第9話 なにもしないをすることが出来なかった件

 実家から手紙が来た。その内容というのは『もし2留したら家族の縁を切る』というものだった。

 どうやら、僕が人に見せるのも憚られる見下げ果てた成績を取り、留年を宣告されたという事実を、担任教師が実家の父と母に伝えてしまったようである。


 現在、訳あって実家の両親と話すのを拒んでいる僕は、これまで実家との直接的連絡手段を断っていた。そのため僕の父母は、二回生になった僕がグレて反抗期に陥っていると言うことは知らなかったのだが、どうやらこの度、ついにその事実が露見してしまったようである。

 実家に居る両親からの電話やメールなどは、僕が一方的にブロックしているので、両親は仕方なく、手紙という古めかしい手段で僕に『最後通告』を送りつけてきたようだった。


 『まあ留年くらい大目に見てくれるだろう』とたかをくくっていた僕も、この時ばかりは慌てた。よもや一発アウトとは思わなかったからだ。さすがに親というスポンサーを失うのはマズい。生き倒れてしまう。まだもう少しの間だけは、すねをかじらせて貰わねばならない。

 というか『縁を切る』って。さすがに厳しすぎやしませんか父上母上。親子の縁は鉄の鎖より硬いものではないのですか? これではまだ木綿の糸のほうが切れにくいではないですか。


 結局僕は渋々、両親という名のスポンサーに泣いて言い訳をするべく、実家に連絡を取ることにした。



「はい、もしもし。天野川です……あ、お兄ちゃんじゃん。久しぶり」


 実家に電話をかけると、よりにもよって妹である綾奈が出てしまった。最悪である。僕は妹の綾奈の事が苦手で、そして嫌いなのだ。


「……綾奈、父さんか母さんはいるか? 少し話がしたいんだ」

「ううん、二人とも出かけてるよ。ていうか話って、どうせ留年しちゃった言い訳でもするつもりなんでしょ?」

「いやまあ……そうだ」

「やっぱり。もう、ホントに大変だったんだからねこっち。お兄ちゃんが大学で頑張ってると思ってたら、まさかの留年だもん。パパすっごく怒ってたよ。ママなんてショックのあまり気を失いかけてたし」

「……マジでか」

「マジもマジだよ。もぅ、しっかりしてよねお兄ちゃん。パパとママに心配かけちゃダメだよ?」

「……」


 情けない限りである。妹に『親に心配かけるな』と諭されるとは。普通は逆だろうに。

 僕は妹のこういう『しっかり者』なところが苦手だ。僕は幼い頃から、勉強こそ出来たものの生活面では、この通りかなりだらしなかったので、しっかり者である妹の綾奈と比べられ、親と妹の両方から、散々お小言を言われ続けてきた。

 その結果、家族との関係をこじらせにこじらせてしまった僕は、逃げるように実家を出て、今の今まで連絡も絶っていたのだが……まあ、この話はまた今度にでもしよう。


「……悪い綾奈、もし父さんか母さんが帰ってきたら、僕に電話するように伝えてくれ。直接話して弁明したい」

「弁明じゃなくて屁理屈でしょ?」

「いやまあ……うん」

「ていうか電話って、お兄ちゃんの携帯にウチから電話繋がるの? 確かお兄ちゃん、私達からの電話とか全部ブロックしてたよね?」

「あぁ、それについては問題ない。ちゃんと解除してある」

「ふーん、そうなんだ。あ、それじゃあ今度から私も、時々お兄ちゃんに電話かけよっかなあ。ヒマなときとかに」

「そういうのを迷惑電話って言うんだ。知ってるか?」

「いいじゃん、兄妹なんだから電話くらいかけたって。それとも私と話したくないの、お兄ちゃんは?」


 正直言って、話したくない。嫌いだから。しかしさすがに、本人の前でそんなことを言うわけにもいくまい。


「……自分の兄貴を暇つぶしに使うな。もっと有意義に時間を使え。学生の本分である勉強に励むべきだ」

「留年した人に言われたくないんだけど?」


 仰るとおりである。兄貴面しようと思ったら、いとも容易く揚げ足を取られた。悲しくなってくる。


 とまあこういう具合に、僕は危うく両親に縁を切られ天涯孤独の身になるところであったのだが、後日何とか、電話越しの両親に泣きながら弁明と土下座をした結果、事なきを得ることが出来たのであった。


