93:再会

 何処までも平坦な大草原を、兵士達が重い足取りで歩いていた。


 彼らは下を向いたまま、一言も声を発する事無く、黙々と歩き続けている。彼らの目は重く沈み、往路に溢れていた高揚感は、今や全て蒸発してしまっている。彼らの頭の中を占めていたのは、名誉でも財宝でも女でもなく、ただただ、コップ一杯の水だけであった。


 長い行列の所々で、突然人が歩みを止めて膝をつき、そのまま身を屈めて動かなくなる。そんなかつての同僚の最後の姿にも、彼らはただ道を塞ぐ岩の様に見つめ、無感動に脇を避けて歩いていく。彼らの道を塞ぐ岩は時を追う事に数を増し、それに反比例して、同僚の数は減っていった。


 彼らを率いる司令部の面々は下を向き、口を閉ざしたまま、一言も喋らない。彼らは馬に揺られながら、何とか打開策を見つけようと、物思いにふけていた。


 やがて、彼らの進む地平の彼方に、濃い緑の島が見えてきた。


 その姿を見た兵士達は、すでに棒のようになってしまった足に鞭打ち、懸命に前へと進んで行く。彼らの必死の努力に報いるかのように、島は刻一刻と大きくなり、やがてその姿は森へと変貌していった。




 ティグリの森を出発して7日目。西誅軍は、ようやくモノの森へと辿り着いた。


 森は涼やかな枝ずれの音を靡かせ、疲れ切った兵士達を優しく包み込む。そして、爽やかな風に乗って兵士達を導き、森の中央広場へと誘う。兵士達は風に導かれるままに歩を進め、やがてその足取りは力強く、足早となっていく。やがて、最後の力を振り絞って駆け出した兵士達を、森は優しく迎え入れ、




 ――― 新たな地獄の宴が始まった。




「畜生!エルフどもめ!奴らは悪魔か!」


 窓の外に巻き起こる呻き声と絶望の叫びと断末魔を背に、リヒャルトは何度もテーブルを叩き付ける。


 丸一日水を口に入れていなかった兵士達は、森に入った途端、我先に井戸へと群がり、先を争って水を汲み上げ、喉を潤していく。多くの兵士達が待ちに待った欲望を存分に満たしたが、やがて森の広場で駐留軍の兵士達の遺体を見つけると、恐怖に慄き、喚き声を上げ始める。やがて喚き声は少しずつ絶望の叫びへと変化し、最後に断末魔の楽章を歌い上げるとその兵士のパートは終わり、兵士はこの世の舞台から降りていく。多くの兵士によって奏でられる死の合唱は、すでに山場が絶望へと移り、間もなく最終章のクライマックスを迎えようとしていた。


 多くの兵士が自分の感情の全てを籠め、高らかに歌い上げているが、残念ながら彼らの思いは観客には伝わらなかった。観客達は次々と湧き上がる歌声に、ある者は耳を塞ぎ、またある者は虚ろな目をしながら無感動に聞き逃し、同僚達の人生最後の熱唱をことごとく無視していた。でなければ、観客自身が、次の歌手になりかねなかった。


 少しでも元気のある兵士は、無料の合唱会の中を歩き回り、喉を潤す物がないか、片っ端から探し回った。最も幸福な者は、雌山羊を見つけると飛び掛かって引き倒し、その乳腺へと吸い付く。そして繰り返し山羊に蹴飛ばされながらも、喉を潤した。つい半月前此処でエルフの女達へと群がった兵士達は、今度は山羊に何人も群がり、その乳腺を奪い合う。時には雄山羊の腹をまさぐり乳腺を探しまわる兵士達も見られた。哀れな山羊は乳を吸いつくされると、今度は首を斬られ、赤い乳を吸い取られる。こうしてモノの森の合唱会に、山羊のパートが加わった。山羊のパートはすぐに終わり、やがて馬のパートが始まる。そして、山羊と馬に歌を奏でさせた兵士達は、口を真っ赤にしながら喉を掻きむしり、ついには井戸の水へと手を出した。


 合唱会は延々と続き、歌手が少しずつ増えていく。そして観客が、一人また一人と、減っていった。




 ここに来て、ついに西誅軍は崩壊を始める。少しでも元気のある者達は自らの才覚に運命を委ね、一人、また一人と森を抜け出して行く。ある者は徒歩で、ある者は馬を奪い、南の方角へと一心不乱に歩み始める。彼らは空の水筒を抱え、いつか奇跡が起きる事を念じ、思考の停止した体を鞭打って南へと進む。そんな兵士が次々と通り過ぎるのを、ティグリのエルフは地平の彼方から黙って見つめていたが、時折馬に乗る兵士を見つけると少数の騎馬隊が駆け寄り、馬を射殺してすぐに戻ってくる。馬から投げ出された兵士は呆然としたまま馬を見つめると、やがてよろよろと立ち上がって、南へと歩いて行った。


 南へと向かった兵士達はやがて次々と道端に倒れ、モノとサンタ・デ・ロマハの間は、後世、死の道と呼ばれるようになる。




 ***


「何?講和の使者だと?」


 駆け寄ってきたエルフの男の報告に、グラシアノが眉を上げた。


「はい、族長。人族を代表し使者が参りました。これ以上、人族とエルフの間で血を流すべきではない、と。過去の遺恨を水に流し、再び肩を並べてガリエルに立ち向かうべきだ、と」

「何とも虫の良い言い草を…」

「族長…」


 苦虫を噛み潰したグラシアノにヘルマンが近づき、目で訴えかける。その視線を横顔に受け、グラシアノは押し黙った。


 グラシアノには、ヘルマンの言いたい事がわかっていた。今や戦いの趨勢は決まり、人族は渇死するだけとなっている。ティグリのエルフがやる事は、もはや何もない。例えティグリのエルフがこの場から一人もいなくなっても、人族は間違いなく全滅する。いや、むしろティグリがいなければ、人族は全滅する他にない。


