第6話 光の泉

 

 

 

 キチ、キチと、歩くたびに小さな金属の擦れる音。

 安物の剣を背に刺した彼女はみるからにご満悦で、耳の元気な動きからもそれが伝わってくるようだった。ローブにしまっていたらしい、しなやかな尻尾がくねりとうねった。

 少し身の丈に合わない鞘の大きさは、それでもなかなか、買った装束にマッチしている。これで、大好きな甘味を買ってもらいました、みたいな顔が引き締まり、装備に小さな傷なんかが出来てくれば一端の戦士にも見えるのかもしれない。

 いまはまだ完全に成り立ての成り立て、といった感じだ。顔が緩みきっている。

 

「そんな大きなの、振れるんですか?」と俺は笑ってみせる。

「なんですか、さっきは何も言わなかったじゃないですか」

「それは、あんなに持ちたそうな顔をされたら」

「大丈夫です、練習しますから」

 

 ちなみに俺もレフィの選んだ装束に着替え、元の服は店の方で処分してもらった。普段使いにも良い肌着も買って、店を出た後は武器屋でレフィの剣を購入した。

 

「武器って鍛冶屋さんじゃないんですね?」

 

 わくわくした表情を隠しきれないまま、レフィが聞いてくる。

 

「鍛冶屋にも武器は置いてありますが、素材を持ち寄ったオーダーメイドのお客さんの方が多いらしくて、どっちかっていうとお金持ちなパーティが行くところみたいですよ」

「オーダーメイド……、自分の剣……」

「憧れますか」

「憧れますよ! わたし、いつか見たことあるんです。ある戦士のひとが、こう、剣をふあーって光らせて、ばばばばばーってすごい速さで振るんですよ。すごかったんですよほんとに! 綺麗でかっこよくて、すごくて。本当に」

「そういうことですか」

 

 彼女の興奮した口ぶりに、俺はやっと彼女が目指しているものに見当が付いた。

 見当が付いた上で、見られないようにそっと拳を握り、ため息を吐いた。

 

「あとは、もし、魔法なんかが使えたら……」

「魔法? ああ、レフィさんもしかしてまだ魔法は使えないと思ってます?」

「えっ!?」

「僕は司令なのでアレですけど、レフィさんは戦士ですよ? どうします? 人気の無い場所なら迷惑もかかりませんが」

「ど、どうしますって、まさか……!」

 

 俺はレフィに笑いかけ、大通りを外れ、閑散とした空き地に足を向けた。

 

 マナの濃淡はわからないけれど、涼しい風が吹き抜ける良い場所だった。

 振り返ると、装束に身を包んだレフィが、目を輝かせている。

 

「それじゃあ、ゆっくり唱えるので、できるだけ完璧に繰り返してください」

「えっ、あの、本当に……!?」

「いきますよ」

「は、はい!」

 

 俺はじっと目を閉じる。集中力を高める。

 自らの意識に言葉を繋ぎ合わせ、たった一つの呪文を紡ぎ上げる。

 

 目を開ける。

 どこか不安げなレフィの瞳を、俺は真っ直ぐ見つめ、口を開く。

 

「焔、紅蓮に染まりし面持ちは焼け爛れん」

「ほ? ほむら、ぐれんにそまりしおももちは、やけただれん!」

「真紅の舌言に出でたるは真っ赤な虚偽!」

「しんくのぜつげんにいでたるわあ、まっかなきょぎぃ!」

 

 方角は向かって真横。遠くの地面を真っ直ぐ指差し、俺は力強く、吼える。

 

「ゥッファイアボーーーーーーゥ!!」

「ぅふぁいあぼーーーーー!!」

 

 二人の指先は、その向きを同じくし、共に見る同じ景色に、俺は意識を投じる。

 爽やかな風が吹き抜ける。暖かい陽の光りの下。

 俺が伸ばした指先をゆっくりと腰に戻すと、遠くで小鳥がチュンと鳴いた。

 

「……とかやっても、まあ、撃てるわけもないんですが」

「なんでやらせたんですかああああああああっ!!」

 

 レフィは胸の前でぎゅっと両手を握り、力いっぱいに抗議してくる。

 真っ赤になった顔から塗料が作れれば、布を染めるのにもしばらく困らないだろう。別に染める予定もないけれど。

 

