おませな戦士はつむじで聞くよ!
おおば とりよし
第1話 ちびっこ誘拐
「なんなら結婚でもいいのです!」
「なんならってなんだ」
ついでにプロポーズされた俺は、むんと寄った眉毛に向かって言い放った。
例え彼女がおとなりの国との均衡を傾けるほどの美女に育ったとしても、キスをするときに屈めば届く位置に唇があってほしいと願ってしまうのは俺が悪いのだろうか。「むーむー」と口を尖らせているこの子を恋人にしたら、俺は若くして腰痛と戦う日々を送ることになるかもしれない。つむじと会話する結婚生活は果たして幸せだろうか。
「じゃあやっぱりデート! デートでいいですからあ!」
「だから、忙しいんだ俺は」
「忙しくはないのです!」
「君の予定は聞いてない」
「お兄さんが、です!」
「俺は忙しいっつってんだろ」
わーわーと喚きながらこちらに手を伸ばす少女の、そのおでこに平手をぶつけて抑える。このあなどれない推進力はワイルドボアの末裔かもしれないが、頭上にぴょこっと飛び出た大きな耳からしてクーシー種かケットシー種か。
人懐っこさは圧倒的に前者だ。
ざわざわとした大通りの数人がこちらを微笑ましそうに見ている。それらの視線の大半が、これを痴話喧嘩として処理していそうなことが酷く忌々しい。兄妹でもなく、親子でもなく、男と女がなにやらもつれていますね、なんて感想をきっと抱いているのだろう。是非ともその辺の小石を拾って投げつけたい。
「なんでダメなのですか!」
「ダメはダメだ。だいたいなんで俺なんだ。なんで俺に声を掛けたんだ?」
「それは、くしゃみです!」
「は?」
「くしゃみ! です!」
きっぱりと主張する彼女の前で、俺は遠くの景色に目を向けた。
昼の街並みは喧騒で溢れている。俺が育った町とは比べられないほど栄えていて、大通りに立ち並ぶ店の前には人だかりが出来ている。なんとも結構なことではあるけれど、残念ながらそれらを見渡したところで、彼女の言う「くしゃみ」の意味は見当たらなかった。
理由はどこにも落ちていない。どこを探してもないのだ。舗装された道、通行人の戦闘用の小型バッグ、年季の入った魔法工務店の看板、そんなところにあるはずもないのに。
どうにも、要領を得ない。
なぜ俺に声を掛けたか。それはくしゃみです。
くしゃみで、俺に声を掛けたのか?
俺には「デートして下さい!」に聴こえた彼女のファーストコンタクトは、実はデートの誘いではなく「デトシティクダサィ!!」という、彼女のくしゃみ音だったということだろうか。
馬鹿を言うな。独創的にも程がある。
「お兄さんの、くしゃみが、とても良かったのですよ!」
「俺のくしゃみ?」
「そうです!」
大きく身振り手振りをする少女に、ああ、と俺は納得する。
そういうことか。
「君は他人のくしゃみが好きなのか」
「え!?」
目論見通りうろたえた少女に、俺はこれ幸いと畳み掛ける。
「男のくしゃみが好きな変態なんだな?」
「いや、あ、あの! わたしが好きなのは、こ、声がですね!?」
「それならそうと言ってくれれば、ほら、へっくしゃみ、はっくしゃみ」
「わたしを馬鹿にしてますねっ!?」
顔を真っ赤にした少女は両手をぶんぶんと振る。栗色のふわふわした髪が彼女の動きに合わせて揺れる。ピンと立った耳も合わせ、こう丁度良い位置に頭があるとどうにも撫でたくなってしまうのだが、それは水に浮いた新しい雑巾を手で触るのが楽しいといった類の話であって、ぷかぷかと漂う布切れとふたりきりで将来を語り合いたいというわけではない。
残念ながら恋人を探すより新しい仕事を探すのが先だ。
そのつもりでこの街に来たのだから。
「それじゃ」と去ろうとする服の袖を、涙目の彼女が掴んだ。
