第2話 最後の賢者の弟子
鬱蒼と生い茂る木々の中に、古ぼけた邸宅がある。
蔦の這い茂る煉瓦造りの壁。高い煙突からはゆらゆらと薄い煙が立ち上っていた。
玄関の扉が開き、小さな影がするりと姿を見せる。
黒いフードを被った影は、静かに扉を閉めると森へと通じる小道を走り出した。
「急がないと……」
焦りが滲む少女の声。
彼女の腰には拳大の宝珠がついた短杖と、古びた一冊の本が提げられている。
少女が走るたびに杖と本が揺れ、留め金が擦れて音を立てた。
「先生がいたら、こんなことにはならなかったのに!」
碧の瞳が前方の森へと向けられる。
口から漏れるのは後悔の言葉だ。
「はやく皆に知らせないと、大変なことになっちゃう!」
彼女の名はメイア・ルシュマン。
彼女が青ざめた顔で必死に森を駆けるのは、この朝に彼女が直面した事態にあった。
この地には伝説がある。
遥か昔、星が降り、異形が現れた。異形たちは人々の知らぬ道具を用いて数多の死を振り撒いたが、賢者に導かれた勇者の活躍と、人々の奮闘によって封印された。
その後、賢者は異形の封印を監視するため森で暮らすようになり、その役目は何代にも渡って彼の後継者たちに受け継がれる。その後継者たちを、人々は賢者の一族と呼んだ。
一族は人々に敬われ、優れた魔法の才を持つ子どもが賢者の弟子として差し出された。その中でももっとも優秀な者が次代の賢者となり、賢者とならなかった者でも、賢者の教えを受けた優秀な魔導師として各地の王侯に召し抱えられた。
だが、それほどの権威を誇った賢者の一族も、時間の流れと無縁ではいられなかった。数百年の歳月は、人々の意識から賢者の一族への興味を奪っていった。
「あんな辺境に優秀な子どもたちを送る必要がどこにあるのか」
誰がそう言い出したのか、定かではない。だが、少女が賢者の弟子となったとき、もはや賢者には彼女の他の弟子はいなかった。
この時代、賢者に師事しなくとも、各地に開かれた魔法学校に入ればもっとも優れた魔法の技術を学べるからだ。
その魔法学校を開いたのは、かつての賢者の弟子たちだった。
古き賢者の一族は、その一族が生み出した魔導師たちによって衰え、ついには少女ひとりが残さるに至る。
「先生……」
敬愛する師の夢を見ていたメイアは、薄らと浮かぶ涙を拭きながらベッドから身を起こした。
賢者の弟子を意味する『ルシュマン』の姓を持つ最後の者として、今日まで賢者の家を守っていた。しかし、訪ねてくる者もなく、賢者の名を継ぐ前に師を失った彼女は日々師の残した書を読み、少しでも師に近付くべく勉学と研究に勤む日々を繰り返していた。
いつものように暖炉に火を入れ、意識を持たぬ従属精霊にその番をさせる。
「ウィル、お鍋を焦がさないようにね」
「…………」
メイアに『ウィル』と呼ばれた光の球は、暖炉の上に浮かびながら不可視の腕を伸ばして朝食のスープが入った鍋をかき回す。簡単な命令しかこなせないごくごく初歩の従属精霊の使い方としては、オーソドックスなものだ。
メイアはそれを横目で確認しつつ、沸かしていたお湯を手桶に移し、洗面所に移動する。着ていた寝間着を脱ぐと、籐の籠に入れた。
下着姿になった彼女は手桶の中に入れておいた布を絞り、少し強めの力で体を拭いていく。
「んん」
賢者の存命中は浴槽にお湯を入れていたが、彼女ひとりになったあとはこうして濡らした布で体を拭くだけになっていた。師のように気軽に水を作り出すようなことができない以上、井戸から汲み上げた水を無駄にするような真似はできなかった。
「ん~~……」
残ったお湯で顔を洗い、薄青の髪を埃を拭う。
いつも洗髪は就寝前だ。家の掃除や実験をすれば、嫌でも体は汚れてしまう。
「よしっと」
戸棚から服を取り出し、身支度を調える。
鏡に映っている自分を見て、メイアは少しだけ悲しくなった。シンプルなシャツとスカートだけでは、街にいる年頃の少女と変わるところはない。
師から与えられたローブを纏って、ようやく魔導師らしい姿となる。師やその知人である高名な魔導師たちは、ごく普通の身なりをしていても魔導師らしさというものを感じることができた。
