108:支えてくれた彼女へ

「…あ、危なかった。もう少しで、胸が高鳴ってしまうところだった…」


 馬車の窓枠に頭をもたれかけた美香の口から、溜息ともに魂が漏れ出る。馬車の壁にスライムの様にだらしなく垂れる美香の姿を横目にして、レティシアが苦笑する。


「新たな扉を開きたくなければ、今後は無茶をしない事ね。それとも扉を開けたいのなら、これからも私が見てあげるけど?」

「いや、見なくていいから…」

「…レティシア様」


 レティシアの物言いに美香が気怠そうに拒否を示し、淑女とも思えない発言に、事情を知るカルラが顔を赤らめながら咳払いをする。


 一行はライツハウゼンを後にし、ハーデンブルグへと向かっていた。




 美香の手足は3日目に動くようになり、美香のプライドを賭けたリハビリの結果、4日目には覚束ないながらも自分の事ができるようになった。その後もリハビリを繰り返した結果、1週間後には概ね元通りになった美香に対し、アンスバッハ家は快気祝いと称して盛大な催しを開いた。催しには街の住民も参加し、美香の許には街の有力者が何人も詰めかけ、次々と美香の手を取って感謝とお祝いの言葉を述べていった。


「何だい、元気がないねぇ。まだ魔法の影響が抜けていないのかい?」

「うひゃあぁぁぁぁぁ!」


 馬に乗ったまま、窓から馬車の中を覗き込んできたゲルダを間近に見た美香は飛び上がり、高鳴る鼓動を手で押さえる。


 違うから!高鳴っていないから!目覚めてもいないから!


 顔を真っ赤にしながら胸と内股を手で押さえる美香を見て、レティシアが笑いながら答える。


「大丈夫よ、ゲルダ。ミカは、昨日の催しで疲れているだけだから」

「そうかい。それなら良いんだ。無理をするんじゃないよ、ミカ」


 ゲルダは美香に対し気遣わしげな視線を送ると、窓から顔を引っ込め、馬車から離れて行く。ゲルダのいなくなった窓を、顔を赤くしたまま見つめる美香に対し、レティシアが声をかける。


「そんな顔をしちゃゲルダが可哀想よ、ミカ。彼女だって彼女なりに、あなたの事を気遣っているんだから」

「…」


 そりゃ、わかるんだけどさぁ…。その気遣いの仕方にも、限度ってものがあるでしょう?


 レティシアの言葉に、美香は釈然としないものを感じながらも、口を噤む。常日頃、ゲルダにセクハラを受け続けている上に、今回、完全アウトをまじまじと見られてしまった美香としては、はいそうですか、と簡単に言うわけにもいかない。


 やがて、美香は目を瞑ると、座席に背中を預けて上を向き、溜息をついて小さく呟いた。


「…アレさえなければ、頼れる姐御なんだけどなぁ…」

「それは否定しないわ。ゲルダがあなたにあれだけ関わるのも、意外だしね。けれど、だからこそ、彼女はきっとあなたの力になるわ。オズワルドと同じくらい、あなたを守ってくれる存在になるわ。それだけは、信じても良いと思うわよ」

「うん…そうだね」


 レティシアの言葉を聞いた美香は目を開け、レティシアに向けて曖昧な笑みを浮かべる。別に美香も、ゲルダを嫌っているわけではない。ただ、いつも貞操の危機が付き纏っているだけなのだ。それが最も重要で深刻な問題ではあるのだが。




 ***


 ライツハウゼンを出立して3日後、一行は予定通り、ハーデンブルグへと到着した。


 ディークマイアーの館の前で馬車を降りた美香の許へアデーレが駆け寄り、腰を屈め心配そうな顔を寄せる。


「ミカさん、また倒れたんですって?何処も体に異常はないの?」


 アデーレの両手で頬を挟まれた美香が、はにかみながら答える。


「ええ、大丈夫です、アデーレ様。この通り、異常はございません。ご心配をおかけしました」


 美香の答えを聞いたアデーレは、安堵の溜息をつきながら、美香の背中に手を回し、優しく抱きしめた。


「…そう、良かった。まったく、あなたって子は、私に心配ばかりかけて。こんなに手のかかる子は、初めてだわ」

「ア、アデーレ様?」


 アデーレに抱きしめられた美香が慌てふためき、顔を赤くする。その隣では、フリッツに礼を済ませたオズワルドとゲルダが、立ち上がりながら状況を説明していた。


「…すると、アイスバードの集団が、海を越えてやって来たと?」

「はい、フリッツ様。おそらくは、何者かに追われて南下してきたものと思われます」

「そうか。ミカ殿がたまたま逗留していたから良かったものの、そうでなければアンスバッハ家では、手の打ちようがなかっただろうに」

「正直、当家でも手に余ったかと。陥落する事はありませんが、為すがままになったかと思われます」

「どれもこれも、ミカ殿頼みか…」


 報告を聞いたフリッツが渋い顔をして溜息をつき、未だアデーレに抱きしめられたままの美香へと向き直る。


「ミカ殿、あなたには借りが増える一方だ。当家のみならず、アンスバッハ家まで救っていただけるとは。アンスバッハ家は当家と唇歯の間柄だけでなく、当家の裏庭でもあり、当家にとって重要な補給線だ。後背を扼されたままガリエルと事を構えられるほど、当家の余裕はない。当家は、またあなたに救われてしまったな。ありがとう、ミカ殿」


