第79話 貴方は

 ——それはどこかの山の中にある、忘れ去られたモノ。


 人の手によって開墾された後、長い間放置された結果、人工物達は自然に飲み込まれてしまい、足は遠のいていく。人が寄り付かない場所は人にとっての優しさなど無くなり、記憶の隅へと追いやられて、やがて忘れ去られていく。

 ——そこはそんな場所。


「なあ、お前にとっての人間の定義ってなんだ?」

 唐突に向けられた質問に、旅人の動きがぴたりと止まる。抱えていた花束から一輪の花を指先で掴んだ格好で、いったん停止した。旅人は視線を背後の相棒へと向けた後、向き直って手に取っていた花を束から抜き去り、足元にある石像の前に寝かせて置いた。

「……唐突な質問だな。……だがまあ、そうだな……」

 身を屈める姿勢から立ち上がり、横を向いて数歩歩いて足を止め、再び相棒に背を向けて、別の石像の方へと向き直る。

 かつて人の手によって開かれた山の中、緩やかな坂の上から下まで、一定の間隔で並べられた石像達がずらりと鎮座している。

 周囲は雑木林に囲まれているが、不思議と石像達の周りには雑草ひとつ生えていない。つい最近に誰かの手によって除草作業が行われたかのように、草の根一つ残っていない。

 この場所が忘れ去られて久しいという事は、ここに来るまでの道程を思い出せばおのずと分かってしまう。一応は道の体を保っている状態で、土は踏み固められており、植物達も根を下ろすのに苦労しているらしい。道を少しでも外れれば、旅人達の腰の高さほどまで伸びた雑草や、好き放題に枝を伸ばした木々によって行く手を阻まれる。

 わざわざ道を外れて苦労する必要性がないので、まばらに生えた雑草を踏みつけながら、周囲の様子を確認しながら進み続けた。

 旅人は時折手ごろな野花をナイフで刈り取っていく。その後ろを歩く相棒は、その様子を無言で眺めていた。

 指定された場所に着いた後も、一人黙々と作業をこなす旅人の様子を相棒は黙って見守っていた。

 旅人の足音と衣擦れの音以外、この空間に響く物は無い。木々のざわめきも、風が木立の中を通り抜ける音も、生き物の鳴き声も無い。

 しっとりとした空気だが、地面の土自体はそれほど湿ってはいないので、坂を上がる際に足をとられる事はない。旅人が坂を上ろうとすると、靴底と地面が擦れて音がした。


 そもそもの話、ここに来ることになったのは、別の街道の木の根元に座り込んでいる人を見つけたからだ。

 何か体調不良で倒れているのかと心配になり、旅人は近づいて声をかけた。そしてその瞬間に、目の前にいる人が、少なくも生物としてそこに居るわけではないと悟った。

 そこに居るのは分かるし、声らしきものが聞こえてくる。人の形をしているし、おそらくは人間だと何となく分かるのだが、顔や背格好がぶれて、上手く認識できない。序でに言えば、たまに体の輪郭がぼやけている。

 これはやってしまったのだろうかと、安易に声をかけてしまった自身の迂闊さを反省しつつ、とりあえず話を聞いてみる事にした。


 聞き取れたのは今いる場所へと道筋と、そこにある石像達に花を供えて欲しいという頼み事。

 旅人が相棒に頼み事を聞いてやりたいと伝えたところ、小さなため息とともに了承を貰った。

「——一応は、意思疎通が能力的に可能、だと思っている」

 効果音すらないこの場所では、二人の声は異様に響く。

「——少なくとも、対話が可能なのであれば、意思疎通の努力はすべきだと思っている。まあ、言語が違っても、ある程度は身振り手振りで意思疎通が可能だろう?それすらも出来ない、——完全に常識や法則の違う相手はどうしようもないから、とりあえずは距離を取るか、撤退をする」

