117:ボクサー

 これまで大きな制約となっていた、右腕の重量制限。これは、横方向に引っ張り出そうとしていたからこそ、生じた制限だった。重力を利用して下方向に押し出せば、重量制限は無くなる。それに気づいた柊也は、半径2.2m、縦横でいえば3m×3mを通り抜けられる物体であれば、何でも取り出せるようになった。もっとも、取り出すためには、切り立った崖と落下物の衝撃を吸収するなだらかな斜面が併存する絶妙な地形が必要で、自由落下に耐えうる頑丈な物という制約が残っているが、向こうの移動手段が利用できるようになったのは、大きな進歩だった。


 新たな移動手段を得た柊也達は、馬をこの場で解放して荷物を装甲車に載せると、ガイドコンソール・シルフの誘導の下、川沿いを移動する。馬の渡河については、自分達がボートに乗って馬の手綱を引いて泳がせれば良い事に今更気づいた柊也だったが、馬と装甲車では移動速度の桁が違うため、乗り換えを決断した。シルフの誘導の下、対岸に切り立った斜面がある丘まで移動すると、そこでゴムボートを取り出して大河を渡河する。そして、再び丘の上で装甲車を取り出すと、それに荷物を積んで再び北西へと移動を開始した。




 ボクサー装輪装甲車。


 ドイツ・オランダが開発した8輪装甲車である。全長7.88m、幅2.99m、総重量33t。武装は、12.7mm重機関銃1門。最高速度103km/時、行動距離1,050kmの性能を誇る。もちろん地球と異なり整地が少ない異界の地でこの速度を維持できるわけではないが、これまで馬での移動が精々一日当たり30kmであったのに比べれば、飛躍的な進歩である。しかも、全周を硬質鋼で覆われた事で、この世界ではほとんど無敵とも言える防御力を獲得する事ができた。


 ちなみに、柊也が数ある軍用車からボクサーを選んだのは、基本性能もさることながら、他の軍用車にはない設備を有している事が決定打となっていた。


 ――― トイレである。トイレ重要。


 サーリアの管轄地に入り、「ストーンウォール」が使えなくなった事で、柊也達はトイレに苦労するようになっていた。風呂は日に1回なので、テントを張れば何とかなったが、トイレはそうもいかない。2mの制限によって3人は離れるわけにもいかず、プライバシー面で大きな妨げになっていたが、ボクサーの登場でようやく問題を解決する事ができた。


 もっとも、軍用車なので、トイレはあってもプライバシーは考慮されていない。そのため、一人がトイレを使う時には、残りの二人は車外に出て時間を潰すのが通例になっていた。




 ***


「なんか、こうしていると、ピクニックみたいですよね」

「まったくだ。おかげで未開の地だというのに、まるで緊張感が湧かない」


 セレーネが海老バーガーを齧りながら感想を述べると、シモンがフライドチキンを骨ごと噛み砕きながら頷く。


 3人はボクサーの上にビニールシートを張り、その上でファーストフードの昼食を摂っていた。樹々の間から木漏れ日が射し込み、周囲にはのどかな雰囲気が漂っている。


「トウヤさん、今どれくらい進んでいるんですか?」


 セレーネがフライドポテトを口に運びながら、柊也に尋ねる。柊也は、暫くの間口の中のハンバーガーを咀嚼していたが、飲み込むと口を開いた。


「ちょっと待ってろ。…シルフ、これまでの移動距離と、残りどれくらいか教えてくれ」


 柊也の呼びかけに応じて、空中に黄色い光が瞬き、半透明の妖精の姿を形作る。


『はい、シュウヤ様。これまでの移動距離は、おおよそ4,800km。残りは約2,100kmになります』

「ありがとう、シルフ」

『どういたしまして』


 柊也が礼を言うと、シルフは空中でスカートの端を摘まんで頭を下げ、やがて空中に溶け込んでいく。消えていくシルフを眺めながら、セレーネが嘆息した。


「馬で50日かけて1,200キルドだったのに、装甲車だと僅か3週間で3,600キルドですか…。これまでの苦労は、一体何だったんだろう」


 セレーネの疲れた顔を見て、柊也が苦笑する。大河を渡った後、大草原が終わり、一行は木や山を避けて移動を続けていたが、悪路の中でもボクサーは平均して時速30kmほどの速度を保っていた。


