鈴の音

かがち史

鈴の音


 ちりん、と鈴の音が聞こえた。


 晩秋の夕方。

 山陰に落ちた日の光も淡く、宵闇がすぐそこにある時間のことだ。


 その日は仕事が休みだった。

 社会人になって数年。大学卒業後、地元の中小企業にUターン就職した私は、収支のバランスを考えて、実家の世話になっていた。とはいえ家賃としてそれなりの額は入れているし、母がパートに出る日には、比較的帰りが早い私が家事の一切を担っていた。父は頼りにしていない。田舎の古い人だから。


 そういうわけでその時も、私は夕食の準備をしていた。


 その日の献立は八宝菜もどき。貰い物の白菜と人参、豚肉、うずらの卵と海老を入れて、しょうがと甘酢で炒めたもの。具材が五つだから五宝菜だな、なんて思いながら人参を短冊切りにしていた時、ちりん、と近くで鈴の音が聞こえた。


 我が家のキッチンは古い。家の南西に位置していて、南側の壁に向かって調理するような形になる。角を作る南西二面にはちょうど目線の高さに窓があって、昼間は陽光に溢れる造りだ。隣家に面する西側にはロールカーテンがある一方、南の窓は擦りガラスだけ。段になった敷地の向こうには、用水路を挟んで私道が走っているだけだから、特に視線を気にする必要がないのだ。

 小さな鈴の音は、西の、ロールカーテンの向こうから聞こえていた。


 ……隣の猫でもいるのかな。


 屋内での会話が聞こえるほどに近い西隣の家は、猫と犬を飼っている。どちらも基本は室内飼いだが、猫のほうはたまに、自由気ままに外の世界を闊歩していた。

 茶色のブチが可愛い雑種猫で、とても人懐っこく、顔を合わせると自らすすんで擦り寄ってくる。餌付けしているわけでもないのにそうだから、本当に人に慣れているんだろうな、と思う。けれど――


 あの子は鈴なんて、つけていただろうか。


 ちりん、ちりん、と弾むように今も鳴る音に、包丁を握ったまま首を傾げる。


 ……もしかしたら、新しく買ってもらったのか。それか、別の猫かもしれない。


 田舎の集落の常として、この辺りでは、犬猫を飼っている家が多かった。さすがに犬の放し飼いはないが、猫のほうはその限りではない。一応あそこの飼い猫だろう、と目星のつく家はあるものの、首輪すらつけずに歩き回っている猫もいる。そういうやつは運転中に轢きそうで怖いから、本当に勘弁してほしいのだが。


 そういえばまた、道端に知らない猫が増えてたな……なんて思いながら、切り終えた人参を脇に避け、他の具材に手をかける。その間にも鈴の音は鳴っては止み、鳴っては止みしながら、少しずつ近付いてくる。


 ――その時ふと、その音が、私の目線ほどの高さを進んでいることに気がついた。ちょうど窓があるその高さだ。


 それは別に、おかしくもなんともないことだった。なぜなら我が家と隣家の間には、私の肩まであるブロック塀が走っているからだ。その塀はキッチンの角をそのまま曲がり、家の南東まで続いている。

 その上を、こちらへ向かって歩いているのだろうと思った。それ自体は、たまに見かける光景だったのだ。鈴の音こそ、初めて耳にしたけれど。


 鈴をつけた猫が、ブロック塀の上をとてとて歩いている――その光景の愛らしさを思って、その時の私は、一人で微笑むことさえした。


 白菜も豚肉も一口大に切り、海老の殻を剥く。シンクに屈みこむような体勢で、一つ一つ、頭を取って脚を除き、殻を剥いて尻尾を引き抜く。その作業に没頭していたすぐそばで、ちりん、と鈴の鳴る音がした。ああ、猫がこっちまで来たんだな、と思った。

