287:悪夢

「待たせて悪かった。久しぶりだな、アイン、ミリー」


 何気ない男の言葉に、アインは剣を持つ手に力を籠め、内心の衝動を抑えようと歯を食いしばる。男は無手で、その一本しかない手には何も握られておらず、鎧さえも身に着けていない。まるで戦場に迷い込んだ旅人のようないでたちだったが、アイン達はその姿に呑まれまいと必死に己を奮い立たせた。


 男のいでたちに騙されるな。女の姿に惑わされるな。奴らの言葉に耳を傾けるな。


 アイン達は正面に並ぶ男女を睨みつけながら、繰り返し自らを戒め、心に喝を入れる。




 二人はあの時、レヴカ山で死んだ。今目の前に居る二人は、あの時の彼らではない。別のナニかだ。




 だが、アイン達が必死に自らの心に壁を張ろうとも、その壁はたちまちメッキのように剥がれ落ち、ついに中から溢れ出た衝動が喉を伝い、言葉となって外へ漏れ出る。


「…トウヤ…お前、生きていたのか?」

「ああ、お陰様でな」


 男の何気ない言葉を聞いた途端、アインの心は決壊した。彼は腕を振り上げ、男と並び立つ銀の女を指差すと、喚くように追及する。


「ならば!その女は、一体誰なんだ!?シモンさんはレヴカ山で悪魔に憑かれ、命を落とした!その彼女を蘇らせ従えるお前は、何者なんだ!?コジョウ・ミカにくみし、中原を救おうとする我々の邪魔をするお前は、一体何を考えているんだ!?」

「トウヤさん、シモンさん、お願い!目を覚まして!」


 アインの言葉に誘発されたミリーが声を張り上げ、自分達を阻もうとする二人に真実を伝え、訴える。


「トウヤさん、シモンさん、二人とも騙されないで!コジョウ・ミカは人心を操り、エーデルシュタインを滅ぼした張本人なの!彼女は恐怖と快楽でエーデルシュタインを支配し、今もなお多くの人々が血と涙を流し続けている!彼女を斃さないと、いずれ中原はガリエルの侵略を受け、氷に閉ざされてしまうわ!お願い、二人とも其処そこ退いて!今、この時が、彼女を斃す唯一のチャンスなの!」

「そうですよ!シモンさん、目を覚まして下さい!あなたはコジョウ・ミカに操られているんです!」


 ミリーに続き、フルールも銀の女を正気に戻そうと叫び声を上げる。だがミリー達の必死の訴えにも拘らず、二人は黙ったまま、男は冷徹な光を、女は灼熱の輝きを目に湛え、ミリー達を見つめている。レオが盾を構え、イレーヌが前傾姿勢となって詠唱に備える中、やがて男が溜息をつき、口を開いた。




「…積もる話は、後にしよう。アイン、お前達の負けだ。降伏しろ」




「断る!」


 アインは両手で剣を持ち、切っ先を男へと向けながら、男の勧告を拒絶する。ハンター達が一斉に剣や盾を構える中、男はなおも言葉を続けた。


「戦いは決した。東滅軍は壊乱し、聖王国軍によって殲滅されつつある。北部戦線も聖王国が優勢になっている。最早、お前達に援軍は来ない。此処で抵抗しても、無駄死にとなるだけだ」

「そんな事は、させない!」


 男から仲間を守るようにアインは立ちはだかり、投げつけられた言葉を剣で切り払う。


 男の言葉通り、東滅軍の敗北は確定した。そして、自分達の生還の途も閉ざされようとしている。だが、この期に及んでも、アインは諦めていない。




 まだ戦いに負けたわけではない。コジョウ・ミカを斃す術は、残されている。




 アインは体の中を巡る感覚に、手ごたえを感じる。


 もう少し、もう少しで「充電」が完了する。アインは剣を持つ掌に汗を感じながら、慎重に相手の様子を窺う。


 コジョウ・ミカの取り巻きは10人ほど。地面に倒れている獣人の救護活動によって、一箇所に固まっている。一撃で「雷」を被せれば、コジョウ・ミカに手が届く。「雷」の威力を知るミリー達もその一撃に全てを賭け、死中に活を求め、身構えた。その、アイン達の視線を一身に受け続けていた隻腕の男がもう一度溜息をつき、頭を掻いた。