 フリッツはそう語ると、アデーレから解放されフリッツと向き合った美香に対し、頭を下げた。


 そんなフリッツに対し、美香はこの世界に召喚されてから何度目になるかわからない、謙遜の言葉を返す。


「フリッツ様、本当に頭をお上げ下さい。私こそ、フリッツ様をはじめ、ディークマイアー家の皆々様には本当に良くしていただいています。そのご恩返しに、少しでもお役立てできればと思っての事ですから。私は十分に報われていますから、そんなにお気を煩わせないで下さい」


 美香のいつもの言葉に、フリッツは頭を上げつつ、苦笑する。


「その恩返しの量が多すぎるのだよ、ミカ殿。…まあ、それは、いずれ利子を乗せて返させてもらおう。当家は馬鹿正直なのでね、律儀に返さないと気が済まないのだ。…さて、館に入ろう、ミカ殿。オズワルドとゲルダも来てくれ。先の事を少し話したい」

「はい」

「畏まりました」

「了解だ、フリッツ様」




 フリッツの執務室に集まった一行はソファに座り、情報交換を始める。


「一昨日威力偵察から戻ってきた、第2大隊からの報告だ。ゲルダ、お前が言っていたヨナの川に、ハヌマーンの集落ができていたそうだ」

「え?もう集落かい?」


 ゲルダの問いかけに、フリッツが頷く。


「まだ5戸程度だったがな。とりあえず第2大隊が焼き払っておいたそうだが、焼け石に水だろうな」

「もうすぐ感謝祭だっていうのに。ずいぶんと活発だねぇ…」


 フリッツの話を聞いたゲルダが、腕を組みながら渋い顔をする。代わってオズワルドがフリッツに問いた。


「今のうちに、出鼻を挫いておきましょうか?」


 オズワルドの意見を聞いたフリッツは、溜息をつく。


「…そうだな。感謝祭明けにでも一度出ておいた方がいいだろう。オズワルド、ゲルダ、お前達2個大隊で一回りしてきてくれ。感謝祭の間の防備は、第2、第3に任せておくから、お前達の隊は英気を養っておいてくれ」

「畏まりました」

「了解だよ」


 二人の返事にフリッツは頷くと、美香に顔を向ける。


「というわけだ、ミカ殿。自ら負債を増やすのは気が引けるのだが、またロックドラゴンと鉢合わせする事があれば、頼らざるを得ない。すまないが、同行してくれるか?」


 フリッツの依頼に、美香は迷う事無く首肯する。


「わかりました、フリッツ様。そうお気遣いなく。ご厄介になっている手前、それくらいは手伝わせて下さい」

「かたじけない、ミカ殿」


 即断した美香に、フリッツは軽く頭を下げる。そのフリッツに、レティシアが口を開いた。


「お父様、私は?」


 頭を上げたフリッツは、レティシアの方を向いて、仏頂面で答える。


「お前はどうせ、駄目だと言ってもついて行くだろうが。道中ミカ殿が不自由なく過ごせるよう、身の回りの世話をしろ」

「畏まりました、お父様。ありがとうございます」


 フリッツから突き放されたレティシアは、白々しく礼を述べた。




「ゲルダさん」


 情報交換を終え、館を出ようとするゲルダの背中に声がかかる。ゲルダが後ろを向くと、美香が小走りに近づいて来るのが見えた。


「どうした、ミカ?何かあったのかい?」


 向き直ったゲルダの前に辿り着いた美香は、下腹の辺りで両手を組み、ゲルダを見上げ口を開く。


「…ゲルダさんに、ちゃんと御礼を言えてなかったから。ゲルダさん、ライツハウゼンでは色々とありがとうございました。特に、私が動けなくなった後、ずっと甲斐甲斐しく世話をしてくれて。やり方には色々と思うところがあるけれども、本当に助かりました。ありがとうございました」


 美香はそう言葉を紡ぐと、深々と頭を下げた。


 実際、手足が動かなくなった後の美香は、ゲルダに助けられっぱなしだった。レティシアやカルラ、マグダレーナでは手に余る力仕事は、全てゲルダが一人で行っていた。トイレや浴場への移動はもちろん、体の動かない美香が湯船に浸かれたのも、ゲルダのおかげだった。


 ゲルダは、美香の頭を見ながら皮肉めいた笑みを浮かべると、手を伸ばして美香の頭を引き寄せる。そして美香の額を自分の額に当てると、屈託のない笑みを浮かべた。


「気にするんじゃないよ。アンタはそれだけの事を、ライツハウゼンでしたんだ。ミカ、アンタには、アンタにしかできない事があるんだ。それ以外の事は全てアタシらに任せな。露払いだろうと介護だろうと、何だってやる。だから、全部自分で抱えるんじゃないよ。いくらでもアタシらを頼り、甘えていいんだからな」


 そう言い切ったゲルダは頭を上げて振り返ると、右手を振りながら石段を下り、外へと出て行った。




 その清々しいまでの後姿を見ながら、美香は諦めにも似た笑みを浮かべた。


「ホント、アレさえなければなぁ…」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る