頼れるものがないからこその強さ

『ドクターX ~外科医・大門未知子~』のシリーズが好きで、筆者はよく見ていた。主人公が水戸黄門よろしく最後に手術を成功させる様はスカッとしていいが、大学病院内の力関係における忖度や心にもない出世のためのお世辞(ごますり)合戦や一流鉄板焼店での接待競争などのシーンは、見ていてウンザリする。



 内科と外科の対立が、毎度のように描かれるのだが、その二派閥のトップである「内科部長」と「外科部長」の二人がかわるがわる失態を犯し、そのたびに相手から「それみたことか」ヅラをされ、ニヤニヤされる。そこへ西田敏行演じる蛭間病院長も加わり、病院の評判の上がり下がりにジェットコースターのように振り回される彼らを見ていると——



●利益損得のマネーゲームに一喜一憂する人たちの展覧会



 さながら、そのようなドラマである。

 人がこのドラマに惹かれる一因は、そのように地位やオカネのために右往左往する人、生きるためには意に染まないことでもしないといけない人々と、大門未知子のように、食いっぱぐれないスキルさえあれば、あとは人間関係も気に病まずやりたいようにやって生きれる人の『対比』にある。

 大門未知子のように生きるのは、現実にはほぼムリ。でも、ドラマだと分かっていてもやはり爽快に(したくないことは)いたしませ~んと言えてしまう彼女を見て、束の間夢の世界で溜飲を下げるのだ。



 過労死、汚職、いじめにリストラなんでもありの大人社会。

 人間性を、魂を悪魔に売るようなことをしてでも、我が家族のためには生き残ろうとする。そんな世界に嫌気がさし、ふと「生きるってなんだろう」と考える人も出てくる。昨今の宗教・スピリチュアルブームは、そこが入り口になっている。

 この目に見える世界に、本当に頼れるもの、確かなもの、変わらないものがないので。目に見えない世界にこそ、本当に頼れるもの、確かなもの、変わらないものがあると希望をもったのだ。

 目に見える世界ではなく、目に見えない世界に目を向けることで、辛い現実を乗り越える力としようと考えるのである。

 宗教では「神」や、その教えの内容である「教義」。スピリチュアルでは、宇宙の法則的・原理的な内容を含むメッセージ。あるいは「真実の愛」「ゆるし」といった、理想的な意識状態。



 有形なお金や物質的な幸せなど、いつ何時何があって失うか分からない。

 そんなものを幸せの拠り所にしていると、調子のいいうちはいいがいつ状況が変化するか分からない。そこで、現実がどうかに関わらず幸せで在り続けることのできる根拠を、外の干渉の及ばない「精神世界」に求めた。そこなら、誰も邪魔しない。

 また、神や神への信仰、自分の意識の在り方なども、外側(他人)がどうこうに関係なく守れる。

 でも、次の段階もあるのをご存知だろうか?



●その、目に見えない世界においてでさえ確かなもの、不変(普遍)なものというのが実はない! という絶望。



 折角、現実で十分苦しんで、宗教やスピリチュアルに救いを求めたのに。そして、最初の頃は楽しかったし、実際助かりもしたし幸せにもなったと思ったのに。

 時間の経過が教えてくれるのは、そういう精神世界さえも「諸行無常」であるということ。

 真面目で不器用な人ほど結構早いうちにやめることになる。そういうものに限界があることに気付くのが早めだ。ただ、その真面目さが「始めた手前、プライドのゆえになかなかやめると言いだせない」という方面で発揮されると、ズルズルと居続けてしまい、心身の健康を崩す。

 特定の宗教やスピリチュアルを20年30年、あるいは一生やってられるのは、次のような人種。



①水が魚に合っているように、その道に生きるために生まれてきたような宗教的・本質的思考に長けた人物。



②器用に生きれる分真面目な人ほどの求道心がなく、深刻さも悲壮感もない分深まらないが、誤魔化し誤魔化しその世界でうまく立ち回り、楽しく生きれはする人種。



 要するに両極端。突き抜けて極めるか、それかテキトーに妥協するか。そのどっちかをしないと、長年属することは苦痛となるはずである。

 その両者のグレーゾーンに分布する人たちは、間違いなく遅かれ早かれその宗教やスピリチュアルを手放す時が来る。だから、極めるか妥協しつつ居場所を作るかのどちらかにできる一途さや器用さがないなら、最初からやらないほうがいい。もちろん、人生に失敗は必要、それもまた学びだと言うなら構わない。

