやいやいやいや!」
と絵里はすぐには何を言われたのか把握してない様子だったが、気づいた途端に、アタフタと慌てつつ、顔の前辺りで片手を激しく左右に振って見せつつ言った。
「な、な、何言ってるの琴音ちゃん!?」
「えー?別に、ただ見たまんまに、そう思ったって事を言っただけだけれどー?」
と私はここぞとばかりに素っ惚けて見せると、「やれやれ、この子ったら…」と絵里が苦々しい笑みを顔に浮かべ始めたその時、
「何をそんなに盛り上がってるんだい?」
と呑気な声色で義一が宝箱に戻って来た。その両手には見慣れた茶器の乗ったおぼんを持っている。
「あ、義一さん、おかえりー。えぇっとねぇ…」
と私が答えようとしたその瞬間、絵里がバッと私の顔を遮る様に片手を被せて来た。
そんな突然の奇行にキョトンとする義一を他所に、「あ、あのね、え、えぇっと…」と、ここでようやく自分がただ勢い任せに行動を取ってしまった事に気付いたらしく、絵里は口籠ってしまった。
「な、なんだよ…?」
と義一も流石に苦笑するのみだったが、絵里はというと、「もーう…」と、やはり同じ様に苦笑いを浮かべつつ、私に一度声を掛けた後、また顔を義一に向けると、私の前から手を退かしつつ答えた。
「別になんでもないよ。…ってかギーさん、なんか変に戻ってくるの遅くなかったー?もしかして…さっきの美人な記者さんのこと、口説いていたんじゃないでしょうね?」
「…っぷ」
と、先ほどまでのやり取りがあったせいか、余計に面白味が増して、ついつい吹き出してしまったが、義一はというと、私とは違った意味で同じ様に吹き出していた。
「な、何を言ってるんだよ全く…ほら」
と、義一はまた苦笑に戻ると、テーブルの上におぼんから茶器、そして、お皿に盛られた、私たちで買って来たケーキセットを置いていった。
「あの記者さんを見送った後で、こうしてお茶の準備をして来たんじゃないか。…はい」
と溜息交じりに言う義一の言葉に、とうとう我慢の限界がきてしまった。
「あははは」
とまた吹き出すと、今度はそのまま自然のままに笑い声を上げた私を見た後で、義一と絵里はお互いに顔を見合わせていたが、どちらからともなくクスッと笑うと、それからは私に混じって一緒になって笑うのだった。
「さっきの記者さんは、一体なんの取材で来たの?」
と、早速私の分のカップに紅茶を注ぎ入れてくれる義一に声をかけると、「うん、あれはねぇ…」と義一は、私の分が終わったので、次に絵里の分に注ぎ入れながら答えた。
「ふふ、本当かどうかは、全く実感も無いし分からないけれど、取材の交渉時点や、今日も同じ様に話を聞いた限りでは、んー…ふふ、どうやらね、僕たちの雑誌が業界内で噂になっているって言うんだ。新しい潮流が生まれたとか何とかってね」
「へぇー、そうなんだ」
と、私、それに絵里も一緒になって相槌を打った。
「はい、ご苦労様。ありがとねー」
と絵里が声をかけると、「いーえー」と注ぎ入れ終わった義一も悪戯っぽく笑いながら返すと、最後に自分の分ってことで、椅子に座りながら注ぎ入れつつ続けて言った。
「…ふふ、『新しい潮流』って言ってたけれど…この雑誌自体は、もう創刊して二十年くらいは経っているんだけれどもねぇ。…内容も、根っこの部分では一貫して変わってないんだけれど」
と、最後に納得がいっていない様な、そんな寂しげな笑みを漏らす義一の表情を見て、私は私で、ふとよく立ち寄る大型な本屋の棚を思い出していた。
確かに、いや、その記者なり取材を申し込んできた人がどの程度の考えの元で言ったか知らないが、少なくとも、私は私なりに、それなりに雑誌オーソドックスが売れて…るかどうかはともかくとして、少なくとも世間に存在が認知されて来てる向きは見えると感じる時があった。
