第14話全てが花

 その町は色彩が豊かで美しいと有名だった。

 年中、幾種類もの花が咲き乱れていて、常に自慢げに誇らしく咲き誇り、儚くも美しく散っていく様は、思わず息を飲むほど美しい。

 故に、常に観光客が絶えない。四季に合わせて、色も形も大きさも違う、けれどどれも美しい花が、町を満たし、人々の目を楽しませ、その心を癒す。

 旅人はそんな幻想的な光景の中、花とそれを愛でる人たちを微笑ましそうに眺めていた。

 この町についてから、しばし二人で町を散策したのち、数時間の自由行動ということで解散した。

 旅人は一通りの散策を終えたので、最初に取り決めた集合場所である中央広場の噴水で相棒を待っていた。

「お花をどうぞ」

 ベンチに腰掛けて暇つぶしで本を読んでいた旅人に誰かが話しかけてきた。

「……花?」

 顔を上げた旅人は、目の前に立つ少女が抱えている籠の中を満たすたくさんの花々を見やる。

 旅人は観光の際に、花の入った籠を持って歩く少年少女をちらほらと見かけたことを思い出した。

「お客さんは祭りのことはあまり詳しくないのですね」

「……すまない。知人に頼まれて、この町の花を買いに来たんだ。ついでに観光をしに来たもので……。何か祭りがあるとは聞いていたが」

 ふと、旅人はこの時期を指定して、花を買って届けて欲しいと頼んできた少女の姿を思い出す。

 目の前に立つ少女と、彼女よりも幼く見える記憶の中の少女を思い出す。

「そうですか。——えっと、こほん。……あのですね。このお祭りでは、日ごろ私たちの目を楽しませて、心を癒してくれる花たちとそれを育む大地に感謝するんです」

 おそらくは観光客に説明するために、何度も練習をしたのだろう。少女は少し緊張した様子で、深呼吸をしてから、祭りの説明をし始めた。

「それでですね、私たちは学校で花を育てて、この日に観光客の皆さんに花を配っているんです。あ……、あの、もちろん無料です」

 商売ではなくボランティアだと、伝えるのを忘れていたらしい少女は少し慌てていた。年相応の可愛らしさに、旅人は穏やかで温かい思いがする。

「そ、それでですね。この花に感謝を込めて川に流すんです。それで、水を介して大地と花に思いを伝えるのです。これは決まった場所、時間に行います。川が色とりどりの花で埋め尽くされる光景はすごく綺麗です。毎年見ていますが、全然飽きません」

 覚えたであろう台詞と少女の感想が入り混じった説明だったが、むしろ彼女がこの祭りをとても好きなのが伝わってくる。

「そうか。では私もぜひ参加させてもらおう。私にも一輪頂けるかな?」

「は、はい!何色がいいですか?赤、青、黄、紫、白、ピンク、オレンジ。たくさんの色があります。お好きな色をどうぞ!」

 少女は自分の仕事に、張り切って抱えていた籠を旅人に中が見えるように差し出した。旅人は僅かに苦笑してから、籠の中を見て、すぐに一輪の花に手を伸ばした。

「あ、赤色がお好きなんですね。わたしと一緒ですね。それはわたしの一番のお勧めなんです」

 同じ色が好きなのだと分かり、親近感を覚えた少女は嬉しそうに満面の笑みを覚える。

 その深紅の生花はみずみずしく、鮮やかな花びらを自慢げに広げている。整った花と葉の形と色に、少女たちが丹精込めて育てたのが見て取れる。売り物の花と遜色ない。

 花を配る少女はとても可愛らしいし、とてもいい子なのは良いことなのだが、あまりにも人懐っこいことが少々心配になった旅人は、おせっかいだと分かりながらも口を開く。

「——少しおせっかいだとは思うのだが、祭りということで人も多い。極稀に悪い人もいることもあるから、一応は気を付けて欲しい」

「はい。心配してくれてありがとうございます。学校でも注意するように言われています。みんなどこで配るかは決まっていて、引率の先生が見回ってくれています。……実際、ずっと昔に、子供が行方不明になったこともあったらしいです」