「待ってください! お兄さんレフィンダーの方ですよね!? わたし、それなりにベストには自信があって……」
「勘違いしてるとこ悪いけど、俺は協会に行ったことすらないよ」
「え、そ、そんなあ……」
愕然とした少女が、力をなくした様に手を離した。
俺は苦笑しながら、場当たりな謝罪と急ぎであることを伝えてその場を去る。
しかし、くしゃみか。
今度から大通りを歩くときには気をつけなければならないかもしれない。
唾も飛ぶし。
* * *
さしあたっては、どうも胃袋が忙しいなと入った料理店は酷く混みあっていた。
入店した俺を対応してくれた給仕の青年は、青年と言うより少年と言った方が正しく、その人好きのしそうな顔立ちには自信とやりがいで満ち溢れていて、これまで女の子にどれくらいモテてきたのかが伺えた。
彼の近くを吹き抜けた風が女性たちの間も通り抜ければきっと行列ができるに違いない。そう思えるほど、爽やかな笑顔だった。何となく、この店の給仕係の採用基準がわかったような気がした。
「すいません、もし相席でもよろしければ……」
一度店の中に姿を消した少年は、戻ってくるや否や申し訳なさそうに言った。額に浮かぶ汗が混み合った店内の忙しさを物語っているようだった。
この店にこだわっている訳でもなかったのに、本当に忙しそうな彼を見た時点で「やっぱりやめておきます」と言えない自分に苦笑しながら、俺は彼の背中についていった。
ざっと見て八割以上が女の子なり女性で埋め尽くされている店内は意外と静かで、所々で楽しげな笑い声が飛び交っているけれど、そのうちいくつかの視線は目の前を歩く少年を肴にして料理に手をつけているようだった。
くしゃみをすればナンパをされるくらいなのだから俺にもこの店の給仕が務まるかもしれないけれど、あいにくと接客業には縁がなく、出来れば今までと同じように裏方の仕事が出来ればいいなと考えていた。
そもそも彼のような爽やかさのない俺では、吹きぬけた風もきっと得体の知れない胞子かなにかを運んでキノコでも生やしそうだ。だいたい飲食店でくしゃみを連発するの従業員なんてのもたいがい頭がイカれている。そんな奴は口を布で覆って皿洗いしているのが無難だろう。
「どうぞ」
促された席に、俺は被っている帽子を深く撫で付けながら座った。
その所作の途中、一瞬だけ目が合った、正面に座る男性の鋭い視線に、何かピリっとしたものが頬を伝った。さらにその隣に座る女性を見て、なるほど、と俺は心の中で頷く。
給仕の少年にはすぐに作れそうな手の掛からないであろう料理を注文した。
もしかしたら他にも相席はあるのかもしれないけれど、この席一帯に感じるわずかな緊張感に、この席だけが空いていた理由をなにとなく察した。
もう何年もオイルを差していない色恋沙汰の方位磁針が未だ錆の塊になっていないとすれば、恐らくこの二人は夫婦で間違いないだろう。
二人とも俺よりはいくらか年上に見えるけれど、夫婦間の年齢差はほぼ同じくらいか、もしくは女性の方がやや年上に見えた。やけに尖った印象を受ける男性とは対照的に優雅な手つきで手元の料理を口にする女性は端的に言って好印象だった。
傍目に映る、少し手のかかる夫と落ち着いた妻。
なんとも、理想的な夫婦像だなあと、俺は決して口には出せない感想を抱いた。
気づかれないように鼻からため息を吐く。
料理が運ばれてくるのをこれほど待ち遠しく思うのは初めてかもしれない。
「こちらです!」
カツゼツの良い一言と共に、テーブルにごとりと置かれたお皿からは焼けた穀物の熱と香ばしい匂いがふわりと昇ってきた。彩り良く散りばめられた野菜や果物の赤色緑色、そしてツンと鼻をつくホリーの独特な香りに、じわっと唾液が溢れるのを感じる。ホルステッドの乳を発酵させるなんてことを最初に考えた奴は天才だと思う。