 いわば、ティグリが人族の生殺与奪の全てを握った事にヘルマンは動揺し、グラシアノに寛大な処置を請うたのだった。


「…」


 グラシアノは沈黙したまま、後ろを振り返る。その行動の意味する事に、ヘルマンは戦慄を覚えながらも、同じく振り返った。


 彼らの下に、隻腕の男が近づいていた。背後に獣人の女を従えた人族の男は、二人が振り返ると、その場で立ち止まった。


「トウ…ヤ、殿…」


 ヘルマンが、錆びついた口を動かし、男の名を呼ぶ。男はヘルマンの声に答えず、そのままグラシアノの方を向く。


「…トウヤ殿、聞いていたか?」

「ああ」

「…どうする?」


 グラシアノの問いに、男は鼻で笑い、


「…追い返せ」


 あっさりと言い放った。




「ト、トウヤ殿!」


 思わずヘルマンが声を上げるが、冷徹な柊也の声に遮られる。


「我々が望んでいるのは、講和ではない。無条件降伏だ。それがわからんとは、奴ら、こちらのニーズを全く理解していないな。…ま、時間はたっぷりあるんだ。奴らが自力で解答を見つけ出すまで、ゆっくり待ってやろう」

「…」

「トウヤ殿…」


 柊也のあまりの言い草に、ヘルマンは喘ぐように声を上げるが、それに対し柊也は答えない。一方、グラシアノは押し黙ったまま、前を向いた。


 実のところ、グラシアノは柊也と同意見だった。柊也の表現はあまりにもどきつかったが、ここでの講和は、ティグリに何の益も生み出さない。講和である以上、相手に武装解除を求める事もできず、こちらは井戸を中和しなければならない。戦況が想定以上に早く推移したため、ティグリの本隊は未だに合流できておらず、戦力比は6対1にまで広がっていた。エルフらしい一本気な思考で、一度講和を結べばそれが守られるとヘルマンは考えたのだろうが、あまりにも甘い考えである。講和によって最大の武器を失った途端、破棄されるのが目に見えている。


 グラシアノは溜息をつくと、報告してきたエルフの男に伝えた。


「人族の使者に伝えよ。我々は、講和を望んでいない。お引き取り願おう」




 ***


 度重なる合唱から逃れるべく耳を塞ぎながら、男は考えに耽っていた。


 もう西誅軍はお終いだ。このままでは、じきに自分も死を迎える事になる。上層部は役に立たない。頼れるものがなくなった以上、自分の運命を自分で切り開かなければならない。


 男は手元にある水筒を覗き込む。そこには、幸運にも入手する事ができた羊乳が波打っていた。これが残っているうちに、何とか脱出しなければならない。


 男はそう決心すると水筒を隠して腰を上げ、絶え間なく続く合唱の中、地面に座り込みあるいは倒れ伏した兵士達を縫って動き始める。兵士達は背後から忍び寄る死の恐怖に怯えるばかりで、男の行動は誰にも咎められなかった。




 ***


「…あ、また…」


 背後から聞こえたセレーネの呟きを聞き、シモンが振り返った。


 シモンの後ろでセレーネは横を向き、遠くを眺めていた。シモンもセレーネの視線を追いかけ、モノの森へと目を向ける。


 モノの森から、騎馬が1騎、南へと駆け出していた。その足は速く、明らかにペースを考えていない、馬を潰す事を前提にした走り方だった。他のエルフも気が付いたようで、何名かのエルフが自分の馬へと向かって駆け出している。


「…セレーネ!」

「え?え?どうしたの!?シモンさん!?」


 突然、シモンが声を上げ、自らも馬へと駆け出した。その声にセレーネは驚き、慌ててシモンの後を追う。


「…シモン!?」


 グラシアノと話をしていた柊也が、シモンの行動に気づき、後ろを向いて尋ねる。それに対しシモンはすでに騎乗を済ませ、手綱を引きながら、叫んだ。


「トウヤ!すまない!君は此処で待っていてくれ!」


 そう答えると、馬首の向きを変え、南へ全速力で走る騎馬に向かって駆け出した。




「…どうしたんですか!?シモンさん!?」


 シモンに追い付いたセレーネが、並走しながらシモンに問いかける。それに対し、シモンは目標の騎馬を見つめたまま、セレーネに答えた。


「セレーネ、すまないが、あの馬を射殺してくれ。…男は、私が応対する」

「え?あ、はい。わかりました」


 シモンの思い詰めた表情を見たセレーネは怪訝に思うも、シモンの要請を受け入れ弓を取り出す。そして馬上で矢をつがえると、無造作に天空へと放った。


 矢は大きな放物線を描きながら空を飛び、やがて示し合わせた様に目標の馬の首へと突き立つ。馬はもんどりを打って横転し、乗っていた男は地面へと投げ出された。


 シモンは男の近くに寄ると馬を降り、受け身を取って起き上がろうとする男と相対する。男は両手剣を杖代わりに立ち上がろうと顔を上げるが、シモンを見た途端、愕然とした表情を浮かべる。


「…まさか、まさか…」


 男は目を見開き、シモンの顔を見たまま口をわななかせ、動かない。二人のただならぬ雰囲気に、馬に乗ったまま離れた場所から様子を窺うセレーネの前で、シモンは悲しそうな表情を浮かべ、口を開いた。




「…久しぶりだな。こんな所で会いたくなかったよ、――― ジル」

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