241:礎を築く者達

「…テオドール様、如何なさいましたか?」


 しこを踏んだまま動きを止めるテオドールを見ながら、美香が小首を傾げる。その言葉にテオドールが我に返り、咳払いをして再びソファに身を沈めた。


 こりゃ、あかん。太刀打ちできるわけがないわ。


「テオドール様?」

「ああ、いや失礼した、御使い殿。あなたのお気持ちは、良く分かりました。なるほど、なるほど…」


 美香の問い掛けにテオドールは曖昧に答え、指を肘掛けに置いて鍵盤を叩くように交互に打ち下ろしながら、空中を眺め考えに耽る。美香は暫くの間テオドールの姿を眺めていたが、一向に動くつもりがないのを知ると、やがておずおずと切り出した。


「…あの、テオドール様…それで、お返事のほどは…」

「…え?ああ、そうね、そうだなぁ…」


 美香にせかされ、テオドールは思い出したように視線を戻すと、再び両腕を振って前傾姿勢になる。そして、美香を上目遣いで見ながら、口の端を釣り上げた。


「いくら何でも、タダでと言うのは、虫が良すぎるんじゃないかなぁ?」




「…え?」


 意外な言葉に驚きの表情を浮かべる美香の姿を、テオドールは面白そうに眺めている。そのテオドールの目に宿る光に、美香は不安を覚えつつも、平静を装って尋ねた。


「…何がお望みでしょうか、テオドール様?」

「なぁに、簡単な事だよ、御使い殿。君一人我慢すれば、済む話だ」


 そう不吉な言葉を吐いたテオドールは、目の前で揃えられた美香の脚から胸にかけて舐めるように見ると、唇の上で舌を這わせ、いやらしい笑みを浮かべた。




「…今日から私の事も、『お父さん』と呼んでくれ」




「…は?」


 思わず体を仰け反らせた美香に、テオドールが詰め寄る。


「いや、聞けばフリッツもコルネリウスも、『お父さん』と呼ばれているらしいじゃないか!そこに私がしゃしゃり出て来て、いきなり『お父さん』呼ばわりされたら、面白くない!?」

「あ、あの、そんな事でよろしいのですか?」

「オッケー、オッケー!それで十分!」

「は、はぁ…」


 立て続けに放たれる言葉を浴び、美香の体が豆鉄砲を食らった鳩の様に前後に揺れ動く。やがて彼は身を起こし、三度みたびソファに身を沈めると、右手で肘掛けを二度叩いた。


「さ、御使い殿!早速だが、呼んでくれるかな!?」

「は、はい。では…コホン」


 テオドールの求めに、美香は頬を染めながら姿勢を正すと、目を閉じて咳払いをする。そして一つ深呼吸をして口を開いたところで、前触れもなくテオドールの掌が目の前に迫って来た。


「あっ!ちょっと待って!今、物凄く良い感じだけど、まだ言っちゃ駄目だから!良い子だから、あと3分我慢して!」

「え、えっと、あの…」


 場面が違っていれば大変いかがわしい台詞を耳にして、美香が再び仰け反る。テオドールは右掌を美香の前に掲げたまま、左手で卓上に置かれたハンドベルを掴み、鐘を鳴らした。


 やがて部屋の扉が開いて、ヘルムートが入って来る。


「テオドール様、いい加減、お話は済みましたか?もう、ヴィルヘルム様達をお呼びしてもよろしいですか?」


 ヘルムートが沸点の低い声でテオドールに尋ねるが、テオドールは構わずヘルムートの腕を掴み、隣のソファへと引っ張る。


「良いトコに来た、ヘルムート!まあ、そこに座れ!」

「何ですか、もう…」


 ヘルムートが眉間に皴を寄せながらソファに腰を下ろすのを見届けると、テオドールは再び美香の方を向き、上機嫌で肘掛けを叩く。


「さあ、御使い殿!もう一度行こうか!これからは私の事を、何て呼んでくれるのかなぁ!?」

「は、はい。それでは…」


 訝し気な表情を浮かべるヘルムートの視線を頬に感じた美香は気恥ずかしさを覚え、肩をすぼめて太腿の間に差し込んだ両手を擦り合わせながら上目遣いでテオドールを見やり、おずおずと口を開いた。




