第一期(白鵬引退まで)
白鵬と「エルボー」
ツイッターを見ていると、みんな大相撲見ているな、と感じる。
ありとあらゆる名のある人がツイートしているのは、白鵬批判だ。
立ち合いでの張ってからのカチ上げを、「エルボー」と表現して、これは良くない、危険だ、という主張である。
さて、僕はかれこれテレビでは十五年近く大相撲を見ていて、国技館には二十回以上は、足を運んでいる。
大相撲のルールはこの十五年、何も変わっていない。
まず白鵬の危険な立ち合い、俗に言う「エルボー」がいつからなのかを考えると、もう遥か大昔にさかのぼることを、今、騒いでいる人がどれくらい知っているんだろう?
僕の記憶の中で、これは危険だな、とはっきり意識したのは何年も前の相撲で、確か妙義龍という力士が相手の時だった。
立ち合いで白鵬が強烈なカチ上げをして、妙義龍がそれを受けて、土俵の真ん中で両脚から力が抜けるような形で倒れこんだ。明らかに脳震盪で、びっくりした記憶がある。
それ以前に、似た形がなかったので、あれが初めだったはずだけど、とにかく驚いた。
それ以降、この張り差しと呼ばれる、立ち合いで相手の顔を張っていく手法、本質的には張った方の手を相手の脇の下に入れる技術だが、この技で相手の頭をずらし、そこにカチ上げをぶつける、という白鵬独自の手法が見受けられるようになった。
ツイッターを見ているといくつかの主張があり、整理してみよう。
第一は、白鵬の「エルボー」が危険である、という主張。
第二は、白鵬には横綱の資格がない、という主張。
第三は、白鵬の「エルボー」に関して何もしない相撲協会を批判する、という主張。
まず、第一の主張を検証してみよう。
白鵬の「エルボー」は確かに危険であって、これは間違いない。では、これを禁止することが可能かどうか、考えてみる。
禁止するか否かを議論するとなると、なぜ禁止するかをはっきりさせる必要がある。
相手の怪我に繋がる、という主張がある。なら今まで、大相撲を見てて、危険な技がなかったか、というと、実はそういうわけではない。
これも白鵬だが、かなり前に場所の終盤で、大関の千代大海に白鵬がとったりという技を繰り出した時があった。千代大海は突きが主体の相撲なので、腕をたぐって、執拗にとったりを続け、最後には千代大海が負けた。
この相撲が印象的なのは、優勝争いの筆頭が千代大海で、白鵬はそれを星の差二つで追いかけていた。この直接対決で、両者の星の差は一つになった。
だが、千秋楽、千代大海が白鵬のとったりで肘を破壊されて、休場した。これによって千代大海と白鵬の星の差は、白鵬が本割で勝てば同じ星になる。そして本割で白鵬が勝った。これにより優勝決定戦は、白鵬と千代大海、となるはずが、その千代大海は休場しているわけで、僕が知っている中では唯一の、優勝決定戦が不戦勝で、白鵬の優勝が決定する、という事態になった。
この時に白鵬に破壊された肘のせいで、千代大海は精彩を欠くようになり、結局、そのあとは優勝争いに顔を出すことはなかったと思う。
もう一つ、僕の記憶の中で危険だったのは、大関の魁皇の右からの小手投げである。これはものすごく危険だった。肘が極まるような位置に腕を巻いて投げるので、それを受ける方は自分から体を逃して転がらないと、肘が壊れる。実際、何人か肘をやられていた。僕の記憶では、豊ノ島がそれで肘をやられたはずだ。
結局、なんだかんだで、大相撲には危険な技がいくつかある。
白鵬の「エルボー」はともかく、とったりや小手投げを禁止していると、もう相撲が成立しなくなる。「エルボー」も、張り差し、カチ上げが組み合わさっているだけで、張り差しもカチ上げも禁止したら、とんでもないことになる。
少し振り返ると、張り差しを多用した力士は、横綱の朝青龍が印象深い。ただ、いつかのテレビ中継で実況の人が言っていたように、十年前の張り差しと今の張り差しは、全く威力が違う。今の張り差しは、本気で顔を張っていて、その点は僕も不自然には思う。
ちょっと、相撲協会が白鵬の「エルボー」を禁止にできない理由を、想像してみることにしよう。
白鵬の「エルボー」をはっきりと禁止できないのは、相撲は立ち合いが占める要素が大きい点にあると思う。張り差し、カチ上げ、この二つの立ち合いがなくなると、バリエーションがない。横綱だから、という主張は、脇に置いておく。
一方で、では白鵬の「エルボー」を他の人が盗まないのは、なぜなのか。
この白鵬だけしか使わない、というのが僕には奇妙に見える。
ネット上やらで徹底的に批判されているから、自分は絶対に使わない、という主張の力士が多いのか、どうなのか。そんなことがあるだろうか? 有効な技を使わない理由があるか?
