サンタクロースの死んだ朝

ムラサキハルカ

 Ⅰ

「ねぇ、柏木さんは何歳までサンタさんのことを信じてたんですか?」

 クリスマスが少しずつ近付いてきたある日の夜。大学の夜間部の講義が終わったあとのことだった。校舎脇の森の中にある喫煙者用のベンチに腰かけながら、私はふとした好奇心で同級生の柏木さんにそんなことを尋ねていた。

「なんで、そんなことを聞くんだ?」

 柏木さんは軽く目を瞬かせながら、煙草をくゆらせる。普段は副流煙に耐性がない私でも、不思議とこの銘柄の臭いは好みで、柏木さんの休憩に付き合うことが多かった。同じ講義を受けている友人達にデートだなどと冷やかされるのは面倒だったけど、言われたから止めるというのは癪で、彼の隣に座る機会は一向に減らなかった。

「特に理由はないですよ。ただ、私はけっこう年を取っても信じていたから、他の人はどうなのかなって」

「あんたは何歳くらいまで信じてたんだ」

 つまらなそうに尋ねる柏木さんは、視線を夜空に見上げる。普段から感情表現が乏しいせいか、ただ場繋ぎのために喋ってくれているのか興味を抱いて話に乗ってくれているのか、いまいち判断しかねた。どちらにしろ私から話しを振ったのだから、答えないわけにはいかない。

「中学二年生くらいまでです。それまではクラスメートにサンタクロースはお父さんとお母さんだって言われても、意地を張って違うって言い続けたんです」

 話している最中にも、母が苦笑いをしながら、サンタさんはお母さんだったでしょ、と口にした記憶が思い出されて、胸が痛くなる。

「あらためて言うと恥ずかしいですね。けれど、私は信じていました。いいえ、サンタさんを信じていたかったのかもしれませんね」

 あの瞬間まで、サンタクロースの真実に薄々気付いていようとも、認めようとはしていなかった。けれど、親が直接その正体を暴露してしまった瞬間、信じようとしていた気持ちそのものが折れてしまった。黙っていてくれれば良かったのに。今だったら、どのみちいつかは夢から覚める時が来るのだと理解できるけど、それでも長々と信じこんでいた子供にとってはサンタさんが親だったという事実は衝撃的だった。だからといって、頑なにサンタさんはいるんだとなにも考えずに泣きつくには、当時の私は年を取り過ぎていた。そうして八つ当たりもできずに押しこめられた感情は、今も胸の奥にある古傷を疼かせる。こうしてなんでもないように茶化している間も、中学二年生の頃の自分は心の片隅で泣いている気がした。

「柏木さんに聞いたのはたしかめたかったからかも知れません。自分以外にも、こんな感情を抱えている人がいるのかなって」

 言ってから、この思い出を誰かに話したのは初めてだったと気付く。母親に教えられたばかりの時は、サンタさんをこの年まで信じていたのは私くらいに思えたし、自分の中の大切ななにかが砕けてしまったみたいでそれどころではなかった。それからクリスマスが来るたびに、複雑な気持ちになってはいたけど、同い年の人間にサンタクロースをいつまで信じていたかなんて聞いてみるのは恥ずかしく、なによりも両親や社会に騙されていた自分の恥を曝したくなかった。そう考えると、今、柏木さんにサンタさんのことを惜しげもなく聞いている自分が不思議でならなかった。所謂気まぐれというやつなのか、もしくは柏木さんならばなにも口にせずに愚痴を聞いてくれると思ったからなのか。答えはよくわからない。

 柏木さんはしばらくの間、黙って暗い空を見上げたまま煙をゆっくりと吸いこんでいた。日が沈んでからかなりの時間が経ったせいか、コート越しに冷たい空気が骨に染みてくる。ポケットに突っこんでいる指先や、靴下に包まれた足先、鼻や耳といったところまで凍りついてしまいそうで、そろそろここを離れたくなってきた。彼が口を開いたのは、ベンチ脇にある黒い縦長のダストボックス型の灰皿に煙草を押しつけた時だった。

