58:帰還、そして(1)
特売日の翌日。二人は川岸を離れ、川沿いに北へと向かっていた。
オズワルドは美香を背負い、お尻に太い木の棒を敷いて支え上げている。オズワルドの武器は、川に流された時に失っていた。「茨の手」で補強できるとはいえ、木の棒では些か心細い。美香の手足は依然動かず、彼女はまるで熊の毛皮の様にオズワルドに覆いかぶさり、手足をぶら下げていた。
「ふぅ…ふぅ…」
強靭なはずのオズワルドの息が、僅かながら乱れている。今朝方、美香の厚意に甘えて2時間ほど仮眠を取ったが、昨日の戦いと昨夜の不寝番、そして味方からの精神攻撃により、オズワルドの体力は相当目減りしていた。
行き先は、正直な所わからない。川に落ちた時の状況を振り返り、南へ流されたと推測しているが、川は蛇行するものだ。この方向が正しいかどうか、オズワルドにも判断がつかなかった。しかし二人にとって幸いな事に、やがて天から解答例が舞い降りてくる。
「オズワルドさん、これ…」
「ああ」
二人は目の前の惨状を見て、答え合わせをする。そこには鬱蒼と茂る森の中、右から左に向かって大量の木が折れ、横倒しに連なっていた。その数、3本。左を向くと、森にぽっかりと空いた太い溝は、何処までも続いている。二人は顔を寄せ合って頷き、一番手前の溝に沿って歩き始める。
そして、3時間後。
「いたぞっ!御使い様が見つかったぞ!」
二人は、南下してきたハンター達に発見され、無事に救出された。
***
「ミカぁ!ミカぁ!良かったぁぁぁ!良かったよぉぉぉぉ!うえぇぇぇぇぇぇぇん!」
「よしよし、よく頑張った。偉い偉い」
どちらが救出された方かわからない泣き声を上げてレティシアが縋りつき、手足の動かない美香は、オズワルドに横抱きに抱えられたまま、声だけでレティシアを宥める。馬車から続けて降りてきたカルラが、オズワルドへ駆け寄り、腰を曲げる。
「オズワルド様、ミカ様をお救いいただき、本当に、本当にありがとうございました。何はともあれ、まずは馬車にお乗り下さい」
「わかった。お邪魔する」
そう答えると、オズワルドは美香を抱えたまま、馬車に乗り込む。オズワルドの隣にはレティシアが座り、オズワルドに抱えられたままの美香の頬を撫で、心配そうに覗き込んでいた。
「オズワルド様、ミカ様のご容態は?」
カルラが、オズワルドに尋ねる。
「ミカ殿は『ロザリアの槍』の影響で、手足が動かない。前回は、回復するまでに半日かかった。今回は前回より魔法の規模が大きく、影響が長引いている。いつ回復するか、正直わからん」
「オズワルドさん」
美香がオズワルドの説明を遮り、じろりと見上げる。オズワルドはそれに驚き、美香の顔を見つめた。
「…まさか、ここでもか?」
「…」
美香が無言で頷いたのを見て、オズワルドは天井を仰ぐ。
「…わかったよ、ミカ」
「オズワルド様?」
オズワルドが観念したように呟き、カルラが思わず聞き返す。レティシアは美香の頬に手を当てたまま、半眼でオズワルドを見つめていた。
***
「ミカ殿!無事か!?」
「ミカ殿!大丈夫か!?」
「ああ!ミカ殿!」
馬車が司令部に着くと、一行は即座に王太子リヒャルトの天幕へと通される。美香とオズワルドが天幕の中に入ると、リヒャルト、コルネリウス、ハインリヒの三名が即座に立ち上がり、三者三様の声を投げかけてきた。
美香を横抱きにしたまま、欠礼を承知の上で、オズワルドが立ったまま報告する。
「殿下、報告します。彼女は現在、手足が動きません。これは昨年も発生した、『ロザリアの槍』の影響と思われます。前回は半日で回復しましたが、今回は魔法の規模が大きく、長期化が予想されます。命に別状はございませんが、しばらくの間、安静にすべきでしょう」
オズワルドは美香の反応を気にして、彼女の固有名詞を言わずに報告を済ませる。美香はそれに気づいて長く形の整った眉を顰めるが、口には出さず、沈黙している。もとより、この様な公式の場では、先ほどの注文をするつもりはなかった。
「何だと!?わかった。構わん、此処に寝かせてやってくれ、赦す。…おい、天幕をもう一枚張れ。私はそちらに移る」
リヒャルトは報告を聞いて驚き、後ろを向いて近侍に指示する。リヒャルトはオズワルトの方を向いて、言葉を続けた。
「この天幕に、ミカ殿の付き人の入室も赦す。彼女のために存分に働いてくれ」