「そうか。余計な気を使わせて済まない。大切な仕事の時間を割いて貰ってありがとう」

 少女は礼儀正しく礼をすると、籠を抱えて元気に歩き出す。その姿を見送っていた旅人の横に、唐突に人が座る。

「確かに可愛いが、少し若すぎるだろ」

 開口一番の下世話な台詞に、旅人は眉を顰める。

「お前と一緒にするな。……少し、姉さんを思い出しただけだ」

 どっかりとベンチに座り込み、背もたれに身を預けて、相棒は離れた所の観光客に花を手渡す少女を目で追う。

「……まあ、いいけどな。それより、お前、あんまり一人で出歩くな」

 唐突な言動に戸惑いながらも、旅人は先ほど自分が少女に言った言葉がよぎる。

「さすがにいい歳した男に言う台詞ではないと思うが。確かに少々童顔であることは認めるが」

 子供扱いされたと思ったのか、旅人は手にした赤い花を弄りながら不満そうに言い返した。深い赤色の羽がくるくると茎を軸にして回される。

「——あ~、別にそうじゃない。お前はこういう時にやたら狙われやすいから言っているだけだ。というか、お前の方が圧倒的に、俺よりも若いだろうが。俺からしたら正直大差ない」

 相棒の言うことは間違っていないし、人よりもトラブルに会いやすいのも自覚している。だが、旅人としても一応は大人としての自尊心はあるのでそう簡単に納得できるものではないのだが、今はそれよりも気になることがあった。

「……こういう時、とはどういう時だ?この土地にも何かいるのか?」

 基本的に長年続く祭りというのは、何かを崇めたり、何かを鎮めたり、もしくは神様をもてなして人と仲良くしてもらおうとしたりと、何かしらの理由があるものだ。

 近年にできたり、どこから伝わってきた祝日や、商業的なイベントごとだったりすることもあるが、何かしらの意味や目的はある。

「もともと、わざわざこの土地のこの時期の花を手に入れて欲しいと言われていたから、何か意図はあるんだろうとは思っていたが」

 意味のないわがままを言うようなことはしないし、自分をわざわざ危ない所にはやらないという信頼を持っているがゆえに、旅人はあえて聞くようなことはしなかった。

「……羨ましい限りだな。——いや、さっき散策をしていたら、変な気配がしたもんだから、一応確認だけしておこうと思ってな。そうしたら、どっかの子供が閉じ込められているのを見かけてな。明らかにきな臭いから様子を見てみたら、どうもどっからか攫って来たらしい」

「……は?明らかに犯罪だろう。もちろん助けたんだろうな」

 少し声のトーンが低くなった旅人を横目でちらりと見てから、相棒は話を続けた。

「まあ、それ相応の理由があったら放置しただろうけど、あんまりにも人為的な理不尽だったからな。適当に助けて、隣町に行けるぐらいの金を渡して開放しておいた」

 基本的に相棒は事なかれ主義だ。旅人が巻き込まれたり、自分から巻き込まれに行ったりした場合は別だが、自分の関係のないこと興味のないことは流してしまう。

 けど、例外はある。相棒自身が気に喰わないこと、許せないことだった場合は、状況次第では率先して突っ込んでいく。

 今回はその例外だったらしいことに、旅人は強い不安を覚えた。

「……まあ、所謂、生贄という奴だな」

「——生贄?この土地に、そういったものを求めるモノがいるということか?」

 旅人は思わず声を潜めて、周囲に人がいないことを確認する。

「ああ。この土地にはこの土地と花達を守る精霊、土地神の類がいる。それ自身がこの土地と花を気に入っているんだろうがな。——で、その恩恵を特別に授かっている有力者の一族がいる」

 代々政治家を輩出しており、この町で最も権力を持っているらしい。けれど、それが彼らの努力で全て手に入れたものではない。もちろんそれ相応の知識や教養があってこその今の地位だろうが、その基礎となる地盤や財力が問題なのだという。

「あの一族は、ここに人が住み始めた頃からいるらしい。で、その時にあいつらは契約した。この土地に元々住んでいたモノと。その結果、安定した生活を手に入れ、財力を手に入れて発展していった。……で、まあ、そのこと自体は昔はよくあったことだ。問題なのは発展して、人間が増えて技術の進歩で、自分たちでどうにかできるようになったにも拘らず、ずっとそいつに対価を——生贄を支払い続けていることだ」

