1. 娘の伴侶

 紙切れを手に、私は立っていた。売られている商品はそんなに多くはなさそうな、シンプルという言葉が似合う黒っぽい茶色を基調とした佇まい。店内はそんなに明るくなさそうだ。通るときにはいつもこの明るさなので、これが通常運転なのだろう。そうはいっても入るのに少しの抵抗を感じた。


 いやいや、昨日の運命を信じないと。


 自身を鼓舞して私は店のドアに手をかける。カラン。ドアの開閉を知らせる優しいベルの音がした。


「イラッシャイマセ」

 

 はたきを片手にした若い女性がそう反応をみせた。店内にいる従業員は彼女だけらしい。


「すみません、こんなものを見かけたので立ち寄ったんですけど……」


 今更ながら自分のしていることが急に恥ずかしくなった。もしもいたずらだったら死にたい衝動に襲われそうだ。そんなことを考えながら表情を変えない店員さんにおずおずと紙を差し出す。


「ああ、サガシヤはうちじゃなくて上ですよ……」


 そう言って彼女は上を指した。


「上?」

「店内の階段上がってもらって、奥のドアです。手前はうちの事務所なので入らないでくださいね……」


 レジの横、店内の階段。関係者以外立ち入り禁止、とは書いていないけれどそんな気配を感じる。


「ありがとうございます」


 彼女は軽く会釈をしてレジ前の商品棚を掃除し始めた。上、この上にいったいどんな店があるのだろう。洋服屋の事務所の隣にあるくらいだから、そういうファッション関係の何かだろうか。その人に合うファッションを探します、みたいな。私は店内の階段を上っていく。黒いパイプの手すりが付いた階段は二階の床に穴をあける形で繋がっていた。二階は一階よりもさらに薄暗さを感じる。


 「奥のドア……」


 手前のドアを通り過ぎて、二つ目のドアの前で立ち止まる。


『サガシヤ』


 ドアにはそう書かれたプレートが下がっていた。どうやらここらしい。想像と違う展開になったがここで引き返すわけにはいかない。私はドアを三回ノックした。


「すみません」


 中からは何の返事もなかった。本当にここで合っているのか不安が込み上げてきた。


「ごめんください」


 そう言いながら私はゆっくりとドアノブを回してみた。少し古びたドアがギイと音をたてた。その隙間から中を覗いてみる。荷物の多そうな部屋だ。本棚しか視界に入らないが、そこに入りきらないのかたくさんの書類やら本が床にも侵略していた。


「……ご依頼ですか」


 幻聴かと疑いたくなるようなか細い声がした。


「い、いえ、求人の紙を見て……」


 目の前のドアが勝手に開いた。そのドアの陰から青年が現れる。


「どうぞ、おかけください。今呼んできます」


 青年に促されるままに私は黒いソファーに腰かけた。物が多い部屋だと改めて思った。本や書類だけじゃない。DVDや小物も多い。それはゴミでは?と言いたくなるような空き缶やペットボトルも至る所に置いてあった。


「やあ、いらっしゃい」


 奥の部屋から男性が現れる。このご時世には珍しい和服姿のその人は私を歓迎するかのように優しく微笑んでひらひらと手を振った。未来の上司(予定)のゆるい登場に戸惑いながら立ち上がる。


「きゅ、求人の紙を見つけて訪問させていただきました!」


 頭を下げて紙切れを差し出す。しかし彼は受け取ってはくれなかった。


「業務内容はその紙の通り、基本は掃除です。見ての通りの環境なのでね。こんな僕みたいな人間の下で働くのは不服かもしれないけれど、他の従業員はいい人だし今のあなたにはぴったりだと思うよ」


