234:贖罪
…閣下、恨みますよ。
その日ユリウスは、信奉しているはずの上司に対し、初めて恨み言を心の中で唱えた。
彼の目の前には、艶やかな黒い髪をなびかせた一人の少女が、佇んでいた。彼女はユリウスの顔を見上げながら形の整った唇を開き、感謝の言葉を紡いでいる。
「ユリウス様、先の行軍で散々ご迷惑をおかけしておきながらご挨拶もせず、申し訳ありませんでした。ヴェルツブルグに戻ってからも休みなくお仕事をされて、お疲れではありませんか?何か私にお手伝いできることがあれば、遠慮なく申して下さい」
「あ、いや、その…お気持ちだけで十分であります…」
ユリウスは胸元から「母」に仰ぎ見られて赤面し、まるで入隊したての新兵の如く直立不動に陥ってしまう。美香の後ろにはコルネリウスが立ち、逞しい腕を組んでニヤついていた。
「ユリウス、お前確か、昨日の作業中に左腕を怪我していただろう。せっかくだから、ミカに治してもらったらどうだ?」
「か、閣下、何でそれを言って!?」
「ユリウス様、本当ですか?腕を見せて下さい」
「ミ、ミカ様!?」
コルネリウスの言葉を聞いた美香はユリウスの左手首を掴んで引き寄せ、右手で袖を捲り上げる。前屈姿勢となって「母」の顔を間近に見てしまったユリウスが顔を真っ赤にして狼狽する中、美香がユリウスの前腕に右手を添え、治癒魔法を唱えた。
「汝に命ずる。彼の者に生の息吹を与え、安らぎと癒しを齎せ」
美香の掌が淡く輝き、前腕部に走った裂傷がみるみる塞がっていく。やがて美香は深く息を吐き、顔を上げてユリウスに向かって微笑んだ。
「はい、ユリウス様、これで大丈夫ですか?」
「…あ…あ…ありがとうございます、ミカ様…」
至近で輝く「母」の笑顔に、ユリウスはまるで少年のように顔を赤らめ、思わず見惚れてしまう。そして我に返ると、慌てて顔を上げ、背後でニヤついているコルネリウスを睨み付けた。
コルネリウスはユリウスの剣呑な視線をものともせず、美香に声を掛ける。
「ミカ、隊舎に居る兵士達にも声を掛けて来てくれないか?君が顔を出したら、みんな喜ぶぞ」
「あ、はい、分かりました。レティシア、行こうか」
「うん」
コルネリウスの言葉に美香は頷き、駆け寄ってきたレティシアと手を繋ぐと、隊舎に向かって歩き出す。オズワルドとゲルダが後を追い、その四人の背中を眺めていたコルネリウスに、ユリウスが噛み付いた。
「か、閣下!何でミカ様を連れて来るんですか!」
長い付き合いの中でユリウスが初めて見せる余裕の無い姿に、コルネリウスは笑いを堪え切れず、口の端を釣り上げながら答える。
「いや、ミカが自分も何か手伝いたいと言って聞かなくってな。行軍の時の御礼もちゃんとできていないと言っていたから、連れて来たんだ」
「だ、だからって、何も昨日の今日で連れて来なくても…こ、心の準備が…」
ユリウスは落ち着かない胸を手で押さえながら、深呼吸を繰り返す。昨日の会議に出席していたユリウスもご多分に漏れず、美香に対する崇拝の念を爆上げしていたが、心の整理がつく前に「奇襲」を受けてしまい、為す術もなく陥落してしまった。呼吸を整えるユリウスの頭に、コルネリウスの声が降りかかる。
「ミカにはこの先、この国の頂点に君臨していただく。であれば、今は国民の前に率先して顔を出し、彼らの心を掴むべきだ。ヴェルツブルグがミカによって救い出された事は、すでに知れ渡っている。彼女の姿を見せて神格化し、感謝の念を崇拝、そして忠誠へと昇華させねばならんからな」
「なるほど」
コルネリウスの説明にユリウスは頷き、美香の姿を思い浮かべる。あれほどの偉業を打ち立てながら、その外見は何の力も持たない、純真無垢とも言える美しい少女でしかない。その姿は「純潔」そのものであり、観る者の庇護欲と憧憬を大いに掻き立てるであろう。得心したユリウスの前で、コルネリウスが意地の悪い笑みを浮かべた。
