六節 緩慢な黒い沼地
地下三階層へ続く階段の前は円形の広場になっていた。上階の広場同様、壁沿いにある導式灯が照明を確保しているが、やはり、所々から続く脇道の封印はすべて破壊されている。脇道にも導式灯は設置されているのだがその数は少ない。
その広場の中央に集まったウルズ組へ、「それでは荷下ろしを開始してください」ハンスがそう告げて回った。いつも元気に声をかけて回るハンスの顔も疲労の色が濃い。
「下の連中、まだ荷受にきてねえよ」
革水筒に口をつけていたチムールが唾を吐いた。
「い、移動に手間がかかっているんだろう――」
ヤーコフは四輪荷車にかけたロープを解いている。
「そう思いたいわね」
一緒に荷を解いていたニーナが持ったロープがぶちんと切れた。
導式鎧のパワーである。
ヤーコフが少し笑いながら、
「ニ、ニーナさんは荷を運んでくれるか?」
「フム、どうもこれは吉兆ではないよなあ――」
リカルドが横目で自分の娘の力技を眺めていた。
ツクシは荷台の上に乗って積荷の木箱を下ろしながら、
「ゴロウ、輸送隊列についている小隊は導式通信機を携帯していないのか。あれで下の輸送隊と連絡をつければいいだろ」
木箱の中身は食品――りんごだのみかんだのといった果実類が多いようだ。これならニーナも無事運べるだろう、とツクシは安心している。
「ああよォ、あの導式具は一応、軍の機密だからなァ。俺だって動いてるところはさっき初めて見たぜ。それに、あれはまだ数も少ないみてえだし、よっと!」
ゴロウがツクシが下ろす木箱を受けた。
「荷を持ってここを降りるわけですか。こりゃあ、本当に大変そうっすね――」
荷を受けたヤマダが階段の入り口を見つめた。
「うん、ヤマ、辛いぜ。足がパンパンになる」
トニーは荷の重さにもう音を上げてケツ顎を突き出している。その荷下ろしが終わっても下のアンスール組が階段を上がってくる気配がない。ネスト地下二階層から三階層を繋ぐ階段は途中で三箇所の踊り場があり、そこを右へ左と折れるらしい。
「ここはは下りきるのに、少なくとも二十分以上はかかるよ」
トニーが教えた。
荷下ろしを終えると、ネスト・ポーターたちは広場中央に集められて、
「小隊は階段を先行せんぞ。ここで輸送物資の警備を行うから、お前ら先に行け」
ボルドウ小隊長にそう告げられた。小隊の代わりにネスト・ポーターから武器を持ったものを選抜し、階段の移動を先行さ警備を担当させるという。ネスト・ポーターたちがどよめいて不穏な空気が流れた。小隊の予備役兵は強張った顔で銃を構え直した。
ボルドウ小隊長はおちょぼ口を歪ませて薄ら笑いだ。
「とことん、ふざけた豚だぜ。ここでぶっ殺しておくかよ?」
ツクシが殺気立った。
「ツクシ、あのクソ野郎を相手に怒っていたら、キリがねえぜ」
そうはいったがゴロウだって鬼瓦のような顔である。
「隙を見てよ。あの豚の首筋によ、矢を叩きこんでやるよ。俺はいつだって狙ってんだよ」
チムールが横を向いて勢いよく唾を吐いた。
「チムール、こ、声がでかい、聞こえるぞ――」
ヤーコフが声を低くした。
「相変わらず呆れた男――」
ニーナは目尻を吊り上げてボルドウ小隊長を睨みつけている。
「ウム。しかし、あの腰抜けの予備役兵どもが階段を先行したところで、ポーターたちが安全だとはいえぬのも、また事実よ」
年の功か、リカルドは冷静だ。
「それもそうっすね、リカルドさん」
頷いたヤマダがリカルドを見やった。
「リカルドさんとニーナがいて助かったよ、俺たちは運がいい――そうともいい切れないよなあ。屍鬼の群れには襲われるわ、エレベーターは故障するわでさ。その上、階段を使って荷運びかあ――」