しかも、大相撲は神事である一方、勝負の場でもある。
もし批判が怖くて有効な技を使わない、周りからの視線を気にして勝負に手を抜いている、というようなことがあるなら、これは根本的に勝負を放棄しているのではないか。
逆に白鵬の方こそ、勝負に徹している、となる。
ここでまた元に戻る。
要は、勝負に徹して危険な技を繰り出すのが、非道である、という主張がある。一方で非道ではあっても、ルールはそれを禁止していない。ルール違反ではない、技の一つ、とも取れる。だが、世間では禁止すべしと言われ、また他の力士はなぜか誰もやらない。それでも勝っているのは白鵬で、勝負という面では白鵬は全く揺らがない第一人者である。だが、危険な技はいけない……。このループは全く脱出できない。
結局、この危険であるという理屈は、ぐるぐると同じところを巡っているのではないか。
もし本当に禁止するとなると、問題なのは、相撲の流れの中の技のほとんどは、全く同じものがない点にもあるとも思う。
先に挙げたとったりや小手投げの危険性を考えると、張り差し、カチ上げを禁止すると、とったりや小手投げも禁止になるべき技に見える。だけど、九割九分の力士のとったりも小手投げも、危険ではない。もちろん、張り差しも、カチ上げもだ。
大昔、江戸時代にいた力士で、雷電という力士は、禁じ手を設定された力士として、一部のオタクの間では認識されていると思う。
となると、白鵬には、禁じ手として、「エルボー」を禁止する、というのがありそうなことだが、しかし、ここで問題になるのが先に書いた「エルボー」が立ち合いの動きである、という点で、立ち合いを限定されると、最初の最初から後手に回ってしまう。
白鵬が一時期、双葉山を意識して「後の先」ということを口にしていたけど、この「後の先」というワードは、今も相撲を見ている人の中では鳴り響いている様子である。
この辺りに白鵬が半ば神格化と言ってもいい視線で見られている感じも受ける。「後の先」というワードは大勢が知っているけど、誰がそれをはっきり見たのか、よくわからない。僕もずっと相撲を見ているけど、わからない。勉強不足かもしれないけれど。
とにかく、何故か白鵬は、相撲を見ている人々から超人のように見なされ、勝負の場での選択肢を半ば没収されかけている、となる。横綱だから、という主張は次の項に譲る。なんにせよ、相撲協会は難しいだろう。もし力士の中から白鵬の立ち合いに批判が出れば、動くのかもしれないが、でもこれは全力士が自らの選択肢を狭めるようなものなので、おそらく、ありえない。相撲協会も、世論でルールを変えるわけにもいかないのではないか。
この世論がスポーツのルールを変える、というのが実は現代スポーツの一側面のような気がする。数年前、フィギュアスケートの女子選手で、フリープログラムの後半にジャンプを集中させ、前半がまるで時間潰しだった、と批判された人がいた。その後、フィギュアスケートはおそらくルールを変更した。
この辺りの、世論が力を持つ、というのが、いかにも現代らしい。
では、第二項にこのまま移行しよう。白鵬に横綱の資格があるのか、である。
白鵬が横綱になって、十年以上が過ぎている。七連覇したこともあるし、一年間の成績が86勝4敗だったこともある。これは印象深い。朝青龍が全盛期に84勝6敗という記録を立て、これはもう破られない、と思っていたら、数年後に白鵬が塗り替えた。
成績の面からすれば、白鵬は史上最強の力士だし、きっともう誰も彼を超えられない。