俺は料理を前に静かに目を閉じ、短く祈りを捧げた。
六等分にされた生地のひとつを手に取ると、熱に溶けたホリーが、のびー、と引っ張られる。口に運ぶまでしぶとく繋がっていた一糸を軽く指でつまんで切り、歯に感じる熱のほんの小さな痛みも愉しみながら、一口、さくりとやる。
「あかっ、はっ」
は、ほっ。と短く熱を息で切りながら、火傷しそうなほどの熱さに目を細め、食感と味の幸福感で口の中を満たしていく。もぐもぐ、ごくり。
はあ、うま。
「ずいぶんと行儀がいいな、兄ちゃん」
この店の料理人はどんな人だろうかと考えていた俺は、目の前の男性の言葉にはっと顔を上げた。食べかすを舐め取った直後の、目の前にある自分の指先に気付き、俺は慌てて辺りを見回した。
汚れを拭き取れるような布は置いてない。まさか服で拭うわけにもいかない。
指を立てて「風向きを見たかったので」とでも言えば笑ってくれるだろうか。残念ながらここは広い草原でも洞窟でもなく店内だ。それに万が一、店の奥から涼しげな空気が流れて来ようものなら俺は厨房に突撃しなくては嘘になる。面食らった料理人に「風を感じたので」と説明すれば十中八九、街の兵隊さんを呼ばれるだろう。
「ああいや、すまねえ、食べる前に目を閉じてたろう?」
慌てふためく俺に、男性はそう言った。
さきほどよりも柔らかくなった声色に、俺は自分のマナーを批難された訳ではないことを知った。
「やけに育ちがいい兄ちゃんだと思ったんだ、気を悪くしたか?」
「……ああ、いえ、ちょっと水場を探してしまうところでした」
緩んだ緊張にわかりやすく苦笑を浮かべ、舐めてしまった指をすこし動かせてみせると、険の取れた男性は一転して人の良さそうな表情に変わった。「オレなんか畑仕事のあとにつまみ食いして怒られるくらいだ」と男性が冗談めかし、夫婦の間で視線だけの小さなやり取りをすると、お互いが同時に視線を外してはにかんだ。
男性の言ったことが冗談ではなく実体験であり、「外で何を喋ってるのこの人は」なんて奥さんの言葉が聴こえてきそうなあたり、なんとも、微笑ましい夫婦仲だ。
彼らも俺と同じで、何となくここに入店しただけであって、こんな針のむしろのような状況になるのは不本意だったに違いない。次からは別を探すだろう。
「兄ちゃん、レフィンダーだろう?」
男性は手元のスープを木製の大きなスプーンですくいながら言った。
口に運ばれていく大きな切り口の肉もやはりホルステッドだろう。
「そう思いますか?」
「“声”がな。やっぱりわかるよ。そこらの奴だと気付かないかもしれないけど、うちはもともと同じパーティのボルダーだったからな」
「ああ、そうなんですね」
俺は何となく女性の方へ目を向けた。奥さんは伏せ目がちに小さく頷いた。
旅の仲間や仕事の仲間同士で結婚するのもごく自然なことだと俺は思う。むしろそれ以外で交際相手を見つける方が難しいだろう。そこそこ身奇麗にしている男なら町を歩けば出会いはいくらでも拾えるけれど、畑に種を撒いたり商品を売り込む娘たちと、戦いが生活の軸になる彼らでは生活が違いすぎる。
「これでもお互いにベストはそれなりに高かったんだ。ギルドの大事なエリアも任されたりしてよ……。今でこそ身を引いたが、兄ちゃんみたいな美声を聴いちまうとね、元ボルダーとしてはこう、疼くんだなやっぱり」
「美声って」
困ったような表情を見せると、男性もからからと笑った。
「美声は、美声さ。兄ちゃんだったら道端でくしゃみでもすれば女から寄ってくるだろう」
「ふふ」
男性の冗談のような言葉に、何を馬鹿なことを、と隣の女性が笑った。
