239:道化師を夢見て(1)




 ***


「坊ちゃん、一度失敗したくらいで、くよくよしないで下さいよ。また今度、挽回すればいいじゃないですか」


 未だ顔にそばかすの残る赤毛の少女に言われ、少年は足元に生える草を千切って池に投げ込みながら、不貞腐れた。


「そんな事言ったってさ、ヘレナ。父上も母上も、僕が失敗すると、決まって言うんだ。『テオドール、お前はミュンヒハウゼン家の跡取りとしての自覚が足らない。少しはケヴィンを見習え』ってね」

「旦那様と奥様のお言葉を、真に受けちゃいけませんよ。ケヴィン様は、まだ10歳じゃないですか」

「でも、僕はもう12歳だよ!?アイツより2歳も年上なのに、アイツを見習えだなんて…」


 思わず顔を上げて反論する少年だったが、語尾が勢いを失い、やがて彼はしゃがんだまま再び俯いてしまう。その、些か横に広い、まるで丸い石の様な少年の姿を見た少女は、隣に並んでしゃがむと、彼の頭を撫でながら微笑んだ。


「坊ちゃんには坊ちゃんの良いところがあるんですから、一つくらい出来ない事があっても、気にしちゃいけませんよ。ほら、笑って笑って。笑って生きていかないと、人生つまらないですよぉ?」

「ヘレナ、僕を子供扱いするなよぉ!」

「だって、坊ちゃん、私より4つも下じゃないですか」

「そんな事ない!すぐに追いついて見せるんだから!」

「はいはい」


 立ち上がろうとする少女に向かって、少年が拳を振り上げ、膨れっ面をする。その少年の姿に向かって、少女はあどけない笑みを浮かべると、馬に飼葉を与えるために厩へと走って行った。




 ***


「はぁ、はぁ、はぁ…」


 少年は荒い息をつきながら、両手で持った木剣を正面へと向ける。だが、剣の切っ先は絶えず揺れ動き、まるで風に吹かれる柳の枝のように頼りない。木剣とともに揺れ動く視界の向こうから、少年よりも年下の男児が、木剣を振り上げて走り込んで来た。


「やぁ!」

「あぅ!」


 男児の渾身の振り下ろしに少年は辛うじて剣を合わせたが、男児の勢いを殺しきれず、剣を取り落としてしまう。少年はそのまま尻餅をつき、慌てて身を起こそうとした彼の鼻先に、剣の切っ先が突き付けられた。


「それまで!」


 傍らで二人の模様を眺めていた壮年の男が掛け声を発し、少年の鼻先に突き付けられていた切っ先が離れる。男は二人の下に歩み寄ると、男児に向かって笑みを浮かべた。


「ケヴィン、今の踏み込みはとても良かったぞ」

「本当ですか、父上!?」

「ああ、とても10歳の太刀筋とは思えなかった。今の感覚を忘れるでないぞ?」

「はい!ありがとうございます!」


 父親の絶賛に、男児が喜色を露わにしながら、規律正しく頭を下げる。その男児の姿に男は愛情を湛えて頷くと、一転して少年に向かって冷たい視線を向けた。


「テオドール、今の戦い方は何だ!?お前は、2つも年下の弟の剣でさえも満足に捌けないのか?そんな事で、ミュンヒハウゼン家の跡取りとしてやっていけると思っているのか!?」

「も、申し訳ありません、父上…」


 男の叱責を受け、少年は鼻を啜りながら立ち上がり、剣を構えようとする。しかし男は、少年に向かって苛立ち気に腕を払った。


「もういい!今日はこれまで!テオドール、お前は部屋で反省しろ!」

「はい。父上、申し訳ありませんでした…」


 父親の言葉に少年は頭を下げると、目元を袖で拭いながらトボトボと屋敷に向かって歩いて行く。その、酒樽にも似た後ろ姿を眺めながら、男は舌打ちをして呟いた。


「…まったく、あの無様な体型、一体誰に似たのやら…」




 ***


「まったく、もう。坊ちゃん、また、泣いているんですかぁ?」

「泣いてなんかない!」


 赤毛の少女の言葉を聞き、少年が目を潤ませながら睨み付ける。少女は、その威厳の欠片もない視線を雑作もなく払いのけると、少年の両の頬を摘まんで横に広げた。


「はい、坊ちゃん。笑って笑ってぇ」

「は、はにをふるんだおう!?」


 頬を摘ままれ、涙目の少年の目の前で、少女が満面の笑みを浮かべている。やがて少女の手から解放された少年は頬を擦りながら頭を上げ、荷車に干し草を積み込む少女の後姿を眺めながら、疑問を口にした。


「ねぇ、ヘレナ」

「何ですか、坊ちゃん?」

「…仕事、辛くない?」

「辛いですよ、もちろん。笑ってないと、やってられないくらい」

「辛いのに、笑っていられるの!?」


 少年の驚きの声に少女は頭を上げ、腰を叩きながら振り返ると、笑顔で答える。


「笑っていると、幸せになれますよ。坊ちゃんは、道化師を見た事はありませんか?」

「感謝祭で、見た事があるけど…」

「あの人達って、凄いですよね。自分達に辛い事があっても、皆の前で笑っていて。そして皆の笑顔を引き出して、自分の辛い事を忘れ、やがて自分も本当の笑顔になる。そうやって観客のみならず、自分も幸せにしているんです」