というのも、そもそもこの雑誌オーソドックスというのは、普通の一般的な本屋ではまず見かけた事が無かったし、その為に、初めて数奇屋で雑誌を見せて貰っても、これは本人たちもそう自覚してるからといって言っていい事にはならないのだが、それでも言うと、ズバリ言えば見た事が無かったのは勿論のこと、如何にも低予算で作られてるのが丸分かりな、ページ数こそあっても全体的に紙自体がペラペラな安っぽさの方が目に付くレベルの代物で、それは今現在も変わらないのだが、今年もそう…うん、私が中学三年生に上がるか上がらないかといった頃くらいから、行きつけの本屋で言えば本棚の一番端っこにチョコンと置かれたことから始まり、徐々に”売れ線”の雑誌が集まる方へ、場所も広げつつ売り場が移動していくのが分かったのだ。
これは明らかに、義一が今現在係り合ってる例の問題である、FTA交渉反対の急先鋒へとなってしまった影響が大きい様だった。
ほんの数回ほどの出演だったが、関西方面の情報番組にFTAの専門家ってことで呼ばれて、この専門家というので義一は苦笑いしっぱなしの出演となっていたがソレだったり、勿論話の中でも触れた様に、全国ネットのゴールデンタイム放送の政治番組に出場したのが、一番義一の知名度を上げる結果となったのは言うまでもないだろう。
それと勿論…ふふ、これは義一は勿論、気持ちが若干わかるという意味で、私自身この話題は避けたいところなのだが、まぁ言ってしまうと…うん、やはり義一のルックスの良さが、その影響に拍車をかけている様だった。
それは、ladies dayの中で、絵里が見せてくれた例の、義一が表紙を飾ったビジネス誌が、異例の売れ行きを見せた事からも、まぁ分かる…だろう。
…とまぁ、こんな話はこれ以上はやめにして、繰り返し言えば、良かれ悪しかれ確かにオーソドックスが徐々に注目を集めて来てるのはその通りの様だったが、先ほどの本屋で見た件をもう少し掘り下げると、やはり義一ではないが、私も同じ思いで苦笑いを浮かべざるを得なかった。
というのも、今日に限らないし、今さっき義一が女性記者に話した内容と重複するが、本屋でオーソドックスが置かれていた場所というのが、世間一般に言われる”右”と称されるその他の雑誌群に挟まれていたからだった。
女性記者自身も正直に話してくれていた様に、いわゆる”右”と、義一達の様な”保守”というのは、根本的な所で全く交わり合う事のない真逆な概念なのだが、それを一切と言って良い程に認知されていないばかりに、一括りにされてしまい、その様な販売の仕方となっていた。
しかしまぁ、これは本屋だとか、先ほどの女性記者を始めとする世間一般の人を責めるのはお門違いも良いところだろう。
…いや、勿論、言論活動を支えているはずの出版界が分かっていないのは問題だとは思うが、今はこの問題をこれ以上掘り下げるのは止すとして、取り敢えず言えるのは、義一含むオーソドックスの面々は、今のその様な状況を、ただ複雑な心境で眺めているだろうという事だ。
なんせ…ふふ、先程来しつこく触れてきてる様に、雑誌の中身としては、左翼への批判などはほんの少しで、それ以外の殆どを、右系統の雑誌そのものや、そこに寄稿してる反左翼、反中国、反南北朝鮮ってだけの言説しか書かない、読者の知的貧困化を加速させている、戦後の右翼に対しての批判が延々となされているのだから。
「…あ、そういえば。…あ、いやぁ…」
と、自分のカップに紅茶を注ぎ終えて、ポットをテーブルの上に戻した途端に、義一は何かを思い出した様子を見せたが、次の瞬間には、私と絵里の顔をマジマジと見た後で、一人勝手に照れて見せて口を閉ざしてしまうのを見て、焦ったく感じた私が声をかけた。
「もーう、一体なんなの?」
「そうよー」
と絵里も続く。
「何をそんなに勿体ぶってるの?可愛くないぞー?」
と言い終えた途端に、絵里が目をぎゅっと瞑って見せると、「別に可愛いアピールではないんだけれど…」と馬鹿正直な反応を返した義一だったが、クスッと小さく笑うと、観念した風な顔つきで言った。