俺も女性に合わせて笑っては見たものの、口の中が乾いて仕方がなかった。今後、歩いているときに鼻のむずむずが抑えられなかった場合は付近にいる別の男性を睨みつけることで積極的に罪を擦り付けていこうと思う。
「兄ちゃんは、子供はいるかい?」
「いえ、まだ成人したばっかりですよ」
俺は顔の前でいやいやと手を振った。
男性の「子供」という単語に、視界の端で女性の耳がぴくりとしたのがわかった。
「やー、兄ちゃんならボルダーには困らないだろう? いい子はいるんだろう?」
「いえ、実は僕、仕事を探しにこちらへ出てきたばかりで、レフィンダーどころか協会にすら登録してないんですよ」
「なんだって!?」
「あら……」
男性は目を丸くし、女性は口元を抑えた。
その反応があまりに自然で、男性はまだしもその奥さんまでもが俺をレフィンダーだと信じて疑わなかったというのがありありと伝わってきた。仕方なく愛想笑いを浮かべる。
これから初対面の人とは毎回この問答をするのかと思うと気が滅入る。
何かないだろうか。一目でこいつはレフィンダーじゃないと言えるような装飾品は。鼻毛でも伸ばすか。両方の穴からアゴまで伸ばしてリボン結びにキュッとすれば少なくともまっとうな仕事をしている奴だとは思われないだろう。職どころか男まで捨てている。なんなら人生も捨てられる。
「それじゃ兄ちゃん、いままでは何の仕事をしてたんだ?」
「僕は香料の調合をしていました」
「こうりょう?」
「香水です。女性モノがほとんどですが。僕を育ててくれた方のお店で、裏方の仕事をさせてもらっていました。おかげで調合の技術も学ばせてもらえたので、薬師なり何なり、そういったものがやりたいですね」
「なるほど、香料ねえ……」
感慨深そうに腕を組んだ男性は、しかしまだ腑に落ちない様子だった。
まだ俺が初対面だからか、それとも男性の人柄の良さなのか。内心では俺がレフィンダーになるべきだと思っていそうなのに、それを口に出さないというのは彼の中の何らかの線引きに引っかかっているのだろう。
男性が無言でスープをすくったので、俺も一切れ掴んでぱくりとやった。
「そうか恋人もいないんじゃ、子供ができるなんてのも、もっと先の話だよなあ」
「そうですね」
口の中の味わいを楽しみながら、ふと思う。
やけに子供の存在を気にするけれど、こうして二人で外食を楽しんでいるところを見るに、まだこの夫婦にも子供は居ないのかもしれない。
そこまで考えて、俺は男性の隣の奥さんについて思い当たった。
……ああ、そういうことか。
「子供だったらなあ、みんな、可愛いと思わねえか?」
まるで自分に問いかけるような男性の言葉は、やけに深みがあって重々しかった。
何を言わんとしているのかはわかるし、俺もきっと、彼と同じ想いを抱いているけれど、その真意がちゃんと伝わるかどうかがわからないのが言葉の難しいところだ。
それでも俺は、自分なりに、真摯に、真心をこめて口を開いた。
「子供なら男の子でも女の子でも、みんな可愛いですよ。僕はそう思います」
男性が視線を上げたのを感じて、俺もそれに合わせた。
探るような灰色の瞳に、俺は意思を強く持って見返し、口角を上げて見せる。
しばらくして、男性は表情をふっと緩めて、またスープの中をゆっくりとかき回し始めた。
「兄ちゃんは」と男性は言った。
「育ちがいいな、やっぱり」
「本心ですよ」
「はは」
くすぐったそうな笑い声はどこか安心しているように聴こえた。
隣に座る奥さんが少しだけ俺を見つめて穏やかに目を細めた。こんな時代ではあるけれど、何となく、プロポーズをしたのは旦那さんからかな、と俺は勝手に思った。
結婚も悪くないかもしれない。なによりこんな素敵な女性の、その手入れされた髪と頭を毎日撫でられるのは羨ましい限りだ。俺も好きなときに頭を撫でさせてくれる女の子と早く出会いたい。