「誰にも迷惑はかかってないので。さっさと宿を探しますか」

「わたしにかかりましたっ! 迷惑がっ!! 酷い辱めを受けましたっ!!」

「いやあ、思いつきの呪文じゃ何も出ないもんですね」

「テキトーだったんですか!?」

「や、詠唱が間違っていること以外は成功してたので、おおむね成功といっていいでしょう。あとはなんでしょうね。炎の球が出なかった理由は。本当に、ほとんど成功なんですよ。あと思いつくとすれば、大したことじゃないですが、協会で魔法の習得をしていないことぐらいですかね」

「ぜったいそれが一番大事じゃないですか!? 出来ないってわかっててやらせましたね!? もう、もういやです。このひといやです。本当にいやですう」

 

 涙目を隠すように俯くレフィ。頭の上の耳が萎れる。

 そんなことをされるから、右手が疼いてしまうんだ。

 

「……まあでもいいじゃないですか、魔法もそのうち覚えられますし。言い忘れてましたけど、その格好すごく似合ってますよ。ちゃんと戦士って感じです。可愛いですよレフィさん。レフィさん可愛い。レフィさん可愛い」

「うぅ、そ、そんなこと言ったって、わたしは許さないですからね!?」

「かわいい! あっ! レフィさんかわいい!!」

「も、もうやめてください!!」

 

 レフィは頭を抱えて座り込んでしまう。

 褒められて照れることができるのは健康な証拠だと俺は思う。

 

 影が小さい。お日様は真上。

 だいぶ予定はこなした。そろそろお昼時のようだ。あとは、昼食をどこかでとって、数日分の宿を確保できたらいよいよ別行動になる。

 食べ物と寝床は早いうちに手段を確立しておきたい。食べ物は食用にもなる魔物を狩ればいいし、眠る場所は厚手のマントでも買っておいて、野営も視野に入れればとりあえずはなんとかなるだろう。

 住む場所は、とりあえず保留だ。

 

「……リーダーも、かわいいって言ってくれるでしょうか」

 

 座り込んだままのレフィが小さく呟いた。

 その言葉に、俺は少し面食らった。

 

「あのおっさ、……おじさんに、かわいいって言われたことがあるんですか?」

「あります」

「普段からよく?」

「い、いえ。初めて会ったときに、一回だけ」

 

 あるのか。意外だ。

 いや、憧れの人にかわいいと言われたことがあるからこそ、彼女は自分の容姿にだけには自信を持つことができているのかもしれない。

 いや、しかし。

 

「かわいいって言われたのに、あんなことされてたんですか?」

「あんなこと?」

「たとえば暴力とか、そういうことを」

「リーダーに殴られたことはないですよ?」

「あれ?」

 

 俺はあのおっさんが主犯なのだと勝手に思っていたけれど、そうじゃないのだろうか。

 前提が食い違っている気がしてきた。しっかり聞いておこう。

 

「あのおじさんとは仲が良かったってことですか?」

「いえ、ほとんど話したこともないです」

「話したことがない?」

「仲間に入れてもらうまではよかったんですけど、その、適正の数値を言ったら……」

「ああ……、そういうことですか」

「それからは、ほとんど見向きもしてもらえないというか、話せるのも戦士の人たちだけで……」

「なるほど」

 

 うーん、と俺は首を捻る。

 話を聞くに、彼女は見た目こそ気に入られていたけれど、適正を言ったことで興味を失われてしまったと。それからリーダーとの会話はなく、他の戦士を通じてしかやり取りがなかったと。そんなふうに聞こえる。

 

 にわかに浮上する疑惑。

 あのおっさんは人相が悪いだけで、べつにそこまで嫌な奴ではないのでは?