 本当に情けない話だ。『極悪への道を邁進する』とのたまっておきながら、親に縁を切られそうになった程度で泣いて謝るとは。かの極悪なるマフィア、アル・カポネが聞いたならば、きっと失笑するだろう。いや、失笑すらしないかもな。


 しかしここまで来て、僕はようやく気づいた。気づいてしまった。気づかざるを得なかった。『僕という人間は悪人には向いていない』と。


 刹那的快楽と自己中心的な幸福を手に入れるべく、悪事もいとわず過ごしてきた二回生のこの一年。しかし振り返ってみれば、今の僕に残されていたのは、唯一の美徳であった“勤勉さ”さえも失った何の取り柄もないダメ人間と、そして誰かに見せれば笑われてしまうような成績表だけだった。

 もはやここまで来ると、認めざるを得ないだろう。僕は悲しくなるほどに、この世界を生きるのが下手くそである。世渡り下手であると。


 生理的欲求に殺されかけ、

 愛に見捨てられ、

 友情に追いかけられ、

 怠惰に家族を奪われかけた。


 もはや笑えてくる。僕はこれほどまでに、生きるのが下手くそだったのか、幸せになるのが下手だったのか、人生という舞台を演じるのが苦手だったのかと。笑うしかない。笑わなければやっていられない。

『キサマは幸せになどなれぬ』なんだか神様に、そんな事を言われている気がしてきた。僕は不幸になるべくこの世界に生を受けたのではないのかとすら思えてくる。


 僕は京都大学に来て、この場所にいる人間達の醜悪さに絶望した。

 しかし今の僕が絶望していたのは、自分自身に対してだった。


 善人であった時も幸せになれず、かといって、悪人になっても幸せになれない。ではどうすれば、僕は幸せになれるというのだろう? 健全な幸福どころか、刹那的快楽や短絡的幸福と言った不健全な幸福も手に入れられない僕に、一体如何にして幸せになれというのか? よもや神は僕に『幸せになるな』とでも言うのか。


『人は誰しも、幸福となるために生まれる』と、どこぞの誰かが言っていたのを聞いたことがある。しかしどうやら僕は、その“誰しも”の中には含まれていないようだった。


 何故だ。何故なんだ。僕が一体何をしたと言うんだ。前世でとんでもない悪事を働いたとでもいうのか? だから現世ではその罰として、こんな酷い人生を歩まされているというのか? 

 ふざけるな。僕は何もしていない。これは冤罪である。僕には幸せになる権利があるはずだ。なのに、なんなのだこの仕打ちは。ふざけるな。本当にふざけるんじゃない。


 僕は怒りに燃えていた。こんなふざけた試練を僕に課す、この世界の神に対して。抑えがたい怒りを抱いていた。

 しかしながら、神の実在が科学的に示されていない以上、その怒りは行き場を失い、僕の中で虚しく反響し続けるしかなかった。


 ああ、本当に酷い気分だ。マジックミラー越しに中指を立てられているような、例えるならそんな気分だ。一方的に侮辱され、しかしこちらは怒りをぶつけられない、仕返しも出来ない、そんな酷い気分だ。


 ええい、もう知ったことか。このムシャクシャを何とかしないと気が収まらない。ここ最近は、以前飲み過ぎで倒れたこともあって長らく禁酒していたのだけれど、もう構うものか。

 こうなったら、浴びるほどに酒を飲むぞ。嫌なことも何もかも忘れてしまうくらいに、酒を飲んで飲んで飲みまくってやる。明日目を覚ましたら『あの世でした』なんて結末になっても構わない。起きたら見知らぬ女と寝ていたなんて事になっても構わない。なんなら男と寝ていたって良い。

 とにかく今はもう何でも良いから、この最悪で救いがたい、悲しい気分を忘れたいのだ。


 こうして僕はその晩、サイフと電話だけを手に夜の繁華街に繰り出した。

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