85:帰還、そして(5)

 素朴な、簡素で飾り付けのない木の机の上に、一つの木彫りの像が立っていた。


 その像は荒削りなものではあったが、作者の想いが十二分に込められ、被写体の生前の印象を忠実に表しており、生気と躍動感に溢れている。両脇に掲げられた蝋燭の炎が揺らめくたびに像の陰影が目まぐるしく変化し、像の躍動感と合わさって、まるで踊っている様にも見えた。


 像の前には被写体の好物であった干果と羊乳のチーズが供えられ、今朝切り分けられたばかりのチーズは、断面が未だに瑞々しさを保っている。蝋燭の炎が揺れ動くたびに、像の影が手を伸ばし、好物の表面を撫でまわしていた。


 像の前には一人の男が座り、揺れ動く影をじっと眺めている。男は長い寿命を持つエルフの中で最も働き盛りの年にあり、外見は未だ人族の青年と違わぬ若さを保っていたが、男の顔は暗く沈み、覇気が全くなかった。半年前の彼は、氏族を率いる族長として相応しい威厳と覇気に満ち溢れ、若者達から畏怖されていたが、今やその全てが蒸発し、疲れ切った顔を浮かべていた。


 男が座る部屋の扉が開き、女が気遣わしげに声をかけた。


「…あなた、食事の用意ができました」

「…ああ」


 男は、像に顔を向けたまま女に返事をし、ゆっくりと立ち上がる。そして、立ち上がった後も暫く像を眺めた後、後ろ髪を引かれながら扉の方へと歩き出した。その姿を、女は悲し気に見つめていた。




 二人は、食堂で静かに食事を摂っていた。木の実を轢いて薄く焼いたパンと、羊乳のチーズ、羊の乳を使ったスープ、干果、燻製肉。二人は会話を交わす事もなく、黙々と食事を摂る。娘がいた頃には落ち着きのない娘の声が食堂の中を木霊し、二人は娘の話に振り回されっ放しだったが、その娘がいなくなって10ヶ月が経過した今では、木製の食器の音だけが響いていた。


「…ナディア」


 突然、男が女の名を呼び、女は口へと運んでいたスプーンを止め、器へと戻す。


「…はい、あなた」


 女に声をかけた男は、しかしそのまま口を開かず、空となった器を見つめている。食事時に男から声がかかったのは久しぶりの事であったが、女はそれを、むしろ不吉な予感として受け取っていた。女が辛抱強く待っていると、暫くして、男がようやく口を開いた。


「私は、族長の座をヘルマンに譲ろうと思う」

「…あなた」


 男の発言を聞き、女は目を見開く。男は女の方を見ず、なおも器に語りかけた。


「あの娘をうしなったと知ってから、もう4ヶ月も経った。私はその間、族長としての責務を果たすために何度も立ち直ろうとした。しかし、駄目だった。何度立ち上がろうとしても、その都度あの娘の笑顔が目に浮かび、涙が出そうになる。私は、こんなにも弱くなってしまった。これ以上、氏族の者達に迷惑をかけるわけにはいかない。ヘルマンは私のいない間、氏族を良く取り仕切り、まとめてくれた。あいつなら、ティグリの族長として十分にやっていけるだろう」

「あなた…」


 男の決断に女は口を挟まず、ただ男を呼ぶに留める。女も、男と同じく娘を喪って4ヶ月が経過し、男と同様、未だ立ち直れていなかった。そして、愛する男が苦しむ姿を、これ以上見ていられなかった。


 男が族長の座を降りて、その後どうするつもりなのか、女にはわからない。しかし、少なくとも今だけは、男のもがき苦しむ姿をこれ以上見たくない。女は、ただその一点で、男の決断を受け入れた。女の沈黙の意味を男は正確に理解し、言葉を続ける。


「これから、ヘルマンの所へ行ってくる。あいつもすぐには首を縦には振らないだろうが、話せばわかってくれるはずだ。そしたら…」

「族長!」


 突然、家の扉が開き、若い男が駆け込んで来た。若い男は食堂へと駆け込むと、男女の前で両膝に手をつき、荒い息を整え始める。


「…どうした?何があった?」


 半年前であれば無遠慮に駆け込んできた若い男を張り倒していただろうが、今や抜け殻となった男は咎めもせず、静かに若い男の報告を待つ。


 やがて、ようやく息が繋がった若い男は、顔を上げて口を開いた。


「…お嬢様が…セレーネ様が、生還いたしました」

「…」

「…」


 若い男の報告を聞いた男女は、互いの顔を見て、しばし呆然とする。そして、


「…な、何だとぉ!?あ、あ痛ててててて!」

「セレーネ!」


 けたたましい音を立ててテーブルが跳ね上がり、食器が飛散して中身が飛び散る。しかし、三人はそれには目もくれず、扉を開けっ放しにして、一目散に外へと飛び出して行った。




「セレーネ!」


 広場へと駆け込んだナディアは、人だかりを見つけると、その中へ飛び込んで行く。ナディアの声を聞いた者達は快く道を譲り、ナディアは立ち止まる事なく、中央へと躍り出た。


「お母さん!」


 広場の中央で、若いエルフの娘達に抱きつかれていたセレーネが顔を上げ、涙を流して母親を呼ぶ。若いエルフ達がセレーネを解放すると、セレーネはナディアの胸元に飛び込み、顔を埋めて泣きじゃくった。


「お母さん!遅くなって、ごめんなさい!心配かけて、ごめんなさい!お母さん、会いたかったよぉ、…ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

「ああ、セレーネ!私の愛しいセレーネ!お帰りなさい!良かった、無事に戻って来てくれて、本当に良かった。何も謝らなくていいわ。あなたが無事に帰って来てくれた、ただそれだけで、私は十分よ」