 私はこの発言に違和感を覚えた。どうぞ、先ほどの青年が湯気の出ている湯飲みを運んできた。


「……今の私にってどういうことですか?」


 和装の人は音をたててお茶をすすった。


「あなたの名前は笠桐あすみ。二年程勤めた会社を辞めたばかり。君をそんな状況に追い込んだ人は…」

「もういいです!」


 私の叫び声が広くはない事務所に響いた。


「やっぱりいいです、気味が悪いです。帰ります」


 こんなところに来たのが間違いだった。入ってきたドアを開けようとしたとき、そのドアが開けられた。


「おや、失礼。取り込み中ですかな?」


 高そうなスーツを身にまとった紳士そうな中年の男性が立っていた。


「いえいえ、どうぞ。」


 和服はこちらに近づいてきて背後から私の肩を持った。


「彼女今日からうちで働くことになったんです。笠桐さんごあいさつを」


 いつ私がここで働くと決めたんだ! 言い返したい気持ちはやまやまだったが私はそれをぐっとこらえて肩に置かれた腕を払った。目の前の優しそうな紳士を困らせるのは申し訳ないと思ったからだ。


「初めまして、笠桐あすみと申します」


 ぎこちない営業スマイルを作る。この人が帰ったら、私もすぐに帰ろう。この気味が悪いんだか気持ち悪いんだかわからない人の近くにいたくない。


「初めまして、お嬢さん」

「どうぞおかけください」


 そう言って和服は先ほどまで私が座っていたソファーに客人を促す。いつの間にか私に用意されていたお茶がなくなっている。あの地味な青年が片付けたのだろう。


「ご用件は?」


 少し前までのゆるい雰囲気とは打って変わって、真面目なトーンで客人と会話を始める。そういえば事務所というのは分かったけれどいったい何をしているのだろう。


「……娘に合う男性を見つけてほしいんです」


 おや、ここはお見合いの相談所か何かだろうか。だとしたらやめておいたほうがいいですよ。大事な娘さんの運命の相手をこんな不審な人間に任せるべきではないです。脳内を右から左へ言葉が流れる。


「なるほど」


 何がなるほどだ。いっそのこと本当に口に出してやろうか、そんなことを考えながら二人を見つめた。


「では今回の依頼はお嬢さんの未来の旦那探しということで?」


 紳士は頷いた。


「もう結婚を考えるべき年だというのに恋人がいる気配もないのでね」


 親は親で娘の心配をしているということか。


「わかりました。では早速、お嬢さんに会わせてください」


 和服は立ち上がる。


「サガシヤの名に懸けて、お嬢さんの恋人を探させていただきます」


 なめらかな美しい動きで彼はお辞儀をした。


「任せたよ、佐賀くん」


 あ、これが『サガシヤ』の仕事か。こうして私は和服の変態、佐賀さんと出会った。






「……どうして私までここにいるんですかね?」


 依頼を受けたのが数刻前、和服の佐賀さんと私はなぜか二人で大きなお屋敷を訪れていた。


「君の業務内容に反していないよ」


 確かにあの紙には業務の補佐も含まれていた。


「就職した覚えはありません」

「でも君は否定しなかった」


 新人だと紹介されたとき、その時にはあの紳士がいた。あなたと違って高そうなスーツを着こなしたジェントルマンが。


「肯定した覚えもありませんし、何より書面での契約はしていませんので証拠はありません」

「君が否定しなかったのを目撃している人が二人もいるのに?」


 二人? ああそうか、あの紳士の他にお茶を用意していた存在の薄い人物があの部屋には居たんだった。


「……今日だけですからね」


 こんな変態に婿探しを任せるのは良くないと思ったからついてきただけだ。


「僕の周りには気の強い女性が多いねぇ」


 佐賀さんは楽しそうに笑いながら戸を叩いた。


「こっちですか?」


 彼がノックしたのは大きな屋敷ではなく、その少し東にある小さな家だった。小さなとは言っても、普通の一軒家くらいの大きさはある気がする。あの建物の隣にあるというだけでサイズ感覚が狂ってしまう。


「あっちの本館は家族のもので、こっちは娘さん専用の家だからね」


 娘のために家を建てるのか。


「はーい」


 重そうな木製のドアが開かれて、中から一人の女性が姿を現した。歳は私と変わらないくらいだろうか。ストレートの長い黒髪が艶やかに揺れ動いていた。


「おや、佐賀さん。また来たの?」

「また来ちゃいました」


 さあ入って、お嬢さんは何の抵抗もなく佐賀さんを家に招き入れた。どうやら二人は知り合いらしい。


「今度はお父様からどんな頼まれごとをしたんだい?」


 お邪魔します。私も佐賀さんに続いて土足のまま中の入ると、吹き抜けになっているリビングに通された。部屋の至る所に植物が置いてある。そのためか窓は広く、部屋はとても明るかった。