トニーはこれからやる重労働が気にかかるようであった。
ツクシたちが不満を垂れていると、ハンスが歩み寄ってきて、
「アウフシュナイダー辺境伯。ご足労ですが階段の先行をお願いできますか?」
このハンスは金髪碧眼で顔の掘りが深く、背丈は百八十センチを優に超えた、立派な体格である。年齢は二十歳前後。その顔に少年の面影をまだ残していた。
少しの間、ハンスの顔を眺めていたリカルドが、
「ウム、その顔は――まさか、貴様、ベルシュタインのところの
「――はい、辺境伯。ここまで申し遅れておりました。自分はハンス・フォン・ベルシュタインです」
ハンスは視線を落とした。
「おお、おお、大きくなりおってからに! 顔は母親に良く似たなあ。あのむさ苦しい親父のほうに似なくて運が良かったぞ。ネスト管理省に勤めているとは、奇遇よなあ、奇遇よ!」
リカルドは嬉しそうな顔である。
「ええ、私自身は北部戦線への出兵を――陸軍への入隊を志願したのですが、それがどういうわけか、ネスト管理省の勤務なんかに飛ばされまして――辺境伯もニーナ嬢も、お元気そうで何よりです」
ハンスがうつむいたまま弱く笑った。
「ハンス、お父様はあまり元気じゃないのよ。それにもう辺境伯でもないわ」
ニーナがいった。
はっ、と顔を上げたハンスが、
「ニーナ嬢、この私を覚えていてくださいましたか!」
その顔にあった疲労がぱっと落ちるような笑みである。
「いい男になったわね、ハンス。私、前から気づいていたわよ?」
ニーナも赤い唇に笑みを浮かせた。
ハンスは頬を赤らめて、
「あっ、合わせる顔がなく挨拶が遅れました。いっ、いろいろと申し訳もなく――辺境伯の件は私の父もしつこくタラリオン元老院へ働きかけをしているのですが、残念ながら、未だ力至らずです。まったく元老院の連中は腐っている。父上も手ぬる過ぎるのです、もっと――」
「――いうでない、ハンス」
遮ったリカルドが、
「ベルシュタインには迷惑をかけた。気持ちだけでも、十分、我輩は嬉しかったぞ。それに我輩はもう辺境伯ではないのだ。今は市井にあるただのジジイに過ぎぬ。だからハンスも我輩を辺境伯ではなく、ただのリカルドと呼べばよい」
そうはいったものの、胸反らしたリカルドはどこか尊大な態度だ。
「いえ、辺境伯。それは、父に私が怒られます――」
ハンスは困惑している様子である。
「――ハンス」
ニーナが寂しげな微笑みをハンスへ見せた。
ハンスはニーナの微笑みに沈黙を強いられたあと、
「わかりました。では、リカルドさん、ニーナさん。輸送隊列の先行警備をお願いできますか?」
「ウム、喜んで引き受けようぞ」
「断ると思った?」
ハンスの要請を父とその娘は快諾した。王都第六区の区役所の長、そして、元老院議員を兼ねているヨセフ・フォン・ベルシュタイン侯爵、その三人目の実子がこのハンス・フォン・ベルシュタインである。リカルド親子とハンスのやり取りを、ツクシは黙って聞いていた。ハンスが去ったあともツクシは黙っていた。ツクシの周辺にいた連中もみんな無言だった。
階段を最初に下りることに決まったのは、リカルド、ニーナ、ツクシ、チムール、それに他班のメンバーで構成された八名だった。先だって会話を交わした落ち武者氏や知らない若者――猿のような顔をした若者が混じった集団である。その後ろから、それぞれ物資を持ったネスト・ポーターが連なって階段を降りてくる。
