第16話 雫

「あ……雨女」


 そう言うと、彼女はまったく変わってしまった表情で僕を見る。


「へえ、わかるんだ」


 そりゃそうだろ、と内心つっこむ。これで空本じゃないとか、冗談にもなっていない。


「何で急に出てきたんだ」


 そう、思ったより冷静な自分に感心しつつ僕は問う。彼女は、んー、と人差し指を口元に当てる仕草をした。


「辛そうだったから。代わってあげたの」

「……そう、なんだ」


 思いのほか普通な答えが返ってきた。僕は拍子抜けして、目の前にいるのが雨女だということを頭に入れて話しかける。


「君は、誰……」


 すると彼女はなぜか髪をかきあげた。


「やっぱりわからないかぁ」


 そう、えへへ、と両手を椅子の上に置いて言う。


「空本だよ。私も」

「それは、そうだろうけど……」


 僕はたじろぐ。驚いてしまっている。それは別にいい、けど、唐突に不思議なことが重なってもう意味不明だ。


 がらがらと扉の音がした。大塚先輩が帰ってきたのだ。汗だくになっているのが一目でわかった。この校舎には自動販売機がないから、おそらくは一番近いグラウンドの方に行っていたんだろうと思う。

 右手に器用に挟まれた二本のペットボトル。お茶と、スポーツドリンクだ。


 彼女が起き上がっていることに気づいた大塚先輩は、安心した様子で近づいてきた。


「ほれ、どっちがいい」


 差し出された二本のうちから彼女はお茶を掴んだ。一本が余る。


「ん」


 それを僕に向けた。


「えっ」

「やる」

「で、でも……」


 先輩の分は。


「いいから受け取れ。ただの礼だ」

「は、はあ」


 わけがわからないまま受け取った。

 次の瞬間、大塚先輩の左手から突然ペットボトルが現れたので僕は目を見開く。かぶがぶと飲んでまた左手に持った後、こっちに体を向けた時にペットボトルがズボンの左ポケットに差さっていたことに気づき僕は納得した。ただ、よくズボンがずれないなと思う。