「ミカには、我々が留守の間、ヴェルツブルグの救護活動を続けてくれた高官達への御礼も頼んでおいた。彼女との初対面だ。彼らもさぞ感激するだろうよ」
「な、何て酷い事を…」
コルネリウスの悪辣な意思表明に、ユリウスは唖然とする。昨晩美香の前で醜態を晒し、この後もその苦しみが毎晩繰り返されるであろう事を悟った男の、同胞達を売り渡そうとする闇堕ちした姿が、映し出されていた。
こうして復旧から復興へと活動の軸足を移すヴェルツブルグにおいて、美香は街のあちらこちらに足
ロザリアの第2月30日には、ハーデンブルグに赴いていた懲罰軍15,000がヴェルツブルグへと帰着した。彼らは自分達が不在の間にヴェルツブルグを襲った破局を知って驚愕し、司令官は自責の念から自決を覚悟していたが、コルネリウスが思い留まらせる。彼らはコルネリウスの指揮下へと組み込まれ、ヴェルツブルグの復興と国内の治安維持活動に汗を流した。
そして瞬く間に1ヶ月が過ぎ、ロザリアの第3月29日。フリッツ率いる救護軍が、ヴェルツブルグへと到着した。
***
「「「…」」」
ヴェルツブルグに到着した救護軍の面々は、変わり果てた首都の姿に言葉を失っていた。
フリッツ、アデーレ、ヘルムート。救護軍の中でヴェルツブルグに赴いた事のある面々は、かつての記憶とのあまりの落差に衝撃を受け、ヴェルツブルグを知らない兵士達は、噂に聞いていた繁栄の欠片もない凋落ぶりに心を暗くする。
だが一行は、廃墟と化した街の中を進むうちに、当初の考えを少しずつ改めていく。確かに北部は焼け焦げ、国の象徴であった王城は炭で黒く塗り潰され、死の象徴へと姿を変えていた。だが、そこに生きる人々は決して悲嘆に暮れておらず、目の前の困難にもめげる事なく、復興に向けて懸命に汗を流していた。瓦礫を取り除いた荒れ地にはバラック小屋が並び、子供達が廃材を掻き集めて火を起こしている。大通りの両側には粗末な露店が軒を連ね、食料品や日常品が並べられ、賑わいを見せている。そして、街のそこかしこに巨大な黒槍が突き刺さり、焼け落ちた王城に代わって威容を誇っていた。
一行は北部が絶望に呑まれていない事を知って厳しい表情を緩め、被害を免れた南部に入ると安堵する。南部は所々傷を負っているものの概ね原型を留めており、かつての繁栄を取り戻そうとするかのように、より一層賑わっていた。北部に比べて未開発地の多かった南部の至る所に物資の集積場が出来上がり、復興要員や被災者の小屋が立ち並ぶ。道には地方から流入する物資や北部への荷物を積んだ荷車が行き交い、屈強な男や地の魔術師達が荷下ろしをしていた。
やがて一行の前に、南部兵団駐屯地が見えて来た。フリッツはニコラウスとヘルムートに救護軍を任せると、少数の供回りとアデーレの乗る馬車を引き連れ、復興司令部へと向かう。飾り気のない、大きいだけが取り柄の木造の建物の前に、先触れを受けていたコルネリウスと美香、レティシア達が待っていた。
「ミカさん!」
「お母さん!」
馬車が止まるや否や、従者を待ち切れなくなったアデーレが自分で扉を開け、美香の下へと駆け出す。その姿を見て駆け寄って来た美香をアデーレは抱き留め、自らの豊かな胸に顔を埋めさせて涙を流した。
「嗚呼、ミカさん!無事で良かった!元気で居てくれて良かった!ありがとう、ありがとう!ヴェルツブルグを、この国を救ってくれて、本当にありがとう!」
「お母さん、心配させちゃってごめんなさい!私もレティシアも、皆元気ですから!」
