Q&Aのコーナー第九十八回「なぜ宗教組織の幹部クラスは腐敗しやすいのですか?」

 Q.


 宗教が抱える問題についてお尋ねします。信仰歴の長い人や上層部よりも、末端の人や入りたての人の方が、信仰という面からすると純粋性や情熱において勝っている、という致命的な矛盾があるように思うんのですが、もし当たっているならそれはなぜですか?(もちろん全員がそう、というのではなく傾向として、ということです)そんな中で流されないで、純粋な信仰を保ち続ける方法はありますか?



 A.


 残念ながら、概ね事実ですね。私は実体験をもってそれを味わっています。

 この世界で、一度もった信仰を純粋に信じたその瞬間の基準のまま、一生を走り抜ける人は皆無です。

 キリストさえ、十字架上で神を疑ったんですよ?



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 筆者は、とある新興宗教と既成キリスト教の信者を経験してきて、前者は3年・後者は7年信仰した。私はただの信者ではなくどうにかしてそこで身を立てよう(スタッフとなって給料をもらおう)と思っていたので、運営や一般信者は聞くことができない話し合いの場にも参加ができた。

 そこで分かったのは、数々の裏事情である。キリスト教などは、表向き「お金には執着しない・貧しいものには施せ」という雰囲気である。だって、イエス様が聖書ではっきりとそのように言っているからである。虫がつき・さびがつく地上に宝を積むのではなく、朽ちず尽きることもない天にこそ宝を積め、と。天に積む宝とは何か、私がみなまで言わなくても分かるだろう。



 でも、私たちが生きているのはやっぱり「現実」なんだなぁと思い知らされた。

 教会の建物だって、一度建てたらあと大丈夫、ではない。老朽化し、不具合も出てくる。長年雨風に耐えるのでひびも入り塗装もはげる。雨漏りもする。

 維持費、というのがいるのだ。夏は冷房、冬は暖房が要り、当然冷暖房費がいる。でも、それをじかに信者に請求するわけにはいかない。これこれこういう費用が実はかかりますので、献金はできたら~円以上してくださいね、というわけにもいかない。信者だって貧しい人から余裕のある人までいるが、余裕のある人に多く払え、とも言えない。あくまでも自由であるので、空気を読まない現役社会人が、一回の礼拝で献金千円ということもある。

 露骨に教会の窮状を訴え、もっと皆さん献金を! なんてストレートすぎて言いにくい。教会の幹部は、大小の差こそあれこういう問題で頭を悩ますのである。



 別にキリスト教に限らず、すべからく宗教組織は「運営でありもっと言えば経営」である。これは複数人数が集まってちょっとでもお金が絡むことをするなら逃げることのできないものである。

 運営というものは、営利団体でないなら最低限「現状維持、少なくとも損失(ゼロよりマイナス)を生まない」ことが求められる。たとえばキリスト教であるなら教会の家賃が要り、持ち家でも規模にもよるが固定資産税がかかる。電気ガス水道代は当然かかり、電話があれば電話代に通信費。コピー機なんかあるところはそのリース料(買取でもトナーやメンテナンス料が別途かかる)。それらが節目節目でまちがいなく襲い掛かってくるというのに、収入はというと信者の自由気まぐれ次第なので、安定しないところがしんどいのだ。

 だから、礼拝時や信者同士の交流タイムは穏やかな空気が流れているが、皆が帰ったあとでする運営会員(理事と理事長)たちの会議は一転して殺伐とする。

 もう、一般の会社組織のそれと変わらない。お金の話になると、もうイエス様のイの字も出てこない話し合いになる。



 筆者が自分の教会に愛想を尽かしたのは、見放されたからである。

 私が最初に入った時の牧師は老齢で、問題があって無職だった私に「自分の後に牧師職を継ぎなさい」と言ってくれ、教会のお金で神学校へも行かせてくれた。

 だが、この世界はよくも悪くも思いがけない展開が起きるもので。老齢の牧師引退後、後を継いだのは私ではなく、教会創設時からのメンバーだった古株信者だった。神学校は出てないが、話術には長けていた。

 私のことを買っていたのは老齢の牧師だけで、他の古株信者や理事たちは実は冷ややかな目で私を見ていた、というのを思い知った。要するに理事たちの半数以上が、私が後を継ぐのに反対したのだ。いくら若者は貴重だと言っても、あとから新参で来た若造に、高齢者たちが高い壇の上から説教を垂れられるのが我慢ならなかったのかもしれない。子どもを見守るような気持ちで見てやってくれ、というのがちょっと無理だったようだ。

 その後、私は牧師にこそなれなかったが、伝道師という肩書でスタッフとして雇ってくれた(月十万で社会保障なし)。いつかはきっと、という思いで奉仕し続けたが、結局いくら待ってもこの理事たちの目の黒いうちには家も提供されず牧師にもしてもらえず給料も上がらない、ということが分かってしまった。

 かくして筆者は、キリスト教以外の所に活路を見出そうかという気分になっていた矢先、スピリチュアルというジャンルに開眼し、賢者テラとなっていった。



 別に、貧乏な組織だけがお金に汚い(あるいはケチ)なのではない。お金が潤沢にあればあったで、それはまた別の問題を生む。先ほど、教会だとこういうお金がかかる、という話をしたが、あれは「宗教法人」を取れているかどうかということで変わってくる。取れていると土地建物・収入にかかる税金が違っては来るが、そこではまたお金があるが故の醜い人間模様が顔を出すことになる。

 結局、宗教で言っている他を愛せ与えよ困っている人を助け施せ、という愛の教えと、組織運営していく上で従わないといけない原理とが相容れないからである。そこに矛盾が生じるのだ。

 毎週礼拝や信者交流の会合にだけ出ていればよい一般信者には、人間関係上のトラブルを除けばそう信仰腐敗の問題は起きない。だが、運営という裏を知る幹部クラスは、気を付けないとだんだんズレてくる。危機感があるうちはまだいい。でも慣れとは怖いもので、信仰と運営は別、という割り切りができるようになってしまう。

 ここで、宗教幹部(トップ)が腐敗する理由を整理してみよう。



●宗教上の教えと、組織運営の原理とが相容れないため、両立させていこうとすると早晩自己矛盾という壁に行き当たる。そうなると対処法は三つしかない。



①信仰を捨てる

②信仰は捨てないが、幹部の地位を捨てる。ヒラ信者のまま生きる。

③割り切って生きる。もうそこは考えないようにし、礼拝時は信者脳・運営のことを考えるときは商売人脳に、器用に切り替える。



●組織である以上逃げられないのが、「派閥」。結局はどの組織も人間関係がキーになり、好き嫌いというものが露骨に出る。

 いくらイエスやブッダが素晴らしくとも、運営の場では無力なのだ。結局はカネであり、人間関係上の利害の一致である。



●宗教というものは、時代・場所・人種などあらゆる制約事を越えて普遍的に当てはまる「真理」を提供しているとされる。

 しかし、諸行無常なこの世界においては、そんなものは存在し得ない。移ろいゆくその一瞬一瞬にしか真実はなく、生ものなため次の瞬間には賞味期限切れとなる。状況が変わればその場でのベストな答えもまた変わる。

 こんな世界で唯一・絶対な真理だとして教義を信仰するので、うまくいくはずがない。早く限界を迎えた者からやめていくか、またはマンネリ信仰を惰性で続ける。

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