 必要のない筈の対価を払い続けることのに対して、旅人は思わず相棒の顔を見る。宝石のように美しい赤い瞳に彼の困惑した表情が写っているのが見える。

「——お前には理解できないだろうが、一言でいえば『楽だから』だろう」

 その言葉で旅人は理由を察することができた。

「……つまり、努力で補うことができるにも拘らず、それに対する労力や時間や金を惜しんだ、ということか。人間は一度手に入れたものを失う事を特に恐れる生き物だからな」

「その花はこの町の子供が育てたんだろう?もちろん多少は土地の豊かさが影響はしているかもしれないが、手間暇かけて大切に育てれば、子供だってそれだけの花を作れるんだ」

 旅人も頭で理屈では理解できるが、それをする人間の心は理解は到底できない。普通は倫理観や罪悪感でそんなことはしない。

「最初は止む無くだったんだろうが、それを引き継いでいく内に、当たり前のことになって、そういったものを感じなくなっていったんだろう。親が当たり前にしているんだ。……まあ、疑問に持った者もいたかもしれないが。それこそ生贄行きだろう」

 相棒の言葉を聞いていて、旅人は不意に嫌な考えが脳裏をよぎった。

「……ちょっと、待ってくれ。それをずっと続けているような者達が、生贄を逃がしたくらいで事を諦めるのか?逃げた相手は子供だ。誘拐されたと言っても、どこまで証言できるか分からないし、信じてもらえるかも分からない。権力を持っているのだから、確たる物証がなければ無理だ。おそらく捕まらない」

 ……生贄がいなくなったのであれば、新たな生贄を用意すればいい。おそらくは発覚を避けるために、この町ではなく、どこか遠い所から攫ってきたのだろう。

 けれど、そんな時間はもうない。ならば、この町で用立てるはずだろう。

——そして、そんな簡単ことは相棒もわかっていたはずだ。

 旅人が相棒を睨みつけると、相棒は視線を逸らすことなく、いつもと変わらない表情と声で話す。

「——不公平だろう?神への贄だ。なら、それを選ぶのは神でなくてはいけない。それが無理であるならば、その恩恵をえている、この町の人間でなくてはいけない。……まあ、最悪、適当な観光客を選ぶ可能性はあるが、ここ最近は子供を贄にしているようだから、町の醜聞になるような真似は避けるだろう。観光業に支障があると大変だろうしな」

 旅人はそこで己の甘えや油断を悔いた。相棒のことを信頼してもいいが、信用してはいけないことを忘れていた。

 彼らは根本的な所で価値観が違う。人間同士でも、価値観は違う。たった今、価値観の違う、理解できない人間の話をしていたというのに。

 そんな当たり前のことを旅人は失念していた。

 旅人はすぐに立ち上がり、躊躇うことなく走り出した。


 相棒と別れてから、旅人が向かったのは市街地の方角。相棒の話から推測するに、相手はそれなりの財力を持っている。

 ——町の有力者ということは、それなりの家に住んでいるはずだ。

 目印として選んだのは結果的に正解だった。

 市街地は人はまばらで閑散としている。たまに見かける人たちはそろって中央広場に向かっているため、旅人と流れる方向は逆だ。

 もうじき花を称える祭りは一番の見せ場を迎えようとしている。

 ここに来る途中に置いてあった無料のパンフレットには、大まかな町の地図と、祭りの説明と、祭りの最中の大まかな予定表が載っていた。

 もし、人に見られて拙い行為を行うのであれば、行為そのものを見られるのはもちろんのこと、その準備作業を見られたくないはずだ。

 ならば人目を避け、人気のない場所や時間を狙う。観光客はもちろんのこと、町の者も揃って中央広場とその傍を流れる川に集うであろうこの時が絶好の機会であるのは間違いない。

