マッチ売りの少女を殺したのはあなただ

 アンデルセン童話の『マッチ売りの少女』。

 主人公が寒さで死んでしまう、悲しいお話。

 あまりにも悲しい話だというので、サクセスストーリーやハッピーエンドが何より大好きなアメリカでは、最後に息を吹き返しお金もちの家に引き取られるというお話に変えてしまったらしい。

 筆者個人の思いを言わせていただければ、サイテーな改変だ。なぜなら、元のままのお話であればこそ、私たち精神性発展途上の人類に大切なことを問いかけてくれるのである。



●そう、マッチ売りの少女を殺すのはあなたのような人かもしれない、ということを。



 きっとこれを読むあなたは、かなりの確率で良識ある一市民でしょう。犯罪歴もなく、普通に「いい人」であることだろう。

 おばあちゃんの夢(あるいは幻覚か霊体験)を見ながら夜中に亡くなったであろう少女の死体を、その町の市民たちが朝発見する。少女の周囲には、温まろうとして燃やしたのであろうマッチの燃えカスが。

 そして、普通に食べ普通に寝た市民たちが、そんなマッチ売りの少女の死体を見て筆者がもっともキライなセリフを吐く。



『まぁ、この子は……マッチの火で暖まろうとしたのねぇ。可哀想に。』



 ホント、かわいそうだよ! お前たちのせいでな!

 マッチ売りの少女は、販売ノルマをこなすために「マッチは要りませんか?」と、それこそ必死で長時間労働したはずなのだ。町のにぎやかなところ、人通りのあるところを狙って、人が歩かなくなる時間まであきらめずに。

 ということは、かなり大勢の人がマッチ売りの少女に遭遇しているはずである。もちろんすれ違った全員が少女のことを覚えているとは限らず、意識を向けてなかったので本当に覚えていないという人物もいるだろうが、見すぼらしい姿で、本来ならまだまだ親の庇護を受けて守られるべき年齢の子どもが寒空の下働いていたら、気になるはずなのだ。

 死体を発見した人たちは「かわいそうに」と言った。そう思うなら、なぜ『今』なのだ? 生きている姿の時に「かわいそうに」と思うべきであり、思ったならなんらかの行動を取るべきだった。家に泊めたり何か食べさせるとか、そこまでできずとも「声をかけて相談に乗る」ことはできた。

 かわいそうだと思うなら、なぜ「その時」助けられなかったのか? この問題は、現代に生きる私たちにも通じる問題である。



 野球で「お見合い」というのがある。打者が高く打ち上げたフライ球が、ちょうど外野手二人の真ん中に落ちてきた時、お互いが「相手が取るだろう」と思い結局二人ともが取らない、という現象である。

 マッチ売りの少女が「この子このままマッチが売れなかったらどうなるんだろう」ということを想像することは、大人なら誰にでも容易だったはず。物語になるくらいなので、当時の社会問題であったはず。だからクリスマスの夜に薄着で必死にマッチを売るという状態の子が、誰も助けなければどうなるかは明らか。

 そう、ダレモタスケナケレバ。皆が平然とマッチ売りの少女をやりすごせたのは、死ねとか思ったわけでも残酷だったわけでもなくー



●誰かが助けるんじゃないか。



 そういう、他力本願である。別の角度から見れば、責任回避である。

 そりゃ誰かは助けないといけないけど、それが自分じゃなくたっていいだろう?

 皆、心の中で「さすがに誰か助けるだろう」と自分に言い訳して通り過ぎた。ただ、面倒事が嫌なのだ。そこに「まぁ死ぬまではいかないだろ」という楽観論も、困っている人を見過ごすのに拍車をかける。

 さすがに、死にそうになったらどこかの家のドアでも叩いて、必死に助けを求めるだろ。そうしたら、誰かしらは情けをかけて死なせるまでのことは起きないだろ。

 だから、そう考えた人たちは少女の死を知って思ったことだろう。



●なんで、他人の家のドアぶっ叩いてでも助けを求めなかった!

 ちくしょう、死にやがって寝覚めが悪いじゃねぇか!



 彼らは、自分の読み通りにならなかったことにいら立ち、罪悪感を隠すために「なぜもっと生きようとしなかった」と逆に少女を責める。もちろん表立っては言わない。心の中でだ。

 筆者としては、このタイプの人間のほうがまだ救いようがあると考える。死体発見時に「まぁ、かわいそうに!」などと善人ヅラをして言ってのけられるやつのほうが人として絶望的だ。

 今述べたような「自分が助けようとしなかったくせに、逆に最大限に生きる努力をしなかった少女を責める」という心理は、現代では『自己責任論』という立派な名がついている。

 それは、恵まれた立場にある側が、そうでない人間を面倒だからという理由で助けないことへの「巧妙な根拠」として発明された概念である。現代の自己責任論者の手にかかれば、マッチ売りの少女の死は自業自得である。さっき述べたように、本当に飢えと寒さで死んでしまう前に、残った体力でどこかの家の前で叫んだり「死にそうです。何でもいいから食べさせて」「馬小屋でも納屋でもいいから雪と風をしのがせて」と会う人に手あたり次第言えばいいのだ。もしそう言われたら、人は冷たい人ばかりでもないので10人目くらいには「ちょっと情けをかけてあげようか」という人もいるだろう。

 そうできたはず、という話を本人の置かれた状況や事情など考慮せず「それをしなかった」ことを、責任を果たしていないと責める。するべきことをしていないのは「甘えである」と言うのだ。



 絶対忘れてはいけないが、マッチ売りの少女には自殺願望があったわけではない。生活は辛かったろうが、本文のどこにも「生きてるのが辛いので死ぬことを考えていた」とは書かれていないし、におわされてもいない。

 死ぬしかない状況になったから、どうせ死ぬなら幸せな気分で死にたいと魂のどこかで思った少女が、おばあちゃんと天に昇った。別にもとから「おばあちゃんと死にたかった」のではなく、不本意ながら死に行き着いてしまった少女の、せめて最後を幸せな気分でいたいという苦肉の策だった。

 世には、死にたいと自殺する人がいる。自殺者が多いことも問題だが、こうした「生きたいと思っているのに、生きられなくなる」者がでることも、人類は恥ずかしいと思うべきだ。何が高度な宇宙人との邂逅だ。今のまま会っても恥ずかしいだけだと思うぞ。



 私たちは、日々色んな問題を目にして生きている。

 しかし、そのすべては自分が関わっているのでもないなら、何でもないことかのようにすぐ忘れさられ、日常に埋没していく。

 自分には関係がない。これだけ人が大勢いるんだ。自分じゃなくても誰かがなんとかしてくれるだろ。ってか、自分なんかより余裕のあるやついっぱいいるじゃん。そういうやつがやればいいんだよ。オレがどんなに生活タイヘンか分かってる?

 そうやって、すべての人が「お見合い」し、誰か助けると思っていても誰も助けない、という現実が時々生じる。そして「ああ失敗した」と心のどこかが叫んでも、「そりゃこいつらの自己責任だろう」と整理することで自分の心を守れる。

 筆者は、そんな風に流れていく現代社会での日々に、寂しさを感じる。

 ましてや、「このお話をハッピーエンドに変えてしまう」というのは、現実逃避の最たるものとして唾棄する。ゴミ箱のペールのフタをしたら、確かに中身のゴミは視界から消え「ゴミがなくなった」かのように見えるが、フタの向こうには依然としてゴミは存在する。ただ見えないだけだ。

 だからこの物語は、アンデルセンが伝えた原文ママで味わうべきだ。そして、ただの悲しいお話ではなく「自分という人間がもしかしたら持っているかもしれない残虐性・精神の愚鈍さ」を思い知らせてくれる貴重な教訓物語として読むべきだ。



 あなたは(自戒を込めて筆者も)、自分の知らないところで誰かを殺しているかもしれない。殺意はなくとも、めぐりめぐる因果の糸のもつれの果てに、誰かの不幸や死に関わってるかもしれない。

 それに対してできるせめてものことは、自己責任論を捨てることであり、何事も他人事ではなく自分事として見ることであり、誰かがするだろうではなく「もし誰もしなかったら?」と考えられる者になることである。

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