第13話 代官
『不確定要素があります』
そうアルゴノートが声を掛けてきたのは、夕食が済んでメイアが眠気に負けつつある頃だった。
メイアをベッドに誘導しつつ、ヒューマはアルゴノートの声に意識を向ける。
『この事態を収束させ、行動の自由を確保するために行動するとして、現状ではまだ情報の足りない勢力が存在します』
アルゴノートは船内環境を維持するためのAIだ。
そして船内環境という言葉には、人々が暮らすための環境という広範な意味が含まれている。つまり、船内に発生するであろう組織同士の衝突や、交渉などの管理だ。
『これまでメルスース、グレゴール、市民などの情報は得ましたが、本来の行政執行者たる代官の動向についてはほとんど情報がありません。彼らはこの国の中央とのパイプを持っていると推測されますので、無視するわけにはいきません』
「確かにな」
この街の代官がほとんど表舞台に出てこないことは分かっている。
しかし、無視するにはあまりにも大きな存在だ。
仮に代官が何らかの意図を持って事態に介入すれば、状況が大きく変化する可能性が高い。
「なにもしないせいで、かえって意図がわからないわけか」
『はい』
ヒューマは自分の経験を思い出そうとするが、断片的な記憶しか浮かんでこない。
少しずつ記憶が回復するかと思っていたが、人間の脳はそう単純なものではないらしい。
(というか、脳も改造されてるしなぁ……)
思考を読み取り、それを情報化して伝達する装置があるのだから、当然脳にもアルゴノートの手が入っているだろう。
今さらながら、未来の医療技術の高さに感心するばかりだ。
(病気で死ぬ人間とかいなかったんじゃないか?)
『いいえ、一切の科学医療行為を否定する人々がごく少数ながら存在しました。自然回帰主義者という俗称で呼ばれていましたが、彼らはごく普通に疾病で死亡することが多かったようです』
医療情報は最上位情報として保存されているため、アルゴノートはヒューマの疑問にあっさり答えた。その内容は人間の、ひどく人間らしい在り方そのものを示しているようだった。
(自分の信念に命を懸ける、か。非合理的だが、人間らしいといえばらしい)
言いようのない安堵を抱き、ヒューマはメイアの寝室の扉を閉じる。
彼女の話を信じるのであれば、これで朝まで起きることはないらしい。
「念のためにドローンの監視機能を作動させておいてくれ。馬鹿なことを考える輩がいないとも限らない」
『了解』
返答と同時に、テーブルの上に置かれた通信ドローンの監視モードが起動する。
監視機能はこの規格の軍用ドローンの標準機能だ。各機能に特化された場合でも、変わらず使用することができる。
「では、件の代官に会いにいくとしよう」
窓を開き、夜のウェルペンの街を見下ろす。
眼下に見える地面まで、およそ十五メートル。
「降りられそうだな」
『ショックアブソーバを高機動モードに』
体の奥底で何かが切り替わると、ヒューマは窓から身を躍らせた。
◇ ◇ ◇
ウェルペンの代官職に、仕事と言えるようなものはほとんどない。
毎日届けられる書類を決裁し、呼ばれた式典で望まれた内容の話をするだけだ。
そのため、彼女は自分のもとに深夜の来訪者がくる可能性をほとんど考慮していなかった。
「あら、こんなお飾りの代官を暗殺しようなんてひとがいるなんて、世の中にはまだまだ面白いことがあるものね」
ほんのわずかカーテンが揺らめき、部屋の中に人の気配が現れる。
ウェルペン代官ヘレン・ミュース子爵夫人は、その気配に向けてそんな言葉を発した。
「でも、殺すのなら準備をさせて頂けないかしら。遺言書は作ってあるけど、それとは別に手紙を残したいわ」
ヘレンは穏やかな笑みを浮かべたまま、カーテンの陰にいる誰かに話し掛ける。
自分を殺しにきた相手に対するものとしては、あまりにも場違いな態度だった。
「――殺しにきたわけではありません。夫人」
カーテンの影から現れたフード姿の男は、そう言って頭を垂れる。
