3,〝ヒーロー〟とは

 ――〝大災害〟。

 六年前のあの出来事は、いまではそう呼ばれている。

 一年中穏やかな天候に恵まれている世界都市コスモポリスには自然災害というものはない。人々も、そんな言葉すらすでに忘れ去っていることだろう。

 故に、この都市における〝災害〟という言葉は、たった一つの出来事を表すものとして人々に認知されている。

 ――ファンタズマ。

 人より生まれ出で、人を捨て去りし異形。

 言うならばそれは、自我を獲得したA/Iアーク・イマジネーションそのもの――とでもいうべきだろうか。

 〝想像力イマジネーション〟。

 人間と共にある内は、それはまだ想像と呼べる。

 だが、欲望エピルシスの語りかけるがままに使役し続けたそれは、やがてそれそのものが自我を超越する意思を獲得するようになる。

 現代においても、ファントムの出現は都市にとって大きな脅威である。

 故にその出現を防ぐよう、倫理機関というものが存在している訳だ。

 だが、それでもファントムは生まれてしまう。

 イマジナークは幼少期に覚醒することが圧倒的に多いが、絶対というわけではない。実際の所、いつ、どこで誰が、A/Iアーク・イマジネーションを発現させるのかは誰にも予測することは不可能だ。

 人知れず芽生えた力が、人知れず欲望に染まっていくことは、都市の監視網を以てしても全てを防ぐことは、やはりできない。〝主観〟を見ることが出来るのは、その〝主観〟を生み出している本人だけなのだ。

 〝災害〟が発生したことは世界都市コスモポリスの歴史の中で幾度かあった。

 だが、世界都市コスモポリスは例え〝災害〟が起きようとも、過去の災厄から学んだ教訓を生かし、その被害を最小限に抑えてきた。特別兵トルーパーとはまさに、この〝災害〟に対処することこそが究極の使命と言ってもいい。

 ……しかし、六年前の〝大災害〟は世界都市コスモポリス史上、最悪の出来事となった。

 個体識別名〝邪悪なるものマルス〟。

 どれだけの人間があの〝大災害〟に巻き込まれ、そして死んだのか。

 その時のことを、剣斗はとてもよく覚えていた。

 忘れられるはずがない。

 当時十歳だった彼も、あの時、あの場所にいたのだ。

 周囲の人間が根こそぎ食い散らかされている中で、剣斗は自分の妹を背負って必死で走っていた。

 どこを見ても死体――いや、死体と呼べるのならまだいいほうだった。

 ほとんどはただの肉片、もしくは手足だけだ。

 そんなものが辺り一面に散乱しているような惨状をどう表現すればいいだろう?

 地獄?

 混沌?

 いや、それでもまだ――何かが足りない。あの邪悪さを言い表す言葉は、たぶんまだ人間の概念には存在していない。

「お兄ちゃん、怖いよ、痛いよ――」

 まだ幼かった妹の細く震えるような声は、まだよく覚えている。

 彼の妹はこの時、失明するほどの怪我を両目に負っていた。飛んできた瓦礫の破片が運悪く目に突き刺さってしまったのだ。今は治療により人工眼球を移植されて視力は回復しているが、この時の妹の眼球は両方とも完全に潰れていた。

