第17話 大正時代に作られた江藤新平君遭難遺址碑~土方久元・股野琢
第一次世界大戦が始まってしばらく経った頃。
八十代になっていた
「荒木三雄と申します」
三雄は佐賀藩士・荒木博臣の子だった。
荒木博臣は藩校弘道館に在籍し、枝吉神陽の義祭同盟にも参加。中野方蔵と共に昌平黌で学び、倒幕運動に身を投じ、明治になると大審院判事(今でいう最高裁判所の裁判官)を勤めた人物で、その娘・志げは森鴎外の妻である。
三雄が土方久元のところを訪ねてきたのは、父・博臣の願いを叶るためだった。
「父はかつて江藤新平さんが襲われた地に碑を建てたいと考えていました。しかし、果たせないまま亡くなってしまった。私はその遺志を継ぎたいと思うのです」
博臣は明治五年司法省に入り、江藤新平の元で働いていた。
裁判官として登用されたのも、江藤の推薦のおかげだったのである。
「二等官、正四位にまで父は出世しました。私たちはそのおかげで暮らせています。
父の思いを叶えるために石碑を建てたいと考えておりますので、どうか碑文を書いてください」
それが三雄の頼みだった。
少し時間を遡る。
江藤新平が暴漢に襲われたのは明治二年のことである。
赤坂葵町の佐賀藩邸にいた阪部長照を江藤が訪ね、西岡逾明、荒木博臣もそこに加わり、楽しく歓談した。
夜半になり、江藤だけが先に駕籠で帰ったのだが、藩邸から少し進んだところで暴漢たちに襲われる。
騒ぎを聞きつけた荒木たちは刀を引き下げて江藤を助けに行き、江藤を守って藩邸の中に江藤を運んだ。
江藤を襲ったのは佐賀藩の卒族で、江藤が佐賀藩の制度改革をして、足軽たちが士族の下の卒族に再編成されたため、それを不満に思って江藤を襲ったのである。
久元は三雄から聞いたそれらの話を、撰者(碑文の作者)となる
股野も明治四年に出仕してるので、江藤とは顔を合わせたいたこともあったかもしれない。
股野と久元が親しかったためもあっただろうが、股野が撰者となったのは意味のある行為だったのではないかと思う。
この頃『神道碑』というものがあり、勲功のある人物には天皇陛下の特旨により撰文し、墓畔に下賜された銅製の碑を建てる習慣があった。
木戸孝允や大久保利通の墓にも残っているものである。
股野はこの時代の漢文学の最高権威であり、三條実美・大原重徳の勅撰神道碑の撰文も行っていた。
その股野に撰文をさせるということはそれだけの価値のある碑にしたかったのではなかろうか。
「維新前後の人物には知り合いが多いが……その中でも自分が豪傑だと思った者は西郷隆盛と江藤新平と二人しかいなかった」
土方は股野に頼んで、ある一文を入れた。
江藤新平君遭難遺址碑には遭難にあった経緯の後に、江藤が明治政府の高官を歴任して功績を上げ、声望がどんどん高まったことが記されており、その後に、こう書かれている。
「不能全終惜哉(終わりを全うできなかったことを惜しく思っている)」
江藤新平が正四位を贈られたのは、この碑が建った大正五年である。
霞が関にひっそりと建つこの碑には、江藤を知る人たちの深い思いが込められているのかもしれない。
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