「はぁ、まぁ仕方ないか…思い出しちゃったものは、しょうがないし、それに…ふふ、君ら二人に言われたばかりだもんね。『私たちが驚く前に、まず事前に教えておいてよ』って」
「…ん?どういう事?」
と私が聞き返すと、「そんな事確かに言ったけど…それが何?」とまた絵里が続いた。
すると、義一は余計に照れてしまったが、しかしそのままの状態で口を開いた。
「まぁ…うん、なんか…ね?ほら、こないだ何の間違いか知らないけれど、例の雑誌で僕の写真が表紙になっちゃった…でしょ?」
「えぇ」「うん」
「ふふ、それを見た女性向けファッション誌編集部の方から連絡が入ってね?初めはただの取材って話だったんだけれど…うん、今度はその雑誌で表紙を飾る事になってしまったんだ」
と続けて言った雑誌の名前は、この手のものに疎い私ですら知ってる女性ファッション雑誌だった。
主に二十代から三十代前半までを客層として狙っているらしいが、これを紫たちが学園に持ってきていたのを見た事があったので、それで知っていたのだ。
…ふふ、細かい話だが、当然校則違反だ。それを学級委員長となった今でも、堂々と持ってきてるのがミソだ。
…って、そんな事はともかく
「へぇー、私もそれ知ってる。そうなんだ」
と私が返したのだが、それと時を同じくして、「えぇー」と絵里がぼやき声で被せてきた。
「ギーさん、まーたそんな雑誌の表紙なんかを飾っちゃうのー?しかも…ふふ、私も普段読んでるヤツじゃん」
…あ、そうだったわ
と、絵里の部屋にあるのを見た事があったなと、言ってはなんだがそんな風にどうでも良い確認を頭の中でしていると、「まぁ…ねぇ…」と溜息交じりに義一が返すので、私はニンマリと笑いながら声をかけた。
「ふふ…って、またそのパターンなのね?こないだのビジネス誌だって、そんな風に言ってたけれど、実は表紙撮影の話を聞いていたのに、ただ単純にあなたが忘れてたってオチだったじゃない?」
「んー…ふふ、まぁ…そうなんだけれどさぁ」
と義一はますます苦笑度合いを強める。
「今回ばかりは『まさか…』って思ったからねぇ。…だって、僕が…こんな僕が、女性誌、しかもファッション誌の表紙だよ?そんな話を聞いたって、聞き間違いかと思って本気にしないでしょ?…ふふ、絵里が言ったのに同意するのは嫌だけれどね」
「ちょっとー、それはどういう意味よー?」
とブー垂れつつ絵里は返したが、その表情は保つことが出来ずに、結局は笑顔になっていた。
「…あ、だからかぁ」
と私はふと、先程も匂わせた通り、実はここまでずっと気付いていたのだが、それを今口にしてみる事にした。
「今日の義一さんが、ジャケットをキチンと着ているのは」
「…え?」
と義一が何かを聞き返そうとしたその時、絵里に遮られてしまった。
「あー、確かにー。…ふふ、普段は服装には一切気を付けないというのが丸分かりな、カジュアル過ぎるカジュアルな服装しか着ないというのに、今日はカジュアルとは言っても、カジュアルスーツだもんね」
とニヤケつつ言った。
…そう、ここまで中々触れられるタイミングが無かったが、今絵里が言ってくれた様に、今日の義一は、家の中だというのに、普段を知ってる私たちからすると信じられないが、”綺麗な服装”をしていた。
…あ、いや、別に普段が不潔というわけではない。それなりにというか、むしろ清潔感には事欠かなかったが、逆に言えば清潔感くらいしか褒めるところの無い服装ばかりを着ていたので、こうして取り上げざるを得ないのだ。
流石というか、私基準からすれば、絵里はかなり身なり服装に気を遣うタイプだと思っているが、その絵里が言うのなら、恐らく今義一が身に付けているのが”カジュアルスーツ ”というので正しいのだろう。
義一は色はネイビーのウィンドウペンチェック柄のジャケットに、インナーは白無地のVネックシャツ、下はライトベージュのパンツを履いていた。
カジュアルスーツと言うくらいだから、確かに普通のスーツとは上下を揃えてない時点でフォーマルとは程遠いのだが、しかしまぁ普段を知ってるだけに、これで十分に頑張った形跡は認められた。