「拝謁を賜りいささか無礼ではありますが、こちらの顔は知らないままのほうが、夫人にとってもよろしいかと存じます」
「お気遣いありがとう。それで、こんな夜更けになんの御用かしら? お喋りのお相手なら、いつでも歓迎なのだけど」
ヘレンは寝間着の上にストールを羽織ると、暖炉の前の安楽椅子に移動する。
自然と、彼女は来訪者に背を向ける形になった。
「歓談は別の機会に。今は、あなたのお立場を確認したく思います」
来訪者――ヒューマは窓の傍らからヘレンの背後に移動し、暖炉の光で作られた彼女の影へと滑り込んだ。
「立場と言われても、わたしは単なるお飾り、実質的な力はなにも持っていないわ」
「存じています。そして今、あなたが敢えてそうなさったのだと確信しました」
ヘレンは聡明な女性だ。その上で政治的センスも持ち合わせている。
彼女ならば、メルスースたちがいなくともこの街を発展させられたかもしれない。
そう思わせるほどに、ヘレンは知的な女性だった。
「若い方に誉められるのは嬉しいわ。本心からの言葉ならなおさら」
「不躾な言葉をお詫びします」
「いいのよ。若い頃は不躾なくらいでちょうど良いわ。そのほうが心に響くもの。歳を取っていろんな建前に包まれた言葉ばかり受け取っていると、本当にそう思えるのよ」
ヘレンは傍らのテーブルから本を取ると、それを膝の上で開く。
「ほかに訊きたいことはあるかしら?」
「では、ひとつ」
ヒューマはできるだけ端的な言葉を心がけた。
ヘレンがそう望んでいるからだけではなく、この女性に余計な虚飾は無意味だと分かったからだ。
「現在、街の実権を掌握するべく動いているグレゴール氏のことです。夫人にも接触があったと思いますが」
「ええ、ありました。ですが、特に約束などはしていませんよ。これまでと同じように振る舞うと言っただけです」
「――なるほど」
ヘレンはグレゴールの行動がどのような結果になろうとも、これまでと同じようにお飾りでいることを選んだのだ。
おそらく理由は――
「街の混乱は望まれないのですね」
「わたしを慕ってくれる民たちですもの。わたしも彼らにできることをしてあげるつもりよ。ただ、今さら代官として振る舞うわけにはいかないから、グレゴール坊やが無体をしないよう、それとなく気を配ることくらいかしら」
グレゴールがヘレンを排除するべく動けば、中央にまで火種が飛ぶ可能性がある。
そうすれば、このウェルペンの街はかつてない混乱に陥るだろう。
それを防ぐためには、混乱をメルスース一門の中で留める必要がある。
「あなたはグレゴール坊やと戦うつもりかしら?」
「すでに挑まれてしまいましたので」
「あら大変、それじゃあ戦わないわけにはいかないわね」
楽しげに笑うヘレンは、どう見ても田舎に隠居している貴族の老婦人そのものだ。
だが、彼女の政治的感性はまだまだ鋭さを残している。
「戦わないでとはいわないけど、巻き込まれた子たちは助けてあげてちょうだい。その子たちのことなら、きっとわたしでも力になれるから」
「――はい」
アイリアとメイアのことだろう。
やはり、ヘレンはこの街で起きていることをすべて知っている。
おそらく、お飾りで居続けるための、彼女なりの方法なのだ。
「それと……」
ヘレンは本を閉じ、暖炉に目を向けた。
「時間ができたら、またいらっしゃい。顔を見せてとは言わないわ。ただ、こういうお喋りは好きなの」
「承りました。夫人」
再びカーテンが揺れ、窓が一瞬だけ開く。
「それでは、お風邪など召されませんよう」
「ありがとう。気を付けるわ」
気配が消え、振り返ったヘレンは窓の向こうに広がる星空を見上げる。
「陛下に、お手紙を出しましょうか。きっとご興味を抱くでしょうし」
ヘレン・ミューズ。
現国王クルノアール五世の元家庭教師にして、現在の王国の繁栄の礎を形作ったとされる人物である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます