なあ、何もかも忘れてしまおうか、地位も経歴も名も何も、何もかも

阿部 梅吉

なあ、何もかも忘れてしまおうか、地位も経歴も名も何も

 

 「飛行機がね、苦手なんです」


 私が取材で出会ったその男は、確かにそう言った。

男は洗練された黒の体に合ったスーツを嫌味なく着こなし、傷一つない黒の革靴を履き、足を組んでゆったりと座っていた。

 それはまさしく、私がイメージしていた通りそのものだった。


「でもあなたは昨夜、飛行機を降りてから成田空港でにこやかにファンに手を振っていたはずですが」

「それは事実ですね」


 奇妙な言い回しだった。まるで自分ではない誰かについて言ってるみたいな口ぶりだった。

 彼は穏やかな笑顔を向けたまま、何も言わなかった。


「よかったら何かご注文は?」と私は促した。彼は

「……キウイフルーツジュースを」と言った。


「遠慮しなくてもよろしいですよ、もっと豪華なものでも。ここはケーキも有名らしいですよ。雑誌とかでよく載っていますし、」

「珍しいのが飲みたいんですよ(彼は目を細め、嫌味なく笑った)、あなた方は?」彼は私と同行したカメラマン二人に目配せした。


「私は……(相手がジュースを頼むことなど滅多にないので戸惑ったが無難に)、ブレンドコーヒーにします。ここの喫茶店、美味いらしいですよ。なんでも官房長官とかお偉いさんのお気に入りだそうで」


 場所は都内のホテルの喫茶店だった。その時にかかっていた曲はピアノ版の『ボレロ』。ピアノだけで演奏するにはこの曲の良さが消えるとの意見もあるが、情報が「削ぎ落とされている」ほうが却って面白い場合ある。



「ところで、あなたは食事シーンのすべてをNGにしているとお聞きましたが、本当なんですか?」と私は聞いた。


「ええ。だから……(彼は私に同行していたカメラマンの方を見て笑顔を向けた)、私が何かを食べたり飲んでいるところは絶対に映さないで頂きたい。データの無駄になってしまいますから」


「わかりました、勿論」と私が言った。


「承知いたしました」と連れのカメラマンが言った。彼はこの道20年のフリーランスのカメラ小僧で、相手の嫌がることを決してしない。自身の経歴と名前に傷がつくことになるからだ。


「あなたはプライベートでも滅多にものを食べるところを人に見せないと聞きますが」

「そうですね、喉飴程度なら食べますけどね。それくらいですかね。煙草も吸いませんし」

「健康のためですか?」

「勿論」

「お酒も同様に?」

「ええ、たまに芸術家の中には呑兵衛がいますけれど、私は彼らの生き方には常々懐疑的なのです」

「というと?」


「芸術というのは単純ではありません。いえ、もっと『研ぎ澄まさなければ生み出せない何か』があるのです。私は芸術とは、何も考えてない人間ひとりの頭程度でわかるものだと思っておりません。頭をキリキリ使って、ギリギリまで考え抜いて、やっと芸術の女神の髪に一本触れられるものだと思っているのです。……わかります?」


「常に頭を明晰にしている必要がある、ということですか?」


「そうです、それは身体も同様です。私達は芸術というものを甘く見てはいけないと思っております。酒を飲めば素晴らしい演技ができるならば、呑兵衛は全員俳優としてこの世に名を残します」


「その通りですね」


 私は笑った。彼もリラックスしたように足を組みなおして微笑んだ。


 彼は私より十一歳年上だった。彼は当時すでに五十の壁を超えていた筈だが、彼の声、語り口、頬杖をつき足を組む仕草、笑い方、全てが美しい芸術品のようだった。


 当時三十九だった誰から見ても「おじさん」と言われるべきこの私でさえもが、知らず知らずのうちに彼の挙動一つ一つにのめり込んでいた。


 溢れ出る余裕、オーラ。自信。

 なるべくしてこの地位に成り上がった人物。



「運動はしておりますか?」と私は話題を変えた。


「走り込みもするし、ジムにも通ってるね」と彼はさらりと答えた。


「前にA田(それは甘いマスクの派手な若手俳優の名前だった)から聞いたんだ、良いジムをね。まあ家から近いし行ってみようってんでね、軽い気持ちで行ったらハマったんだ。最近はキックボクシングなんかやってる」