「そうなんだよな。サンタクロースなんて本当はいない、っていうのが常識なんだよな」

 随分と思わせぶりな口ぶりだった。なんだろう。これではまるで、本当にサンタクロースはいるのに、とでも言っているみたいに聞こえる。

「まさか、知り合いにサンタさんがいたりするんですか?」

 茶化すように口にしてみせたけど、内心では冗談にしきれない自分がいた。言外から読み取れる現実離れした内容に反して、彼があまりにも落ち着いているせいだろうか。もしかしたら、この人にはフィンランド人の知り合いでもいるのかもしれない。それを大げさにサンタクロースだなんて話に盛ったんじゃないだろうか。そんなことを考えている間にも、彼は新たな煙草を取り出しながら、流し目でこちらを見る。

「正確には、いた、だな。今はもう」

 そこまでで言葉を切った柏木さんは、相変わらず真顔のままだった。けれど、煙草を咥えたあと、懐からいかにも安物臭いクリアオレンジのプラスチックライターを取り出して火を付けようしている最中、かすかに苦しげな表情をしたのが目に映る。

 気のせいだろうか。けれど、今見たものが目の錯覚でないとすれば、サンタクロースの知り合いがいた、という発言の真偽はともかくとして、柏木さんにそんな顔をさせるような事情があるのはたしかなようだった。

「差支えなければ、話してくれますか。そのサンタさんのことを」

 柏木さんから言い出したこととはいえ、ぽろりと漏らしてしまっただけで本当は聞かれたくないことなのかもしれない。そういった想像を働かせたけど、好奇心に後押しされたのもあって、聞いてみた。

 煙草の先っぽの赤くなった部分を見ながら、柏木さんは何も答えない。口が塞がっているのだから返答がないのは当たり前なのかもしれないけど、表情を変えないまま目線を動かさず間を長く取っているせいもあって、まるで声が聞こえていないみたいだった。やはり気分を害してしまったんだろうか。私がおそるおそる様子を見守りながら、より冷たくなってきた外気から身を守ろうと肩を抱いた。

「面白い話じゃないぞ」

 唐突に吐き出された言葉がなにを指しているのか、最初は理解できずにいた。それが私の問いに対する肯定だと飲みこむのと時を同じくして、柏木さんが煙草の先っぽからこちらの顔へと目を移した。向かい合う二つの瞳は不自然に澄みきっていて、見ていると、なぜだか胸を締めつけられるような感覚に襲われる。とんでもなく息苦しくて、口を開くのも億劫になる。隣り合った仲のいい異性同士にありがちな甘ったるさとは無縁な重たさは、それでいて寂しさを宿しているような気がした。

 ふと、考えた。こうして柏木さんがサンタさんについて話そうとしているのは、私が話を聞きたいと願ったからなのか、柏木さんが話したいと願ったからなのか。因果関係からすれば、話題を出したこちらの気持ちが元になっていると考えるのが自然だった。けれど、そういったところも含めて、柏木さんがこの話をしたいと思ったせいだと、いつの間にか責任転嫁をしている自分がいた。

「ええ、お願いします。あなたの知っているサンタさんのことを教えてください」

 そう頼んだ時も、喋るだけで苦しくなりそうだった。きっと話を聞くたびに、この胸にかかるものの重みも増していくに違いない。しかし、それ以上に私を期待させていたのは、かつての夢の残滓だった。もしも、本物のサンタさんがどこかにいるというのならば、心の片隅にいる幼い自分がもう泣かなくてもいいかもしれない。ほとんど叶わないと知っているけど、そんな一縷の希望に縋りたかった。

 柏木さんは少しの間、空に向って煙をくゆらせていたけど、口から煙草を離して言った。

「少し長くなるけど、いいか」

 元々強かった煙草の臭いがより濃さを増した。それを嗅いで少しだけ落ち着きを取り戻してから、私は頷いてみせる。柏木さんはこちらの反応に何を思ったのか、小さく溜め息を吐いたあと、煙草をもう一口吸ってからすぐに離した。その息が鼻先に吹きかかるのとともに、私と彼の間に枯葉がひらひらと落ちた。

「あれはまだ、俺が小学生の時のことだ」

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