「そちらの女性は新しい相棒かな?」

「初めまして笠桐あすみと申します。依頼の補佐を…」

「彼女はここを掃除しに来てくれたんだ」


 佐賀さんは私の言葉を遮った。


「それは有難いね」


 お嬢さんは嬉しそうに私を見た。お湯が沸騰した音を聞いて、彼女はキッチンに向かう。


「コーヒーでいいかな?」

「ありがとうございます」


 袋がガサガサいう音の後で豆を挽く音がした。普段はインスタントしか飲まない私にとっては貴重なコーヒーだ。


「たとえ身内であれ守秘義務があるものだよ」


 真面目な顔で彼は私を覗き込み、小声で告げた。彼の言うとおりだ。私が言っていいようなことではない。


「すみません……」

「ここの一階は定期的に使用人が掃除に来るけれど、二階の彼女の部屋は使用人たちも入ることはない」


 彼の静かな低い声がミルを回す音とともに聞こえてくる。


「だけど彼女は掃除が苦手でね。君の仕事はその部屋を片付けること。いいね?」


 この仕事に対するプライドを見た気がして私は黙って頷いた。


「よろしく頼むね」


 彼がゆるい顔に戻ってニコリと微笑んだ。


「お待たせ」


 湯気のたつコーヒーカップを三つお盆にのせてお嬢さんは戻ってきた。


「私は千石智里。主に植物を研究しています」


 私は差し出された智里さんの手を握った。


「にしても掃除のために依頼するなんて、お父様は佐賀さんのこと体のいい何でも屋だと思ってるんじゃないの?」


 智里さんは笑いながら言った。佐賀さんも笑って談笑する。


「すっかり常連ですね」


 和やかな雰囲気のまましばらくコーヒーを飲んで、それからようやく掃除を始めることにした。


「物が多くて申し訳ない」


 彼女が少し照れくさそうに頭を掻く。床が見えないくらいに紙や本が散らばっている。似たような光景を別の場所でも見たがこちらのほうが床は少ない気がする。


「この部屋は全部論文とかだからページを揃えてまとめておいて」

「わ、分かりました」


 学生時代に熱心に勉強をしていたわけではないので、これ全てが勉強のものかと思うと気が遠くなりそうだ。


「私は奥の寝室を片付けてくるよ。佐賀さんはこっちには立ち入り禁止だからね」

「女性の寝所に勝手に入り込むほど下賤な人間ではありませんよ」


 嘘つけ、そんな人間じゃないならわざわざ忠告されたりしないだろ。


「じゃあ佐賀さんは論文よろしくね。あすみさんはこっち手伝って」


 佐賀さんとは別で仕事をするのか。少しの不安を抱きながらも私たちは変態を残して寝室へ向かった。こちらの部屋もなかなか床がない。それでもたくさんの植物があって、なんだかいい香りがした。


「佐賀さんは意外と優しい人だから困らせるようなことしたくないけど」


 智里さんは床を埋め尽くす紙の上に落ちていた枕を拾った。


「お父様に婚約者探しでも頼まれたんでしょ?」


 私はその言葉にぎくりとする。


「やっぱりね」


 彼女の真っ黒な瞳が私を見て、全てを理解したかのように視線は枕に戻された。


「最近は顔を合わせてもその話ばかり。いい歳なんだからとか、一人娘だからとか。余計なお世話だって、言ってるんだけどね」


 困ったように彼女は笑う。その姿に私は少し同情する。親として、子どもを心配する気持ちは分からなくもない。それでもたくさんの草花に囲まれて幸せに笑っている彼女を守りたい。彼女の人生だ。彼女が望むようにさせてあげたい。そう思ってしまう。


「私が結婚しないと後継ぎはいないし、いつかは誰かと一緒にならないといけない覚悟はできてる。でも私まだ二十四だよ?あと二年、少なくともあとそれだけ猶予が欲しい」


「……二年後に何かあるんですか?」


 彼女は少し間を空けて「秘密」と言った。


「十年前に母が亡くなってから、お父様は余計に私の心配をするようになったの。心配してもらえるのは嬉しいことなんだけど……」


 枕を優しくベッドに置いて、今度はバラバラの論文を拾い始めた。


「私はお父様にとって母の残したモノなのかなって思う時がある。私は一人の人間よって言ってやろうかしら」


 少しいたずらっぽく智里さんは笑う。彼女の言わんとしていることは何となくわかった。智里さんを通じて奥さんのことを見ているということだろう。奥さんの宝物を代わりにずっと大切にしているような。