そのスポーツはおおよそ彼の硬派なイメージとはかけ離れていたため、少なからず驚いた。ついでに彼が名前を出した俳優も。


「そんな若い俳優さんとも仲がいいんですね」


「うん、舞台で2年前に一緒になった」


「ああ、あの……〇〇〇〇(以下略)……ですね、」


「そうそう、それで教えたくれたんだよ」


「しかし意外な組み合わせですねえ」


「彼は物凄いストイックだよ。それによく考えて行動してる。僕なんかかなり教わることが多いな」


「あなたは自分の年の半分も生きていない若手俳優からも吸収しようとしているんですね」


「まあ、なんにせよ舞台が好きだから、うまい人からは自然に吸収したいなって思っちゃうよね、年齢とか関係なく。そうそう。この前も舞台に行ったよ」


「プライベートで?」


「そう。プライベートでもなんでも、勝手に(舞台に)行って、勝手にいろんな人に感想を送りつけてる」


「感想を送られた方はかなりびっくりされるんじゃないですか?」


「してるだろうね(笑)」


「みなさんどんな反応ですか?」


「うーん、観たもののうち、本当に良いと思ったものにしか感想を送らないから、まあ、喜んでくれていると思うよ。わからないけど」


「まあ、そうですよね。ちなみに年間で何本ほど舞台を見に行きます?」


「ううん……(また彼が笑い出す。それが少年のようでもあり大人の男の余裕でもある)わからないね。正確には。舞台の仕事が入るとそれにかかりっきりになるから無理だけど?でも、多いときは週に3本とか行くよ。同じ舞台に何度も行ったりもするし」


「最近注目している俳優はいます?」


「いっぱいいるね、正直な話」


「具体的には?」


「若手だとO井……男だとMとかかな。挙げればきりはないね」


「テレビとかもよく見ます?」


「見るよ。ドラマか映画は毎日見てるね」


「今後は舞台とドラマと映画の活動と、どれに重きを置く予定ですか?」


「媒体自体に注目してなにかに重きを置きたいとは思わないんだ。ただ、自分が求められていること、自分がおよそ求められていないであろうこと、どちらもしたいと思っている」


「求められていることとは?」


「言ってしまえば、私は良くも悪くもテレビドラマシリーズ……〇〇〇〇(誰もが知ってる人気シリーズだ。彼はそれで主演を務めた)のイメージがついているらしい。それで世間の人は認識しているだろうな。あれは私が完全に求められていることに特化した結果だと思う」


「あれは完全にビジネスに徹していたということですか?」


「ビジネスには常に徹底しているよ(また彼が嫌味なく歯を見せて笑う)、プロだからね。というより、あれは完全に視聴者の需要を満たすことだけを一番に考えた、と言うべきかな」


「視聴者が求めている演技を徹底的にやりこんだと?」


「そうなるね……。芸術家は常にある矛盾を抱えてると思う。つまり、やりたいことと求められること、どちらをすべきかという問いだ。これは多くの芸術家がぶち当たる問題だね。でも私はこうも考えている、そもそもその問いを孕んだものが芸術なのだ、と」


「全ての作品にはその矛盾が孕んでいるということですか?」


「そうだと思う。作品は、100%自己満足にはなり得ないし、逆に100%他者依存にもなり得ないと思っている。我々プロは……ここがすごく面白い所だ……どちらもやらねばならないんだと思う。まあ、言うほど簡単なことじゃないかもしれないけどね」


「あなたはそれがどうしてできたのでしょう?」


「ラッキーだったんだと思う。正直な話。確かに私は大学の演劇サークルの頃から劇団長をやってきたし、他の人よりは少しは実力があったのかもしれない。でもね、そんなもの大したことじゃないんだ。結局、私はかなり恵まれていた。観客が求めていることをたまたま、たまたまと言うほかにはないと思うが、私はできた。ただまあ、それだけの話だね」


