296:みんな、ありがとう。

 中原暦6628年ロザリアの第4月28日。美香を乗せた馬車は、ヘルムート率いる近衛師団3,000に守られ、カラディナ国境へと到着した。




 聖王国とカラディナ共和国の国境には、昨年末の時ほどではないにしても、多くの人々が屯し、幾つかの集団を形成していた。それぞれ数百乃至ないし数千の兵からなる集団は、各々異なる国旗を掲げ、東方から近づいてくる近衛師団の様子を注意深く見守っている。近衛師団はカラディナ共和国の旗がはためく集団に近づき、万にも及ぶ人々の注目を一身に受けながら、美香の乗る馬車の扉を開いた。


 コルネリウスのエスコートを受けながら馬車から降りた美香の許に、ジャクリーヌがアインを伴って駆け寄り、深々と一礼する。


「陛下、遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます。1ヶ月にも及ぶ長旅で、さぞお疲れでございましょう。こちらに天幕をご用意させていただきましたので、どうか玉体をお労り下さい」

「ジャクリーヌ猊下、わざわざお出迎えいただき、恐縮でございます。御言葉に甘え、お邪魔させていただきます」


 二人は並んで天幕へと向かいながら、言葉を交わす。


「皆様はもう、お揃いでございますか?」

「はい、陛下。明日より会議が執り行われますので、御臨席のほど、よろしくお願いいたします」


 すると、急にジャクリーヌの表情が暗くなり、悔やむように声を絞り出す。


「…陛下、この様な形での開催となり、誠に申し訳ございません。この半年では、陛下にまつわる噂を払拭する事ができませんでした。南部諸小国の中には、陛下を快く思わない方も未だおられます。これらは全て、ガリエルの罠に嵌り、判断を誤った西方諸国の不徳の致すところ。この罪はいずれ如何ようにも償いますので、どうか中原の未来のため、此処はご辛抱下さい」

「猊下、どうかそれ以上ご自身を責めないで下さい。わたくしは大丈夫ですから…」


 そうジャクリーヌを慰める美香の声は沈み、彼女は沈痛な面持ちで唇を噛みながら天幕へと入って行った。




 ***


「皆様、この度は小職の呼び掛けに応じていただき、篤く御礼申し上げます。諸事情によりこの様な場所での開催となりました事、大変心苦しく思いますが、これより中原各国代表ご出席による国際会議を始めたいと思います」


 所々樹々が点在するなだらかな平原の中に建てられた、応急の木造家屋。その中でテーブルを囲む複数の男女に向かって、ジャクリーヌが開催を宣言した。


 部屋は広く、数十人の人々が詰めかけていたが、テーブルを囲む椅子に腰を下ろしている者は、そのうちの20人にも満たない。テーブルを囲む者は各国の代表者と教会の枢機卿に限られ、残りの者達は自分達の代表に従い、後方に据え置かれた椅子に腰を下ろしていた。コルネリウスとテオドール、そしてアデーレを従えた美香は、他国の代表団から向けられた隔意のある無遠慮な視線から逃れるように、テーブルの木目を見つめる。


 ジャクリーヌは椅子に座る各国代表を一人ひとり紹介した後、続けて会議の趣旨の説明に入った。


「昨年の末、この地にロザリア様が降臨され、中原に生きる全ての人族に向けて聖言を発されました。ガリエルはロザリア様の手によって討ち取られ、永遠に続くと思われた戦いについに終止符を打つ事ができましたが、その反動でロザリア様は力を失い、永い眠りに就かれます。私達は5年後に訪れる素質無き新たな時代を迎えるため、各国が手を取り合い、一丸となって社会を整えなければなりません。皆様、この中原最後の試練とも言うべき苦難を乗り越え、新たな繁栄の時代を迎えるためにも、建設的な協議のほどお願い申し上げます」

「その前に一つよろしいですかな、猊下」


 ジャクリーヌが説明を終えたところで、一人の男が椅子に腰を下ろしたまま手を上げる。南部諸小国の一つ、「大公国」の頂点に立つ大公は、厳つい脂ぎった顔を美香へと向け、その肢体を舐めるように見ながら、口を開いた。


「エーデルシュタインに成り代わり新たな頂点に君臨された、コジョウ陛下にお伺いしたい。一昨年のハヌマーンの襲撃とエーデルシュタイン王国の滅亡、及び昨年の西方諸国の多数の兵士の殺害に対する責任について、如何様にお考えか?」

「っ!?」


 ジャクリーヌの説明を俯き加減で聞いていた美香は、突然の謂れのない追及にショックを受け、顔を上げる。美香の視界の先で、南部諸小国を中心とする多数の人物が、程度の差こそあれ厳しい視線を美香へと向けていた。言葉に詰まり沈黙する美香に代わって、テオドールが立ち上がり、反論する。


「はて?陛下に責任を求めるとは、随分と面妖な事を申されますな、大公殿下?先のハヌマーンの襲撃とは、言わずと知れたガリエルの差し金によるものであり、前王朝の滅亡は王族同士の権力争いによる自滅であります。当時『ロザリア様の御使い』の称号の他に何も持たず、身一つ同然であった陛下にとって全くあずかり知らぬところ。陛下はその厄災に巻き込まれ、路頭に迷う民を憂いるあまり、止むを得ず立ち上がったに過ぎませぬ。また、昨年末の『東滅』なる宣言に呼応し国境を越えた西方諸国の兵士達は、我が国の平穏を脅かす不法侵入者であり、我々は国民の命を守るため止むを得ず剣を取って暴漢を討ち払っただけの事。正当な自衛行為であり、何ら弁明の必要性を認めませぬ」

「元はと言えば、貴国における混乱から生じたデマが発端であり、我々の行動は貴国の危急を憂いて起こした義挙によるもの。誤解があったとは言え、その我々の善意に対し言葉で正そうともせず、問答無用で殺して回るとは、あまりにも非道ではないか?」

「いやはや、大公殿下の慈悲深きお言葉を聞き、大公国が如何に太平の世を謳歌しているか、感服いたしました。剣を抜いて押し寄せて来る55,000もの兵に対し、無用な血を避けるために、まず陛下が単身で出向き誤解を解いて説得しろと仰られる。是非一度、大公殿下に、その模範を披露していただきたいものですな」


 テオドールの挑発的な物言いに、大公は殺意の籠った視線を向け歯ぎしりをするが、利あらずと見たのだろう。彼は視線を転じ、再び美香に追及の目を向けた。


「陛下、貴方は、首都陥落の報を聞き亡命先から帰国されようとしたリヒャルト殿下の前に立ちはだかり、その身を捕らえられた。そして身一つとなった殿下と直接対面しながら、その首を刎ね、979年もの歴史を持つ由緒あるエーデルシュタイン王国を、滅亡へと追いやったのだ。貴方は、その決断に何らやましい点はござらぬか?正当な王家の血を自らの手で絶っておきながら、良心の呵責に苛まれないのか?」

「リヒャルト殿下の首を刎ねたのは、私の一存だ!陛下は一切関係ない!」

「コルネリウス殿、私は陛下にお尋ねしているのだよ。大人しくしていただこう」


 堪らずコルネリウスが口を挟むが、大公はそれをね退け、あくまで美香から言葉を引き出そうとする。誰もが口を閉ざし、上空を舞う鳥の鳴き声だけが響き渡る中、皆の視線を一身に集めた美香は蒼白な顔を上げ、震えながら口を開いた。


「…わ、わたくしは、―――」




「――― やれやれ。鶏口と言うものは、何の力もないくせに口やかましく騒ぎ立てるばかりで、敵いませんなあ」




「貴様!?我を愚弄するつもりか!?」


 横合いから割り込んできた言葉に大公は激高し、発言者を睨みつける。だが、発言者が矮躯な体の持ち主で、カラディナ共和国の席を占めている事に気づき、大公の怒りは困惑へと置き換わった。発言者は大公の言葉を気にせず、素知らぬ顔で耳の穴を穿ぽじっていたが、大公が押し黙ると、耳の穴に差し込んでいた小指に息を吹きかけてから、席を立つ。


「大公殿下を愚弄するつもりなど、とんでもない。私は、上空を舞う鳥の鳴き声に辟易しただけでありますから」


 そう前置きしたセドリックは、テーブルを囲むジャクリーヌとジェロームの間に進み出ると、鼻白む大公に弁を振るう。


「私は何の後ろ盾もない一介の市民から、この口だけで身を起こし、此処まで上り詰めて参りました。その私からすれば、血統や正当性などと言うものは、力のない者が先達の威光に縋って自身を大きく見せようとする、謂わば単なる飾り。その者の力量には、何も寄与いたしません。民は、老いて傷つき無様にのた打ち回る煌びやかな孔雀より、身を縮め健やかな寝息を立てる若い獅子を選び、己の未来を託すのです」

「陛下はこの世界に何の身寄りもない一介の町娘でありながら、一貫して他者を想い、己の為し得る事を尽くし、激動の中で藻掻き苦しむ民を支えて参りました。手の届く相手には己を顧みることなく手を差し伸べ、力及ばず指の間から零れ落ちた民に対して他者を責める事なく、ご自身だけを苛み、涙を流されました」