「何はともあれ無事に連れてきたんだ。その功労賞ってんなら文句ないだろ」


 念を押すように言ってきた。別に罪悪感はない。

 キャップを開ける。口に含んで渇いた喉が潤うと気づいた。思えば僕は星崋祭が始まって以降水分をまったく採っていなかったのだ。


「ぷはっ」

「うおっ、良い飲みっぷり」


 言われたあと、思ったより減ってしまったかさを見て僕はキャップを閉めた。飲み過ぎるのはお腹によくない。


 横目に見ると彼女は静かに視線を落としていた。


「もう大丈夫か?」

「……はい」


 か細い声で彼女はそう言う。緊張しているようにも見えた。

 大塚先輩は、そうか、と安心してゆっくりと自分のデスクに戻った。


 冷房の効いた空間は、じっとしている僕には少し肌寒い。

 二の腕をさすっていると、突然彼女が立ち上がった。


「もう大丈夫なので、戻ります」

「えっ、なに急にっ──」

「いいから」


 二の句も告げさせず、腕を引っ張られた。そのまま部室の外まで連れていかれる。


「何するんだよ急に」


 怒る僕に、彼女は言った。


「だって、あのままずっとあそこにいるとか嫌だもん」

「でも疲れてるだろ。まだ休んでた方が」

「いいの。時間がもったいないでしょ」


 三日間という期間を考えれば確かにそうだ。あるいは彼女が出てこられる時間制限でもあるのかもしれない。


「わかったよ。──で、どこに行きたいの?」


 部室に置き忘れたビラを思いながら僕は言った。ほとんど配り終えているから、この後は自由行動だ。


「それは君が決めてよ」


 連れ出したわりに無責任な。

 僕は鼻息を吹いて言う。


「それなら適当に回ろう。人通りのなるべく少ないところを通れば人混みにも酔わないだろうから」

「えー、大丈夫だよー」

「うるさい。僕は空本のことを言ってるんだよ」

「わたしも空本だよ」


 わかってるよ、と言おうとしたところで部室の扉が開いた。大塚先輩がだらんと頭を落として言う。なんとなく、顔を見たくなかった。


「うるせえ、昼寝の邪魔だ」

「あ、はい。……すいません」

「すいません」


 無言で扉を閉める。


「行こっか……」

「……そうだね」


 早く退散しよう。これ以上機嫌を損なわせないためにも。


 ***


「名前、何て呼べばいい」

「ふぇ?」


 他人の、もう一人の自分の金で買ったフランクフルトにかぶりついた彼女がそんな声を出す。

 職務放棄もいいところに、暑いからと制服に着替えた格好で振り返った。


「空本って言えないからさ、お互いに君って言い合うのも変だし」


 悔しくも彼女に君と呼ばれるのは悪い気がしない。

 小さくかじって、答えた。


「じゃあしずくって呼んで」

「しずく?」

「そ、雨に下って書いて雫。滴らないほうね」

「わかってるよ」


 そこまで馬鹿じゃない。雨に下で雫を思い付かないような。


「なるほどね、雫」

「何よ、何か変?」

「いや。イメージ通りだと思ってさ」


 屋台で買ったベイクドポテトを口に放り込む。

 碧よりは雫の方が合っている。正反対な二人だ。だからこそ生まれたのかもしれないと、非現実的なことを考えた。


「何よそれ。悪口?」

「違うよ」


 嘘だけどむくれないでほしい。周りに見られる。

 まったく代わる気配がないので、僕たちはそこそこ人通りの多い入り口付近の屋台通りを歩いている。何かあっても対処できるように、密集した場所は通らないように気をつけながら。


 まだそんなに回ったわけじゃないけど食べるだけしかしていない。普通の町祭と何ら変わらない行動にそろそろ飽きてきた。


「どこ行くの?」

「食べるだけしかしてないから。そろそろ何か出し物を見に行こうかなって」


 思ったよりずっとグダグタしていたから、僕は少し焦っているのかもしれない。胸ポケットから小さい紙を取り出した。


「何、メモ?」

「ちょっ、見るなよ」

「いいじゃん減るもんじゃないし」


 だからって近い。油断すれば彼女の唇が僕の手のどこかに触れてしまいそうだ。


「へえー、ちゃんと回りたい場所あるんじゃん」

「うるさい」


 感心したような様子が見ててイラっとした。

 しおりは持ち歩くのが面倒なのでもともと持ってきておらず、興味のある出し物については昨日のうちにメモしておいた。


 かきぃん、と遠くから金属音が聞こえ、首を向けた。


「何か聞こえたね」

「草野球やってるんだよ」

「草野球!? 見たい!」

「いいけど……」


 思ったよりオーバーなリアクションに若干引きながら、僕はグラウンドの方に足を向けた。メモには書いていない場所だけど、時間はまだある。


 グラウンドに着くと、ちょうど試合が始まろうとしているところだった。時間的に二試合目くらいだろう。

 確か三年の組のどこかが、OBとの試合を出し物にするとしおりに書いてあったことを思い出す。一言コメントの欄には『去年のようには負けねえ』と熱いメッセージが綴られていた。


 炎天下のなか試合が始まる。金網にしがみつき観戦するというよりは、広いグラウンド特有の坂の芝生に腰を下ろしてまったり見守る。


「何で草野球見たいって思ったの?」


 その辺で買った焼きそばを足に乗せて、僕は隣に座る彼女に訊ねた。


「理由はないよ。ただ見たいって思っただけ」

「そうなんだ」


 焼きそばを箸で持ち上げて啜る。定価二百五十円というかなり良心的な値段のわりにうまい。

 こういう落ち着いた雰囲気だからか、自然と訊きたいことが聞けた。


「雫は」

「うん?」

「雫っていつからそうなの?」


 麺を飲み込んで彼女は答える。


「そうなのって二重人格のこと?」

「そう」

「最近って言ったら信じる?」

「それはちょっと無いかなと思う」

「あはは、バレたか」


 二重人格。正式名称は乖離性同一障害。心に強いストレスを感じた時に起こる病気の一種。もう一人の自分の人格を無意識に作りあげてしまうため、自覚することはほとんどない。大抵は相手から気づかされることが多い。


「中学入学くらいからかな。色々あって気づいたらこう、みたいな」

「結構軽いね」

「そりゃあ長い付き合いですから」


 えっへん、と彼女は胸を張る。


 かきぃん、と高い金属音が響いた。見ると三年生チームが初ヒットを打ったところだった。外野の深いところに落ち、一気に二塁まで到達する。


「ナイスヒットー!」


 彼女は拍手を送った。僕もつられて手を叩く。


「野球ってチームって感じがするよね」


 手を叩きながら彼女は言った。


「何が」

「こうやってヒットを打ったらチームみんなで喜んで、わたしたちもつられて応援したくなっちゃうんだよ。すごいよね」

「そうだね」


 正直わからなかった。チームワークを大切にすることは大事だとよく聞くけれど、彼女が言ってることは別のことのように聞こえた。


 そのまま試合が終わる夕方まで僕たちはずっと観戦していた。ヒット一本。ファインプレー一個に沸く観客たち。僕はその試合を、どこか冷めた目で見ていた。


 礼が終わり観客が去っていく頃、立ち上がって彼女は訊いてきた。


「楽しかった?」


 僕は「そこそこね」と答えた。

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