今の世論は、そんな成績も無視するほど、白鵬の「エルボー」は凶悪だ、となる。
では、勝負に徹するのが間違っているのか。横綱相撲、と呼ばれる要素があるが、ここ数年の大相撲で横綱相撲を取った力士は、実は白鵬くらいしかいない、と僕には見える。
朝青龍は突きから四つに組む、と言うイメージだし、日馬富士はスピードが命だった。鶴竜は横綱になって、これは、と言う様子ではないし、稀勢の里は短命だった。
今、ツイッターなどで大相撲で騒いでいる人は、たぶん、朝青龍以降の相撲を見ている人が大半だと思う。近くの人に「あなたが見た横綱相撲を取る力士は誰ですか」と聞いてみると、面白いと思う。一般人はそもそも横綱相撲など求めちゃいない、とわかるのではないか。
つまり横綱の資格のようなものは、曖昧で、今、一番熱くなっている人たちは、誰が一番の横綱だったか、となると、これも面白いことに、貴乃花、という言葉になる。
貴乃花の相撲を僕ははっきりと記憶してない。年代的に、少し遅かったので、見られなかった。
昔話として、「貴乃花はガチンコだった」ということも聞いたことがある。僕としては眉唾というか、噂程度だったと思っているけれど、相撲は一対一の勝負だから、ガチンコなのは当たり前ではないのか? と思う。まぁ、その辺りの解釈は人それぞれとしておこう。
横綱の資格のようなものは、相撲の内容ではなく、土俵態度というか、人格のようなものが重視されているという面は確かにある。そこここで話題になる、「品格、力量、抜群につき」横綱に推挙されている、という理屈は、なるほど、と思う。この文言は僕も好きだ。
白鵬の品格に関しては、僕も実は疑った場面は何度かある。優勝インタビューで三本締めをしたり、万歳したりしたのは、良くない。優勝インタビューの内容でも眉をひそめた場面は多々ある。やりすぎだな、とも感じた。
では、この品格という一点で、白鵬をどうすることができるのか。
残念ながら、相撲は品格を競う場ではない。品格も重要だが、結果も同程度に重要である。
ツイッターを見ていると、面白い意見が散見されて、「横綱から大関に降格できるようにするべき」などというツイートは、ちょっと笑った。このツイートをした人は、横綱が土俵入で腰に綱を巻いているところを見ていないのかもしれない。横綱は、神様であって、特別な地位、特別な立場なわけで、それ故に品格を求められるけど、まさか一度、神様にした力士を、やっぱり人間に戻します、というのは、とんでもない理屈になる。
もし白鵬が東京オリンピックの年までやりたいという主張を曲げずに、負け越したり休場したりしてでも現役にしがみつけば、それは確かに品格も疑われるし、実力もないし、横綱にふさわしくない、となる。
しかし実際の白鵬を見ると、ここのところ、休場が目立つが、なんだかんだで相応の星を上げている。実力の面では、全くと言っていいほど問題ないのではないか。
話題の「エルボー」で勝ちを拾っている、などという意見もあるが、これは前項の理屈にやはり落ち込む。勝てばいいわけではないが、勝負でもある。そして横綱という地位は、勝つことが前提で、品格は脇におけば、文句のつけようがない。
横綱の品格はとかく話題にはなるが、少し視線を横に向けて、大関、という地位はどう見られるんだろう? 大関はなぜか、横綱ほど厳しい視線を向けられない。この辺りに横綱という地位の特殊さがあるのは歴然としている。