 後は市街地の中で最も大きい家を目指す。代々行ってきた儀式だというのであれば、その近辺か屋敷の中に儀式場、もしくはそこへ向かう通路があってもおかしくはない。

 いくら祭りとはいえ、屋敷で働く使用人たちが一斉に留守にすることはない筈だ。花流しと呼ばれる行為は、観光客も含めるとかなりの人数となる。最初は代表者が花冠を流し、残りは列を作って順番に両方の川辺と橋の上に並び、時間をかけて花を流していく。

 透き通る水の上を色とりどりの花々が満たす光景は、きっと幻想的で美しいことだろうと、その情景を夢想しながら旅人は少し残念に思ってしまう。

 パンフレットには祭りの代表者の名前も載っていた。ご丁寧に、この町で最も古く長く町を支えてきたという説明書きまで添えられていた。

 さすがに名前が載った本人は祭りに出ているだろうが、その他の親類がいる筈だと予想して、旅人はその屋敷に侵入していた。

 旅人は裏手に回り、人の気配がないのを確認してから、三メートルほど高さのある塀を登ろうとして、手に花を持ったままなことにようやく気が付いた。

 ずっと握っていたせいで、少し元気がないように見えたが、それでも花を咲き誇らせる花を捨てる気にはならなかった。

 ピンで胸元に固定した後、煉瓦造りの塀の凹凸を利用して一気に登る。人目に付かない場所のためか、表よりも古びていて、多少だが風化してかけた場所があったおかげで、予想以上に早く登り切り、躊躇うことなく塀を飛び降りる。

 その姿は猫を彷彿とさせるほど、静かにしなやかに地面に着地する。できうる限り気配を消して、できうる限り速やかに移動を開始する。

 そしてすぐに標的を見つけた。

 狭くもなく広くもない裏庭に十人ほどの人間たちが集まり、そこに建てられた煉瓦造りの小屋にぞろぞろと入っていく。

 一見したところ倉庫に見えるが、大人十人が入るには狭すぎる。窓らしきものもなく、出入り口は扉一つだけだ。

 旅人は煉瓦造りの小さな部屋の中に大人がぎゅうぎゅうと詰まっている光景がよぎり、夏場は辛そうだと場違いな感想を抱く。

 旅人は全員が入って少し間をあけてから小屋に近づく。鉄の扉越しに気配を探るが、中から人の気配が全くしない。慎重に扉を開くと、わずかに金属が擦れる音がしたが、それを咎める者は誰もいない。

「……当たり、だが、……不用心すぎないか」

 中にはだれ一人おらず、祭壇のようなものが部屋の三分の一を占めている。

 旅人は徐に祭壇にかけられた赤い布に触れる。仕立てのいい布は祭壇の高さよりも広く、床まで裾を広げて全体を覆っている。その裾の端を持ち、そっとめくると、中には屈めば入れるほどの空間があり、階段が地の底へと伸びている。