「智里さんの人生ですよ……」


 だから生きたいように生きるべきです。たとえ望まれていたとしても、お母さんの宝物として生きるんじゃなくて。そう言いたい。けれど、私はそれを言うためにここに来たんじゃない。智里さんの生き方に口出しをすることが依頼ではない。


「ありがとう、あすみさん」


 私の言いたい気持ちと、言えない事情を彼女は察してくれた。彼女はその綺麗な笑顔を私に向けた。


「さっさと片付けちゃおうか」


 そのまま私たちは掃除を続けて、数時間後には見違えるほど綺麗な寝室を完成させた。


「やあ、遅かったね」


 一階のリビングに戻ると既に片づけを終えた佐賀さんがくつろいで待っていた。こんなに早く片付けられるなら自分の事務所ももっときれいに使ったらどうだろうか。


「じゃあ、千石さんによろしく」

「ああ、ありがとう佐賀さん、あすみさん」


 智里さんに別れを告げて私たちは事務所までの道を歩いていた。


「……あの……智里さんの結婚相手探し、本当にしないとダメなんでしょうか」

「どうして?」

「……智里さんは結婚を覚悟しているとは言っていましたが、望んでいません。少なくともあと二年は待ってほしいって言ってました。今は研究に専念することが彼女の望みなのではないでしょうか」


 前を歩く佐賀さんは黙っていた。


「結婚するのは智里さんです。そこに彼女の意思は関係ないのでしょうか」


 すっかり冷たくなった秋風が私たちの間を通って行った。


「クライアントの話を聞いて、望みを叶える。それは僕たちの仕事の基本だ」


 佐賀さんの声はどこか冷たく感じた。


「今回の依頼主は誰だい?」


 分かってる、分かっているけれど。やるせない思いが込み上げてきて、私は強く唇を噛んだ。


「本当に君は優しいね」


 佐賀さんは振り返ってハンカチを差し出してきた。


「あなたに私の何がわかるんですか」

「知ってるよ、君のことならなんでも」

「……プライバシーの侵害です」


 そう言うと変態ははははと笑った。

 まるで本当に知っているみたいだと思った。






「笠桐さん」


 私の上司はとてもやさしい人だった。私の仕事に対する姿勢をひたむきだと評価してくれて、同期の中では一番最初に大きなプロジェクトに携わらせてくれた。けれどそれは同時によくないものも呼び寄せた。私の上司は人気者だった。結婚して、美人な奥さんと一緒に生活していると知っていながらも恋心を抱く人は多かった。私は上司を尊敬していたし、憧れてもいた。でもそれは仕事に関してだ。


「ねえ、聞いた?」

「知ってる、マジきもいよね」


 人気者の旦那をとられたくない奥さん、アイドル的存在の人を追いかけるファンたち。どうなるかは容易に想像できただろう。


 一か月間の上司の出張に合わせて彼女たちの逆襲は始まった。利害が一致した両者はただただ徹底的に私を追い詰めた。伝達事項をわざと告げず、デスクの書類にはコーヒーをこぼされた。終わらせたはずの仕事が何度も何度も戻ってくる。残業をいくらしても終わるはずなどなく、上司の推薦だからと私を信用してくれたクライアントには契約を破棄されてしまった。上司がいなければ仕事に手を抜く人間。何も知らない人にはそう見えても仕方ないだろう。会社での私の立場はなくなった。上司が戻ってくる三日前にはとうとう私のデスクが処分されていた。この仕事が大好きだった、狡い人間に負けたくなかった。そう思えば思うほど、音を上げたのは私の体だった。鳴りやまない頭痛に眠れない夜が続く。何を食べても胃が受け付けなかった。


 あの日、限界を迎えた私は気を失って倒れた。その時のことはよく覚えていないが、目を開けたらそこは社内の休憩スペースだった。会社の従業員が突然気を失って休憩室に運ばれるのか。硬い床にそのまま置いておくだけで。