「え、えっと…お父さん…」




「ミカ様!い、今のは一体、どういう意味ですか!?」

「え?」


 突然横合いから大声を浴びせられ、美香は反対側に体を反らしながら横を向く。見るとヘルムートがソファから身を乗り出し、美香に詰め寄っていた。その目は大きく見開かれ、開いたままの口は震えており、顔がみるみる赤くなって、今にも湯気が立ち昇りそうになっている。


「え、えっと、ヘルムート様?」

「ミカ様!テオドール様をお義父さんと呼ぶという事は、ま、まさか!?」

「えっ?えっ?」


 茹蛸と化したヘルムートにまじまじと見つめられ、美香は体が傾いたまま目を瞬かせる。そのまま見つめ合う二人を眺めていたテオドールがついに堪え切れなくなり、肘掛けをバンバン叩きながらゲラゲラと笑い出した。


「ひ、ひぃぃぃぃっ!も、もう勘弁して!もうお腹一杯!お腹一杯!」

「あ、あの、テ…お父さん?」


 テオドールの突然の哄笑に美香が目をぱちくりさせ、ヘルムートの声が氷点下に下がる。


「…テオドール様ぁ?」


 部屋が凍り付いたのにも構わずゲラゲラと笑っていたテオドールだったが、またも両腕を振って前傾姿勢になると、ヘルムートに向けて会心の笑みを浮かべた。




「ヘルムート!ハイン家を名乗るのは、終わりだ!今日から貴様は、ヘルムート・フォン・ミュンヒハウゼンを名乗れ!」




「テ、テオドール様!それでは、奥様が!」

「えっ?えっ?」


 状況が理解できず、目を瞬く他にする事がない美香の前で、ヘルムートが立ち上がってテオドールへと詰め寄る。テオドールは、ヘルムートの余裕のない表情を鼻で笑い、一蹴する。


「いいんだよ、ヘルムート。アレも年だ。もう子供は望めん」

「し、しかし…」

「アレにも、すでに伝えてある。アイツも納得してくれたよ。ヘルムート、ちゃんとアイツの面倒も最後まで見てやれよ?」

「…奥様…」


 テオドールの言葉に、ヘルムートが力なく呟く。まったく話についていけない美香が、口を挟んだ。


「あの、お父さん、これは一体どういう事に…?」

「あれ、言ってなかったっけ?」


 美香の問いにテオドールがすっとぼけた反応を返し、歯を見せる。


「コイツは、私の息子なんだよ。庶子だがな。だから、これまでミュンヒハウゼンの姓を名乗らせていなかったんだが、今日から正式にウチの跡取りだ。よろしくな、御使い殿」

「…え、ええええええええええええええええ!?」


 真相を聞き仰天する美香の姿を見て、テオドールが満足そうに笑う。そして、ヘルムートの背中を一つ叩くと、一言付け加えた。


「で!だ!コイツは、私の息子だ。そして、君はその私を今日から『お父さん』と呼んでくれるわけだ…つまりは、どういう事かなぁ?」

「…あ…」


 テオドールの物言いに美香はある事に思い至り、口に手を当てたまま、みるみる顔が赤くなる。それを見たヘルムートが、再び美香の前に身を乗り出した。


「そ、そうだ!ミカ様!テオドール様を義父ちちと呼ぶという事は、もしや、私と、けけけ結婚!?」

「え、あの、ヘルムート様、えっと、その…」


 美香は、至近に迫るヘルムートの顔に浮かぶ期待を見て、思わず顔を真っ赤にしたまま俯いてしまう。そのままお互い茹蛸と化して相手の顔色を窺う二人を見ながら、テオドールは腹を抱え、足をばたつかせながら、ゲラゲラと笑い続けていた。