「ご厚情、感謝の念に堪えません」
「リヒャルト様、ありがとうございます」
オズワルドは美香に影響がない程度に軽く一礼し、美香を寝台に載せる。美香もオズワルドにされるがまま、リヒャルトに礼を言った。
「気にしないでくれ。あなたの功績に比べれば、この天幕など、些細なものだ」
手を振りながらリヒャルトはそう言うと、コルネリウスに場を譲る。コルネリウスが進み出て寝台の脇に立ち、美香の手を取った。
「ミカ殿。あなたはこの度、北伐軍31,000全員の命を救った。あなたが居なければ、我々は全員、この地に屍を晒していたであろう。全軍を代表し、このコルネリウス・フォン・レンバッハ、あなたに心より感謝の念を申し上げる。…本当に、ありがとう」
そう言うとコルネリウスは手を離し、美香に対し深く腰を折って頭を下げ、そのまま動かなくなった。
「…頭をお上げ下さい。コルネリウス様」
美香は、コルネリウスに優しく声をかける。
「…私は、31,000を救ったつもりは、ありません。私はただ、たった一人を救うためだけに動いただけなんです」
「たった一人、…ですと?」
「はい…」
コルネリウスは腰を深く折ったまま、顔だけを上げ、美香を見る。
「それは一体…?」
「…」
コルネリウスの立ち消えた言葉の先に、美香は答えない。ただ、首を回して、少しの間レティシアを眺めていた。
美香は再びコルネリウスの方を向き、言葉を続ける。
「ですから私は、コルネリウス様からその様な大層な御礼をいただくわけには、参りません。31,000は、ついでです」
「ついで、ですか…」
「はい」
そう答えると、美香は上を向き、視線だけをコルネリウスに向ける。コルネリウスがゆっくりと頭を上げた。
「…よくわかりました」
コルネリウスが口を開く。いつの間にか、彼の口調が変わっていた。
「ここには三国が集結するまでの間、しばらく逗留します。その間、ミカ殿はゆっくりと静養なさって下さい。それと、今後何かお困りの事があれば、このコルネリウス・フォン・レンバッハまでお声がけを。もののついででよければ、お力になりましょう」
そう答えると、コルネリウスは武人らしい一礼をして、天幕の外へ出て行った。
「ミカ殿、良かった。本当に良かった。何か私にできる事はありませんか?何でも申して下さい。お力になりましょう」
「ハインリヒ様、ご心配をおかけしました。大丈夫ですよ、じきに回復しますから。そんなにお気を煩わせないで下さい」
ようやく自分の出番が回って来たハインリヒが、美香へと駆け寄る。コルネリウスと会話をしているうちに、いつの間にか「母」モードになっていた美香は、ハインリヒの申し出を柔和に受け止めていた。
一通りの申し送りを終え、オズワルドは美香の許を辞し、天幕の外へ出た。空には薄っすらと赤味が射し、昼間が帰り支度を始めていた。
「隊長、お疲れ様です。そして改めて、お帰りなさい」
「エルマー…」
オズワルドの前に副官のエルマーが立ち、オズワルドの許へ歩み寄る。
「隊長、今日ぐらいは、ゆっくりと休んで下さい。今晩は、我々が全て引き受けます」
「…わかった。よろしく頼む」
「はい」
疲労が積み上がったオズワルドはエルマーの気遣いを素直に受け取り、あと半日、ゆっくり静養を取る事を決める。エルマーは、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべた。
こうしてエルマーの前を通り過ぎたオズワルドだったが、ふと足を止めて振り返ると、口を開く。
「エルマー」
「はい。どうしました?隊長」
オズワルドはエルマーの方を向き、動かない。正確には、エルマーの向こう側にある美香の天幕を見て、動かない。
「エルマー。私はこれまで、世の中を甘く見過ぎていたのかも知れない」
「…隊長?」
エルマーが、語尾を上げる。それはエルマーの知る限り、見た事のないオズワルドの姿だった。
「私は今回、生まれて初めて、途方に暮れたよ」
「隊長…」
オズワルドの話を聞き、エルマーは思い浮かべる。あの、後背から押し寄せてくる3頭のロックドラゴンの姿を、思い浮かべる。
「しかも一歩間違えれば、取り返しのつかない事をするところだった」
「…」
エルマーは、仲間から聞いた話を思い浮かべる。丘の上から射出された9本の槍。あれで、もしロックドラゴンを1頭でも撃ち漏らしていたらと、想像する。