…ふふ、ついでに言わせて貰うが、先程の女性記者が身に付けていたのも”カジュアルスーツ ”と触れたが、絵里から聞いた後だったから都合よく表現出来たのだと、ネタバラシをしておこう。
「あ、あぁ…ふふ、これはね?」
と義一は自分のジャケットに手を触れつつ言った。
「いやぁ…これも例によってというか、事前にね、雑誌の中で使う一、二枚くらいのちょっとした写真撮影をしたいって言うんで、それでジャケットを着てくださいって頼まれたから…仕方なくね」
「ふふ、そうなんだ」
と私が合いの手を入れると、「確かにねぇ」と絵里はというと、宝箱をぐるっと見渡しながら言った。
「この部屋の雰囲気は、”如何にも”って感じだもんねぇ。壁一面が本で占められてるし、それを背後に写真撮れば良い絵が撮れそうだもん」
「ふふ、うん、あの記者さんも『やっぱり良いですね』って言ってたよ」
と義一も笑顔で返す。
「何でもね、彼女は勿論初めてここに来たんだけれど、その前にね、僕らの雑誌を幾つか読んでくれたらしいんだ。でね、その中で、一応編集長の挨拶として僕の写真が出てるでしょ?」
「えぇ」「うん」
「その写真は、二人とも知ってるように、ここ宝箱で本の壁を背景に写真を撮ったんだけれど、それを見た彼女が『良い』って思ってくれたらしくて、本当は別の場所で改めて写真を撮りたかったらしいんだけれど、でもまぁここで良いって事になって、僕としては、一々別の場所に移動しなくて済んだから、それだけでも良しとしたんだよ」
「なるほどねぇ」
と私たち二人で返すと、義一も和やかな笑みを浮かべていたのだが、ふと一瞬にして苦笑いに変化をさせると言った。
「だからまぁ…ふふ、そのうちファッション誌が出ちゃうかも知れないけれど…二人とも、それは買わなくて良いから…ね?」
「…」
と私と絵里は顔を見合わせたが、しかしここでも考えていた事が共通していたらしく、クスッとお互いに微笑み合うと、次の瞬間には悪戯小僧よろしい笑顔を浮かべて義一に言った。
「いやいや、それは”フリ”でしょー?仕方ないなぁ…そこまで頼まれたら、買ってあげなくちゃいけないじゃない」
と絵里が言い、「そうねぇ」と私もそれに乗っかると、
「おいおい、勘弁してくれよ…」
と参り顔で笑う義一を見て、私と絵里はまた笑い合うのだった。
と、この流れの中で、ふと、先程の取材の光景をまた思い出した私は、そのまま思い出し笑いをしながら口を開いた。
「…ふふ、からかってゴメンね?…望月先生?」
「…あ」
と義一がハッとして返そうとしたその時、やはりというかまたしても笑い声に遮られてしまった。
「あはは、そういえば”先生呼び”されてたねぇー?ギーさ…あ、いや、望月先生だった」
「いやぁ…変なところを見られちゃったなぁ…」
と、もう返す言葉も無いといった様子で、ただただ普段よりこれまた綺麗に纏めている長髪の上から、ポリポリと頭を掻きつつ言った。
「…はい、この話はもう終わり。…ふふ、そろそろ飲まないと紅茶が冷めちゃうよ?」
満足した私と絵里は、素直に義一の提案にのり、早速恒例と各々が紅茶の入ったカップを手に持った。
「ではえぇっと…ギーさんの、ファッション誌の表紙を飾ったのを記念して…」
と絵里が勿体ぶった口調で言うと、「ふふ、まだそれ言うのかい」と義一は苦笑交じりに突っ込んだが、今度は途端に悪戯っぽく笑ったかと思うと返した。
「乾杯の大義を言うなら、それだったら絵里、君だろ?」
とここまで言うと一度口を止めて、自分のカップを絵里の方に持っていってから微笑みつつ続けた。
「改めて…師範試験合格おめでとう、絵里」
「え、あ、う、うん…」
と、義一の言葉はどうやら想定外だったらしく、さっきまでのニヤケ顔は何処へやら、あからさまに照れのあまりに挙動不審になっているその様子を、微笑ましく眺めながら、考えてみたら個々人ではしていても、私たち三人が集まっては、まだお祝いの言葉を掛けていなかったのに気付いた私も、義一に続けと、