階段は導式灯で照明が確保されているし、脇道はないので坑道の道と比較的をすると安全に見えた。警戒する必要があるのは前方だけだ。ツクシはユキに身を寄せた。近くにいる猿のような顔つきをした若い男がユキをじろじろ眺めている。ツクシが殺気の篭った視線を突き刺すと、その猿顔男は顔を前へ向けた。猿貌男は汚れた穴だらけの茶色いマントを羽織っていた。落ち窪んだ眼窩にある目が極端に黒目勝ちで、黒い碁石が二つ並んでいるように見える。猿顔男は手に斧槍を持っていた。形状は輸送警備小隊の予備役兵が持っているものとまったく同じものだ。
この猿が持っている斧槍は拾ってきたのか、盗んできたのか――。
ツクシが猿面へ
地下三階の階段前は地下二階と似たような広場で、やはり、壁に並ぶ導式灯で照明が確保されていた。
ツクシは周辺を警戒した。広場の脇道の封印はやはり壊れている。脇道から屍鬼やファングが顔を出す気配は今のところない。荷受けに来る筈のアンスール組は、まだ到着していない様子だ。
「――荷受組はまだかよ?」
ツクシが唸った。
「気配すらしねえよ――」
チムールが唾を吐いた。
「何かおかしいわね――」
ニーナが細い眉を寄せた。
「ウム。油断するでないぞ、皆の衆――」
リカルドが注意喚起した。
「ここまで静かだと逆におっかねェナ――」
「だねえ――」
落ち武者氏とその細君が肩をすくませた。猿顔男は、そのお仲間らしい若い三人と一緒に離れた場所にいた。彼らは特別な理由もないのに余裕を見せて、常にひとを小馬鹿にしたような笑っている。ツクシの耳に猿顔男とお仲間の甲高い笑い声が聞こえた。その声質がまだ青臭い。
クソガキども、頼りにならんどころか、信用すらならん――。
ツクシが猿とお仲間を睨みながら、
「ユキ、モグラ、お前らは俺の近くにいろよ」
「うん」
「わかった、ツクシ」
ユキとモグラは素直に頷いた。
先行したツクシたちはその場に留まって、地下三階層広場の警戒を担当する。他のネスト・ポーターは階段を使って輸送物資を下の階層へ運ぶ作業を続行した。上がりは三十分、下りは二十分かかる長い階段を荷を持って往復するので、ネスト・ポーターはすぐ汗だくになった。トニーが真っ先にへばった。続いて、ヤマダとゴロウが悲鳴を上げた。ヤーコフは最後まで階段の上り下りをしていた。それでも二時間ていどで上にあった輸送物資は地下三階層へ下ろされた。最後の荷が到達した直後である。階段前広場から続く一番太い道――大坑道にひと影が見えた。荷受けにきたネスト・ポーターではない。脇道から出現した屍鬼が数体だ。それが、ゆらりゆらりと揺れながら階段前広場へ歩み寄ってくる。ネスト・ポーターたちが騒ぎだした。火器を所有するボルドウ輸送警備小隊は、現在、階段を移動している最中だ。
「やっぱり、来たわね――」
「フム、お出ましか――」
リカルドとニーナが兜の面当てを下ろした。
「あのよ、リカルドの親父さんとニーナはよ、広場から気軽に離れるなよ。ちょっと考えればわかるだろうよ」
チムールは呆れ顔だ。
「チムールの判断が正しい。今、リカルドさんとニーナが広場から離れると、ポーターたちが混乱して収集がつかなくなるだろうぜ」
ツクシはユキとモグラを眺めていた。できる限り、強力無比な戦力であるリカルドとニーナの近くにユキとモグラを置いておきたい、これがツクシの本音である。
「それもそうね、ツクシ。出てきた屍鬼の数も少ないわ。あの大群を見たあとだから、少し神経質になっていたみたい」
ニーナがツクシの横顔を見つめた。本心を見透かされているようで、ツクシは落ち着つかない。ツクシは横目でニーナの美貌を睨んだ。それを見て、頬を赤く染めたニーナが視線を逸らした。ニーナは何かを勘違いしたのか、何かを思い出したようである。
こんなときに、トボけた女だよな――