「でも、わたしじゃだめだよ、先生」
メイアは悲しげに目を伏せ、朝食の準備へと戻る。
『そんなことはない。お前は良き賢者になるとも』
かつて同じ言葉にそう答えてくれた師はもういない。
メイアはがらんどうの家の中で、ひとり食卓に着くのだった。
◇ ◇ ◇
異変はメイアが籠に入ったパンに手を伸ばしたときに起きた。
リンリンリン、と鈴のような音が地下から響いてきたのだ。
「えっ」
メイアはパンを取り落とし、目を大きく見開く。
この音は今まで一度しか聞いたことがなかった。
「どうして……」
慌てて立ち上がり、地下室の入り口へと走る。
重い木製の扉を開くと、石造りの階段の下からより大きな鈴の音が聞こえた。
「っ!」
一瞬だけ躊躇い、意を決して階段を駆け下りる。
幾重もの封印が施された扉の向こうから聞こえてくる鈴の音に、メイアは息を呑んだ。
「賢者の書が、作動してる」
師から教わった手順で封印の扉を開けると、部屋の中心にある祭壇の上で一冊の分厚い本が光を放っていた。
賢者の一族の秘奥、『賢者の書』だ。
一族の叡智のすべてが記された奥義書であると同時に、封印を司る役目もある。
その書が警告を発している。メイアは青ざめた顔で賢者の書に手を伸ばした。
「きゃっ」
書に触れた途端、強烈な光と突風が彼女を包み込む。
同時に、メイアの意識の中に映像が流れ込んだ。
「封印が!!」
その映像は、暗い森の奥にある冠状巨石が崩れ、封印が破られる瞬間のものだった。
メイアは師から、ここに封じられているものはすでに朽ちていると教えられていた。封じられた者たちも無限に生きることはできない。何代か前の賢者の時代には、賢者ですら封じられたままの異形の力を感じ取ることができなくなっていたからだ。
その事実も、賢者の一族が衰退した理由のひとつだった。
「い、急いで誰かに知らせないと……!」
メイアは賢者の書を手に取ると、階段を駆け上がる。
息が切れ、汗が額に浮かんだ。
「ウィル! 火を消して!」
メイアは従属精霊に火の始末を命じると、短杖と賢者の書を腰に提げ、ローブを被った。
(先生、私を守ってください)
師の姿を思い浮かべて短杖を強く握り、メイアは家を飛び出した。
◇ ◇ ◇
「他の弟子の人たちなら、きっと何か知ってるはず!」
森の中を走るメイアには、いくつか事態収拾の心当たりがあった。
もともと賢者の書には、こうした事態に対するための手段が記されている。メイアには扱いきれないそれらの情報も、賢者の教えを受けた魔導師であれば十全に用いることができるはずだ。
「一番近い場所にいるのは、メルスース様」
メイアの師と同門だった魔導師メルスースは、メイアの師が賢者となったあとも交流が続いていた数少ない人物だ。メイアがここでひとり暮らしていられるのも、彼の援助があってこそだった。
彼は森から一週間ほどの距離にあるウェルペンの街で、魔法学校の校長を務めている。
「私にできることは……」
メイアは師の教えを思い出そうと、焦りであちらこちらへと散らばろうとする思考を無理やり押さえ付けた。ここで焦るようでは、賢者の弟子とはいえない。
「まずは異変を知らせる魔法伝信を送る。もしかしたらメルスース様も何か気付いていらっしゃるかもしれないし、もしそうなら、政府や騎士団に警告してくれるはずよね」
魔法伝信は森から一日と離れていない街にもある。
近くの村で馬を借りることができれば、もっと早く辿り着けるだろう。
メイアは今後の方針を決めると、混乱した頭がすっと澄んでいくような気がした。
「少しでも早く、メルスース様に知らせよう」
魔法の研究者とはいえ、ひとり森の中で暮らしていれば体力はつく。
メイアは息を切らせ、森を駆けた。
だが、彼女はひとつだけ忘れていた。
自分が持つ賢者の書は、厳重な封印によって隔離されていたことを。
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