 

 例えばあの男女の戦士二人が黒幕説だ。

 リーダーはレフィの見た目こそ気に入り、仲間に入れてもいいと考えたが、適正を聞いて戦いには向かないと判断した。そこで戦士を通じて、パーティを抜けるようにそれとなく伝えるように指示を出す。

 しかし戦士は、見た目だけで仲間入りしたレフィが憎かった。だからあえて、仲間を抜けなさいという指示を伝えずに、同行させたままボロ雑巾のように扱う。リーダーには「あの子がどうしても聞かないんです。勝手についてきちゃんです」なんてことを言って誤魔化す。そして優越感と嗜虐心を満たしていく。

 

 ……ちょっと厳しいか。

 

 いくら人見知りな司令がいたとしても、自分の意思が伝わっているにも関わらず付いてきてしまう子がいたとすれば、少なくとも一度は自分から話を聞くだろう。伝えようとするだろう。「どうしてまだ付いて来るんだ」と。「君には戦いが向かないからやめておきなさい」と。

 

 それをまったくせずに、危険な魔物との戦いの間ですら、身を守る術も知らないレフィを身近に置いておくなんてことは考えづらい。

 

 興味を失っている、というのが一番近いだろうか。

 

「レフィさん」

「はい?」

「そのうち戦士にしてやる、っていうのは、直接リーダーから言われたんですか?」

「いえ、もう二人の戦士の人たちが『リーダーがそう言ってた』って」

「なるほど。ありがとうございます」

 

 俺の言葉に、すでに立ち上がっているレフィは小さく首を傾げた。

 

 まあ、やることは変わらない。

 あの男女の戦士が性悪なのだとしても、あのリーダーが適正の低い者に興味が無いのだとしても。どちらにしろ、レフィが見違えるほど強くなってしまえば問題ないのだ。

 

「宿、探しにいきましょうか」

「ああ、はい」

 

 俺とレフィは空き地を後にする。

 

 

 

   *   *   *

 

 

 

「あのう、大丈夫ですか?」

「なにがです?」

「い、いえ、その……」

 

 宿の一室で、レフィはベッドに、俺は背もたれのない丸椅子に腰掛けて向かい合った。

 情報収集も三日目となると、レフィもだいぶコツを掴んできたのか、落ち着いた様子に見えた。衣装を新調したのはかなり効果があったようで、人とすれ違うたびに俯いていたような影のある表情はなりを潜めていた。

 

「なにをしてるのかは知らないですが、無理してないですか? ちゃんと寝てます?」

 

 心配そうなレフィの表情に、俺は必死で目蓋を持ち上げる。

 そのまま眉を寄せるようにして睨みつけてやる。

 

「これが眠そうな顔に見えますか?」

「そんな、キリっとされましても……、クマは消せないですよ?」

「キリィッ!」

「だから無理ですって」

「ですよね。まあ大丈夫ですよ。それより聞かせてください」

 

 俺が顔から力を抜くと、彼女はいっそう疑わしそうに俺を見つめてから、呆れたように肩を落とした。聞いても仕方が無いか、とでも言いたそうだ。

 そこまで心配してくれるのであれば、是非とも腕の中にきて頭を撫でさせてはくれないだろうか。レフィという極上の頭をした少女が身近にいるせいで、禁断症状がやばい。できれば抱きしめてその髪と耳を堪能しながら鼻をうずめて吸いたい。俺はレフィが吸いたい。一発キメたい。キメればあと十日は余裕だ。

 

 ほぼ間違いなく求愛行動として受け取られるだろう。

 できるはずもない。俺は吸いたいだけなのに。

 

「黒くて大きな狼の噂はあいかわらずですね。目撃証言もバラバラで本当にいるのかどうかもわからないですが。まったく襲ってこないだとか、額に傷があるとか、近づくと逃げるだとか。罪の無いものが多いです。驚いて転んで怪我をした人がいるくらいで、被害もまったくないらしいので。一応、素性を調べて欲しいという興味本位の依頼がとあるお金持ちから出てるみたいですが、金額を見る限り受ける人はほとんどいなさそうに見えました」

 

 レフィはその金額を思い出して口にする。

 なかなかケチな依頼人のようだ。こんな雲を掴むような話にその報酬では、雑費のほうが多くかかってしまうに違いない。

 

「あと私達にできそうなものと言うと、煙突掃除くらいですかね。あとは薬にする、えーっと、なんとかっていう葉っぱをたくさん取ってきて欲しいとか」

「……ツキガクレかニジブナ?」

「あっ! それです、つきがくれ! なんでわかるんです?」

「簡単な回復薬に使うんです。初めて会ったときに渡しましたよね? アレです。塗るほうがツキガクレで飲むほうがニジブナで作れます。もっと上質な薬を作ろうとするには簡単な薬をたくさん消費するらしいので、この二つの薬草はたぶん、気付くと無くなってる日用品みたいなものだと思いますよ」

「……なるほど。香水にも使うんですか?」

「香水には、ほとんど使わない、ですかね。香水と言うより趣味で薬の調合もやってたので」

「そうなんですねー……」

 

 レフィはあまり興味がなさそうに相槌をして、自分の手に視線をおとし、にぎにぎと動かした。そこから指を一本ずつ立てていく。おそらくは話す内容を思い出しているのだろう。会話よりも自分に与えられた仕事に必死らしい。

 

「あとは魔物退治のものとか、素材集めとか、輸送の護衛だとか、やっぱりわたしたちにはまだ出来そうにないものが多かったですね。弱そうな魔物はたぶんいなかったと思います。それと、街のなかを走り回る食い逃げ少女を捕まえて欲しい、とか、怪しい薬の実験台になってほしいだとか、昨日探した分はそれくらいですかね」

「……食い逃げ少女?」

「なんだか、あっちこっちで被害を出してるみたいですよ。長い黒髪の女の子みたいですが、良くない噂が多いです。店頭に並んでるものを引き倒して、ばらばらになったのをいくつか持ち去ったとか、止めようとした人に重症を負わせたとか。これもたぶん、わたし達には荷が重いんじゃないですかね」

「なるほど、ありがとう」

 

 最後まで聞き終えて、俺はゆっくりと天井を見上げて、目を閉じた。

 

「ほんとうに、大丈夫ですか?」

 

 その声に目を開けると、レフィは小さな掛け声と共に、剣を背負って身支度を整えていた。

 俺は彼女の気遣いは応じずに、聞き返す。

 

「今日も昼まで素振りですか」

「もちろんです! 強くなるんです!」

「いいですね。俺は少し寝ます」

「そうしてください。もうシーツも変えてありますから」

「……ありがとうございます」

 

 朝帰りの俺は、レフィが退いたあとのベッドにぼふりと力尽きる。

 目を閉じると、暗闇がぐうっと深くなる。もうあと数瞬で自分が眠りについてしまうであろうことがわかった。

 

「まったく、ほとんど貸切じゃないですか」

「昼の宿は安いはらいいんでふー……」

「はぁ、わたしは行きますからね?」

「戻ってきはら起こしてくらはい」

「わかりましたよー……」

 

 面倒くさそうに返事をして、レフィが部屋をあとにする。

 その足音が消えるかどうかの間に、俺は黒い眠りの世界に吸い込まれる。

 

 

 

 

「おぉおし、いきま、すかー」

「気が抜けるのですが。ふにゃふにゃじゃないですか。倒れないでくださいね?」

 

 夕暮れの宿で落ち合った俺とレフィは、身支度を整えて出発する。

 やるべきことを終えたのはちょうど五日目のことだった。正直言って、運が良かったというよりほかにない。

 

「それで、どこに行くんです?」

「北にある小さな村の先に綺麗な泉があるのですが、そこに行きます」

「泉ですか? こんな時間に?」

「こんな時間じゃないとだめなので。……あと、これを渡しておきます」

 

 俺はひとつの薬瓶をレフィに手渡す。

 夕日の色に染まった液体が中でちゃぷりと揺れた

 

「なんです? これ」

「香水です」

「香水? 何に使うんですか?」

「そのうちわかります」

 

 レフィはそれを自分の鼻に近づけて、すんすんとやる。

 

「……いい匂いがします」

「香水ですからね」

 

 俺は笑って、先を歩き始める。

 

 

 

   *   *   *

 

 

 

「ほんとに、何も出てこないんですね、魔物」

「言ったじゃないですか」

 

 背の高い植物や木々に囲まれた泉は空がぽっかりと開けていて、狭い夜空の片隅ではお澄まし顔の丸い月がお高くとまっていた。今日は満月のようだ。

 泉のほとりに腰掛けた俺とレフィは、水に映る月を風の波紋が揺らしていくのをなんとなく眺めながら、時間が過ぎるのを待っている。相手が相手ならば手を握ったり肩を抱いたり、そんなアレやコレを予感させるほどロケーションではある。しかしながら、下手に腕を回そうものならその小さな後頭部に二の腕を食らわせてしまうに違いない。

 