「なんだよそれ……」


 それでも誰かが私をここまで運んでくれたのだろう。強く握った拳にポタポタと水滴が零れ落ちた。


「なによ……」


 もうだめだ。食い込んだ爪が痛い。


「笠桐さん!」


 勢いよく休憩室のドアが開けられて、あの人が帰ってきた。


「戻ってきたら君が倒れたって聞いて、大丈夫かい?」


 優しい人。あなたが繋げてくれたクライアントとの関係を壊して、あなたがいない間に何一つ成果も出さなかったのにそれを責めたりはしない。


「……めます」

「え?」


 あなたは優しい人だから、きっと真実を知っても何もしないでしょう? 大好きな奥さんを傷つける人になってしまうから。知ってる、これは始まった時点で私の負け戦だって。


「辞めます」


 仕事のできる、優しいあなたが好きでした。憧れでした。あなたのようになりたかった。

 でも、それと同じくらい優しいあなたが大嫌いです。






「調査の結果をお伝えしに来ました」


 明日、千石さんのところに報告に行くから一緒に行くようにと言われて、私も一緒にお屋敷に向かった。


「今回も相変わらず仕事が早いね」

「時間をかけても同じ結論に辿り着くかと思いますので」

「構わんよ、君のことは信用している」


 確かに仕事に対しての姿勢は真剣そのものだった。でも、智里さんの伴侶探しは本当に大丈夫なのだろうか。昨日は部屋の掃除をしただけだと思っていたけれど、本当は卒業アルバムでも探して誰かに会いに行ってみたりしてたのだろうか。


「では、報告させていただきますと」


 紳士はこちらに背を向けて窓の外を見るようにして立っていた。


「智里さんの未来の旦那は探すべきではないという結論に至りました」

「はっ?」


 私は思わず声を出してしまった。


「今必要なのは智里さんを理解することではないでしょうか」

「……私は君を助言者として雇ったわけではないよ」


 落ち着いて聞こえるその声にどこか怒りを感じた。


「仰る通りです。ですので、全ての話を聞いて頂いた上で探すかどうかを判断して頂きたいのです」


 紳士は振り返って大きくため息をついた。


「聞こうじゃないか」


 きっとたくさんの人から同じことを言われてきたんだろう。大事なのはお嬢さんの気持ちですよ、とか、ありふれた言葉を。


「これを見てください」

「これは……」


 これは何だろう?短い文章が書かれた少し古そうな紙。手紙だろうか。


「これは旦那様と奥様との文通ですね?」


 この前何があったとか、他愛もないことが書かれた紙が何枚も出てきた。こんなにたくさんの文通をしてきたのか。


「失礼ですがこれらの手紙を読ませていただきました」


 日付を見ればその文通がどれだけ続けられてきたのかが分かった。この紳士は長い遠距離恋愛を乗り越えて結ばれたのだろう。


「あなたの書く手紙にはよく花言葉が使われている」


 花言葉、そう言われて手紙を見てみる。花の名前なんて書いていないじゃないか。一瞬そう思ってから気が付く。かいてあるのは便箋だ。便箋のデザインとして描かれているもの、切手に描かれているもの。言われてみれば確かに花が描かれていることが多い。


「滅多に会えることもない中で、お二人はそうして愛を育んできたのでしょう」


 よく見ると、奥さんの手紙にもいつからか花がよく使われるようになっている。花言葉に気づいたのだろう。


「あなたの最後の手紙、これには何の花も描かれていません。でも」

「世界で一番きれいな花を迎えに行く」


 紳士は少し恥ずかしそうに口を開いた。


「そう、書いてあります」


 それは結婚の前に送られた手紙。奥さんのことをそう言うなんてなかなか素敵じゃないか。


「智里さんはこの答えを探しているんですよ」

「……どういうことだ、妻はもう生きてはいないぞ」


 私たちには言っていることの意味が分からなかった。


「奥様は亡くなる少し前に智里さんにこれらの手紙を全て渡しています。彼女が植物学者になった理由は花言葉に惹かれたとかかもしれませんが、今の彼女を動かしているのは大好きなお母さんの最期の願いを叶えるためなんです」