「試練に打ち勝ち利を齎した暁には躊躇いもなく民へと還元し、歓喜に湧き立つ国民を余所にご自身は邸宅一つ持たず、未だ臣下の館に身を寄せる毎日。強大な権限は全て臣下に委譲し、ご自身は臣下に乞われるがまま、まるで下女のように身一つで走り回り、国民の慰労に勤めておられる」




「その様な、清貧に徹し身を粉にして働く陛下に対し、大公殿下、豪奢な邸宅に腰を下ろしたまま動かない貴方が、一体何をもって責めると言うのでありますか!?」




「ぅぐ…」


 セドリックに詰め寄られ、怯みを覚えた大公の許に、うら若き乙女の感情に揺れ動く声が流れる。


「セドリック様、言葉の至らぬわたくしに代わって心のうちを代弁下さり、誠にありがとうございます。わたくし自身でさえも朧げにしか感じていなかった想いを汲み取り、此処まで明確な形にして理路整然と語られるセドリック様のお姿を目にし、わたくしは初めて殿方に苦しい胸の内を明かせた様な歓びを覚え、ただただ感激するばかりでございます…」

「はっ!陛下に過分なお褒めの言葉をいただき、このセドリック、これに勝る喜びはございません!」


 途中から涙ぐむ美香の言葉を受け、セドリックは歓喜に身を震わせ、美香に向かって深く一礼する。思わぬ方角からの援護射撃を受け、コルネリウス達が目を白黒させていると、美香はセドリックの最敬礼に淑やかに返礼し、目元を拭いながら微笑んだ。


「大公殿下、わたくしはセドリック様が申されました通り、まつりごとを知らない一介の町娘でございます。ですが畏れ多くもロザリア様から血を賜り、この地に生を受けた最初の人族として、また素質無き世界を知る唯一の人族として、最後の試練を乗り越えるべくロザリア様より使命を賜って、この世界へと遣わされました」

わたくし自身は皆様と同じ、人智を越えた力を持たない、不完全な只の女です。これから直面するあらゆる出来事に、皆様と同じように迷い、葛藤し、苦悩を繰り返した上で決断し、そして悔い苛む日々を送る事でしょう。リヒャルト様の件につきましても、より良い道があったのではないか、あの方が死を迎えることなく、安息を得る手段があったのではないかと、今も悔やむ毎日が続いております」




「――― ですが、わたくしは、決断する事だけは止めません。例え選択を誤ろうと、後悔しようとも、自ら決断し行動する事だけは止めません。それが人を率いる者の定めであり、決断した者だけが未来へ歩を踏み出せると、信じているからです」




「…大公殿下」

「…」


 いつの間にか空を舞っていた鳥も何処いずこへと去り、静まり返った会場の中に、美香の声だけが響き渡る。


「批評や批判は、決断した者に課せられた、宿命です。わたくしはこれからも何かを決断するたびに、人々の心ない批判を受け、醜聞をこの身に纏わりつかせる事になるでしょう。ですが、わたくしは歩みを止めません。決断します。そして、新たな批判と醜聞を引き摺り、未来へと歩み続けます」




「大公殿下、そのわたくしからのお願いです。――― 長きに渡り国を治められた指導者の先達たる皆々様に対し、若輩たるわたくしへのご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」


 そう締めくくった美香は席を立つと、テーブルの向こう側に並ぶ人々の前で姿勢を正し、深々と頭を下げた。




「…方々。私からも一言、申し上げさせていただく」


 美香が面を上げ、再び腰掛けた後も暫くの間静寂が漂っていたが、一人の男の声が空間を切り裂いていく。ジェローム・バスチェは、テーブルの上で指を組み、各国代表を睥睨するように眼球だけを動かしながら、淡々と発言した。


「カラディナ共和政府はエーデルシュタイン王国の滅亡を正式に認め、聖王国を正統な後継王朝と認定し、その主権を尊重する。同時に、聖王国との合意があり次第、前王朝と同等の外交関係を維持する用意がある事を、此処に宣言しよう」

「「「!?」」」


 ジェロームの宣言を聞き、大公をはじめとする南部諸小国の代表達にどよめきが走る。昨年末の東滅の役においてカラディナ共和国は最も多くの死傷者を出し、その後1ヶ月にも渡り領土内の素質が機能せず、経済的にも大打撃を受けていた。それだけ多くの確執があるはずのカラディナが、あっさりと聖王国の支持を表明した事に南部諸小国の代表が驚いていると、3人の声が続いた。