 静かで荘厳な光りは辺りを照らす。

 何となく、隣で緊張したままのレフィを脅かせば腰を浮かせて飛び上がるかもしれない。飛び上がったついでに、あの夜空で気取った顔をしている色白さんを捕まえてきてくれれば、しばらくは夜の灯りに困らなくなるだろう。まあ置き場所には困るかもしれない。世界も困るかもしれない。月を盗んだ罪はいかほどか。

 

 もしバレたら主犯のレフィを差し出して、代わりに夜空へ旅立ってもらうより仕方ないだろう。涙目になりながらも顔を光らせて世界を照らすレフィ。実に神々しい。

 

 すん、すん。

 

 レフィが小さく鼻を鳴らすのが聴こえる。

 

「どうしました?」と俺は尋ねる。

「いえ、匂いがちょっと」

「いい匂いって言ってたじゃないですか」

「匂いはいいんですけど、その、ニトさんと同じ匂いがするんていうのが……」

 

 なんだ、俺と同じ匂いは不服か。

 贅沢な奴だ。足首掴んで投げたろか。

 

「魔物避けなんですから、我慢してください」

「わかってますけど……」

 

 気まずそうに、彼女は顔を背ける。

 男と同じ匂いがするというのは、トシゴロの女性からすると、ちょっと敏感になるようなことなのだろうか。俺にはわからない。

 

 まだ時間はある。

 俺は両手を後ろについて、だらあと夜空を見上げる。

 

 

 

 

「いつもそうやって、月を見ているんですか?」

「へえ?」

 

 ふいの質問に、俺は虚を付かれたように返事をする。

 月明かりに照らされたレフィの表情は、はっきりとはわからないけれど、見覚えのある眉のかたちは、俺を心配しているように見えた。

 

「……まあ、月はよく見ますね。好きなので」

「好き、なんですか?」

「え?」

「ほんとうに、好きで見てるんですか?」

 

 俺には彼女の聞いていることがなんなのかがよくわからなかった。

 確かに「好き」というのは適当な嘘だったけれど、なぜわかったのだろう。そもそも、そこまで気になるようなことだろうか。

 

「レフィさんには、僕がどんなふうに見えてたんですか?」

「……うまく言えないですけど、ニトさんはもう月を見ないほうがいいと思います」

「うん? なんか、とんでもないことを言ってませんか?」

「うまく言えないですけど! なんかヤなんです!」

「はっはあ……? そうですか。しかし却下ですね。僕は月を見ます。どーしてもやめさせたいなら、その気持ちを一文字で表現してください!」

「ヤ! ヤッ!」

「あっ、レフィさんずるい! レフィさんずるい!!」

 

 ずるいだの、ずるくないだのと、他人が水切りを何回できるかくらいどうでもいいことを言い合う。言い合っているうちに、彼女は呆れたように肩を落としてまた正面の泉に目を向けた。

 

 ここのところ、彼女が諦めるのが早くなってきた気がする。少し寂しい。

 しかしあまり馬鹿なことばっかり言っていたら捨てられてしまうかもしれない。

 

「月を見るのが好きっていうのは確かに嘘です。ちょっとびっくりしました」

 

 俺がそう言うと、じとっとした目がこちらを向いた。

 ほらみろ、とでも言いたげだ。

 

「……じゃあ、なんで見てるんですか?」

「別に夜空を見上げるくらいは誰でもしますよ?」

「嘘です。ニトさんの場合は何かあります。絶対」

「なんでそんな風に思うんですか?」

 

 俺が真っ直ぐ聞くと、彼女は答えづらそうに一息置いた。

 

「……なんだか、すごく辛そうに見えたので」

「つらそう?」

「いつでしたか……、確か、そう、わたしのレフィンダーになってくれると言っていた時も、ニトさんは同じような顔をしていた気がします」

「……」

 

 ああ、そういえば。と俺は思い出す。

 確かなんだったか。

 

「ジンメンタケみたいな顔でしたっけ?」と俺は聞く。

「それを踏み潰したような顔です」

「いま改めて聞いても酷くないですか?」

「ニトさんがそれくらい酷い顔をしてるんです。自覚してください。……あと、できれば、そんな顔をするくらいなら月を見るのはやめて欲しいです」

 

 そうか、俺は月を見ているときは菌類のような顔をしているのか。

 どんな顔だ。

 