 ……でも、それはある意味では幸いだったかもしれない。

 彼女は父親や母親が、ただの肉片になるところを見ないで済んだし、この地獄も見ないで済んだのだから。

 黒い球体がそこら中に浮いていた。

 人を食い散らかしているのはあの球体だった。

 人が密集している場所ほど、球体は群がった。故に、大勢の人間が避難していた屋内のほうがかっこうの餌場になってしまった。

 あれには物理的な制約は存在しない。まるで壁をすり抜けるように、自由自在にどこにでも出現した。

 あんな恐ろしいモノが存在するなど、それまでの剣斗には想像すらできなかった。

 想像を越え、空想の領域に到達した

 旧世界秩序を滅ぼした怪物。

 ファンタズマ。

 あんなにも邪悪なものが人の中から生まれたなど、とても信じられるものではない。

 必死に逃げて、逃げて、逃げることも出来なくなって、震えながら隠れていた。

 そこら中から聞こえてくる悲鳴も段々と減っていった。

 やがて虚無のような静寂が訪れた。

 ……生き延びられたのは、ただ運が良かっただけだ。

 剣斗けんとは無数に逃げ惑う獲物の一匹でしかなく、たまたま捕食者が見逃してしまっただけに過ぎない。

 そのままどれだけの間、昏い瓦礫の下に隠れていただろうか。

 自分の中では途方もないほどの時間が過ぎ去ってから、やがて彼と妹は救出隊に助け出された。

 あの恐ろしい捕食者を相手に、当時の剣斗けんとは逃げるという選択肢しか持たなかった。

 立ち向かうという選択肢など存在しなかった。

 ……けれど、あの恐ろしい化け物を倒した特別兵トルーパーがいた。

 彼女が化け物を倒したから、大勢の市民が救われたのである。

 剣斗けんとはその大勢の中の一人であり、直接彼女と顔を合わせたことはなかったが……その存在は、やがて生き残った彼にとっての〝目標〟となった。


 μβψ


「……おはようございます」

 出勤してくると、例によってアルゴスだけ室内にいた。

 デスクの上で丸くなっていた彼はむくりと身体を起こした。

 室内にはデスクが二つ。りんごのデスクと、向かい側に置かれた何も無いデスク。何も無いほうは恐らくアルゴスのデスクだったのだろうが、今は何となく剣斗とアルゴスの共用デスクになっている。構図としては、剣斗けんとが職場のデスクで猫を飼っているようにしか見えないが。

「やあ、おはよう剣斗」

「大佐は?」

「りんごならいつも時間ギリギリだよ。まぁそのうち来ると思うよ」

「……」

 剣斗は警戒したように周囲を見回した。

 アルゴスは小首を傾げた。

「どうしたんだい?」

「……いえ、あの人ってどこからともなくいきなり出てくるじゃないですか。あれ、めちゃくちゃ心臓に悪いんですよね……」

「ああ、あれね。確かに慣れるまではびっくりするかもね」

「あれって、あの人のA/Iアーク・イマジネーションと何か関係があることなんですか?」

「おや、鋭いね剣斗。どうしてそう思ったんだい?」

「本来ならあり得ないこと、起こりえないことでも、A/Iアーク・イマジネーションなら可能になる……誰でも知ってることです」

「ふむ。確かに剣斗の言うことは間違っていないね。だけど、あれは彼女の力の本質的なものというよりは、副次的なものと言った方が正確ではあるね」

「副次的なもの?」

「彼女のA/Iアーク・イマジネーションはね、重力子制御なんだよ」

「……は? 重力?」

「量子重力理論によれば、重力子はあらゆる素粒子の中で唯一、ブレーンとくっついていないでできている。素粒子の違いというのはひもの固有振動数の差異が生み出すものだけど、重力子だけはそもそも他とは違う。彼女はその作用を利用して三次元空間の外側――本来干渉不可能な余剰次元である五次元空間に自由に出入りできるんだよ。五次元空間を通れば、三次元の制約を一切受けることなくどこへでも移動できる。彼女の脳には重力子を知覚する器官もあるからね、三次元の情報以外は切り捨てているぼくらの脳には見えないものが見えているんだ。第3の目、とでも言うべきかな」

「……え、ええと……?」

 何やら説明してくれたが、まるでちんぷんかんぷんだった。

 剣斗が理解していないのはアルゴスも承知のようだったが、それ以上の説明はなかった。

「まぁ理屈は覚えなくてもいいさ。そういうことができる、ということだけ覚えておけばね」

「は、はあ」

「ところで、剣斗のA/Iアーク・イマジネーションはどんなものなんだい?」

「自分ですか? 自分は火を自由自在に操れるというものですが」

「あー、はいはい。能力もので一番ありきたりなやつね」

「……の、能力もの……?」

 アルゴスの言ったことはよく分からなかったが、何やら非常に侮辱的なことを言われたような気がした。

「……アルゴス中佐は? というか中佐はイマジナークなんですか?」

「ぼくかい? ぼくはイマジナークではないよ。ぼくは情報士官だからね。ちょっと色々と理由があって身動きができないんで、こうして造りモノの姿でしか人前に出られないんだ」