 人間の業を飲み込み続けた口がぽっかりと開き、先を見通すことのできない闇を吐き出す穴を、旅人は睨みつける。

 ——旅人は自らの行いが、おそらくは意味がないことを理解している。全て肯定できるほどの自信を、彼は持ち合わせてはいない。

 ……相手は古くから祭られた神。人の力など遠く及ばない。

 神が契約通りの生贄を求めるのであれば、それを阻む力はない。もし、彼の行いで神の怒りを買ったとしても、彼自身は納得の上。

 けれど町の人たちは違う。何も知らないのだ。

 知らないことは罪だというが、そもそも知る機会——それどころか知るべきことがあることすら知らない者たちを責めることはできない。

 おそらく、相棒が言っていたことが一番公平な裁定なのだろう。その力によって加護を受けている者たちが対価を支払うべき。それを選ぶのは当の神であるべき。

 ……それが無理であるのであれば、せめて無関係な人間に類が及ばぬように。

「……無駄かもしれない。けれど、せめて神に説得を」

 ——相棒は基本的に、旅人に対しては誠実だ。事情を知れば旅人が何をしようとするか分かった上で教えてくれた。

 そもそも行動しなければ、そのままだ。何も変わらずに、終わり。根性論を説くわけではない。

 どれだけ努力した所で、叶わないし、手が届かないことの方が多い。

 けれど種をまかなければ花は咲かない。

 彼は胸に刺さった花を一瞥して、先など見えない闇の中に身を沈めた。


 小屋も階段も狭かったが、長く続く通路も大概狭い。大の大人が一人通れる最低限の広さ。荷物などを運ぶときは苦労するだろうことが容易く分かる。

 作りはしっかりとしていて、補強もされ、足元も舗装されていて、暗さに足をとられることもないだろう。

 長く伸びた道は旅人の足音以外は聞こえない。耳が痛くなるほどの静寂は、まるで地の底に埋められたかのような錯覚を与える。

 通気口はところどころ設置されているため、酸素が薄いということはないのに、圧迫感のせいで息苦しく感じる。

 旅人は小屋の位置と、真っすぐに伸びる通路の長さから、町の裏手にある渓谷へと向かっていると予想をしていた。

 この町は花を慈しみ、大切にしている。そしてそれを育てる大地と水に感謝を捧げている。花の祭りもその感謝を大地と水に届けようとするものだ。

「……それだけならば、ここの神はとても愛されている」

 その呟きも周囲の静寂に溶かされていく。

 通路の先に明かりが漏れているのが見え、旅人はさらに気配を殺して、静かに近づく。

 光と音を漏らす口へと向かうと、さらに奥から人の気配が伝わってくる。

 旅人は覚悟を決めて、光に足を踏み入れた。

 一気に開けた空間はもともとあった洞窟を加工されて作られたのか、所々に手の入っていない岩壁が見える。

 さらに進むと人工的な石畳に変わり、数段の階段の先に石造りの祭壇があり、その周りは鮮やかな花達が、絨毯のように所狭しと咲き乱れている。

 祭壇の後ろは行き止まりだが、そこには透き通った泉と、空まで突き抜けた穴から暖かい光が差し込んでいる。

 ……例えるならば、人と自然の調和を示した芸術だろうか。

 そんな場違いな感想を持っていた旅人だったが、すぐに正面に向き直り、祭壇の周りにいる人間たちを見据える。

 男たちは儀式に夢中なのか、旅人のことに気が付いていないようだった。祭壇を囲むように立ち、その陰に見たことのある姿が覗いている。

「……どうして昔から、嫌な予感ばかり当たる」

 旅人の嘆息交じりの声が届いたのか、彼の存在に気が付くものが一人二人と増えていく。

「だ、誰た!お前、どうやって……、——貴様が、生贄を逃がした犯人か?目的は何だ?神の加護は我らと町の者だ」

「——傲慢だな。たくさんの人たちが住む町と自分たちが同等だとでも?」

 旅人の問いかけには答えずに、戸惑いや焦りを受けた男たちが、彼を捉えようと近寄ってくる。

 多少の荒事は覚悟の上の旅人は、いつでも攻撃に移れるように構える。その次の瞬間に、その場が別の何かに満たされた。

 一瞬で水の中に沈められたような息苦しさ、何かに体を包まれて押さえつけられるかのような圧迫感に、この場にいる全員の動きが止まる。

 そして、その源、中心部であろう泉の上に光を帯びた女性が佇んでいた。

 一言で形容するならば——美しい、だろう。

 人では到底理解できないモノだということが、本能的に分かる。

 優しい微笑みを称え、花冠を付けた金色の髪を水の中にいるかのように漂わせ、新緑鮮やかさを閉じ込めた瞳は祭壇に眠る少女を見つめている。

 そのことに気が付いた旅人は、自らを捉える気配を振り切り走り出す。幸い、彼にはそういったモノへの耐性や慣れがある。

 他の男たちは瞬きすらままならないため、それを阻むことはできない。

 彫像と変わらない男たちをすり抜け、旅人は最短距離で少女の元へたどり着く。

 旅人に花を渡してくれた少女を庇うように、彼自身の体で覆い隠す。

「——……どうか、私の話を聞いて欲しい。あなたはこの土地と花を愛しているのだろう?この子も同じだ。だから、どうかこの子を——生贄を受け取るのはやめて欲しい」

 旅人は背後の男たちが息をのむのを感じたが、神と正面きって向かい合っている彼にはどうでもいいことだった。

「あなたの加護は尊いものだ。けれど、この町の人たちは、それを受けていることすら知らない。ただ、純粋にこの町と花とあなたを大切に思っている。もし、人間以外の対価でいいのであれば、この町をこのまま見守ってあげて欲しい」