ツクシの肩から力ががくんと抜けた。
「ウゥム、そういわれてみると、確かにそうよ。我輩としたことが冷静さを欠いたわ。すまぬ、チムール、ツクシよ」
リカルドが凹んだ様子で視線を落とした。
「おいおい、別によ、リカルドの親父さんが謝る必要はねえよ――」
チムールは顔をしかめた。
気まずいようである。
「ひ、広場にある脇道も、き、気になるな――」
ヤーコフは広場の各所にある脇道を見つめていた。
「何本もある脇道から一斉に屍鬼が出てきたら大変っすよね――」
ヤマダがきょろきょろと広場を見回した。
「ヤマ、お、おっかねえことをいうなよ――」
トニーが自分の腰にある短剣に手をやった。
「チムール、小隊を呼ぶか。急がせれば間に合うかも知れねえぜ?」
ゴロウがチムールの背へ声をかけた。
「――いらねえよ、ゴロウよ」
チムールは
狩人は歩を進めながら弓を
音を建てずに流れる小川のような、流れる歩み、静かな動作。弓の弦を絞る音だけがする。濁った眼で、腐り落ちた鼻で、血膿流れ出る耳孔で、屍鬼はどうやって獲物を発見するのか。先にある餌の多さに戸惑うような曖昧な動きで歩みを進めていた屍鬼三匹が歩み寄ってくるチムールを目標に定めて、ぎこちなく走りだした。狩人の眼は、鋭く、用心深く、静かに、狩りの対象を観察する。一番最初に動き出した屍鬼の額に矢が突き立った。矢を額に受けた屍鬼は走りながら恰幅の良い中年男性の死体へ戻って転がった。後の二匹は屍鬼の女だった。この二つ腐敗が進んだ個体で、上へ下へガクンガクン身体を揺らしながら、チムールへ走り寄ってくる。びょう、びょう、二つの風切音。立て続けに屍鬼の女の額へ矢が刺さった。二匹の屍鬼の女は四肢を地面へ投げ出して動くことを止めた。
構えた狩人弓を下ろしたチムールは歩みを止める。
ツクシが階段前広場から遠くなったチムールの背を眺めながら、
「やはり、見事なものだな」
ユキがツクシの横顔を見上げて、
「ツクシ、臭いね――」
ユキの鼻先がピクピク動いている。
首を捻ったツクシが鼻先を動かして、
「そんなに臭うか? 距離はかなり遠いが――ああ、そういわれるとかなり臭う。あの屍鬼は腐敗が相当進んでいたのかも知れん。動きも鈍かったからな――」
「ん、やっぱり、すごく臭い」
ユキが丸い眉を寄せた。ツクシとユキは嗅覚が鋭い。ユキは
リカルドとニーナの白い導式鎧と、チムールの後ろ姿を見比べていたモグラが腕を組んで、
「オイラも弓の練習をしようかなあ。うーん――」
「ああ、チムールは村で一番の――」
笑顔のヤーコフが口を開いた。
「あのね、ヤーコフ。それ何度いえば気が済むの?」
ニーナが横目でヤーコフを制止した。
睨んでいる。
「あ、ああ、すまん、ニーナ――」
背を丸めたヤーコフは苦笑いだ。
「しかし、タラリオン王国でも随一やも知れぬな、あの弓の腕前――」
リカルドはカイゼル髭をくるくる指先で丸めながら感心していた。
「あっ、歩きながら、あんな正確にっすか。凄い、チムールさんは達人だ――」
ヤマダはポカンと口を開けていた。
「チムールの矢が外れたの、俺、見たことない気がする――」
トニーが視線を上へやった。
「おーい、チムール、はやくこっちへ戻ってこいや!」
ゴロウが怒鳴った。
「――ああ、矢を取りにいくよ。このままだと足りなくなるからよ!」
チムールの声が大坑道に響いた。
「チムール、い、いいから早く戻ってこい!」
ヤーコフも怒鳴ったが、
倒れた屍鬼のもとへ歩み寄ってゆく最中、チムールの足が止まった。
「チムール、どうしたァ?」
ゴロウが眉根を寄せた。
「足でも
ツクシも眉根を寄せた。
「何かあったのかしら?」