「…そうか。残念だよ、アイン」

「それは、こっちの台詞だ!トウヤ!」


 その瞬間、ミリー達の視界からアインの姿が掻き消え、爆音とともに隻腕の男の前へと躍り出た。




 後に続く仲間達には目もくれず、アインは空気の壁を掻き分け全身に風を感じながら、一直線に隻腕の男へと飛び込んで行く。男の後ろには複数の女性騎士が剣を構えているが、全て「雷」の射程圏内。男との間に銀の女が割り込み、アインの剣を弾こうと身構えるが、それも織り込み済み。「雷」は防げない。アインは両手で剣を持ち、風と共に流れる景色の中で大きく振りかぶった。背中に隠れた剣が紫電を纏い、青白い輝きを放つ。


 アインの視界の先で、隻腕の男は銀の女に守られたまま、その場を動こうとしない。アインは急速に大きくなる男女の姿に惑わされて剣が鈍らぬよう、自らを叱咤するように吶喊の声を上げる。


「さらばだ、トウヤ!」


 一陣の風と化して迫り来るアインに対し、男は動かない。男はその場に佇み、銀の女に守られながら、ただ静かに言葉を紡ぐ。




「――― 管理者権限をもって命ずる。アインのナノシステムへのアクセス権限を、剥奪しろ」




「…え?」


 突然、アインの視界が大きく揺らぎ、彼はバランスを崩した。アインは剣を振りかぶったまま、つんのめるように地面へと倒れ、胸を強かに打つ。勢いを殺し切れず彼は何度も地面を転がり、三半規管が悲鳴を上げ、口の中に土の味が広がる。反射的に目を閉じてしまったアインが目を開くと、目前に赤茶けた大地が迫っていた。


「うおおおっ!?」


 アインは左手で剣を持ったまま慌てて両手を突き出し、堅い大地との接吻を免れる。状況が理解できず、混乱したまま顔を上げたアインだったが、間髪入れず硬質化した拳が地面を抉るように弧を描き、正面から迫って来た。


「ぐおおおおおっ!?」


 アインは切磋に剣を立てて拳を防いだが、獣人の膂力に押し負け、耳障りな音を立てて剣が浮き上がる。剣に引き摺られ、地面に両膝をついたまま剣を振りかぶるような体勢となったアインの胸目掛けてしなやかな右脚が突き込まれ、アインは辛うじて左腕でガードしたが、体ごと後方へと吹き飛ばされた。


「がぁっ!」




『管理者命令を受諾。個体名アインのナノシステムアクセス権限を、停止いたしました』

「アイン!」


 ミリーは何処からともなく流れて来る女性の声を聞き流し、自分の所まで吹き飛ばされたアインの許へと駆け寄る。彼は大地に仰向けに転がり、痛みに顔を顰めながら体を起こした。


「ぐ…、左腕が折れた。ミリー、治療を頼む」

「わかった!」


 ミリーはアインの隣で片膝をつき、アインの左腕に手を当てて「癒しの手」を発動させる。だが突然アインの左腕が震え、彼は自分の左掌を見つめたまま、顔を強張らせた。ミリーはその表情に不吉な予感を覚えながらも、アインに尋ねる。


「アイン、どうしたの?」




「…『雷』が感じられない…」




「…え?」


 何を言っているのか理解できず間の抜けた言葉を返すミリーの目の前で、アインは慌てて後ろを向き、背中の様子を探っている。そのアインの顔が瞬く間に蒼白になり、彼はミリーの顔を見上げ、唇を震わせた。


「…『疾風』も機能しない。――― 素質を、奪われた」




「…え?」


 度重なるアインの言葉を耳にしても、ミリーはその言葉の意味が理解できなかった。いや、ミリーのみならず、レオも、イレーヌも、フルールもその言葉の意味が理解できず、呆然とした表情でアインの顔を見つめている。


 やがてレオとイレーヌが我に返り、慌てて正面へと向き直る。二人の視線の先では、隻腕の男の前に立ちはだかる銀の女が拳を構え、規則的な跳躍を繰り返していた。彼女の上下運動に沿って、芸術的な曲線の向こう側で銀の尾が見え隠れしている。


 …素質を…奪われた?


