言葉や文章のもつ価値など最初からはない

 人同士の会話というものはどうやって成立する?

 二者が、互いの顔と姿を捉えて向き合う。少なくとも、相手の人となりが分かっている。今出会ったばかりではないから。相手の情報が多少頭にも入っていて、どういう話題と話し方がいいか、気を付けて話すことが出来る。

 なにより、ぴったりはくっつかなくとも声が聞こえる程度に近い距離にはいる。手を伸ばせば触れられる距離にいる。

 だから、たとえ失言があっても場の空気が凍り付くような言葉が出ても、一目散にそこから逃げるということは考えにくい。あとあとまた会う関係である可能性は高いから、その場は逃げれてもなんらかの落としどころを付ける必要に迫られる。

 そういう状況で交わされる会話は、よほどのことがないなら誠実に交わされる。たとえ平和な内容ではなく怒りや涙を含む内容であっても、相手が在ることなので何らかのおちが付けられるよう(つかなくても、後日延長線ということを匂わせた最後にもなる)その二人はもっていくはずである。



 さて。今言った要素がほとんどないコミュニケーションがある。

 それは皆さんが良く知る『ネット上のやりとり』である。

 自分の情報なんてハンドルネームくらいで、あとは年齢から性別まですべてウソで固めても成り立ってしまう。相手の顔も見えない。泣く姿も痛がる姿も見えないから、心も痛まない。そもそも近い距離で会っていないから、相手を撃沈できるひどいことを言って後、一瞬で消えることができる。また、関係が限りなく浅いので、その気になればあとあと一生その人物と二度と接触しない、ということも簡単である。そんなに責任取らなくてよくて楽チンなコミュニケーションでいいとなると、その人個人はリアル世界である程度いい人でも「甘え」が生じる。身のある相手を目の前に話すなどよりもはるかにインスタントに、自分優位のコミュニケーションが取れるのでこれほどの誘惑はない。



 回転寿司チェーンの『スシロー』での迷惑動画拡散の事件で、一時は6700万円もの損害賠償を加害少年に請求していたものの、その訴えを取り下げるという報道が先日なされた。二者間で「調停」が成立したようだ。スシロー側いわく「当社としては納得のできる相応の内容で和解をした」。コメントはたったそれだけで、和解とはいったいどんな具体的内容なのか、一切情報を開示していない。

 そのせいで、コメントの付けられるネットニュースは勝手な「考察」の嵐である。皆、情報不足のため飢えているので、色々に分析し勝手に想像する。一般大衆の意見は、おおまかに二つに分けられる。



①もしも6700万を大きく下回る、現実的に一般家庭が払える額にまで落とし込んだなら、謝って反省すれば軽くなると学習されることになり、抑止力とならない。最後まで毅然として迷惑行為をゆるさない姿勢を貫かなかったスシローにがっかり、という「あくまでもいけないことはいけないとして、相応の責任を少年に取らせるべき」という考え方。

 注意したいのは、少年の人生が壊れればいいとかお先真っ暗の人生を歩めという気持ちなわけではなく、あくまでも「損害を与えたならそれに相当するものをきっちり償うのが筋」と考える。つまり物事の優先順位の問題であって、少年をいじめたいというわけではない。



②「もう十分に償っただろ」派。報道の後、少年は特定され家族も住所も学校も晒され、十分に痛い目を見たはずだ。賠償金がたとえ数百万まで落ちても、この先もデジタルタトゥーとして動画は残り、未来もずっとそれを言われ続ける人生が待っているんだから、これ以上は責めんといたれや、これ以上やれというのは人としてどうなんや、という考え方。筋を通すことよりも、感情(これ以上は可哀想)を優先させた考え方である。



 さて、これをお読みのあなたは、どちらが正解と考えますか?



●どっちも間違い。



 いじわる問題のようで恐縮だが、実は「正解などない」のである。

 事件に関わった犯人や家族、迷惑を被ったスシロー側という当事者たちでさえも、正解など知らない。ましてや外野である、ニュースを聞いただけの一般市民に、一体何の建設的なことが言えるだろうか。いや、言えない。

 いくら、その一般の意見が立派であっても、さっき言った「肉体のある二人が向き合って交わすようなコミュニケーション上のものでなく、目の前に相手がいない無責任楽ちんバーションの意見」だからである。あなたは加害少年に会ったこともなく、自分の言葉に責任を持つ気もないはずだ。

 社会に住む一人ひとりと、ガチで話せばみな「いい人」であるかもしれない。ただ、「責任を取らなくてもよい、情報がないがゆえに向こうの痛みも感じない一歩通行の意見」が言えてしまう状況では、もう良い人としてのその人はどこかに行ってしまう。別の生き物になってしまう。その、個人を別の生き物に変えてしまうのが「社会」という機能である。



●社会は怪物である。

 怪物を、人と思って対応するとひどい目に遭う。怪物と認識してそれなりの心構えと準備をして対処すれば、あるいは自分の身を守れる。

 怪物には容赦しなくていい。あなたは自分を守るために戦いなさい。



 ネットや、良く知らない人からの意見・誹謗中傷に悩む人は少なくない。

 悩む人の大半は、優しい。だって、謙虚なまでに「世間の意見はちゃんと聞くべきだ」と思っているから。社会の言うこと(大勢が支持する意見)が間違っているとは考えにくく、それを気持ちが反発するからといって受け付けないのは自分のわがままでありエゴだ、というくらい真面目に思っているから。

 社会からの、あなたが知らないとこから飛んでくる意見は、価値がないという前提で大丈夫である。あなたという人生の主人公側が、押し付けられてでなく自分自ら「この意見はそうだよなぁ」と積極的に受け入れられるなら、それはあなたの責任の上で採用したらいい。ただ間違っても「ムリをしてはいけない」。



 筆者も、日々ここで綴る文章は基本「無価値」だと思っている。

 ただ、数少ないケースでここを読んだ方が「これはなるほどと思った」「なんだかスッキリした」「救われたと感じた」経験をするなら、その時にそこだけで初めて価値が生じたのだ。読者が価値を与えてくれたのだ。そして花火のように、その一瞬をもってまた価値は消える。また誰かが読んで何かを得るという、次の花火がまた上がるまでは。

 逆に言えば、読者から価値を与えられなければ、文章など何の価値もないのだ。受け入れがたいだろうが、たとえば夏目漱石の小説や、レ・ミゼラブルなどの小説は、小説そのものに価値があると皆考えるだろう。芥川賞とか直木賞とか、そういう賞を取るものはその作品自体にそれに値する「価値がある」と認められたからじゃないのか?と。

 私の宇宙観からは、読み手に感動された瞬間だけに文章の価値はあるのであり、そうなるまでの文章の塊や紙などにはない。一般の本好きにはこんな境地至らなくていいが、一流の物書きならばそこへ到達したほうがいい。

 自分が酔うだけなら、好きに書いてどこにも発表しないでおけばいい。そこにおかしな承認欲求がまぎれるから、本来楽しいはずの「小説を書く」ということに「苦」が生じるのだ。



 あなたを良く知らないと思われる筋からの言葉は、無価値だと思って構わない。

 ただそれでも、あなた自身が自分の責任において、感性において「これは必要なんじゃないか」「耳を傾けるに値するんじゃないか」と思えるものに、価値ありのハンコを押してもよい。

 スシローで起きたような事件が今後起きなくするには、ということなら、事情を知らない一般人でも議論してよい。ただ、少年個人やその周辺の領域に土足で上がり込むようなことに話が行き過ぎるなら、それらはすべて無価値である。

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