【書籍試し読み】迷宮キングダム 特殊部隊SASのおっさんの異世界ダンジョンサバイバルマニュアル!
宮澤伊織/DRAGON NOVELS
第1話
ヒースローから羽田まで、ブリティッシュ・エアウェイズのエコノミー席に詰め込まれて十二時間四十分、ようやく日本に到着した。
ボーディングブリッジを渡ってターミナルに降り立ち、長時間のフライトで凝り固まった身体をほぐそうと伸びをすると、肩胛骨がバキバキ音を立てた。
入国審査のブースには、帰国した日本人の長い列ができている。俺はそこを素通りして、外国人の審査の列に並ぶ。
入国前からもう電話で商談を始めているイギリス人のビジネスマン、子供たちを連れてアラビア語で談笑しているヒジャブ姿の母親二人、タブレットの動画から一瞬も視線を上げないインド系の若い男といった顔ぶれの後に順番が回ってきた。入国審査官が、俺の顔を見てわずかに怪訝そうな表情になった。
「どうも」
審査官に声をかけてパスポートを渡す。そこに書かれている名前は、
「
「里帰りです。日本生まれなので」
馬鹿みたいにニコニコしながら日本語で答えると、審査官もようやく日本語になった。
「どちらですか」
「川崎です」
審査官はパスポートのページをぺらぺらめくって難しい顔をしている。ときおりこちらに向けられる眼は、疑いを隠していない。まあ客観的に見れば怪しいだろう。どこの人種ともつかない顔立ちだし、俺の愛想笑いは昔からヘタクソだと言われている。
「ずいぶんあちこち行かれていますね」
「ええ、仕事柄」
「お仕事は」
「軍です」
「え?」
「軍人だったんですよ。ちょうど辞めたところですがね」
審査官はまだ怪しんでいるようだったが、とうとうスタンプを押して、面白くなさそうな顔で返してよこした。
「どうも」
俺は軽く頭を下げてパスポートを受け取り、入国審査を通過した。別に後ろ暗いところがあるわけじゃないが、パスポートコントロールは毎度緊張する。作戦のために身分を偽って第三国に入ったことも何度かあり、こうして正規の手続きで入国するときにもそのときの経験を思い出す。念入りに準備した偽のプロファイルを話す必要はもうない。俺はただ、生まれ育った国に帰ってきただけなのだ。
さて、だいたいの乗客はここから、ターンテーブルを回ってくる自分のスーツケースをしばらく待つことになるが、俺の荷物は手持ちのリュックだけだ。俺は手荷物受取場を素通りして、入国ロビーへ続く一方通行の自動ドアを抜けた。
その途端、〈おかえりなさい〉〈歓迎光臨〉〈Welcome to Japan〉などなど、各国語のウェルカムボードを掲げた人々の視線がいっせいに俺に集中し、こいつじゃないなと見るやすぐに逸らされた。誰からの注意も引かないまま、俺はロビーを行き来する人波に溶け込んだ。
俺を迎えに来る人間はいない。里帰りというのは本当だが、身寄りがあるわけでもないから、どちらかというと墓参りとでも言った方が正確だろう。日本は久しぶりだ――もう十年も前、母親の葬儀のときに一度帰ってきて以来だ。前回の記憶より、ターミナルはずいぶん小ぎれいになったようだ。外国人も増えたように思う。俺も今やその一人だが。
電車、モノレール、バス、タクシー、どのルートを使って帰るか思案しながらフードコートに向かった。まずは腹ごしらえだ。
窓際の席で、滑走路へ順番にタキシングしていく旅客機を眺めながら月見天ぷらそばを手繰った。
蕎麦を食べ終えて、別の店で買った紅茶を啜る。十六でイギリス陸軍に放り込まれて以来染みついた習慣だ。恐ろしいもので、日本にいるときはほとんど飲んだことのなかった紅茶が、二十年以上の軍人生活ですっかり習慣化してしまった。あいつらは本当にどこでも紅茶を飲む。戦車の中でも、東南アジアのジャングルでも、アラビアの砂漠でも。俺も一緒になって飲み続けたから、俺の身体を構成する分子の何割かは間違いなく紅茶に由来しているはずだ。
時刻は十四時。誰を待たせているでもない旅だが、暗くなる前には川崎に着いておきたい。墓参りするにしたって、日が暮れたら寺も門を閉めるだろう。
その後は正直ノープランだ。長年勤めた軍を辞め、人生の節目を迎えたので、しばらくぶりに故郷を訪れることにしたわけだが……。せっかくだから日本一周の観光旅行にでも出るか。そのくらいの蓄えはある。時間の余裕もたっぷりだ。なにしろ無職だからな。
しかしそれも、積極的にやりたいわけではない、消去法で浮かんだプランだ。俺は本当は、仕事がしたいのだ。自分のスキルを生かした仕事が……。
ぬるくなったお茶を啜っていたそのとき、おやっと思った。
誰かが俺を見ている。
多少訓練した奴なら誰もが同意するだろうが、人間は誰かに見られているとそれがわかる。背中に眼がついているみたいに、気配を察知することができる。ましてそれが殺気なら、なおのこと簡単だ。俺に向けられているその視線は、ぴりぴりするような殺気に満ちていた。
俺はスマホを耳に持っていって、電話で話すフリをしながら、鏡面になった壁に視線を向けた。もともと背後をチェックできる席を選んで座ったのだ。行き交う人波の向こうに、黒っぽいフードのついた服を着た人影が一瞬見えて、ふっと沈んだ。靴紐を結ぶような何気ない動きだったが、少し待っても頭を上げない。あいつだ。
電話のフリを続けながら席を立ち、俺は歩き出した。何者かわからないが、あの殺気の意味するところはひとつだ。誰かが俺を狙っている。元SASの俺を、殺そうとしている奴がいる。
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