 ***


「ほ、本当にごめんなさい、ヘルムート様。誤解を招くような事をしてしまいまして…」

「いえ、全て私の早合点のせいですから…」


 悄然とした表情で下を向いたままトボトボと歩くヘルムートの後を美香が追い、慌てて宥める。その二人の後ろを追って無表情で歩くオズワルドの脇腹を、レティシアが肘で小突いた。


「良かったわね、オズワルド。先を越されないで」

「…」


 結局、一行はテオドールの館で一泊し、翌日ヴェルツブルグへと出立する事になった。テオドール曰く、後日自分もヴェルツブルグへ向かうとの事だったが、ヘルムートは勿論、すでに私兵化しているミュンヒハウゼン傭兵団もテオドールから給料を貰っていないのを良い事にテオドールを捨て置き、美香に同行する気満々である。


 一行はいざなわれた部屋に入るとソファに腰を下ろし、思い思いにくつろぐ。美香もソファに腰を下ろすと、大きく息を吐いて肩の力を抜き、紅茶を入れ始めたカルラの後姿を眺めた。




 …また、お父さんが増えちゃった。




 僅か半年で増殖するお父さんの数に、美香は思わず頭を抱える。私、何処で間違えたんだろう。美香は原因を追究しようとするが、「お父さん」と呼ばれて喜ぶ男達の心理がどうしても理解できない。自己診断を諦めた美香は、顔を上げて隣に座るヴィルヘルムに助言を求めた。


「――― まったく。みんな、私に『お父さん』って呼ばれて、何が嬉しいんでしょうかね?ヴィルヘルム様」




「…」

「…ヴィルヘルム様?」




 ゔぃるへるむが なかまになりたそうに こちらをみている!




 眼を爛々と輝かせて頷きを繰り返すヴィルヘルムを目にして、美香のこめかみに一筋の汗が流れる。彼女は自分の迂闊さを呪いながら、諦めたように口を開いた。


「…え、えっと…ヴィルヘルム…お父さん…?」




 その途端、ヴィルヘルムが喜色を露わにして、身を乗り出してきた。


「ええ!ええ!もう、喜んで、ミカ様!何でしたら、エミールも一緒にお持ち帰りいただいて構いませんから!」

「え、あの、その、お父さん?」

「ま、待って下さい、ヴィルヘルム様!それはいくら何でも横暴ではないですか!?そこは正々堂々とですね ―――!」

「そうだよ、ヴィルヘルム様。ミカの乳と尻が欲しいのなら、ちゃんとアタシの許可を得た後でないと」

「「え?」」

「ちょっとゲルダさん!話をややこしくしないでよ!」

「それと、マン」

「黙ってて!」


 嬉々とした表情でまくし立てるヴィルヘルムに美香が顔を赤らめながら仰け反り、ヘルムートが割って入ったところへゲルダが茶々を入れる。そんな騒々しい四人組を不貞腐れた表情で眺めるオズワルドの脇腹には、半眼のレティシアの肘が繰り返し打ち付けられていた。




 こうして、美香の治世を支え、新王朝の礎を築く事になる「四父しふ」が、歴史の表舞台に登場する。


」の、フリッツ・オイゲン・フォン・ディークマイアー。


」の、コルネリウス・フォン・レンバッハ。


りつ」の、ヴィルヘルム・フォン・アンスバッハ。


けい」の、テオドール・ヨアヒム・フォン・ミュンヒハウゼン。


 四人はいずれも世が世なら一国を担えるほどの傑出した才能の持主であったが、互いにいがみ合う事もなく、年若い主君の下で一致団結し、新王朝を飛躍的に発展させていく。




 だが、何よりも特筆すべき事に、それだけの功績を打ち立てた四人に対し、主君となった美香は、生涯に渡り、ただの一度も報奨を与えなかったのである。にも拘らず、四人は、彼女から与えられた何の実権もないたった一つの呼称だけを胸に粉骨砕身し、忠義を貫いた。




 ――― お父さん。




 後世、「神懸かり的な人心掌握術」と評され、数多あまたの名君、英傑がその再現を試み、ついに実現する事の叶わなかった、歴史上空前絶後の「パパ活による国家統治」である。

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