「観客が何を求めているのかわかるのですか?」


「いや、わからない。それがわかったらもう全ての作品はもっと売れている。結局何が受けるのかなんてわからない。だからいっつも聞くし、見るんだ。私は『俳優』だからね。

 観客の動向は案外見えるんだよ、意外だろう。見られてるだけじゃなくって、ちゃんとこっちも見える。毎回誰かのことを考えて私は演技をする。誰でもいい。〇〇〇(とある大御所俳優の名前だ)なんかは、席の真ん中に座ってる、ただ一人の人間を泣かせることを目標にしていた、って言ってたな」


「そんなに観客のことを見ているんですね」


「きちんと観客を見て、考えて演技して、それで想像通りの、いや想像以上の反応が貰えることがある。まあ私なんかは、その瞬間のためにずっとこんなことしてるとも言えるけれど。とにかく、ギリギリまでずっと頭をフル回転させなきゃいけないんだよ。加えて心の底では楽しまないといけない。それができた時には……たまあにできる時があるんだけど……まあ良くやったなあ、と思うね、我ながら(笑)」


「すごい領域ですね」


 私は当時(当時のテープを聴きながら今このインタビューをパソコンに打ち直しているわけだが、)こんな小学生のような感想しか返せなかった。


「でも世界にはそんなこと、考えなくてもできる人もいるらしいですよ、ははは」彼は笑った。


「それはまた、」私は笑った。

「見てみたいものです」

「それを人は才能と呼ぶのかもしれません」


 彼は連れにカメラをソファに置くよう指で指示し、一呼吸おいてから、やっと頼んだジュースを口にした。

 つんと漂う、甘く、それでいて爽やかな、匂い。






 「ところで飛行機が苦手と仰っていましたね」私は話を戻す。


「ああ、苦手だね。あれに乗ると、いつも墜ちて死んじゃうじゃないかって思う。毎回懲りずにね。だからいっつも乗りながら神様に御祈りしてるんだ」


「怖いのですか?」


「怖い……(彼は一瞬机を見やったがすぐに私の目を見て)、のかもしれない。もともとあの離陸時のフワッとした感覚も大嫌いだけど、なんとなくいつも乗るたび、いつこの飛行機が真っ逆さまに地上に落ちてもおかしくないんだぞ、と思ってる。変な話だけど」


「飛行機の事故は自動車の事故よりも遥かに少ないらしいですよ」


「そうらしいね。僕は車も運転しないけどね」


「専属の運転手がいるのですか?」


「まさか。普通に電車やタクシーを使っているさ。だって電車とタクシーがあるんだからね」


「それでも、飛行機には乗るんですね」と私は笑った。


「飛行機は早いし、それに……」と彼はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


 「それが私の求められていることなのです」




 

 彼のこの記事は取材から1か月後に雑誌に載った。

 

 洗練された空気をまとい、適度に肩の力が抜けたポーズで、時には子供っぽく笑い、熱く演劇について語る彼の写真がそこには写されていた。






 これはもう、5年前の話である。







 つい4日前、A田という俳優が薬物使用の疑いで逮捕された。

 テレビもワイドショーもSNSも、こぞってA田のことを取り上げた。


 私がこれを知ったときに真っ先に頭に浮かんだのは……


彼だった。5年前にインタビューで会ったあの彼のことが心配になった。



 彼はA田と親交があったはずだ。さぞ落ち込んでいるに違いない。



 私は早速彼の事務所に電話をかけた。

 しかし事務所によると、彼は特に行き先を告げずに5日前から海外旅行にでかけたとのことだった。

 私はかなり妙な気持ちになった。彼はたしか飛行機が嫌いなはずだ。とすると、船で海外へ行ったのだろうか?