 レオ達は、その言葉が脳に染み込むにつれ、恐怖に心臓を鷲掴まれる。




 素質。魔物との戦いで欠かす事のできない、人族を飛躍させる強大な武器。ロザリア様より授かり、一度獲得すれば人々に大きな力を齎し、生涯に渡ってその者を守護する。




 その素質を、奪われた。


 レオとイレーヌは巨大なタワーシールドの陰に隠れ、歯を食いしばりながら必死に思考を巡らせる。


 いつ、奪われた?奪ったのは、どっちだ?自分達は、まだ素質を奪われていない。奪うためには、何かしらの条件があるはずだ。


 出口の見えない、堂々巡りにも似た疑問を繰り返すレオ達の耳に、アインの声が聞こえてくる。


「…トウヤだ。師匠、素質を奪ったのは、おそらくトウヤだ」

「レオ!来る!」


 一瞬アインの言葉に気を取られたレオだったが、イレーヌの警告を耳にして、すぐさま意識を切り替える。


 途端、男の前に立ちはだかっていた女が掻き消え、爆音とともにレオの左側に忽然と姿を現した。




「ぐぅ!?」


 レオの真隣に姿を現した女は、銀の髪をなびかせ灼熱の光をその目に湛えながら、前傾姿勢で右拳を引き絞っている。レオは「怪力」を駆使して巨大なタワーシールドを振り回すと、女の前に割り込ませた。「怪力」を切って城壁と化したタワーシールドに女の拳が突き刺さり、周囲に金属の悲鳴が鳴り響く。


 直後、タワーシールドにもう一度強烈な打撃が加わり、レオは質量兵器と化したはずのタワーシールドごと押し込まれる。レオは前傾姿勢で歯を食いしばり、前方から打ち付ける剛力に抵抗した。


「師匠!」


 アインの警告を受けレオが左を向くと、タワーシールドの陰から躍り出て、右拳を引き絞る銀の女と目が合った。その女にアインが左腕を庇いつつ剣を振り下ろすが、女は銀の孤を描きながらアインの剣を躱し、すれ違いざまに裏拳をアインに見舞う。硬質の拳を背中に受け、転倒するアインと入れ違う形でレオは左腕を横なぎに払った。巨大な鉄板が女を襲うが、女は軽やかにステップを踏み、致死性の暴風域から雑作もなく退避する。後退する女に向けて、ミリーに守られたイレーヌとフルールが魔法を詠唱する。


「汝に命ずる。風を纏いし見えざる刃となり、巴を成せ」

「汝に命ずる。氷を纏いし蒼白の槍となり、我に従え」


 そのイレーヌ達の声に、男の声が割り込んだ。




「――― 管理者権限をもって命ずる。レオ、イレーヌ、フルール、ミリーのナノシステムへのアクセス権限を、剥奪しろ」




『管理者命令を受諾。個体名レオ、イレーヌ、フルール、ミリー、以上4名のナノシステムアクセス権限を、停止いたしました』

「そ、そんな!?」

「ま、魔法が!?」


 聞き慣れない女性の声と共に掌から力が失われ、イレーヌとフルールが蒼白になり、レオが悲鳴にも似た叫び声を上げる。


「名前だ!名前が、素質を奪うトリガーだ!…があぁぁぁぁ!」

「レオ!」


 直後にレオを見舞った惨劇を見て、イレーヌが悲鳴を上げる。「怪力」を失って身に着けた武器防具全てが重しと化し、身動きの取れなくなったレオの懐に女が飛び込み、拳を繰り出していた。レオは戦斧とタワーシールドを捨て、顔の前で腕を交差して身を守ろうとしたが、その腕の隙間に次々と女の拳が突き刺さり、強固なプレートメイルが軋みを上げ歪に変形していく。その姿を見たミリーが振り返り、暴風で分断された5人のハンターに向かって叫んだ。


「みんな!」


 5人のハンターは決死の表情を浮かべ、一斉に頷く。5人は隻腕の男と面識がなく、あのクエストにも参加していない。アイン達が無力化された今、男に名の知られていない5人に全てを託す他にない。ポーター役だった2人の地の魔術師が詠唱を開始し、3人のハンターがコジョウ・ミカに向かって走り出した。


「汝に命ずる。礫を束ねて岩となり、巴を成せ」

「汝に命ずる。礫を束ねて鋭き槍を成し、我に従え」


 ミリーは剣を納め、弓に持ち替えながら背中の矢筒に手を伸ばす。だが、その右肘に矢が深々と突き刺さり、ミリーはその痛みに思わず悲鳴を上げた。


「あぁ!」


 涙を堪え、顔を顰めるミリーの視線の先に、奇怪な馬車の上で弓を構えるエルフの姿が映し出される。剣の技量は足らず、弓も封じられた。素質も奪われ、瞬く間に自分が無力化された事を知り、挫けそうになるミリーの耳に、男達の悲鳴が止めを刺す。