「お母さん、お母さん…ふぇぇぇぇぇぇぇ」


 二人はお互いを二度と離すまいとしっかりと抱きしめ、涙を流しながら再会を喜ぶ。エルフの中でも一二を争う美貌を持つ二人の感動の再会に、周囲の者達も涙を浮かべた。


「セレーネ!」

「お、お父さん!」


 そして、遅れて片足跳びでやって来た族長グラシアノは、二人を見つけると両手を広げ、びっこを引きながらセレーネの下へと駆け寄る。セレーネはナディアから手を離すと、身を翻し、グラシアノの胸元へと飛び込んだ。


「お父さん!セレーネ、ただ今戻りました!遅くなりまして、申し訳ありません!」

「良い!良い!セレーネ!無事に戻って来てくれただけで十分だ!今は何も言う事はない。良かった、本当に良かった!」

「お父さん…ふぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


 セレーネとグラシアノはがっしりと抱きしめ、セレーネは泣き続ける。グラシアノは涙を流すまいと必死に抵抗していたが、やがて溢れる感情に押し出されるかの様に、一筋の涙が流れる。セレーネの後ろからナディアが再び覆い被さり、暫くの間三人は、そのままの体勢で10ヶ月ぶりの再会の喜びを噛みしめていた。




 やがてグラシアノはセレーネから体を離し、泣きはらして目が赤くなっているセレーネの肩に手を置いて尋ねた。


「しかし、セレーネ。お前、今までどうしていたんだ?」

「それは…」


 セレーネはそう答えると、グラシアノから視線を外し、後ろへと振り返る。その視線を追って、グラシアノとナディアもセレーネの後を眺める。


 セレーネの後ろには、二人の男女が佇んでいた。一人は人族の男で、もう一人は獣人の女。男は右腕がなく、隻腕だった。セレーネは後ろを向きながら、説明を続ける。


「男性がトウヤさん。女性がシモンさん。私、ここまで何度もお二人に助けられて戻ってきました。お二人は、私の命の恩人です」

「何と…」

「まぁ…」


 グラシアノとナディアは、二人を見て目を見開く。やがて、グラシアノはセレーネから手を離すと、柊也とシモンの前に進み、口を開いた。


「トウヤ殿、シモン殿。セレーネの父、ティグリ族 族長グラシアノです。この度は、我が娘セレーネの命を救っていただき、ありがとうございました。その上、遠路はるばるティグリの森まで送り届けていただき、感謝の念に堪えませぬ」


 そう述べたグラシアノが二人に対し深く頭を下げ、礼を受けた柊也が応えた。


「頭を上げて下さい、グラシアノ殿。こちらこそ、セレーネさんには何度も助けられました。我々は何も一方的にセレーネさんを助けたわけではありません。北伐の地で孤立した三人が助け合い、力を合わせて来た結果です。程度の差こそあれ、そこに優劣や貸し借りはありません」

「その通りです、グラシアノ殿。私もセレーネ殿のお陰で、命を救われました。私こそ、セレーネ殿にお礼を言いたい。彼女は時として私の姉となり、私の心を救ってくれました」

「何と、本当か?セレーネ」


 グラシアノは頭を上げ、後ろを向いてセレーネに問う。グラシアノの視線を受け、セレーネは頬を染めながら笑顔で答える。


「はい。私、旅の途中で、シモンさんのお姉ちゃんになりました!」

「う…」


 セレーネの答えを受け、シモンが顔を赤らめる。その様子を見たグラシアノは破顔し、笑みを浮かべた。


「そうですか!セレーネの妹であれば、それは当然、我が娘でもあります!トウヤ殿、シモン殿、好きなだけ我が家に逗留下さい!」


 そう言ってグラシアノが下がると、代わってナディアが前に進み出た。


「トウヤ様、シモン様。セレーネの母、ナディアでございます。この度は、我が娘セレーネをお救いいただき、誠にありがとうございました。セレーネは、親の私から言わせてもらえれば、世間知らずでそそっかしいところがございます。道中、お二人への粗相はございませんでしたでしょうか?」

「ちょ、ちょっと、お母さん!?」


 ナディアの言葉を聞き、セレーネが慌てる。


 柊也は、ナディアに真っ向から見つめられ、激しく動揺した。そこには、セレーネが成長し美しく花開いた姿が、顕現していた。柊也はナディアから視線を逸らし、言い繕う。


「あ、いや、そう言えば、物事を片っ端から忘れてしまうのが、玉に瑕でした」

「え、ちょっと、トウヤさん!?」

「あらあら、それは大変失礼いたしました。セレーネには、私からきつく言い含めておきますわ」

「え、ちょっと、お母さん!?」


 ナディアは、顔を赤くして視線を逸らした柊也に優しく微笑み、非礼を詫びる。内心で平静を保とうと努めていた柊也は脇腹を小突かれ、横を向くとシモンが剥れていた。柊也は苦笑し、再びナディアへと顔を向ける。


「しかし、彼女がいたからこそ、私達は長く苦しい道のりを歩んで来る事ができたとも言えます。彼女の天真爛漫な姿は、私達に安らぎと希望を与えてくれました」

「トウヤさん!?」


 柊也の口から飛び出した予想外の評価に、セレーネは驚き、思わず頬を染める。ナディアは、先ほどと異なり正面から見据える柊也に、改めて微笑む。


「左様でございましたか。それを聞いて、セレーネもさぞ喜んでいる事でしょう。私も、娘がお二人の力になれた事を、とても嬉しく思います」


 そう答えたナディアは身を翻し、右手を後ろへと広げた。


「それでは改めて、ようこそ、ティグリの森へ。私達、ティグリのエルフは、あなた方お二人を心より歓迎いたします!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る