「考えておきます」

「期待薄ですね……」」

「まあそう言わないでくださいよレフィさん。別に、ほんとに、大したことじゃないんですよ。月を見たところで特になにがあるってわけではないんですが、ただ……」

「ただ?」

 

 こちらを見上げるレフィに、俺は言葉を探す。

 自分の思いを正確に表現するというのは、存外難しい。

 

「……ただ、目を離しちゃ、いけない気がするんです。……あっ」

「わあっ!」

 

 言い終えるかどうかという瞬間に、泉の水面をさっと光りが通り抜けた。

 あまりに一瞬の出来事で目の錯覚かと思ってしまうけれど、間違いない。

 

「レフィさん、こっちです!」

「え、わっ」

 

 俺は小さな手を取り、光りの消えた方へと走る。

 レフィは転びそうになりながらも、必死で足を動かしてついてくる。

 

 俺とレフィは、大きなツユクサの茎の下で立ち止まる。雨宿りすらできそうな葉の下からそれを見上げると、息を切らしたレフィも同じようにその巨大な葉を仰ぎ見た。

 通り抜けた光りはその根元に集まり、だんだんと茎を昇って葉に広がっていく。息を呑むような声が隣から聴こえる。

 

「レフィさん! 両手出して!」

「てっ? へっ? 手ですか!?」

「こう、うつわにして、うえに! ほら落ちてきますよ!」

「えっ、えっ!?」

 

 葉を包んだ光は一点に集まる。

 そして大きな葉はゆるりとその身を揺らし、その先端から、光りの雫が今にも零れ落ちようとする。

 あわ、あわとよくわからないことを口走りながら、レフィはその落下点を見定めて、両手を掲げた。葉が大きくしなる。特大の雫は、ほんの少しの粘り気をもって。

 

 ちゅんっ。

 

 と、彼女の手の中に弾けた。

 跳ねて零れた水気がキラキラと光って落ちていく。

 

「な、なんですかこれ、わあ、ええ、どう、どうすれば」

 

 両手に溢れる光りをどうすればいいかもわからず、彼女は自分の手と俺の顔を見比べている。

 

「あ、どうすればいいんだろう」

「ニトさん!? ちょっと! どうするんですか!? 知ってるんですよね!?」

「塗る? 飲む? たぶん、飲む。そう。飲めばいいと思います。たぶん」

「たぶん!? 大丈夫なんですかこれ!? 毒とかはっ!?」

「たぶんないです。大丈夫ですレフィさん。レフィさんなら大丈夫です」

「まったく安心できませんが!?」

「いけるいける、いけます。旅の祈りを捧げるんです。おまじないみたいなものです。健康でいたいとか、強くなりたいとか、そういったことを念じて、飲んじゃってください」

「え、じゃあ強くなりたい、でいきますよ!? いいんですよね!?」

「たぶんいいです」

「そのたぶんっていうのやめてください!!」

「ほら、光りが消えないうちに」

「あ、あ」

 

 手の中の光りに照らされたレフィの表情は苦悶に歪む。

 ごくりと息を飲んだ後、彼女は意を決して手に口元を近づけ、傾けた。

 

 いくらかの光りを零しながらも、彼女はぎゅうと目を閉じてそれを飲み下していく。なかなかの飲みっぷりである。いずれ酒豪になるかもしれない。 

 

「……っ、ん、ぁはあー」

「どんな味でした?」

「あじ、わがんながったでず」

「鼻でてますよ」

「あい……」

 

 半泣きのレフィが、ずずっと鼻を鳴らした。

 なりふり構っていられるほどの余裕もないらしい。可愛そうに。

 

「泉で顔を洗うといいですよ。ここの水はとても良い水なので」

「あい……」

 

 縁に座り込み、ぱしゃぱしゃと顔を洗ったレフィは、ある程度の水気を切るとこちらに歩いてくる。やけに肩が怒っている。

 脛に、覚えのある痛みが走る。

 

「いたっ、痛い、レフィさん痛い!」

「先に! 説明! しておいてくださいよ!!」

「ごめんなさい痛い! ごめんなさい痛い!」

「もうっ! もうっ!」

 

 ひとしきりの非難を受け止めてから、俺とレフィは泉を後にした。

 これ以上蹴られたら、そのうち足の関節が増えるかもしれない。

 

 

 

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