「我がセント=ヌーヴェル王国も聖王国を正統な後継王朝と認定し、主権を尊重する事を、此処に宣言する。これからも両国間の、前王朝に勝る密接な協力関係を期待している」

「エルフ大使より、大草原の表明を代弁させていただく。『エルフ八氏族は、聖王国をエーデルシュタイン王国に代わる三大国として承認し、これまでと変わらぬ友誼を宣誓する。あわせて、陛下より要請された視察団の受け入れを正式に表明する。いつでも来られたし』…以上」

「ロザリア教会カラディナ、セント=ヌーヴェル両支部は、先の『東滅』の宣言を撤回し、コジョウ陛下の身の潔白を表明します。…陛下、御身に謂れなき罪を被せご宸襟を悩ませました事、重ねてお詫び申し上げます」

「謝罪を受け入れます、ジャクリーヌ猊下」


 セント=ヌーヴェル国王、エルフ大使であるフレデリク・エマニュエル、ジャクリーヌ・レアンドルの三人が、続けざまに聖王国の支持を表明する。ジャクリーヌが席を立って美香と会釈合戦を交わすさまを、残された南部諸小国の面々は呆気に取られ眺めていたが、やがて大公を先頭に次々と支持を表明した。


「我が大公国は、コジョウ陛下並びに聖王国を正式に承認し、その主権を尊重する。今後、前王朝に勝る良い関係を築きたいものだ」

「我が国も聖王国を正式に承認し、国交を樹立します」


 南部諸小国は中原の総人口の15%にも満たず、経済的にも三大国に依存している。その三大国の思惑が一致し、さらに教会が支持を表明している以上、反対する余地はない。




 こうして北伐に端を発し、中原を席巻した一連の動乱は終結を迎え、中原は5年ぶりに一枚岩へと戻る。美香は更に「交髪の宴」によるハヌマーンとの停戦協定を報告して中原各国の度肝を抜き、各国から次回北伐の無期限停止を取り付けた。


 その後2日間に渡る協議の末、5年後に控える素質の無い世界に向けた国際協定が合意に至り、「ロザリア憲章」が全会一致で採択される。


 後世の人々から「絵空事」と言われる「魔法の時代」が、平和裏のうちに終わりを迎えようとしていた。




 ***


 ヴェルツブルグに戻った美香を出迎えたのは、割れんばかりの拍手と人々の歓声だった。西方諸国との和解と「ロザリア憲章」の採択が一行に先んじてヴェルツブルグに伝わると、人々は喜びに湧き立ち、美香の許へと押し寄せ、喝采した。


「陛下、お帰りなさい!」

「陛下、よくぞご無事でお戻り下さいました!」

「みんな…!」


 馬車を降りた美香が人々の歓びの声と宙を舞う花吹雪に驚いていると、アデーレが美香の肩に手を添え、愛と感謝に満ち溢れた笑顔を向ける。


「みんな、感激しているのよ。あなたのおかげで、神話の時代から続くガリエルとの戦いが終わり、安寧が訪れる事を。あなたが居てくれたから、ハヌマーンとの和平が成り、血と憎しみから解放された事を。みんな、あなたがこの世界に来てくれたから、為し得た事なの…来てくれて、ありがとう、ミカさん」

「お母さん…」




 ――― 決して望んで来たわけでは、なかった。元の世界に戻りたいと、何度も願った。




 だけど、いつしかかけがえのない人ができ、いつまでも一緒に居たいと願うようになった。この世界で皆の喜びや笑顔を絶やしたくないと、思うようになった。


 自分一人じゃ何もできなかったけど、―――。


 先輩が居なければ成し得なかったけど、―――。


 皆が居なければ叶わなかったけど、―――。




 ――― だけど、その願いは叶い、私は今、自分が幸せだと感じている。




「…ミカさん?」


 そう思った途端、美香はアデーレの手を振りほどき、人々に向かって駆け出した。




 一歩。幸せを踏みしめて。


 二歩。嬉しさを噛み締めて。


 三歩。喜びをバネにして。


 美香は大地を蹴り、花吹雪の舞う空に向かって跳び上がった。彼女は満面の笑みを浮かべ、宙を舞いながら民衆に向かって大きく手を振る。そこには、中原最大の国を統べる女王の威厳も、神話に語り継がれる「母」としての気品の欠片もない。




 ただ、初めて会場に来てくれたファンの声援に応え、純粋な感謝と歓びに満たされた笑顔を浮かべる、駆け出しのアイドルの姿だけがあった。


「――― みんな、ありがとう!」

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