「ぎゃあああああぁぁぁ!」

「た、助け…!」

「み、みんな!?」


 後を託した5人のハンター達が、踊り狂っていた。ある者は両手を振り上げ体をのけ反らしながら、別の者は背中を丸め、寒さから身を守るように胸に手を当てながら、体を左右に揺り動かしている。その彼らの体には無数の紅い花が咲き、その花から真っ赤な果肉と蜜が飛び散り、宙を舞う。5人のハンター達は、戦場を横切る破裂音に乗って自らの体を引き千切り、周囲に次々と紅い花火を咲かせながら、死の舞踊をミリー達に披露していた。


「…ぁ…あぁぁ…」


 痛みとは異なる涙が溢れ、頬を伝うミリーの視線の先で、5人のハンターによる短い舞踊が終わり、彼らは地面にうつ伏して動かなくなる。彼らに望まぬ舞踊を強いた隻腕の振付師が、奇怪な金属の棒を彼らに向けたまま、無感動に答えた。


「スマンな。…あんた達の名前、知らないんだ」




「ごふっ!」


 ミリーが大地に膝をついて右肘に矢が刺さったまま涙を流し、レオが強烈な一撃を胸に受け、後方に吹き飛ばされる。その、右脚が伸び切り、動きの止まった女の背中に向かって、アインが剣を振り下ろす。


 だが、女の姿は爆音を一つ残してアインの前から消え去り、アインの剣は空を切る。驚愕に彩られたアインの目に、剣域から逃れた銀の女が体を反転させ、獲物に襲い掛かろうとする肉食獣のように身を屈める姿が飛び込んできた。


「アイン!」


 ミリーの悲鳴と共に爆音がもう一度響き渡り、アインの前に銀の女が再び現れる。女は振り下ろされた剣の腹を踏み潰すと、アインに向かって掌底を繰り出した。アインは咄嗟に剣を離し、右腕で喉を庇うが、腕越しに衝撃が走り、息が止まる。


「がはっ!」


 宙を舞うアインの目前に女が迫り、胸に衝撃を受けた直後、視界が天を向く。アインは強烈な蹴りを受けて吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。地面に仰向けに転がり繰り返し咳き込むアインの許に、女が銀の髪をなびかせ、ゆっくりと歩み寄る。それを見たミリーは跳ね起きてアインの許に駆け寄ると、彼の上に己の身を投げ出した。


「げほっ!がはっ!」

「お願い!シモンさん、もう止めて!」


 ミリーはアインの上に覆い被さったまま、感情の籠らない目で自分達を見下ろす女に対し、涙を流しながら懇願する。


「シモンさん、お願い!アインを殺さないで!あたしはどうなっても好いから、アインだけは、アインだけは…殺さないで下さい…お願いします…お願いします…」




 悪夢だった。悪夢を見ているとしか、思えなかった。


 かつてラ・セリエを代表するハンターとして名を轟かせ、人々の憧れの的だったはずの女が、自分達を阻む存在として立ちはだかった。


 かつてともに肩を並べ中原を守る戦いに臨んだ男が、中原を守る最後の戦いで敵に回り、自分達から素質を奪い去った。


 そして女はかつての戦友である自分達に躊躇いもなく牙を剝き、自分達はたった一頭の雌狼めろうの前に為す術もなく蹴散らされ、膝を屈しようとしている。


 イレーヌは地面に倒れ呻き声を上げるレオの傍らに膝をつき、銀の女の前に跪いて泣きながら命乞いを繰り返すミリーの姿を呆然と眺めていた。彼女が何度詠唱を繰り返しても自分の手は輝きを放たず、夫を癒す事ができない。フルールも地面にへたり込んで顔を引き攣らせ、過呼吸にも似た異様な深呼吸を繰り返す。


「イレーヌさん」


 突然、自分の名を呼ぶ男の声が聞こえ、イレーヌは飛び上がった。彼女が顔を強張らせ、震えながら目を向けると、存在しないはずの右肩に歪な鉄の棒を担いだ若い男が、呆れ顔を向けている。




「…いい加減、諦めてくれないか?できれば、あんた達を殺さずに済ませたいんだが」




「…こ、降伏する…降伏します…だから、どうか命だけは…」


 男の言葉がイレーヌの心を折り、彼女は唇を震わせながら隻腕の男に跪き、頭を下げる。


 土埃と血の臭いが舞う荒れた大地の上で、二人の女がかつての仲間に膝を屈し、命乞いを繰り返していた。

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