「理由? 理由というのは?」

「ぼくは生まれつき、とても虚弱でね。基本的にベッドの上から動いたことがないのさ。だから外の世界はアバターでしか歩いたことがない」

「え? そ、そうだったんですか? 申し訳ありません、それは失礼なことを――」

「というのは冗談で、外に出るのが大嫌いなだけのヒキコモリなのさ」

「……あの、どっちが本当なんですか?」

「さあてね。どっちだと思う?」

 アルゴスは意味深な笑みを浮かべた。猫の癖に随分と表情豊かな、よく出来たアバターである。

 ああ、これは訊いてもまともな答えはもらえないだろうな、と剣斗は即座に理解した。りんごとは違う意味で対応に困る相手だ。

「……そう言えば、そもそも中佐の年齢はおいくつで――」

「どっせい!!」

「うお!?」

 りんごが目の前に出てきた。

 しかも今日はとても勢いよく、かけ声と共に空間から出てきて、そのまま物凄い勢いで壁をぶち抜いてで隣の部屋まで突き抜けていった。

「――」

 びっくりしすぎて尻餅をついていると、壁の穴からりんごが何事もなさそうに出てきた。

「いや、今日のは風が強いな。ちょっと流されちまったよ」

「ふ、普通に出てこられないんですか!?」

「あん? 誰だお前?」

「だから竜道ですって!! 覚える気ないでしょ!?」

「ああ、新米ニュービーか」

「それはもういいですよ!」

「まあまあ、落ち着きなよ剣斗。ほら、いちおう相手は大佐だしね?」

「大佐なら大佐らしくしてください!」

「朝からやかましいやつだな、まったく……」

 りんごは定位置に座ると、いそいそとアニメを見る準備をし始めた。

「……なんで出勤早々アニメ見ようとしてるんですか、あなたは?」

 剣斗のこめかみに青筋が浮かんだ。

 しかし、りんごは彼の怒りなどどこ吹く風という顔だった。

「ふん、何と言われようとわたしはアニメを見るぞ。アニメを見るなと言われたら迷わず死んでやる」

「死ぬ前に迷わず仕事してくださいよ、仕事を」

「仕事仕事ってうるせーやつだなぁ、ほんと……なに、お前そんなに仕事したいの? 変なヤツだな?」

「それだけはあなたには言われたくないですよ……!」

 剣斗は思わず語気を荒げてしまった。

 溜まったものが思わずふきだしてしまった、という感じだった。

 りんごもさすがに彼の方を振り返った。

「自分は……自分は〝ヒーロー〟になりたくて特別兵トルーパーになったんです! アニメを見るためにこの制服を着たんじゃありません!」

「……〝ヒーロー〟だぁ? なに、お前そんなつまんねーもんになりたいの?」

「つまらなくありませんよ! 自分はいつか最高勲章である〝ヒーロー・オブ・ジャスティス〟を与えられるような立派な特別兵トルーパーになるんです! 絶対に!」

 〝ヒーロー〟。

 それを名乗ることが許されるのは――〝ヒーロー・オブ・ジャスティス〟の勲章を与えられた者だけだ。

 それは生半可なことでは決して到達できぬ領域だ。それこそ、命を賭してようやく掴めるかどうか、という高みにある。

 そうなるためにはエース、そしてトップ・エースという階段を昇り、特別兵トルーパーとして成長していかなければならない。よそ見をしている暇も、回り道をしている暇もないのである。

 ……と、剣斗は熱い思いを込めて言ったのだが、りんごはつまらなさそうに鼻くそをほじりだした。

「ほーん……まぁ勝手にしたらいいんじゃね? 〝ヒーロー〟を目指そうがホイコーローを目指そうがお前の勝手だ。わたしには関係ねーこった」

「関係なくないでしょ!? 隊長でしょ!? 仕事をください、仕事を!」

「えー? めんどくせえなぁ……じゃあちょっとパトロールでも行ってきたらいいんじゃねえの? 知らんけど。あ、わたしはここでアニメ見てるから」

「――」

 剣斗は何か言いかけたが、結局何も言わなかった。言ってたとろこで無駄だと思ったのだ。

「……分かりました。そうさせてもらいます!」

 剣斗は肩を怒らせて部屋を後にした。

 

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