ニーナが小首を傾げた。
「ム、どうしたことか?」
リカルドも首を捻った。
「――お前ら、
チムールが背中越しに怒鳴ったと同時に、大坑道の脇道から屍鬼が連なって出現した。五、十、十五、二十――ツクシは出現する屍鬼の数を数えていたがすぐやめた。数え切れないほどの屍鬼が続々と出てくる。
階段前広場にいたネスト・ポーターたちが、
「脇道か屍鬼が出てきてるぞ、かなりの数だ!」
「ひ、広場もだ、広場の脇道の奥からも屍鬼が来てる!」
「屍鬼だ、お、多いよ!」
「おい、囲まれたぞ!」
「どこへ逃げればいいの!」
「小隊をすぐに呼べ!」
「兵隊は頼りにならないよ、上だ、急いで二階へ上がりな!」
「みんな、階段だ、階段を上がれ。上へ逃げるんだナ!」
階段前広場を怒号と悲鳴が飛び交った。
「――ええい、落ち着けい、皆の衆!」
リカルドが大音声を上げた。しかし、すでに混乱したポーターたちは階段へ殺到している。怒鳴り声と、悲鳴と、泣き声、その上に屍鬼の大群が発する呻き声が重なった。混乱を収拾することはもう不可能だ。
「チムール、ど、どうした!」
ヤーコフが吠えて、吠えながら走りだした。
大坑道で迫る屍鬼の群れを前に立ち尽くすチムール。
そこへヤーコフが全力で駆けてゆく。
「あっ、ヤーコフ、勝手に行動したらだめ、だめだってば――ツクシ、どうしよう!」
ニーナが強張った顔をツクシに向けた。
その横でリカルドが顔を真っ赤にして歯ぎしりをしている。
大坑道から押し寄せる屍鬼の群れか、階段前広場の脇道から出現する屍鬼の列、どちら優先して戦えばいいのか。この迷いが、リカルドとニーナを混乱させていた。
戦力を分散して戦うと被害が拡大しかねない――。
「――リカルドさんとニーナは階段前でポーターどもの撤退支援だ。一人も残さずに二階へ上げろ。できるな?」
ツクシがいった。
「いや、ツクシ、まずはチムールを――」
リカルドはツクシに顔を向けて絶句した。ニーナは呆けたような顔でツクシを見つめている。ワーク・キャップの鍔の下にあるツクシの三白眼だ。この二つの目玉から殺気が迸っていた。
これに触れると必ず斬れる――。
「――ああよォ、ツクシ。広場はリカルドさんとニーナに任せて、俺たちがチムールを引っ担いで戻ってくるしかないみたいだなァ!」
ゴロウがぶっとい首を回しながら鉄の錫杖で地面をどすんと突いた。
「ツクシさん、自分もいきます!」
十字槍を手にヤマダが叫んだ。
「俺も男だ、行くぜ、こんチクショウ!」
やけっぱちで叫んだトニーも腰に差した短剣を引き抜く。
「いや、トニー、お前はユキとモグラをつれて上へ避難しろ。
ツクシが唸り声でトニーを止めた。
ユキとモグラに顔を向けたトニーが、
「あっ、そっ、そうか、そうだよな――わかった、ツクシ。それは俺にまかせろ。おい、ガキども、こっちだ、階段を上がる、急げ急げ!」
「ツクシ!」
「ゴロウ!」
ユキとモグラが同時に叫んだ。
「いいから上へ走れよ、ユキ、モグラ。すぐに俺たちも行く」
ツクシが口角を歪めて見せた。
「心配すんなァ。屍鬼はトロくせえからよ」
ゴロウが歯を見せて笑った。
「――うん」
ユキが無理のある笑顔を作った。
「――うん、わかった。ユキ、早く行こう!」
モグラが吼えた。
「女と子供を優先するんだ、押すナ、ひとを押すナ!」
落ち武者氏が階段前で混乱しているポーターの整理に奮闘している。
トニーと一緒に階段へ走ったユキとモグラを確認したあと、
「良し、行くぜ――」
ツクシが低い声で呟くようにいった。
何度か酒を酌み交わした仲だ。
俺の目の前で気軽に死ぬんじゃねェ。
お前らのためじゃねェからな。