 ——つまり、相手が生物でなくても、意思疎通が図れるのであれば、人としての尊重をする。

「……相手が人間の形をしていなくてもか?」

 相棒は呆れながら、目を細めて旅人の背中を睨みつける。その視線を感じた旅人は居心地悪く思いながら、とりあえずは気づかないふりをして、黙々と石像の前に花を一輪ずつ並べていく。

「……それは、まあ、何と言うか……、時と場合によるな」

 ばつが悪そうに言い淀む旅人を白けた目で見ながらも、相棒は旅人の作業が終わるのを待ち続ける。

 相棒はこの場所に近づくにつれて、言葉数が減っていった。別に四六時中喋っているわけではないのだが、今訪れている沈黙の原因が、相棒の不機嫌によるものだと、付き合いの長い旅人にはすぐに分かった。だが、本当に危険な場所や、相棒が受け付けない事ならば、彼は素直にそれを申告してくる。

 何かこの場所が気に入らないのだなと、旅人はその理由を推察してはみるが、てんで見当がつかないまま、坂の一番上の端の最後の石像への献花を終えた。


 旅人がゆっくりとした足取りで坂を下り近づいてくるのを、相棒は視線で追う。目の前まできた旅人は、申し訳なさそうに苦笑を浮かべている。

「待たせて悪かった。とりあえずは頼まれ事は終わったから、山を出よう」

 そんな旅人の背後で、久しぶりに人間から供えられた花達が、嬉しそうに、懐かしそうに、寂しそうに愛でられているのを、相棒は眺めていた。

 相棒の視線が石像達に向けられている事に気が付き、旅人が振り返って確認してみたが、特段の変化はないように見える。

 ……私が見えないモノを見ているのか。

 元より、見えているモノも、聞こえているモノも、感じているモノも、まるで違う。旅人と相棒は違うモノだからだ。そういうモノだと、旅人も相棒も理解した上で、共に旅をしている。だからこそ言葉を交わす。共感は出来なくとも、情報としての共有は可能だ。

「君には何が見えている?」

 同じ景色を見ていても、旅人の瞳に映るものは、相棒のそれとは違う。不意に相棒の視線が旅人へと向けられ、彼の深紅の瞳に旅人が映りこむ。

「まあ、喜んでいるな」

 必要な情報であれば、相棒も見えている事を詳細に語ってくれるが、それが不必要と判断すれば、途端に大雑把な説明になってしまう。

 その事に関して、旅人も時折憤ったり不満に思ったりはするが、この時はそこまで気にはならない。相手が喜んでくれているのであれば、それで良いのだ。

「……そうか」

 それ以上の説明は不要だと旅人は納得をして、相棒へと向き直って、改めて彼に言の葉を伝える。

「用事は終わった。戻ろう」

「ああ——」

 それを聞いた石像達が、一斉に悲しみ、怒り、行かないでくれと訴えてくる。空気が揺らぎ、澱んでいくのを感じ取った旅人が、警戒心を露わにして周囲を見回す。

 それらが懸命に旅人に訴えて、自分達の意思を伝えようとするが、それらが旅人へと届く事はない。

 あるいは旅人が長時間此処に滞在すれば、何らかの形で届く可能性はあるのだが、生憎とそれを相棒が許す事はない。

「——行くか」

「ああ」

 この場所にこれ以上居座るのは良くないと判断した旅人は背を向けて、足早に来た道を引き返し始めた。

 その背に続きながら、相棒は背後の空間に入るモノ達へと視線を向け、威嚇の意味を込めてひと睨みすると、それらが怯えて震え、旅人へと纏わりついていた気配が弱くなり、力なく散っていく。

「諦めろ。お前らは、あいつにとっての『人』ではなかっただけだ」

 相棒はそれだけ告げると、少し先で足を止めて待っている旅人の元へと向かった。


「言葉が通じないのであれば、自分らと同じモノにするしかない」

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