「それなのに、私は彼女の前で狼狽えるばかりで何一つできず、結局、全て彼女の言いなりだった」
「…はい」
エルマーは、仲間から聞いた話を思い浮かべる。仲間は皆、彼女に言われるがままに丘の麓に隠れ、隊長でさえ彼女を支えるために脇に寄り添っていただけの光景が、脳裏に浮かぶ。
「エルマー」
「はい」
オズワルドがエルマーの名を呼び、押し黙る。エルマーは気づき、後ろを振り返って、美香の天幕を見る。
「…女性というのは、私が思っていたのより、遥かに強い生き物なんだな…」
「…隊長」
エルマーが再びオズワルドの方を向くと、オズワルドはすでにエルマーに背を向けて遠ざかっている。その背中はいつもよりも小さく、俯いている様に見えた。
こうして二人は、話の意味を取り違え、その上で会話を成立させ、しかも互いの信頼を深めるという奇跡を起こしたのだった。
***
司令部の天幕を分け与えられた美香はそこで静養し、ゆっくりとだが着実に回復していった。
身の回りの世話は、レティシアとカルラ、マグダレーナが3交代の付きっきりで行った。特にレティシアは自分の当番でなくとも常に美香の横に張り付いて、何くれと世話を焼いていた。
美香の天幕には、何だかんだと理由をつけて、ひっきりなしに訪問者が訪れていた。リヒャルトとハインリヒはほとんど毎日の様に天幕を訪れ、コルネリウスも3日に一度は顔を見せる。その他にも師団長や兵団長レベルの指揮官が、御使い様を一目見ようと、あるいは危機を救ってくれたお礼を一言伝えようと訪れていた。ハンター達についても有名どころが顔を見せ、祝い酒を持ち込んでその場で酒盛りを始めようとしたヴェイヨは、レティシアの手によって丁重に叩き出された。
こうした周りの者達の手厚い保護によって、美香は着実に回復する。長く感覚の戻らなかった手足は5日目にようやく自身で動かせるようになり、8日目には一通り自分の事は自分でできるようになる。10日目には天幕の外に出てリハビリのための運動を開始し、15日目を迎える頃にようやく元の通りに行動できるようになった。
その間、天幕はその場から一歩も動かずに張られていた。北伐軍は15日間、逗留し続けた。
その間、カラディナも、セント=ヌーヴェルも、エルフも、合流しなかった。
「殿下、ご決断を」
「…」
コルネリウスがリヒャルトに迫り、リヒャルトが苦虫を噛み潰す。
逗留から15日目を迎えても、エーデルシュタイン以外の北伐軍は誰一人姿を見せなかった。単独での侵攻は論外である以上、今回はここで矛を収め、撤退する他になかった。撤退を決めるのであれば、早い方が良い。日を追う事に物資が目減りしていた。
やがて、リヒャルトは内心のムカつきを抑える事ができず、吐き捨てる様に宣言する。
「北伐を中止する。全軍、撤退だ」
「「「「はっ!」」」」
こうしてエーデルシュタインの北伐軍は出発から32日目にして、何も得るものなく撤退する事となった。
撤退は滞りなく行われ、北伐軍はロザリアの第5月1日にハーデンブルグへと帰還した。途中、魔物達の襲撃は散発的に発生したが、北伐軍は体に群がる蚊を叩き潰すかのように全て撃退し、ほとんど損害を受ける事なく、帰還した。出発時の9割以上が生還し、決して失敗ではなかったが、約120年ぶりの三国集合失敗による中止はリヒャルトの自尊心を酷く傷つけた。
リヒャルトの機嫌は帰還後も戻らず、ハーデンブルグで2日の休息を取ると、早々にハーデンブルグを発ち、軍を率いてヴェルツブルグへと戻る。その際リヒャルトは、美香をヴェルツブルグへ同行させようと目論んだが、折悪く美香がハーデンブルグで高熱を出して再び静養に入ったため、断念せざるを得なかった。
ロザリアの第6月1日。北伐軍はヴェルツブルグへと帰還。北伐は正式に終了した。
本来であれば北伐軍はそのまま解散し、平時に戻る予定であった。リヒャルトもコルネリウスも、そのつもりだった。しかし事態は急展開を見せる。
北伐軍帰着に先立つロザリアの第5月20日、ヴェルツブルグに急使が到着し、エーデルシュタインは驚愕する。
――― セント=ヌーヴェル・エルフ連合軍、カラディナへと侵攻 ―――
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