134:王太子出陣

「どうにも兵が足りませんねぇ…」


 ロザリアの第5月下旬、ヘンリック2世から立太子の言葉を引き出した翌日、クリストフはテーブルに広がる地図を前にして呟く。クリストフは細く長い2本の指を唇に添え、まるで花を愛でるような艶やかな瞳で、地図を眺めていた。


 地図の上にはいくつもの駒が置かれており、エーデルシュタイン国内に散在している。そして、最も多くの駒の塊は、遠くセント=ヌーヴェルに積み上げられていた。テーブルを取り囲む男達のうち、最も年長の男が口を開く。


「リヒャルト一派が保有する兵力は、カラディナ西誅軍も含めると、おおよそ40,000と推定されます。このうちどれだけリヒャルトについて来るか定かではありませんが、一旦全員来ると仮定して話を進めるのがよろしいでしょうな」

「対するこちらは、未だ15,000ですか…。参りましたねぇ」


 クリストフは小さく溜息をつくと、年長の男へと目を向けた。


「グレゴール、あと25,000、どこから連れて来ましょうか?」


 クリストフから問いかけられた男、グレゴール・フォン・ケルヒェンシュタイナーは、武人らしい迫力ある分厚い唇を開いた。


「同数を集めようとお思い召さるな。あと35,000集めようと思って下さい。それでやっと25,000でしょうな」

「それでは、国の守備に10,000しか残らないではないですか」


 グレゴールの言葉を聞いたクリストフは、苦笑する。亡国とも言えるグレゴールの発言に苦言を呈するわけでもなく、苦笑で済ませている。


「北を守るディークマイアーが2,400。その後方のアンスバッハが600。これは流石に外せません。その他に南方の治安に2,000、ラディナ湖西の防衛に5,000で、計10,000。この10,000を除き、それ以外を招集しましょう。各領主とも多少は自領の守備に残すでしょうし、ハンターも逃げるでしょうから、それで25,000でしょうな」

「いつまでに揃いますか?」

「3ヶ月あれば」

「遅いですね…、あと半月縮めて下さい」

「御意」


 国内に深刻な治安空白地域を作る招集にも関わらず、クリストフは冷酷に言い放ち、グレゴールもそれを了承する。彼らにとっては天王山の戦いであり、負ければ身の破滅に繋がってしまう。国内の不安要素など、二の次であった。


 グレゴール・フォン・ケルヒェンシュタイナーは、コルネリウス・フォン・レンバッハ、ギュンター・フォン・クルーグハルトに次ぐ、軍の重鎮であった。そして、ギュンターがリヒャルト一派であるのに対し、グレゴールはクリストフ一派に属していた。グレゴールは、コルネリウスやギュンターと比べると、頭一つ出遅れている。そんな彼にとって、西誅の失敗から始まった後継者争いはまたとないチャンスであり、何としてでもクリストフに勝利してもらい、先輩二人を出し抜いてトップに躍り出ようと考えていた。


 この後、クリストフの立太子の報とともに、王太子クリストフの名で送られた召集令状は、各地に大混乱を齎す。各領主は新たな支配者の歓心を買おうと兵を集め、ヴェルツブルグへと馳せ参じる。大草原で大敗し、数多くの兵を失った上に王太子の座を奪われたリヒャルトに与する領主はおらず、エーデルシュタイン国内は、次第に反リヒャルトの様相を呈していった。




 ***


「殿下!あなたは、この国を傾けるおつもりか!?」

「落ち着きなさい、コルネリウス」


 眦を上げ、相手を射殺そうと思わせるほど睨み付けるコルネリスを、クリストフが静かに制する。そして、コルネリウスが口を開くのを邪魔するかのように、クリストフが言葉を被せた。


「西誅軍は勝敗が決し、我が国と教会が終戦を宣言した後も召還に応じず、セント=ヌーヴェルから撤退する素振りを見せません。これは、明確な違反行為と言えます。しかも彼らは現在中原で最大の軍事力を維持しており、我が国やカラディナでさえも、防衛のために兵力が分散している限り、対抗できません。これ以上彼らが軍事力を笠に着て、破滅的な行動を取る前に、我が国は断固とした立場を打ち出し、彼らを挫き解散させなければなりません。そのためには、彼らに勝る軍威をもって彼らを圧迫しなければならないのです」

「その間の国防は、如何されるおつもりか!?ハーデンブルグは!?ラディナ湖西岸は!?」


 なおもコルネリウスは抵抗するが、クリストフは動じない。


「物事には優先順位があります。コルネリウス、あなたが懸念する通り、今回の招集は国内の治安に大きな影響を及ぼすでしょう。しかし、これは言わば、目前に迫る死の危険に対抗するための、瀉血しゃけつ療法なのです。一時の出血に怯み、手をこまねいていては、この国は死を迎えてしまいます。一時の犠牲にかかずらうべきでは、ないのです」