 


●筆者が宗教もスピリチュアルも時間をかけて探求し、神秘体験を経て得たもの。

 それは、絶対不変(普遍)は存在するが、それは生きているうちには手が届かないこと。

 この世界では、有形物質界はもちろん変化し続け変わらないものがない世界だが、皆さんが「変わらないものがある」と思っている精神的無形世界においてさえ、確かなものなどない、ということ。



 これはね、もう絶望ですよ。(笑)

 現実世界に何も確かなものがない、と知って目に見えない精神世界に、確かなものを求めた。でもせっかく逃げ込んだその先も、結局は物質世界と変わらない世界だった。結局、そこにも何ら頼って確かなものはなかった——。

 誤魔化し誤魔化し宗教やスピリチュアルで生きる方向性に行けなかった人は、そこに気付く。だから、そこへ行きついた人は、何らかの宗教集団やスピリチュアル指導者の取り巻きに属したりしない。分かりやすく、スピリチュアル関連の公的組織に属して、群れていない。かといって、私生活でスピ本やスピグッズを個人的に使っていることもなく、普通。

 ただ言えるのは、その人の心の中に「スピリチュアル本」があり、それに従えば何も他に要らない。



 結局、原点回帰になる。

 家出して、さんざん旅して傷付いて、結局気が付いたら我が家我が故郷へ帰る。円周上のある一点から一方向へ進むと、裏から同じ点に戻ってくるように。

 最初「外に求め」、次 「内に求め——

 結局、「外にも内にも何もない」が分かる。見えるものにせよ見えないものにせよ、絶対確実に頼れるものなんて何もない。

 ヘンな話だが、頼れるものがない、と分かると逆に説明のつかない落ち着きが生まれる。絶望して取り乱すのではなく、「確かなものはなぁんにもない」という気付きが、なぜか人を強くする。強くする、というより自然体になる、と表現してもいいだろうか。



 宗教の中心は「絶対的に頼れる何かを見出す」ことだが、究極には本当に何もない。自分をいつでも支え守ってくれるものなど何もない、を知ることになる。

 よく、宇宙が(笑えるものではワンネスがとか)あなたを守っているとか、愛しているとかいう話を聞くが、鵜呑みにされない方がいい。まぁ、別にいいけど。

 それは、あなたにまだ大した問題も起きていないから、「愛されている」と思えるだけだ。人生で何が起きても、自分の好都合・不都合に関係なく「愛されている」と思える人がいるなら、その人は特定のスピリチュアルの実践者であるはずがない。とっくにそこを「超えている」次元の人だから。



 筆者は、何も頼りにしていない。

 それだけ言うと語弊が大いにある。何にも感謝してない、という意味ではない。

 人に頼らず生きている、ということでもない。そりゃムリだ。ただ精神的に、何かに期待したりよりかかったり、ということがないだけだ。

 自分が神なので、自分を頼りにしているというのとも違う。要は、道にある石ころと同じ。自分も世界もただ在り、そうであるしかないという境地。

 現実、自分はこういう人間でこの場所でこんな風に生きている、という役割を引き受け演じてはいるが、それも結局目の前を通り過ぎる幻影である、という冷めた自覚。石ころと違い感情も思考もあるため、まったくフラットな境地とはいかない。

 でも、それは私の意識の表層を撫でるのみ。海は海面付近こそ風で荒れるが、海底はさほど動かず、静かなのと同じ。私は、そこを自然に見ている。



●最初の段階。

 ドクターXを見て、派閥争いのシーンを「醜い」と思う。

 次の段階。

 この世界での分かりやすい「幸せ」を追うことの限界を知り、宗教やスピリチュアルに。

 次の段階。

 やってもやっても、結局「自分も周囲もそう変わらない」ことに気付く。やりながら、自分も他人も「なにかしら誤魔化して生きている」ことにイヤでも気付く。

 次の段階。

 何かのきっかけを待ち構えて、体裁のいいタイミングでやめる。現実世界に精神世界、エネルギーを注いで結局同じことなら、足を付けて生きている「現実」の方に注力したほうが生きやすいし、生活にも役立つと分かる。

 内的にはかつてと同じではないが、生活上はフツー人に戻る。



 そこで、改めてドクターXを見ると——

 あの醜い争いを繰り広げていた内科部長と外科部長が、かわいく思える。

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