「このペースなら、休息を入れても2週間でサーリアの許に到着しそうだな」

「あと2週間…」


 柊也の言葉にセレーネが顔を上げ、息を呑む。エルフの悲願であるサーリアとの対面、その日が2週間後に控えている事を再認識し、セレーネが緊張する。そんなセレーネに、フライドチキンを食べ終わったシモンが、指に付いた油を舐めながら声をかけた。


「今から緊張しても疲れるだけだぞ、セレーネ。まだ先は長い。いざという時に動けるよう、休める時には休んでおくんだ」

「…そうですね。ありがとう、シモンさん」


 セレーネが礼を言うと、シモンは頷き、立ち上がって尻をはたく。柊也が頭を上げ、シモンに尋ねた。


「どうした?シモン」

「トイレに行ってくる。デザートは、チョコレートパフェを所望する」

「あいよ、いってらっしゃい」


 柊也の見送りを受け、シモンが上部ハッチを開けて車内へと入る。ハッチが閉まると、柊也は食事を再開し、ホットドックに手を伸ばした。


「…」


 穏やかな雰囲気の中で、二人は黙々と食事をする。時折鳥の囀りが聞こえ、枝のそよぎが安らぎを齎していた。


 セレーネは、下を向いてストローを咥えながら、チラチラと上目遣いで柊也の様子を窺う。柊也はそれに気づかず、ホットドックにマスタードとケチャップを塗りたくっていた。


 …どうしよう。何喋ったらいいか、わかんないよぉ…。


 意識すればするほど鼓動が早まり、頭の中が真っ白になる。話す事が思いつかず、セレーネは誤魔化すようにストローを吸い続け、コーラの水位がみるみる下がっていった。


 北伐で孤立した時のセレーネは、柊也と二人だけになった時も気にせず、気軽に話しかけていた。初めて外界へと飛び出したセレーネは何事にも興味を持ち、柊也に中原の事を色々と聞いて回っていた。また、柊也が異世界の人間である事を知った後は日本にも興味を持ち、柊也が色々な本や物品を取り出し、セレーネがそれに齧りついて話に花を咲かせる事もしょっちゅうだった。


 それが変わってしまったのは、グラシアノの一言からである。グラシアノに唆され、セレーネは、柊也を意識するようになってしまった。北伐の逃避行で何度も柊也とシモンの儀式を垣間見て顔を赤くし、アラセナでは二人の歪んだ愛に引き摺りこまれた。そしてティグリに戻った後、ナディアの前で顔を赤くする柊也を見て心をかき乱された所に、グラシアノの一言である。自分でも漠然としか感じられなかった感情が、血筋を残すという大義名分を得て、明確な姿を現わす。自分の感情と女性の本能と種族の悲願が一つに融合し、セレーネは生まれて初めて湧き上がる衝動に動揺し、抑えきれないでいた。


 突然、穏やかな木漏れ日の中に場違いな濁った音が鳴り、ストローから空気が流れ込んでくる。気づけばコーラがなくなり、セレーネのコップの中には、溶けかけの氷だけが残されていた。


「…」


 飲み物が尽きただけなのに、セレーネは羞恥を覚え、顔が赤くなって上げられなくなる。俯いたままのセレーネの頭頂部を眺めていた柊也は、口の中のホットドックを飲み込むと、ペットボトルを取り出しながらセレーネに声をかけた。