「ならば、私がサンタ・デ・ロマハに向かいます!私の身命を賭けて西誅軍を抑え、連れて戻りましょう!」


 同士討ちをさせるわけには、いかない。コルネリウスはそう申し出るが、クリストフは首を横に振る。


「なりません。あなたは、この国の大黒柱なのです。暴徒と化した彼らの手によって、あなたにもしもの事があれば、陛下や、あなたのご家族に申し訳が立ちません。あなたは、此処ヴェルツブルグに留まり、陛下を守り、国内に睨みを利かせて下さい。あなたの一睨みは、5,000の兵力に匹敵します。これは、あなたにしかできません。グレゴールは、能力はともかく、威厳はあなたに遠く及びません。兵ありき戦いはグレゴールにもできますが、兵無き戦いはあなたにしかできないのです。西誅軍には、私とグレゴールが当たります」


 クリストフはそう述べて、コルネリウスを体良くヴェルツブルグに置き去りにする。西誅軍に送ってリヒャルトに使われるわけにはいかないし、グレゴールに戦功をあげさせる必要もある。ヴェルツブルグで飼い殺しにするのが、一番だった。




 ***


 クリストフの遣わした使者がラディナ湖の東に位置するミュンヒハウゼン伯爵領に到着したのは、ロザリアの第6月の下旬であった。ラディナ湖の中央に広がる穀倉地帯を領地に持つミュンヒハウゼン伯爵家は、エーデルシュタインの食糧庫とも言え、その農産物を背景にエーデルシュタインでも有数の資産を築き上げていた。


 クリストフの使者が応接に通されてから暫くすると、通路の板が軋みを上げる音が聞こえ、やがて一人の男が扉を開け、ゆったりとした足取りで部屋へと入ってきた。男の腹は風船のように球形を描いており、その幅の広い胴回りは、入口を通る時にも、ソファの背もたれの後ろを通る時にも、周りを擦って巻き込んでいた。


「いやぁ、使者殿、お待たせして申し訳ない。この通り、あちらこちらに閊えてしまうもんで、なかなか前に進めないのですわ。ワハハハハ!」

「いえ、お気になさらず。閣下」


 使者の向かいのソファに腰を下ろした肥満体の男は、まるでソファに転がる達磨のように斜め上を見たまま、闊達な笑い声を上げた。


 テオドール・ヨアヒム・フォン・ミュンヒハウゼン。ミュンヒハウゼン伯爵家の当主である。大食漢と出不精が祟り、胴回りが肥えに肥えた体型をしているが、体質のせいか顔や手足にはそれほど肉が付いていない。そのため、極端に膨らんだ腹は不衛生さよりコミカルさを醸し出しており、威勢よく動く手足と相まって歩く姿はピエロを想像させる。自他ともに認める田舎者で、その体型と良く笑う姿から、ヴェルツブルグでは「ラディナ湖の動くかめ」「ミュンヒハウゼンの道化師」と囁かれていた。


 ソファの上で深呼吸をしたテオドールは、体は斜め上を向いたまま首だけ前を向いて、使者へと問いかける。


「それで使者殿、火急のご用件とは、一体どのような?」


 テオドールの問いに使者は頷き、口を開く。


「はい。この度王太子になられました、クリストフ殿下からの布告です。麾下の兵を率い、ヴェルツブルグへ参られますよう、お達しが出ております」

「ほぉ!クリストフ殿下から!?」


 使者の報告を聞いたテオドールは口と目を丸くし、使者が差し出した手紙に目を通す。いう事を利かない体型のせいで、手紙を上に向けて透かすように見ていたテオドールは、やがて手紙を両手で掲げ、その下から覗き込むようにして使者を見ると、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「委細わかりました、使者殿!ですが、誠に申し訳ない!実はハーデンブルグから援軍要請があって、ウチの守備隊、一昨日みんな行っちゃったんですわ!」