「絵里さんおめでとう」
と言ったそのままの勢いに任せて、「かんぱーい」と言いながらカップをテーブル中央に突き出すと、「かんぱーい」と義一も合わせてくれた。
そんな私たちの態度に驚きのあまりに咄嗟には対応出来ていなかったが、「あ、ありがとう…」と小声で照れ臭げに呟いたその直後には、明るい笑顔を浮かべると高らかに言った。
「ふふ、かんぱーい!」
乾杯をし合って、それぞれが一口ずつ飲み終えると、早速絵里の日舞師範試験合格関連の話に入っていった。
勿論私から提供したのは、お母さんが絵里の師範合格を最近知ってから、我が家の食卓の話題がそれで持ちきりになった事だった。
「そういえば…」
と絵里が買ってくれたケーキを食べつつ、義一が口を開いた。
「絵里のその、師範になったって事での、お披露目会
っていうのは、それはいつになったの?前は七月中のどこかって言ってたけれど」
「あ、えぇっとねぇ…」
と絵里が早速頭の中のスケジュール帳を浚う中、
「あ、そういえば、お母さんも気になるって言ってたわ」
と私も口を挟んだ。
…ある意味確認のために一応触れるのだが、そう、絵里が師範になったというお披露目の舞の会には、当然門下生である私のお母さんも観に行くのだが、それと同時に、義一も直接絵里の舞を見に行く予定となっていた。
…勿論、出来たら二人が鉢合うのだけは避けたいというのが、私たち三人に共通した考えではあったが、恐らくこの中で私が一番、別にそれならそれで、仕方ないというか、その時はその時だと、妙に楽観視していた。
その理由については、既に触れたところなので、現時点でクドイだろうし、この辺りで終えるとしよう。
「んー…っと、あ、そうだ」
とようやく思い出したらしい絵里が口を開いた。
「今ギーさんが言った通り、本当は七月の予定だったんだけど、私の流派以外の方々との調整が難しくてね、それで八月に大方決まったわ」
「八月かぁー…」
と絵里の言葉に私と義一で反応したが、義一はともかく私としては、
あ…八月だったら、取り敢えず七月末の裕美の大会は、間違いなく観に行けるわね
と、まだ絵里の具体的…って、今も別に具体的では無いが、それでも少なくとも七月中では無いとだけ確認が取れた時点でホッとしたのだった。
それから暫くは、日舞の話で盛り上がったのだが、それも大体落ち着いてくると、また私がふとあることを思い出して、頭に湧いたそのままに口に出した。
「そういえば、急に話が変わるようだけれど…絵里さんって、私の師匠と、あのコンクール以来、まだ一度も会ってなかったんだね?」
ついさっきまで、絵里が父親を含む他の師匠との思い出話をしてくれていたので、それで私の師匠のことを思い出してしまったのだろう、この間の数機屋での一時を思い起こしていた。
義一は黙ってケーキを食べつつ、私たちを見守る中、「あ、あぁー」と絵里は何故かバツが悪そうな笑顔を見せたので、特に微妙な話題でも無かっただろうに、ただの世間話のつもりで振った私は、不思議に思うのと同時に呆気に取られてしまったが、その気配を感じたのか、絵里は慌てて笑顔を繕いつつ口を開いた。
「ま、まぁねぇ…あれからさ、コンクールからあなたの師匠である沙恵さんのことをネットで検索したら、たくさん動画なりを見たんだけれど」
「へぇ…」
と、何だか私の質問というか振った話と、合ってるようで合ってない気がしたために、このようなしっくりいっていないのが分かる態度で返してしまったが、しかしよくよく考えてみると、それだけ自分の師匠に興味を持ってくれたのかという単純な嬉しさが胸に広がり、そんな細かい事が気にならなくなった私は、そのまま絵里の続きを待った。
絵里は続ける。
「んー…少し話が逸れちゃうけど、一応私も日舞という芸能の世界には身を置いてきたし、それは家柄というのも大きかったけど、元々舞うそれ自体が好きだったというのは、前に話したよね?