「願い?」

「スイステラをご存じですか?」


 佐賀さんは分厚い植物図鑑を広げた。


「北の寒い地域にしか咲かない希少な花で、その特徴は十二年に一度しか花を咲かせないことです」


 十二年。その数字は。


「亡くなった年から十二年……」


 佐賀さんは私を見て頷いた。待ってほしいと願った二年、それは、きっと。


「お母さんが亡くなった時に花を咲かせていたスイステラを、もう一度咲かせるために」

「……その花にはどんな意味が」


「意味はないよ」


 少しだけ開かれていたドアから声がした。


「智里さん!」


 ここに来るとは思ってもいなかったので私は驚いていた。彼女は腕組みをしたまま自分の父を見つめていた。


「佐賀さんは相変わらず博識だね。こんなことまで知っているとは思わなかったよ」


 智里さんは堂々と歩いてきて佐賀さんの隣に立った。


「それともこれも視た知識で、付け焼刃なのかな」


 彼女は少しだけ目を伏せた。


「さあ?どうでしょう」

「智里……どういうことだ」


 説明しなさい、まるで命令のような口調だと思った。


「そのままですよ、お父様」


 彼女はそのまま図鑑に載っている花の絵を撫でた。わが子を慈しむかのような、美しく優しい動きだった。


「スイステラは意味を持たない。その希少さに、美しさに、見たものは言葉を失う。それがスイステラ。あなたの『世界で一番美しい花』はこの花のようになりたいと言った」


 智里さんのお母さんが彼女にそう言い遺した。


「私は母をスイステラにしたいのです」


 智里さんはまっすぐに父を見た。


「もう一度、あなたたちを逢わせたいのです」


 千石さんはもう何も言わなかった。ただ俯いて肩を小さく震わせていた。






「智里さんはご両親が大好きだったんですね」


 自分の人生をかけて、二人を再会させたい、願いを叶えたいと思うほどに。

 あの大きな屋敷を出て、見送りに来てくれた智里さんと私たちは門へ向かっていた。


「そんなこともないさ」


 感動していたところに思わぬ言葉が飛び込んできた。


「母は植物に詳しくはなかったからね。母が言いたかったのは何年かかってももう一度会いたいとか、再び離れることになろうとも自分たちにはもう花言葉は要らないとか、たぶんそういうこと」


 智里さんは私の顔を見ていたずらっぽく笑った。


「スイステラを見たいのはただの私の我儘!」

「いやあ、さすが。ちゃっかりしてるよ」


 その横でパチパチと佐賀さんは手を叩いた。


「何を言うんだ。それを言うなら佐賀さんじゃないか。本来の依頼の旦那探しから論点をすり替えたくせに」


 確かに。この人は依頼内容をこなしてはいない。


「それに他人の手紙の記録を見るなんて趣味が悪すぎるね」

「必要があれば旦那は探しますよ?」


 言い訳がましく佐賀さんは言う。


「まあ、結末が分かっている未来なんて楽しくないね」

「そう言うのが分かっていたからあなたがいたあの場で追及しなかったんですよ」


 まったく、困ったお嬢さんだよ。佐賀さんはそう文句を言いながら千石亭を出た。


「まるで未来が分かるみたいな言い方して…」


 なんて適当な人なんだ。


「知らないのかい?」


 彼の不思議な能力の話を。






「別れの挨拶の邪魔は無粋だと思ったのだけれど」

 

 とっくに事務所に向けて歩き出していた佐賀さんに追いつくために、私は息を切らしていた。

「あなたは……っ」


 一度言葉を呑んで私は大きく息を吸った。


「あなたは、私を知っていたのですか」


 その人はこちらを振り返ることはないままに歩みを止めた。


「私たちが、出会うことを」

「君はうちの従業員」


 佐賀さんはこちらを向いて微笑んだ。

「帰ろう、私たちの事務所いえに」

 そしてまた、その人は歩き出す。


「待って、意味が分かりません! なんでそんなことがわかるんですか!」

「一緒にいるうちにわかるようになるさ」


 適当なことを、少し腹立たしく思いながらも、よくわからないこの人に私は少なからず興味を持ったのだった。



『彼は“出会い”が視える』

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