「え?如何ほどですか?」

「麾下3,500のうち、3,200。ウチ、今300しかいなくて、てんてこ舞いなんですわ!ワハハハハ!」

「そ、それは、また…」


 使者は、テオドールのいい加減な回答に、半ば呆れながら相槌を打つのがやっとの状態となる。そんな使者に対し、手紙を頭に被せながら、テオドールが提案した。


「てなわけで、今ウチ素寒貧なんですが、せめて食料だけは提供させていただきますわ!ミュンヒハウゼンの小麦は美味いでっせぇ!使者殿は食べた事ありますか!?」

「え?いえ、私はまだ食べた事がありません」

「そうですか、それは勿体ない!昼に焼いたパンをお持ちしますから、帰りがけにでもご賞味下さい!」

「は、はぁ…」


 惰性で頷く使者に対し、テオドールは大きく腕を振って体を起こす。そして、前のめりに傾斜すると、使者を上目遣いで見たまま、右手を左頬に添えて声を低めた。


「…ところで使者殿、折り入ってご相談がありまして…」

「…何でしょう」


 テオドールに釣られて、使者も前のめりになる。その使者の目の前で、テオドールは曰くありげに薄笑いを浮かべると、口を開く。


「…荷馬車、余っていません?」

「…は?」

「いや、ウチ、ハーデンブルグに荷馬車まで持っていかれちゃって、小麦粉も運べないんですわ!ワハハハ!」

「…閣下」


 一人豪快に笑うテオドールに対し、使者の声が低くなる。それを聞いたテオドールは慌てて手紙ごと両手を振り、弁解した。


「いや!申し訳ない!自分の無計画さには、家臣にも呆れられて、本当に困っておるのです!とにかく、兵10,000人分、1ヶ月相当の小麦粉について、拠出させていただきます!荷馬車がないもんで、取りに来ていただけると嬉しいんですわ!」

「…わかりました。近隣の領主の軍を迂回させますので、後日その者達に渡して下さい」

「委細承知です!いや、ホント申し訳ない、使者殿!」


 使者が呆れた顔をしてソファから立ち上がったのを見たテオドールは、慌てて使者を手招きした。


「あ!使者殿、お待ち下さい!今、パン持ってきますから、パン!」

「…」




 使者が館を辞した後、テオドールは先ほどの手紙を透かしながら眺めていた。そのうち扉がノックされ、一人の男が入室してくる。


「テオドール様、お呼びでしょうか?」

「んー」


 ミュンヒハウゼン伯爵家の騎士団長であるその男に対し、テオドールは手紙を透かしながら生返事を返した。


「悪いんだけどさぁ、ちょっと出掛けてきてくれない?」

「どちらへ?」

「ハーデンブルグ」


 上を向いたままクルクル手紙を回し始めたテオドールに対し、騎士団長は冷静に問う。


「どの様な用件で?」

「援軍」

「ハーデンブルグから、その様な要請があったのですか?」

「いや、来てないよ?」


 テオドールの頭の上で回っていた手紙が宙を舞い、床に落ちる。テオドールは手を伸ばすが、腹が邪魔して届かない。


「要請もないのに、何故援軍を出すのですか?」

「いや、だって、言っちゃったからさぁ」


 テオドールの適当な言い草に、騎士団長は思わず眉を跳ね上げた。


「だから、テオドール様!あなたは何でそう、いい加減なんですか!?付き合う方の身にもなって下さい!」

「だって、わざわざオストラくんだりまで行って、同士討ちするよりマシだろう?」


 手紙を拾うのを諦めたテオドールは、頭を上げ、騎士団長を見る。


「兵3,200、輜重4,000を連れて、ちょっと行って来てよ。フリッツが要らないって言ったら、その辺で1ヶ月くらい遊んできていいから。それと、余った食料は、ハーデンブルグに置いて来てね」

「…畏まりました、テオドール様」

「あ、使者殿に見つからないよう、隠れてコソコソ行ってね」

「…」


 諦めたように溜息をついた騎士団長は、余計な一言を付け加えたテオドールを睨み付けると、部屋を出て行く。扉が閉まったのを見たテオドールは、ソファに座り直し、上を向いて呟いた。


「…同士討ちしている余裕なんて、ないでしょうに…」




 ***


 ガリエルの第2月中旬、クリストフの招集に応じて集まった兵37,000が、ヴェルツブルグを進発した。クリストフが総指揮、グレゴールが司令を務める軍はリヒャルト軍より数が少ないが、これは西部で合流する部隊が含まれていないからである。


「殿下、本当にリヒャルトは、カラディナまで来ているのでしょうか?」


 グレゴールがクリストフに尋ねる。グレゴールの許には、未だリヒャルトに関する動静は、聞こえていなかった。


 クリストフは軽く頷き、言葉を続ける。


「私が入手した、兄上がロザリアの第6月に解放されるという情報は、本当だと判断しています。であれば、早ければガリエルの第2月中に、兄上は国境を越えるでしょう。我々は、それまでにオストラの南東に展開しなければなりません。グレゴール、西の部隊への連絡はどうですか?」

「予定通り、済ませてあります」

「よろしい。とにかく、オストラの南東に軍を展開し、情報収集に当たりましょう。兄上の進軍が予想より遅ければ、それは奴らに何らかの問題が起きているという事。悪い事はありません」

「畏まりました」


 グレゴールはクリストフが入手したと言う情報を信用し、戦いのための準備を進める。


 エーデルシュタインの礎を揺るがす大乱が、間近に迫っていた。

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