うん、それでね、段々成長していくにつれてさ、日舞意外にも興味を持ってね?百合子さんが十代の頃に打ち込んでいた様なロシア色強めのクラシック・バレエなんかも動画とか、実際に生で観たりしてたんだけれど、そのままクラシック音楽全般にまでは手が回らなくてねぇ…今では琴音ちゃんの影響もあって、自分なりに興味を持って聞いてきてるんだけれど…それでもやっぱさ、まだまだ門外漢なのには変わらなかった…うん、変わらなかったのに…さ?」
と、ここまでは静かな表情の中に仄かに笑みを浮かべながら話していたというのに、ここで薄らと表情を明るくすると続けて言った。
「映像でだけれど沙恵さんの演奏を聞いたら、さぁ…ふふ、思いっきり感動しちゃってねぇ?それ以来、何というか…ある種のファンみたいになっちゃってさ、実はそれ以来、ギーさんもそうだって後で知ったけれど、私もね、これはギーさんに教えてもらいながら、何とかリリースされているCDを買い漁ったり実は…してたの」
「え…へぇー」
と、私が意外だと思ったのを前面に押し出す様な態度を示すと、絵里は相変わらずバツが悪そうな笑みは崩さずに続けた。
「だから…うん、何度かね、琴音ちゃんの師匠さんだし、あのコンクールの時や、その後の打ち上げとかでも楽しく一緒に過ごさせてもらったから、何度か一度お誘いしようかと思いはしたんだけれども…ねぇ」
「…あー」
それなら納得と、私が合いの手を入れようとしたその時、
「あー、確かにねぇ」
とここで不意に義一が口を挟んだ。
「絵里が今言ってくれたけれど、僕も…これは琴音ちゃん、君も知っての通り、君の師匠である君塚さんの、数枚くらいとリリースした数は少ないけれど欧州で出していた、バイオリンとチェロとの室内楽のCDを全部持ってるくらいにはファンだったからねぇ…ふふ、僕もあの時、初対面の絵里の先輩である有希さんと一緒に連絡先を交換し合ったけれど、まだあれから一度も連絡出来てないんだ。本当は数寄屋へ足を運んでくれたお礼を、改めて言いたかったんだけれども、なんか…緊張しちゃってねぇ。…ふふ、有希さんにはすぐに連絡したんだけれど」
と子供のように義一が笑うと、
「へぇー、そうなんだ」と特に意味のない相槌を入れつつ私は笑顔を浮かべたのだが、これより少し前、義一の口から師匠の名前が出た時、絵里の体がピクッと本当に小さくだが動いたのが気になっていた。
それから義一の話を聞きながらも、意識の半分くらいは絵里に向けていたのだが、その顔は笑みを浮かべつつも、どこか緊張の色が見えるようだった。
…まぁ、気のせいかも知れないけれど。
それよりも、義一のフォローというか、話によって、絵里の言った理由にますます納得を深めはしたのだった。
…と、ここでもしかしたら『この場合があるけれど、それはどうなんだ?』という疑問を覚えた方がおられるかも知れないので、それは絵里に変わって説明してみようと思う。
というのは、『琴音の師匠で緊張するなら、じゃあ何で、あれだけファンだと言っていた百合子とは、ladies dayなんていう女子会メンバーとして仲良く頻繁に会っているのか?』というものだ。
答えとしてはおさらいの為も込めて極々単純だが話すと、そもそも絵里は去年の秋に私に誘われて、マサが脚本の劇を観に行ったその時に、十年以上音信不通となっていた高校時代の先輩である有希との再会を果たしたわけだったが、そこで当然有希以外のもう一人の主演女優だった、百合子と知り合ったのだった。
それからはアレよアレよと有希との間に昔と同じ親密な空気が流れ始めたのだが、その流れで有希が、自分が慕っている芸で言って先輩の百合子と絵里の二人を、改めて引き合わせたという経緯があった。
…そう、ここから何が言いたいのか…というより、何故私が絵里の言葉で、師匠になかなか連絡が入れられなかったのかの理由を察したのかというと、百合子の場合は有希という仲介者がいたのだが、師匠に対しては仲介者がいなかったので、そんな簡単にはいかなかったという事なのだろう。
…ふふ、それでいうと、本来仲介者になるべきは、私だったはずで、その事実に今更ながら気付いた私は私で、表面には出さずともそれなりにバツが悪い思いをしていたのもあって、これ以上の追求はしないで終えたのだった。
「あはは、私も先輩から聞いたよー?」と、私が合いの手を入れてすぐに、不意にそれまで見せていたバツの悪さ加減は消え失せて、すっかり明るい笑顔を見せる絵里が口を挟んだ。
「”色男”からお礼の連絡を貰ったって。…ふふ、そんなところも、色男だって褒めてたよ」
「…ふふ、まったく、まずその”色男”っていうのは何なんだよ?僕とは程遠いあだ名だと思うんだけれど…」