 彼のマネージャーに問い合わせてみたが、プライベートには答えられないと一蹴された。


 彼はSNSの類をやっていない。オフィシャルサイトは事務所が運営している。彼の行方は全く途切れ、わからなくなった。

 彼は我々の前から一切消えてしまった。ただ、彼の作品と言葉だけを残して。






はずだった。






 彼が都内の喫茶店で、6日前にA田と接触していたことがマスコミによって明らかになった。


 当然、彼の事務所も取材が押しかけたが、すでに彼は消えてしまった後だった。

 そこでは彼がサンドウイッチを食べている写真が報道された。これは喫茶店にたまたま居合わせたA田のファンが隠し撮りし、SNSに投稿したものである、と後にわかった。


 彼がものを食べているところは、事務所の人間ですら滅多に見たことがないらしく、マネージャーしか知らないとのことだった。業界でも彼のこの奇行は知られており、一部では話題となった。



(「あの人もものを食べるなんて、ちゃんと人間なんですね」


と、彼と親交のある若手俳優がワイドショーで呟いた。


「そらそうやろ」と司会の芸人が突っ込んだ。)

 






 「それが私の求められていることなのです」


と彼は言った。


「飛行機に乗ることが?」


「ええ」と彼は当然のことのように答えた。


「私は飛行機で何度もシュミレーションをします。そうですね、演技のことやら、試写会で求められる発言のことやら、飛行機を出たあとの歩き方から手の振り方まで、あらゆる、おおよそ誰かに見られるであろう全てのことを。

 どうやら皮肉にも、私が『私』でいられるのは、あの空を飛ぶ恐ろしい乗り物の中でだけみたいです。

 だって飛行機なんて、墜落したら皆同じでしょう。神様は僕なんか依怙贔屓しませんからね。私はアレに乗っている時だけ、自分とは何者かを強く認識させられます」


「求められていることならば、たとえ嫌な事でもやるんですか?」


「何でもはやらないね。でも、時には求められなくても、やらなければならないこともあるのかな、と思い始めてる。ここ最近は」


「と言うと?」


「発展しないんですよ」と彼はあっさり答えた。


「求められていることを考えることができて、おそらく初めてプロになれるだろう。でもね、それが芸術かというと、そうとも言い切れないと思うんだ。結局のところ、私たちはなんにせよ、誰も見たことのないことに挑戦しなければいけないんだと思う。最近、それが責務だと強く思うよ、強くね」


「求められていることをやるだけでは足りないと?」


「そういうことになると思う」


「何かあなた自身がこれからやりたいことはないんですか?」


「そうだな……、毎日毎日明くる日までオペラでも見て、美術館に行って、最高の景色も見て……。誰も私の知らないところに行きたいかな。観客は誰も私を知らない。私の過去なんか誰も興味ない。

 私は道でいきなり芝居を始める。誰も初めは見向きもしない。でも一人、二人とのめり込んでいく。時には笑い、時には泣くだろう。観客も一緒になってね。そこには純粋な芝居しかない。誰も僕を見ていながら、僕を見なくなる。僕じゃない僕を見る。僕じゃない僕を見ながら、彼らは笑い、泣き、感動する。そういう生活ができたら、まあ、本望だよね」


「素敵ですね……」


すっかり彼に参ってしまった連れのカメラマンが口を挟んだ。


「ええ、素敵でしょう」


 俳優の中の俳優と言っても良いだろう、彼はまさに俳優になるべくして生まれてきた資質を持っていた。


 その微笑み方さえも。






 私は彼が今どこにいるのか、全く見当がつかない。そんなことは誰も知らない。神様にしかわからない。

 マスコミは今頃血眼になって彼を探しているだろう。


 彼が自分の役割を果たしたのか、私にはわからない。

 ただ私に言えることは、彼は我々の前で「永遠に俳優であり続けた」ということだけだ。

 彼はいつだってスターであり、物語の中のキャラクターだった。いつだって私達に最高の彼を見せてくれていた。私達はいつだって彼の演技にのめり込むことができた。

 誰がなんと言おうと、彼は真の意味で俳優だった。

 たとえその一挙一動が、彼の紡ぐ言葉全てがまやかしの演技だったとしても。



 私は、彼が今までにたくさんの人の心を動かしたように、どこかで誰かのためにまた演技をしていることを願う。その時、彼は本当の意味で彼になれるのだろう。

 願わくばまた、私は彼に会いたい。また彼に会えば、彼は私の心をどこかに連れて行ってくれるだろう。たとえ私がどんな人生を歩み、どんな境遇にいて、どんな罪も責任も愛をも背負っていたとしても。


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なあ、何もかも忘れてしまおうか、地位も経歴も名も何も、何もかも 阿部 梅吉 @abeumekichi

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