俺の夢見が悪くなるって話だぜ――。
ツクシが走る動機はこのていどの感情だ。このていどの感情が炸裂し、ツクシは弾かれたように走りだした。外套の裾がひるがえる。その横でゴロウの白い武装ロング・コートの裾もひるがえった。ヤマダが二人の男の背を追った。彼ら三人の視線の先に大坑道の中央で佇むチムールとヤーコフがいる。救出対象には屍鬼五十以上が迫っていた。階段前の左と右に配置したリカルドとニーナが群がる屍鬼を蹴散らし始めた。ネスト・ポーターの名もなき勇士が割れてひしゃげて地面に転がった屍鬼へ止めを刺して回っている。
チムールは大坑道で矢を放っていた。チムールの紅潮した頬を汗がつたって落ちる。地面へ汗の玉が落ちると同時に額を
チムールの服を掠めるほどに近くまで屍鬼の手が迫っている――。
「――チムール、どうしたんだ、チムール!」
走り寄るヤーコフが吼えた。
「ヤーコフ、来るなよ、おかしな『式』を使っている奴が近くにいるんだよ、お前は、さっさと逃げろよ!」
チムールが怒鳴った。
それは奇妙な光景だった。
大坑道の中央で屍鬼に囲まれて一歩も動かずに矢を放ち続けるチムール。そこへ必死で走るヤーコフ。この二人の間にある距離は十メートルていどのものだ。だが、ヤーコフはチムールのもとへ辿りつけない。
ヤーコフの足はまるで粘つく泥のなかを歩いているような――。
「――何だ、これは!」
足を取られたツクシが地面に手をついた。屍鬼に囲まれたチムールとヤーコフまで距離およそ十五メートル。それが、不可解なほどまで遠かった。
走るのを諦めたゴロウも膝をついて、
「くっそ、ツクシ、こりゃあ『魔導式』だァ!」
「ま、魔導式って! ネストに
ツクシとゴロウの後ろで這いつくばったヤマダの涙声である。
「足元がまるで泥沼だ。ゴロウ、これは一体どうなってる!」
ツクシが真下へ吠えた。地表を黒い霧が覆っていた。その黒い霧を通して見える赤土の地面が波打っている。
「魔導式でこの場を沼に変えた馬鹿がいる。これは魔導式陣・
ゴロウが鉄の錫杖を地面へガッと突き立てた。
「ゴロウ、お前は魔法使いだろ、さっさとこれをどうにかしろ!」
ツクシが怒鳴った。地面についたツクシの手すらも重い。粘度のある激流に囚われているような感覚だった。
「俺は
ゴロウの錫杖を中心に黄金に輝く導式が連なる円環がいくつも発現する。それらは、きらめき、連結されて拡大した。ゴロウが押し広げた黄金の導式陣で地表の黒い霧が駆逐されていった。
ツクシは数歩も進まないうちにまた膝をついて、
「おい、まだだめだぞ、クソが!」
「だっ、だめだ、足が重すぎて、全然、進めないっす!」
ヤマダに至っては一歩も動けていない。ゴロウが押し広げる導式陣・退魔の領域の拡大が遅いのだ。チムールとヤーコフがいる位置までその効果は届いていない。
もっと急げ、この赤髭野郎――。
ツクシがゴロウを睨んだ。
このままじゃ、間に合わないっす――。
ヤマダが視線でゴロウへ訴えかける。
ゴロウは突き立てた錫杖へ右手をかざして口述鍵の詠唱に集中している。微動だにしない。歯噛みしたツクシはチムールとヤーコフへ目を向けた。歩幅にして二十歩ほど先なのだがそこに届かない。黒い沼は屍鬼へ影響していない。魔導で張られた罠は生きている者のみに作用するようだ。
チムールの肩へ屍鬼の手がかかっていた。
「チムール、ヤーコフ、すぐゴロウが何とかするから耐えろ、何とかして耐えろ!」
ツクシが怒鳴った。
拝むような心境で怒鳴った。
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