「セレーネ、コーラでいいのか?」

「あ…、烏龍茶でお願いします」


 顔を赤らめながらセレーネは、おずおずとコップを差し出す。そのコップに烏龍茶を注いだ柊也は、キャップを締めながら、口を開く。


「心配しないでくれ、セレーネ」

「…え?」


 顔の赤みが引かないまま頭を上げたセレーネに対し、柊也は努めて笑みを浮かべる。


「いくらナディアさんからあんな誓いを受けても、俺はナディアさんに何かを求めるつもりはないよ。ナディアさんは君の母親だし、グラシアノ殿という素敵な旦那さんもいる。君の家族を壊すつもりはないから、安心してくれ」

「…」


 柊也の見当違いの、セレーネを安心させようとする態度にセレーネは気づいたが、しかし、だからこそ、心がチクチクと痛む。セレーネは衝動に流されるまま、尋ねても意味のない、しかし尋ねないと気が済まない質問を口にする。


「…トウヤさん。もしお母さんが私と同じくらいの歳で、お父さんと結婚していなかったら、お母さんを求めるんですか?」

「いや、そんな事するわけがないじゃないか」


 柊也は即答し、目を逸らす。そんな柊也の姿が、セレーネの心に傷をつける。


 セレーネはナディアの娘であり、ナディアの面影を強く引き継いでいた。今はまだ未成熟な少女のままだが、いずれ華やかに花開き、ナディアに勝るとも劣らない美貌を備える事は確実だった。


 ただし、エルフの時間軸での「いずれ」である。柊也が生きている間には、到底間に合わない。しかも、仮に間に合ったとしても、それはセレーネが本当に欲しいものではなかった。そこで柊也が靡いたとしても、それは単なるナディアの代わりだから。セレーネが本当に欲しいのは、柊也に今の自分を求められる事。ナディアの代わりではない、ナディアではない自分を求めて欲しい。


 コーラと烏龍茶を飲んだばかりなのに、喉がカラカラに乾く。唇がぎこちなく開閉し、心臓が波打つ中で、セレーネは核心に踏み込もうと、肺に空気を入れる。


 トウヤさん、お母さんではなくて、私では駄目なんですか…?




『シュウヤ様、2時方向より敵勢力接近。接敵まで30秒』

「何!?」


 突然、シルフが警告を発し、柊也が右前方を見る。しかし右前方は太い木の幹が乱立し、視線も射線も通りそうにない。


『敵勢力の戦力が判明。ケルベロス2頭です』

「ちっ!セレーネ!ボクサーに戻れ。離脱するぞ」

「は、はい!わかりました!」


 ケルベロスの跳躍力では、ボクサーの上まで乗り込んでくる。柊也は抵抗を断念し、逃走を選択した。セレーネは喉まで出掛かった言葉を飲み込み、弾かれる様に立ち上がる。


「私が運転します!トウヤさんは後部座席に!」

「わかった!」


 二人は各々最寄りの上部ハッチを開け、中に滑り込む。ケルベロスに内部まで入り込まれないよう、柊也は慌ててハッチを閉め、反動で梯子を踏み外してしまった。


「どわああああ!…痛ててて…」

「ちょっと、トウヤ!?」

「ああ、すまん、シモン。何とか大丈夫だ」


 床に転げ落ち、強かに腰を打った柊也の背中に、シモンの声がかかる。柊也は身を起こし、シモンと向かい合う形で座席に腰を下ろしながら、シモンに答えた。


「…あ」


 柊也の目の前で、シモンは両足を揃えて座っていた。その、彼女の脚をいつも覆っているレザーレギンスは下着とともに膝まで下げられ、滑らかな、純白の太腿が剥き出しになっている。


「…トウヤ」

「す、すまん!シモン」


 顔を赤くしながら、上着を引き延ばして太腿を隠すシモンを見て、柊也は慌てて横を向く。その柊也の横っ面に、シモンの声が降りかかった。




「…もしかして、見たいの?」

「んなわけがあるか!」

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