 旅人は自分よりもはるかに強いものに対する恐怖を抑え込みながら、神を見上げて真っすぐにその目を見据える。

「——人間の、私のわがままに答えてくれるならば、対価を教えて欲しい」

 それ大して女性は少し首を傾げると、不意に旅人に向かって手を伸ばした。

 思わず息をのんで硬直する旅人の胸につけていた赤い花を、淡く光る白い肌の指が抜きさっっていく。

 女性は手に取った花をしばし眺めて、その赤い花弁に触れる。

 その瞬間、周囲に強い風が吹き、周囲に咲いていた花の色とりどりの花びらが宙を舞い散る。

 瞬きをした次の瞬間には、祭壇周りの花は全て、女性の持つ花と同じものに変わっていた。

 突然のことに目をしばたたかせた旅人は我に返り、嬉しそうに笑う女性を見やる。

「気に入ってくれたのであれば、何よりだ。その花はこの子が感謝を伝えるために育てたものだ」

 旅人が説明などしなくても分かっているのだろうが、何となく言葉にして伝えておきたかった。

「——あんたも、もう、分かっているんだろう?あの祭りで行われる、『花流し』だったか。流される花と、あれに込められる思いで対価は充分だ」

 後ろから聞こえた聞きなれた声に、旅人は顔を上げてそちらを見る。

 散歩ついでに来たと言われても納得できるほど、自然体の相棒の登場に、旅人は思わず安堵する。そして少し自分が情けなくなった。

 さらなる侵入者に困惑する男たちを意識に入れることもせず、相棒は歩きながら花の神に話しかける。

「一応、契約は守らなければいけないからな。まあ、その様子だと、最初に契約破棄や再契約の条件も付けていたみたいだな。——人間がそれを求めることが最低条件ということだろうな」

 相棒は旅人と少女をそれぞれ見る。

「お前が契約内容の変更と、対価の花を捧げた。これからは、あの祭りと人間たちの感謝の祈りが続く限りは問題ない。……さすがに後のことは、お前がどうこうするものじゃない。後はこの町しだいだ」

 それを聞いた旅人は良かったと、自分の信念を貫いて良かった微笑む。

 周囲で成り行きを眺めるしかなかった男たちは、重圧から解放された瞬間にことの衝撃のあまり崩れ落ちた。

 女性は愛おしそうに少女の髪を撫で、旅人に微笑みかけると、後ろにふわりと飛ぶようにして光の粒子を残しながら消えていった。

 それを見届けた旅人は相棒の方を見る。

「迷惑ばかりかけてすまないが、後は頼む。……さすがに、限界、だ」

 極度の緊張による精神的疲労で、旅人の意識は急速に遠のいていった。


「——どうしてくれるんだ!私の立場が!」

 この場で一番偉いらしい男が我に返り、相棒たちに喚き散らし始める。

「……いや、待て。再契約すればいい。そうだ来年また……」

 たわごとを述べる男に、相棒は冷たい視線を向ける。

「無理だろ。契約はお互いの意志あってこそだ。それよりも、お前らはさっさとこの町から離れた方が身のためだぞ?」

 座り込んでいた男がビクッと肩を震わせる。

「お前らが契約を秘匿したせいで、あいつは契約に縛られていた。そしてお前らは貰いすぎだ。この町に残れば、強制回収されるぞ。ああ。もちろん契約に立ちあったこの子供に何かしても怒りを買うだけだ」

 相棒は血のように赤い目を細めて、男たちを見下ろす。

 先ほどの重圧などよりも重い、明確な殺意に男たちは悲鳴をげて、我先に逃げ出す。

「——まあ。町を離れたぐらいで、許してもらえるかは知らないが。まあ、影響は減るだろう」

 騒がしい悲鳴と足音が立ち去った静寂の中、相棒はしばらくの間、その場に佇んで、心地よい空気と穏やかな寝息に耳を傾けていた。


「あいつらにとっては、人間は全て同じ。人間が花を愛でるのと同じように」

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