 私は緩む口元もそのままに、その影でも見ようと顔を上げかけて、



 直後に気付いた。

 今そこに、あのブロック塀は、存在していないのだと。



 半月ほど前、この辺りでは地震があった。大きな被害はなかったものの、地盤の関係か単に経年劣化が漏れ出たのか、南の窓側のブロックにヒビが入った。これは危険だということで、先日の土曜に撤去作業があり、以来そこには、くるぶしにも満たない低さの基礎しか残っていなかった。


 つまり、猫が歩けるような場所は、その高さに存在しないのだ。


 海老の頭を捻り取った姿勢のまま、私はしばし固まった。

 鈴の音は聞こえない。耳を澄ませても、なんの気配もしなかった。遠くの車道を行く車のエンジン音や、向かいの用水路を流れる水の音は聞こえるから、すべての音がなくなるような、そんな異常事態ではないとわかる。


 もしかしたら、あれが鈴の音だというのは、私の気のせいだったのかもしれない。それか、まだ残っている塀のほうで鳴った音が、風で流れて聞こえたのかもしれない。あるいは地面の高さで鳴ったものを、私が勘違いしたのかもしれない。

 ――そう、自分に言い聞かせる目の前で。



 ちりん、と鈴の音が鳴った。



 私は、ぎくりと身を強張らせた。


 ――


 すぐ目の前。窓ガラスを挟んだ向こう側に、鈴の音を鳴らす何かがいる。窓の枠ではありえない。植木一つもそこにはない。

 それなのに、顔を上げたら目が合う位置で、ちりん、となおも音が鳴る。


 ちりん。


 ちりん。


 無機質に澄んだ金属音。そこに音ムラが一切ないことに私は気付く。ちりん、と鳴るその大きさも、長さもずっと変わらない。りん、とも言わないし、ちりりん、とも言わない。あまりに冷たく、機械的な音。


 ――そんな音を鳴らすのは、猫などでは、ありえない。


 固まる私の目の前で、しかしその音は、ふと時を決めずに鳴り止んだ。

 その場に聞こえるのは、再び用水路と遠くのエンジン音だけになり、にぎやかな小鳥のさえずりがそこに加わるのを耳にして、私はようやく、自分が息を詰めていたことに気がついた。

 静かに呼吸を再開し、強いてなんでもない思考で頭を満たす。

 仕事のことや資格のこと、部活仲間の結婚話、翌日の天気、お気に入りの漫画の発売日――そうして心臓を落ち着けて、強いてなんでもない心持ちで顔を上げる。そうしなくては、枯れ尾花さえ幽霊と見てしまう自覚があった。


 果たしてそこには――なにもいなかった。


 見慣れた茶色のブチ猫も、覗き込んでくる不気味な顔も、枯れ尾花すら映らない。暮れた空色の薄闇だけが、擦りガラスの向こうに、とっぷりとあった。

 ほう、と安堵の息をつく。

 ……当然だ。なにもいるはずがない。なにもあるはずがない。すべては私の気のせいで、幻聴で、ただの夢の音であって現実ではないのだから。


 今度こそ本当に落ち着いて、臆病な自分を嗤うように苦笑する。変なことで時間をとってしまった。急いで夕飯の支度を終えなくてはと、海老の下処理を再開すべく手元へ俯いた時だった。



 ちりん、と


 頭の後ろで、鈴の音が聞こえた。





          *





 ……秋半ば、地元を襲ったあの地震。

 大きな被害こそなかったが、その揺れの影響で、とある地蔵堂の一角に祀られていた古い壺が割れていた。


 一抱えもある素焼きの壺には、原型もわからないほどに砕かれた骨と、緑青色の錆に覆われた小さな鈴が収められていた。壺の破片とともに散乱していたその中身を、その由来や正体を知るものは誰もおらず、気味悪がられながらも御神体だからと新しい壺に入れ替えられ、祀り直された。

 以来、地蔵堂に端を発する特定の道筋で、正体不明の鈴の音が聞こえるようになったという噂だが――



 私にはもう、なんの関係もない話である。




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