この特殊さが「エルボー」批判の原動力でもあり、同時に白鵬批判へとつながる。
僕が不自然に思うのは、白鵬の品格を指摘する発言に、日本人ではない、という思考が見え隠れする場面が散見される点である。このナショナリズム、国粋主義じみたものは、僕としてはすごく怖いと感じるけれど、他の人は感じないのだろうか。
白鵬は日本人ではないから礼儀や品位が備わっていない、という主張がもしあるとすれば、それならその主張が骨子になっている何かしらの競技なり集団は、純粋に日本人だけで運営することになるかと思う。
大相撲について調べると面白いのは、国技などと言われているけれど、いつから国技になったか、皆さん、少し調べてみてください。
もし日本の国技である大相撲で外国人が大きい顔をしているのが気にくわない、という主張をする人がいれば、そういう人は大相撲から外国人を全員、追い出すように運動してください。
力士の資質、人格についての意見は、非常に広範に渡るし、難しい理屈である。ただ、はっきりしているのは、いくら高潔な精神を持っていても、実力のない力士は全く見向きもされないということ。横綱に上がった以上は、相応の人格を備える必要がある、というのも正しいが、そこに出身国などを理由に、備わっていない、理解していない、という主張は、少なくとも土俵の上では、問題にはできない。
僕の中では、国籍や出身国、人格、それら全ての上に、土俵で勝つ、ということがある。
勝てない力士には、何よりも大きな資質が欠けている、となる。
では、第三項、協会批判について考えてみる。
相撲協会のユニークな点は、十年前くらいに不祥事が起きるまで、ほとんど力士出身者だけで運営されていた点にある。非常に閉じた世界だった。
白鵬の「エルボー」を黙認している協会を批判する人、この種の発信者が、他の組織で存在するか、想像してみるとスポーツ関係ではあまり見受けられない。
何回か前の夏季オリンピックで、日本の柔道選手がほとんどメダルを取れなかった、という事態があった。僕も不勉強でよく仕組みを理解していないが、そんな場面で、柔道連盟みたいなところを激しくバッシングした人は、それほど目立たなかった。
この点はやはり大相撲というスポーツが、いかに閉じている世界か、という部分につながる。
大相撲は相撲協会が運営し、他に同種の組織がない。だから大相撲で何かあれば、即座に相撲協会につながっていく。これはどうしようもない、自然な動きではあると思う。
ただ、白鵬の「エルボー」で批判される相撲協会は、どうするのが正しいのかは、結局、今のように、どうにか耐え忍ぶ、となると思う。
相撲協会を批判する人が何を求めているのか。ルールの改正、程度ならいいが、なぜか、白鵬を辞めさせろ、という主張になる。
これには極端な理論の飛躍があって、僕にはちょっとついていくのが難しい。
白鵬の相撲は、ルールの上では反則ではない。それなのに、懲罰することは、さすがにできない。
人格が伴っていない、というが、人格をどうやって測るのかが、僕にはわからない。
もし相撲協会がここでいきなり、白鵬を辞めさせます、と言い出したら、ものすごい前例ができてしまう。世論が協会を動かせば、現役力士を辞めさせられる、ということになる。
これは皮肉としてここにはっきりさせるが、世論と呼ぶしかないみなさんは、稀勢の里を延命させようと必死だった。もしかして、大声をあげまくれば協会が動いて、稀勢の里が生き延びる、と思っていたのだろうか?