「そういや今、街じゃ、やたらでかい黒い狼の話をよく耳にするが、兄ちゃんはまだここに来たばかりだっていうんだから、知らねえだろう?」
「黒い狼? なんですかその話」
「それがよ――――――」
悲鳴が上がったのは入り口からだった。
バンと開け放たれた扉から、ボロい布切れが転がり込んだ。
店内で即座に席から立ち上がったのは二手。俺のすぐ右隣のテーブルに腰掛けていたうちの女性二人と、入り口近くの少女が一人。
どちらもボルダーだろう。反応が早い。
張り詰めた空気を歪ませたのは嫌に耳障りな笑い声だった。
「なあに、お店に飛び込んじゃって、ほら謝りなさいよ。迷惑でしょう?」
「っとにドン臭いなお前は。ほら早く立てよ。もっと地面転がりたいのか?」
およそ入店目的とは思えないその男と女は、口元を愉しそうに歪めていた。その服装や腰に下げた武器を見るに、こいつらもレフィンダーかボルダーで間違いないだろう。蔑むような視線は床に広がったボロ布に向けられていて、それを理解して初めて、俺はそのボロ布が倒れた子供であることを知った。
「おい、ひでえな……」
旦那さんの呟くような声は怒りに満ちていた。
青筋を立てた旦那さんの表情をチラリと見て、俺はすぐに入り口でふんぞり返っている二人に目を向けた。給仕の少年も突然のことに呆然としていて、せっかくの憩いの時間をぶち壊された女性客たちは怯える人から嫌悪感をまったく隠そうとしない人まで様々で、しかし全員が一同にピリピリとした空気を放っていた。
「ほーら、早く謝りなさいって。迷惑掛けてごめんなさいって」
「いつまでぶっ倒れてんだよ、ったく」
倒れたままピクリとも動かない布切れの子は、恐らく彼らと同じパーティでもあるのだろう。
店内にチラチラと目を向ける男女の視線にはやや焦りを感じるけれど、自分たちが謝るつもりはさらさら無い様で、すべての責任をその子になすり付けようとしているのが見え見えだった。
パーティ内でのいじめか。
確か、暴力沙汰は協会でキツく禁止されていたはずだけれど。
「う、ぐ」
布の一部が動いた。
それはその子の髪の毛だった。
俺の髪よりもやや薄い茶色は、その子が身に着けているローブかマントとまったく同じ色で、動くまではそれが頭だと認識できないほどだった。
顔を上げたその子の顔に垂れる赤黒い色は間違いなく血の色で、転んだ拍子か、あるいは蹴り飛ばされた結果か、それとも外ですでに暴力を受けていたのか。定かではないけれど、頬か唇か、どこかに擦り傷があることは確かだった。
「うう……」
悔しげな声と、そしてその顔立ちは、少女。
ヘタッとしていた耳は少しずつ立ち上がる。
そしてその横顔が。
現状を確かめるかのように辺りを見回して。
その虚ろな表情が、目が。
ふと、こっちを。
「―――――――――――――――――――ッ!!」
がしゃん。
ぼと、べしょ。
ごこん。
シンと冷えた空気に同時に広がった音はやけに空しかった。
給仕の少年が手に持っていた皿が、丸ごと床に散らばっていた。旦那さんの持っていた木製のスプーンは彼の手を離れ、大きなスープの器のなかに力なく浮かんでいた。その俯きがちな目は、俺すら見えていないようだった。
予期せぬ来訪者に立ち上がっていたボルダーの女性たちは、何事かと、酷く困惑した様子で辺りを見回していた。入り口に突っ立ったままの二人も、似たようなものだった。
店内の反応は大きく二つに分かれた。
その異様な光景に、俺は自分が何を口走ったのか、いったい何を叫んでしまったのかを知った。
やらかした。
ぶわっと全身が汗ばんで、背中が冷たくなる。
俺はもたつく手で適当な硬貨をテーブルにばらまき、椅子を蹴飛ばすほどの勢いで入り口へ走った。
やらかした。