と義一が呆れながらも笑いつつ言うと、含み笑いを浮かべつつ絵里が返す。
「知らないわよぉ。勝手に先輩が勘違いして、ずっとギーさんの事を色男っていうのが定着しちゃってるんだから」
「まったく…ふふ、こないだなんか、君たちで何か会を作ってるらしいけれど、そのメンバーの美保子さんと百合子さんにまで、何かのきっかけに言われたよ。『色男』って」
「あはは」
「あ、そうなんだ」
と、それまで二人の会話を楽しみながら眺めていた私が合いの手を入れたのだが、ふとここで、やはりこれだけは聞いておかなくちゃと身勝手な思いのままに、続けて質問してみることにした。
「そっかぁ…ふふ、でもまた、何で私の師匠のファンになっていただなんて、今まで教えてくれなかったの?」
「へ?えぇっと…」
と絵里は気の抜ける様な声を漏らすと、途端に口籠った。そしてこれは不思議なのだが、顔は私に向けつつも、視線は何故かチラチラと義一に流すのだった。
「そ、それは…あっ」
と、ここで不意に何か思い付いたかのような表情を浮かべると、笑顔を作りつつ声の調子も無理やり感ありありな上がり調子で言った。
「そ、それはさぁ…ほ、ほら、琴音ちゃんって、褒められるの苦手じゃない?だから、その…ふふ、師匠さんに対しても、露骨に褒めるというか、それは遠慮してたのよ」
「えぇー?」
と私は、絵里の物言いにまったく納得がいかなかったので、早速突っ込んだ。
「確かにまぁ…ふふ、私が褒められる…うん、まぁ褒められるのが苦手というのは、その…認めるけれど、でもそれは自分に対してだけであって、別に私の周りの親しい人が褒められるのであれば、それは一向に構わないんだけれど」
「あ、いやぁ…そう…だよねぇ?」
と、絵里はタジタジになりつつも苦笑いを浮かべていたが、また何かを思いついた様子を見せると、今度は自然に近い笑顔で言った。
「…てかそもそもさ?私たちの間で、沙恵さんの話自体がこれまであまり出なかったじゃない?だからだと…うん、自分で思うよ。いきなり前置きなく、沙恵さんの話を私からは振りづらいし…」
「…あ」と私が今度は絵里の言葉を受けて、一瞬たじろいでしまった。その理由は既に述べた通りで、絵里の言い分には筋が通っていると、一瞬にして思えた私は、
「それもそうね」
と、それにしたって今見せた態度の急変具合の全てを説明出来てるとは思えなかったが、自分自身にも非があるのは重々分かっていたので、お互い様とここは大人しく引き下がる事にした。
さて、私たちの会話の流れとしては、せっかく数奇屋関連の話が出たというので、私と師匠が先にお暇してから、絵里達がどれくらい数奇屋に残っていたのかという質問を振った。
この質問には、絵里は何の躊躇もなくすぐに答えた。
「百合子さん達よりも先に、私と先輩は帰ったんだけど、そんなに長居はしなかったよ?えぇっと…私たちって、どれくらいいたの?」
と絵里が振ると、「えぇっとねぇ…」と義一は行儀悪くフォークを口に含みながら思い返していたが、そのフォークを口から抜くと答えた。
「僕も細かくは覚えてないけれど、ただ間違いなく日付が変わってはいなかったねぇ」
「ふふ、それくらいは私だって分かってるよ」
と絵里は微笑みながら答えると、また私に顔を戻して言った。
「取り敢えず、あなた達師弟が帰ってから、大体一時間くらいしか残っていなかったはずだよ。次の日が日曜日だった訳だけれど、翌日に私は日舞の仕事が入っていたしね」
「あ、そうだったんだね」
と私が合いの手を入れると、絵里は自然な表情のままに言った。
「その後私は先輩に誘われてね、んー…ふふ、無理やり私を数奇屋まで連れ出しちゃったお詫びって事で、先輩の家にその晩は泊ったんだ」
「へぇー、そうだったんだ」
「うん。…ふふ、それのどこがお詫びになってるのかって、ツッコミたいところではあったんだけど…ね?…」
…と、その後は、そのまま数奇屋の話から、絵里が有希の家に泊った時の話に流れていってしまった。
もう少し私が帰った後で、絵里達がどんな会話なり議論をしていたのか、それを聞きたいという気持ちはあったのだが、とは言っても別に不満ではなく、有希宅で先輩後輩トークがどう繰り広げられていたのか、それを楽しく聞いていた。
こんな話をしているものだから、宝箱内の雰囲気としては女子会さながらとなったが、その中で一人”男子”である義一はというと、これがある意味”義一らしい”と言えば義一らしいと言えるのだろう、気まずそうな顔を一切せずに、またツマラなそうな表情も一切浮かべる事なく、そんな他愛もない私と絵里の”女子トーク”を微笑ましげに眺めているのだった。
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