「ふーん…」

「坊ちゃんも、そうやって笑顔でいたらどうです?」

「え?」


 目を瞬かせる少年の前で、少女がにこやかに笑っている。


「誰かを喜ばせたいのであれば、まずは自分が笑顔にならなきゃ。坊ちゃんが笑顔でいれば、ミュンヒハウゼンの民が皆、笑顔になるかも知れませんよ?」




「テオドール、何だ、そのヘラヘラした顔は?」

「え?」


 驚いた表情を浮かべる少年に対し、男は内心で舌打ちをしながら叱り付けた。


「お前もそのうち社交界に出て、他家との交流を深めねばならん。ミュンヒハウゼンの跡継ぎたる者が、その様な軟弱な態度でいてどうする。ケヴィンを見ろ。お前より2歳も年下なのに、あれほど綺麗にフォークとナイフを使いこなしている。お前も、少しは見習え」

「も、申し訳ありません、父上…」


 男の叱責を受けて少年は動揺し、耳障りな音を立てながら食事を再開する。その息子の姿を、男は口を歪め、睨みつけていた。




 ***


「…え、婚約ですか?」

「うん…まだ本決まりじゃないけど…」


 草むらの上で膝を抱え、面白くなさそうに呟く少年を見て、少女が目を輝かせる。


「凄いじゃないですか!何処の御方ですか!?」

「ヴァレンシュタインとかいう公爵家…」

「えええええ!?公爵様!?凄い凄い!」

「全然凄くないよ。家が傾いちゃってて、王家の遠縁って理由で父上が乗り気なんだ…」

「でも公爵家ですよ!?やーん、どんな綺麗な人が来るんだろうっ!」

「…」


 少女が胸元で両手を組んで天を見上げる姿を、少年は不機嫌そうに眺めている。やがて少女は手を組んだまま少年に顔を向け、首を傾げた。


「…坊ちゃんは、嬉しくないんですか?」

「嬉しいもんか!アイツら皆、表面上は笑顔で接しながら、陰で僕の事を『甕』とか『樽』とか悪口言っているんだ!」

「その御方も、仰っているんですか?」

「そんなの知らないよ!でも、きっと言ってる!ああ言う綺麗どころのお嬢様達は皆、僕が笑顔を向けると、扇子を口に当ててクスクス笑うんだ!ああもう、頭に来る!」

「坊ちゃん、笑顔、笑顔」

「五月蝿いなぁ…」


 少女が少年の前にしゃがみ、不貞腐れる少年の頬を摘まんで引き延ばす。少女が、目の前で頬を引っ張られたまま睨み付ける少年に微笑む。


「仕方ないじゃないですか。お貴族様って、皆そうやってお仕事のようにご結婚されて、本当にお好きな人はお妾さんにされるって聞きましたよ?坊ちゃんもそうやって、お好きな人を捕まえればいいじゃないですか」

「やだ」


 少年が即答した事に、少女は驚いた。


「…びっくりした。坊ちゃん、すでにお好きな人がいらっしゃるんですね?いっその事、旦那様にお好きな人をご紹介したら如何ですか?」

「駄目だ!父上は絶対に認めてくれない!」

「そんな事ないですよ、きっと。どなた様ですか、そのお好きな人って?時折お見えになられる、ローデンヴァルド男爵のお嬢様ですか?」

「…」


 少女に頬を挟まれ、少年が蛸の様な口をしたまま、頬を染める。




「…君だよ」




「…え?」


 一瞬、目を瞬かせた少女の目の前で、少年が真っ直ぐ目を向けたまま、より一層顔を赤くする。


「僕が好きなのは、ヘレナ、君なんだ」

「…」


 少女は少年の頬を挟んだまま、目の前で四角に変形した少年の顔をまじまじと眺めている。すると、突然彼女は顔を真っ赤にして飛び上がると、少年から手を離し、藁に塗れたスカートを叩き始めた。


「ぼ、坊ちゃん、お戯れを…」

「戯れなんかじゃない!」

「ぼ、坊ちゃん!?」


 少年がにじり寄ってスカートを叩いていた少女の手を取り、視線を合わそうとしない少女の前に掲げて言い募る。


「ヘレナ、君だけなんだ!僕の笑顔を『笑顔』として見てくれて、一緒に喜んでくれるのは!父上も母上も、僕の笑顔を見ると顔を顰め、その癖を止めろと言ってくる!貴族のお嬢様方だって、そう!誰も彼も僕の笑顔を見ると失笑し、顔を背けるんだ!君だけが、僕と一緒に笑ってくれるんだ!」

「で、でもでも!わ、私は、しがない馬丁の娘ですし、もう18になります。坊ちゃんより4つも上の年増ですよ!?」

「だからだよ、ヘレナ!」

「ぼ、坊ちゃん!?」


 少年ににじり寄られ、バランスを崩した少女が藁の上に倒れ、その上に少年が覆い被さる。


「君はもう18だ。もうすぐ君の御父上が、手頃な縁談を持ってくるだろう。僕もじきに婚約するかも知れない。今しかないんだ!今しか、君を捕まえる事ができないんだ!」

「坊ちゃん…」


 少女は顔を覆っている熱の存在を忘れ、自分の真上で泣きそうになっている少年の顔を見つめる。少年は涙を堪えながら、頬を膨らませた。


「テオドール」

「…え?」

「君はいつまでも、僕を子供扱いする。ヘレナ、お願いだから、僕の名を呼んでよ…」

「…テオドール…様…」


 天空に浮かぶ潤んだ眼差しを見て、少女はゆっくりと少年の名を呟く。その途端、少年の純粋な想いが、前触れもなく少女の上に圧し掛かって来た。


「…あ!?…テオド…んむぅ…!」

「ヘレナ、君を愛している!」


 鮮やかな緑に彩られた下草が舞い上がり、藁と共に少女の白い肌に背徳的な斑点を描く。


 やがて少女は、自分の上に振り撒かれる青臭い新緑と少年の匂いに、身を委ねていった。

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