これはやった。だめなやつだ。
ぐったりとしたままの少女を両腕に担ぐ。その小さな体はぐにゃぐにゃしていて、全身が複雑骨折でもしているんじゃないかと思った。
未だにまごついている二人の脇をすり抜けて店を飛び出すと、すぐ外に立っていたガタイのでかい男と目が合った。男は頬に大きな傷跡があった。
品の悪そうな目つきに、直感的にこの男が少女の、そしてあの二人のリーダーであり、レフィンダーなのだろうと俺は理解した。
是非ともお関わりになるわけにはいかない。
俺は首を固定したまま、何食わぬ顔でよいしょよいしょと横向きに進みだす。視線の先は男のいかつい顔から青空にスライドしていく。綺麗な空には柔らかそうな白い雲がぽこぽこと浮かんでいる。なんとも趣深い。俺は空を見上げるのが好きだ。空はいい。荒んだ心を癒してくれる。ほら、見てごらんよあの雲の形。まるであれは、そう、一体なんだろう。
「おい」
店を出ただけの一般人である俺が呼び止められるはずもない。はずもないので、俺は積極的に足を進める。まだ職にすらついていない俺には上司も部下も同僚もいない。この街に友人もいなければ知り合いすらいない。悲しくはない。しかし、ならばこそ、そんな俺に声を掛ける輩がいるとすれば相当頭がイカれている奴に違いないのだ。そうに決まっている。少なくともあんなデカブツの知人はいない。
俺はもういちど、ずり落ちそうになる大きめの荷物をよいしょと脇に抱え上げる。力なく垂れた耳がなんとも可愛らしいが、さきほどからまったく身動きすらしないのはどういうことだろうか。相当の重症なのだろうか。
そもそも。
「おい、お前らァ!」
怒鳴り声に恐る恐る振り向くと、ちょうど店の中からボルダー二人がそそくさと出てくるところだった。呼び出しに怯えている二人を見て、このパーティの力関係が察せられた。
レフィンダーの男がこちらを指差す。
否、こちらの手荷物を指差している。
そもそも。
俺は、なぜこの少女を抱きかかえてしまったのか。
ボルダーの二人がこちらを向いた。
俺は帽子を押さえながら闇雲に地面を蹴った。
膝が痛い。運動不足の自分を呪う。
馬鹿を言っている暇もない。仲間であるこの子をこんな目に合わす奴らに捕まったら俺もただじゃ済まない。きっと話のわかる相手じゃない。わかったところで止まれない。くしゃみとは比べ物にならないようなモノをぶちかましてしまったあの店からは一刻も早く離れなければならない。
後方の足音が近づく。ボルダーに足で適うわけがない。
歯を食いしばりながら、人気のなさそうな路地を見繕い、運任せに飛び込む。
ハズレ。
狭い路地を、こちらに向かって歩いてくる女性が一人。目が合う。
俺は即座に調合器具の中から小さなナイフを取り出す。そして鈍っていた顔面筋を総動員して張り裂けんばかりの笑みをつくり、ムキッと歯を見せれば、女性は真っ青な顔をして逆方向へ駆け出した。よし。よしではないが。
後方の大通りにボルダー二人の姿が現れた。
俺はとっておきの薬瓶を思い切り地面に叩きつけ、また駆け出す。
「はぁっ、はっ、ん、ぐう、は、はあ」
これで逃げ切れる。逃げ切れる、だろうが。
これでは完全に人攫いだ。人でなしだ。ひとさまのパーテイの少女を連れ去っているのだ。
俺はいま、少女を誘拐しているよ!
後方から嗚咽にも似た悲鳴が聴こえた。
振り返らず俺は走る。見なくても何が起こっているのかがわかるからだ。恐らくは顔中の液体を流しているに違いない。
ああ、罪状が増える。
少女の処遇と、俺の今後。
そして顔の筋肉痛の心配なんかをしながら、俺はもつれそうになる足でひた走る。
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