第9話「甘いキスと偶然の出会い」
9話「甘いキスと偶然の出会い」
「ごめんね………今日突然出勤になって」
玄関のドアを開ける前に、椋は再度花霞に謝った。
昨日が夜勤明けだった椋は、今日は休みのはずだった。そのため、花霞も休みを合わせて取っていたのだが、椋に職場からの緊急招集があり、朝から出勤しなければならなくなったのだ。
警察に勤めると決めた時から、椋には「休みがない時もある」と聞かされていたので、花霞は理解しているつもりだった。
「大丈夫だよ。気にしないで」
「今日はゆっくり過ごしてね」
「ありがとう。椋さん、気を付けてね。無理だけはしないで」
「うん、わかってるよ。いってきます」
椋はいってきますのキスをするために、花霞を抱き寄せた。いつもよりも強引だと感じながらも、花霞は気にせずに目を閉じて彼の唇の感触を待っていた。
すると、ほんのりとミントの香りがする唇を感じた。今日はこう言ったキスを何度されるのだろうか。そう期待しなかったといえば嘘になる。
だが、彼の夢である警察官に戻れたのだ。
そんな仕事のためとなれば、花霞は我慢するしかない。
花霞は短いキスを堪能しようと、彼の感触を最後まで味わおうと思った。しかし、その思いはすぐに裏切られてしまう。
もちろん、良い意味で、だ。
顎を彼に優しく押され、微かに開いた唇の割れ目に椋の舌先が入り込んでくる。ぬるりとした感触で花霞は体が震える。
気持ちいいはずなのに、深いキスをされた瞬間はドキッとしてしまう。それは快感への期待からなのだろうと、今の花霞はわかっていた。
椋の肉厚な舌が花霞の口の中や舌を舐めていき、口の中が彼でいっぱいになる。
彼の動きに翻弄されながらも、花霞は彼の舌の動きを真似るように舌を動かすと、「ん…………」という、甘い吐息が漏れる。うっすらと目を開けると、どうように彼が自分を見ており視線が合うと微笑んだのがわかった。それだけで、体の奥がキュンッとしてしまう。
玄関に不釣り合いな水音が響き、その雰囲気だけでも気分がおかしくなってしまいそうだった。けれど、彼からの深いキスを拒むことなど出来なかった。
むしろ、もっとして欲しいと思ってしまう。
花霞は、自分から唇を押し当ててしまいたくなるのを必死で押さえた。そんな事をすれば彼に「行かないで」と言ってしまいそうだったからだ。
彼からの熱をしばらく与えられるが、それも終わりが来る。
花霞の唇から熱くなった彼の唇が離れていく。
熱を帯びたのは瞳も同じで、とろんとした目で花霞は彼を見つめた。すると、椋は自分がこのようにさせたというのに、困った表情を見せ微笑みながら、花霞を自分の腕に閉じ込めた。
「本当は君とこうやって沢山キスをして過ごすはずだったんだけどな」
「………うん。」
「でも、花霞ちゃんとキスしたから元気になったよ。仕事頑張ってくる。………それと、早めに帰ってくるから」
「うん、待ってるね」
「………続きは夜、ね?」
「…………………うん」
最後の甘い囁きは、花霞の耳元で彼が艶のある声で言うので花霞は、また熱が上がってしまいそうになる。
花霞はコクリと頷くと、椋は「いってきます」と、花霞の頭を撫でて家を出て行った。
ドアが閉まった瞬間。
花霞は一気に体の力が抜けてしまい、ヘナヘナと壁に寄りかかった。
「いなくなる直前にあんなキスはズルいよ………待っている間、切なくなっちゃう。………椋さんのバカ………」
花霞は小さな声で、いなくなった椋へとその言葉を呟いてしまう。
けれど、自分への謝罪と1日一緒に過ごしたかったという気持ちは十分に伝わってきた。
花霞はその気持ちのままに彼の帰りを待とうと決めた。
その日は、彼が帰ってきた時に、ゆっくりと体を休めてくつろげるようにと洗濯や掃除などの家事をして過ごした。
けれど、朝早くから始めたので、昼過ぎにはすぐに終わってしまう。
「んー………気分転換に買い物でも行こうかな」
お腹が空いてきた頃、花霞は散歩がてらに近くのお気に入りのパン屋に向かう事にした。
チーズがゴロゴロと入ったパンとフレンチーストがお気に入りなのだ。それを食べる時を考えるだけでお腹が鳴りそうだった。
花霞はすぐに出掛ける準備を整えると、パン屋へと向かった。
そのパン屋では驚くべき偶然があった。
「あ、蛍くん?」
「花霞さん………!」
花霞がそのパン屋に入ると、そこには蛍がいた。今日もモノトーンコーデの彼だったが、いつもと雰囲気が違っていた。眼鏡をしているのだ。黒のフレームの細身の眼鏡がとてもよく似合っていた。若い男性で、目を惹く彼は驚きながら花霞に近づいてきた。その途端に周りの女性たちが花霞に視線を注いだ気がして、思わずたじろいでしまった。
「花霞さん。偶然ですね」
「そうですね。蛍くんもお休みなんですか?」
「はい。初めて入ったパン屋さんなんですけど、どれも美味しそうで迷ってました」
「ここのパンはおいしいよ」
「そうなんですか!それは楽しみです」
蛍と花霞はそれぞれにパンを選んでから店を出た。蛍は気になるものが多すぎたのか、大きめの袋に入ったパンを嬉しそうに持っていた。
「沢山買いましたね」
「はい!今からから楽しみです…………。あの、花霞さん。お昼御飯はまだですか?」
「まだですよ」
「………花霞がよかったら………公園で一緒に食べませんか?お話したいこともあるので」
蛍の提案に、花霞は迷ってしまった。
公園でパンというのも、涼しくなってきた今はとても楽しそうだとは思う。けれど、花霞は結婚しているのだ。それなのに、他の男性の2人でご飯を食べるのはいいのだろうか。
そんな風に考えてしまう。
花霞には全くやましい考えはないし、蛍も趣味仲間として誘っているのだとわかる。けれど、椋が女の人と2人でお茶をしているのを見てモヤモヤしていたのだ。
それを自分もやってしまっていいのかとも思ってしまう。
けれど、彼が話したいことは何なのか。
花霞は何かの相談だとは思っていた。
せっかく花を好きになってくれたのだから。
そして、誰かが悩んでいるならば。その気持ちが勝った。
「外で食べるのもいいですね。ぜひ」
「っっ!本当ですか?じゃあ、ドリンク買いにいきましょう」
蛍は満面の笑みで、パンの袋を揺らしながら歩き始めた。
花の事を聞きたいのだろうか。
自分に聞いてくるのはそれしかない。
彼が今どんな事を気にしているのか。心配にはなってしまうけれど、まずは2人で空腹をなんとかしなければいけないようだ。
花霞は蛍の後ろを見つめながら、思わず微笑んでしまった。
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