稀勢の里に関しては、やはり議論の種が豊富ではあるが、僕の意見としては、不運だった、としか言えない。横綱になった場所に大怪我をしたわけで、もしあの時、大関だったらどうなったかは、想像が難しい。大関から陥落して、平幕で、それで今も、相撲を取っていたのか、どうなのか。
ただ、あの時にはもう、稀勢の里は横綱だった。横綱である以上、負けることは許されない。もしかしたら前項で触れた白鵬の人格批判の逆で、稀勢の里は誰から見ても優れた人格の持ち主だったかもしれない。でも、勝てなかった。勝てない横綱は、引退するしかない。その不文律、その非情さこそが、やはり横綱という地位の意味を示していると思う。
相撲協会はここのところ、とにかく槍玉に挙げられるが、力士出身者が大半を占めることは、ある意味では強みであり、弱みではある。強みは、現役の力士のことを実体験と照らし合わせて、考えることができる。弱みは、身内に甘い、というようなイメージを持たれることではないか。白鵬を処断しないのは、身内をかばっている、みたいな主張があるとすれば、それがまさに、身内だけの組織である以上、反論は難しい。
僕は今、「不祥事を起こしていない力士を辞めさせられない」と、ここに書こうとした。しかし世論は、「エルボー」がイコール「不祥事」なんだ、と主張していると、不意に気づいた。そしてその不祥事を収拾できない相撲協会の無能さこそが、批判されている、ということか。
協会批判は、協会の意地が勝ることを願う。
白鵬の技、人格、相撲協会の三点が攻撃の対象ではあるが、これを一挙に解決する妙案は、どこにあるか。
あるとしても、きっとこの議論というか、批判の渦みたいなものは、白鵬が引退した時にある程度の解決にたどり着く。たどり着くが、白鵬は一代年寄と呼ばれる仕組みで、白鵬親方として相撲協会に残るはずだから、白鵬批判は後を引くと思う。
ツイッターでびっくりするのは、白鵬に引退を迫るどころか、相撲界からの追放みたいなものを求める発言があることだ。この辺りはツイッターの怖さ、インターネットの怖さだけど、あまりの過激な意見で、大勢が惑わされないことを願う。
大相撲は今のところ、一つの部屋に一人と、外国人力士をかなり限定はしているが、とりあえずは門戸を開いている。この門を閉じてしまうことが、さて、正しいのか、正しくないのか。それは相撲協会が考えるべきで、その思考に世論が介在するのが、僕としてはひやりとする。
あまり話題にならないが、白鵬という力士の相撲を見ていると、基本に忠実であること、あるいは、あったこと、それを意識してしまう。
白鵬の右四つ左上手の型は、僕が見てきた力士の型の中で、最高の完成度だったし、切れ味の鋭さもピカイチだった。魁皇の右上手とか、稀勢の里の左四つ右上手も良かったが、全盛期の白鵬は、一分の隙もない、という言葉がぴったりだった。
この白鵬の相撲の完成度は、平成の中期から後期にかけての大相撲のレベル、相撲の技術みたいなものを維持するのに貢献したのは、間違いない。日馬富士、鶴竜もこれには貢献している。
今の白鵬の「エルボー」がその貢献、偉大な業績に泥を塗っているとして、泥を塗る対象はやはり大きく、とても汚れで覆われているとも僕には思えない。
それほど、白鵬が偉大で、あるいはその偉大さが、批判する人たちに力を与えているのか?
白鵬批判に対して、僕が返せる言葉は、あまりに弱いけれど、批判を口にする人はどう答えるだろうか。
その言葉は、
「それで、誰が白鵬より強いの?」
で、ある。
稀勢の里に大声をあげる。遠藤に大声をあげる。まことに結構。
でも最後に土俵に立っているのは、結局、白鵬になっている。
かなり昔になるが、北の湖が「憎らしいほど強い」と言われたと聞く。
白鵬も、やはり憎らしいほど強い、ということなんだろうけど、現代人は、その憎さを公の場で口にしてしまう。
その辺りに大相撲を見る人の人格を期待したい、とは思う。
全くの余談になるが、国技館に相撲観戦に行くと、ポスターカレンダーの配布や、地下の大広間のちゃんこ鍋などで列に並ぶことがある。しかし、列に横入りする人や、マナーの悪い人が非常に多い。
五月場所だったが、結びの一番が終わって弓取り式を見ていたら、隣の客が席を立って僕の前を横切って、非常に不愉快だった。
大相撲ファンの品格もこの程度か、としみじみ感じてはいる。
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