美香は抱かれるままにアデーレの胸の中に顔を埋め、母娘は抱き合ったまま、喜びの涙を流す。実の娘よりも先に美香を抱き締めた母親と、その母親に素直に甘える美香の姿にレティシアは胸を打たれ、目に浮かんだ涙を拭いながら二人の姿を眺めていた。
「ミカ…」
「…お父さん!」
抱き合ったまま涙を流す二人の下に、フリッツが歩み寄る。声を聞いたアデーレが美香を解放し、美香は涙を流しながら、アデーレの後ろに立ち唇を震わせるフリッツの胸元へと飛び込んだ。
「お父さん、ご心配をおかけして、申し訳ありません!ごめんなさい!」
「良い…良い…そんな事は、どうでも良い!良かった…無事に居てくれて、本当に良かった…ありがとう…本当に、ありがとう…」
「お父さん…お父さん…」
フリッツは目に涙を溜めながら、胸元に顔を埋める愛娘を力一杯抱き締め、肩を震わせる。隣で再会の喜びを交わしたアデーレとレティシアが嬉しそうに見つめる中、父娘は暫くの間、喜びに浸っていた。
***
「ミカ様!」
父娘の再会の喜びをひとしきり噛み締め、顔を上げた美香の耳に、あらん限りの感情が籠められ、戦慄くような呼び声が聞こえて来た。美香はフリッツの背後に目をやり、馬車の脇に佇むもう一人の親しい家族の姿を認め、泣き笑いの表情を浮かべた。
「カルラさん!」
美香の視線の先で、カルラは目を見開き、震えていた。その双眸からはすでに涙が溢れ、頬に幾筋もの線を描いている。美香はカルラの姿を認めるとフリッツから体を離し、カルラに向かって大きく両手を広げた。
「カルラさん、ただいま!」
「ミカ様!」
カルラは美香の許へと駆け寄ると、地面に膝をつき、主従の関係も忘れてその慎ましい胸へと顔を埋める。カルラはそのまま美香の背中を両手で掻き抱きながら、懺悔の言葉を繰り返した。
「ミカ様、ごめんなさい!ごめんなさい!」
「カルラさん、そんなに思い詰めないで下さい」
美香は、自分の胸元に顔を埋めたまま懺悔を繰り返し泣きじゃくる姿に憐憫を覚え、カルラの頭を優しく撫でながら、労わりの声を掛ける。
「あの時、誰もが一瞬で決断しなければ、ならなかったんです。どちらが正しいかなんて、ありません。その中でカルラさんが私の事を本当に案じてくれて、今でも思い悩んでくれている。それだけで、私は十分に幸せです。それに、こうやってまた、無事に再会できたじゃないですか。カルラさんの選択は、間違っていません」
「ごめんなさい!ごめんなさい…!」
「うん…うん…」
美香の労りの言葉にも拘らず、カルラは美香の胸に顔を埋めたまま、泣き続けている。美香は愛する家族の贖罪の言葉を受け入れ、泣きじゃくるカルラの頭を、繰り返し優しく撫で続けていた。
***
「ミカ様、ごめんなさい!ごめんなさい!」
「カルラさん、そんなに思い詰めないで下さい」
カルラは、主人の慎ましい胸に顔を埋め、その柔らかさを頬に感じながら、主人に懺悔を繰り返していた。自分の髪を梳く主人の指の感触が稲妻となって背筋を駆け巡り、カルラはそのたびに身を震わせる。
ごめんなさい!ミカ様、ごめんなさい!
カルラは主人を抱き締め、顔を埋めたまま、心の中で懺悔を繰り返す。かつての決断ではなく、今この瞬間の自分の過ちを詫び、そしてその過ちを繰り返す。
主人の背中に回した腕に力を籠め、慎ましい胸元に鼻を押し付ける。深呼吸を繰り返し、匂い立つ主人の香りを嗅ぎ、余すことなく肺へと詰め込んでいく。自分の髪を梳く主人の指に身を火照らせ、主人の背中を撫で回して、指先にその感触を覚え込ませる。
「ごめんなさい!ごめんなさい…!」
「うん…うん…」
カルラは贖罪の言葉を繰り返し、その都度降り注ぐ赦しの言葉に歓喜しながら、主人を存分に味わっていった。
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