口臭

『口臭』に関する問題は、多くの人が多少は考えたり、気にした経験があるはずだ。

 ニオイの元となっている本人は、無自覚な場合が多い。イケメンが必殺の『壁ドン』をしても、口臭が漂ったら台無しである。本人に自信があったのに口説くのを失敗し続けたら、「なんで?」は本人ばかりなり。

 これは結構バカにできない問題で、肝心のビジネスシーンでも「商談がまとまらなかった」「なかなか出世できない」などの二次災害(?)が起きる場合がある。



 これは体臭と同じようにデリケートなお話で、和を尊しとするあまり、他人に嫌われたくない人たち、言い換えれば「他人に少なくとも嫌なことを指摘する役回りをしたくない」人が多いので、なかなか他人に指摘しない、ということも起きる。そして本人の知らないところで、勝手に嫌われていくのだ。

 これでは、指摘されて一時嫌な思いはするが、それでも口臭を抑える努力をして周囲との関係が改善されることと比べて、どちらが幸せだろうか? という話になる。



 スピリチュアル(自己啓発)的な考え方のひとつに、「問題を問題と捉えなければ、問題ではなくなる」という話がある。

 これを、真理とするのは非常に危険である。

 上記の考えはどんな時にでも万民に当てはまる話ではなく、「色々とクヨクヨ気にしすぎ、ビクビク生きている人に対して、これくらい言っておいたほうが療法としては効果的、という方便のため」のものである。要するに、何でも問題として神経質に考え過ぎる人を、ラクにしてあげるためのメッセージ。

 問題を問題として考えないと、それはいつかあなたを分かりやすい形で襲う。

 あなたが「意識しない」だけで、問題として真剣に考えるべき問題が世界にはいっぱいある。



「問題を問題と考えない」ことで幸せになるケースは、確かにある。

「取り越し苦労」である場合がひとつ。

 例えば、その人が勝手に「自分はこうなのではないか、皆自分のことを~だと思っているんじゃないだろうか?」と、疑心暗鬼になっているとする。

 でも実際、周りの人は誰もそんなこと思ってもいない。ただ、本人ばかりが勝手に、被害妄想的に「自分はこう思われているはずだ!」と思い込んでいるだけ。

 この場合は、本人さえその思い込みを外せば、すべてが万事丸く収まる。



 しかし「口臭」の場合は、お話の次元が違う。

 本人が気にしさえせずハッピーな気分でいたら皆幸せか、というとそうでもない。本人は気にせずハッピーでも、被害者は周りの人たちである。

 ゆえに、「問題を問題としない」という考え方は、他人が現実に「あなたを問題だと思っている」場合には有効に働かない、ということだ。

 それどころか、周囲の反応に鈍感でいると、あなたは周囲の「ハッキリ言わないけれど、何か含みを持たせた反応」に首を傾げるようになる。それすら気付かないレベルの人は、他人の我慢が臨界点にきて爆発する時を迎えるまでは、幸せいられるだろうが。



 これまでに、大きな地震が幾つか日本を襲っている。

 ちょっと嫌な言い方をするかも知れないが、災害地域に住んでいて被害に遭った人は、そういう運命が襲ってしかるべき人たちであったからか? その地域には飛びぬけて悪人が多い、というわけもなかろう。

 今まで被災したことがない、という人はそれだけスピリチュアル的にクリーン?

 いや、正直な話被災された人の中に、筆者などよりも「いい人」は沢山いる。逆に、被災してない人間の中に悪いヤツがいたりする。この世界では、いなくなったほうがいい、と他者に思われるような人物がしぶとく、慕われ好かれるような人物が惜しまれながら早逝したりする。



●この世界は、スピリチュアル畑の住人が「シンプルだ」と言うほどには、シンプルでもない。

 あなたの意識の在り方と関係なく、外の世界で勝手に進行する事態がある。それに無自覚であることでは、問題を避けたことにならない。なんでもかんでも、あなたが幸せな気分でいさえすれば解決、などということはない。



 イメージ的に、宇宙の中心であるあなたが、人生の主人公であるあなたが「よい気分」でいることを保ちさえすれば、あなたが原因者となって生んでいるその世界は、あなたの意識と連動していてつられて「良くなる」「良いことが起こってくる」と考える。これが、スピリチュアル的に蔓延している発想なのだろう。

 筆者も活動初期の時代、そのような論調で語っていたが、今は多少落ち着いた。



 あなたが宇宙の王となって作っているのは、外の現実そのものではない。

 その世界が「どう見えるか」をコントロールしているだけである。

 ただし、そのことだけでもなかなかの効果があり、あなた個人の幸せを作り出すには十分なことも多い。だがそれが大勢の他を巻きこんだ「日本の平和」や「世界の平和」という次元の話なると、あなたの意識はただの「一票」に過ぎず、他者・あるいは他集団の思惑に大きく左右される。

 そうなのだ。すべてはあなたが作りだしている、というのは、あなたが世界を見る「メガネ」「コンタクトレンズ」 のことだ。ある解釈を世界に施す、ということは「あなたが世界を作り上げている」と表現しても、あながち的外れでもない。

 でも、「あなたが世界を生みだしている」という言い方では、道路や目の前の人間の体を構成している原子分子からあなたが全部組み立てているようなイメージを持ってしまうだろう。実は、ものすごく究極次元の視点だとそれは間違っていない。

 でも、この現実でゲーム人生を生きる上で、それはかえって邪魔な知識である。その知識の価値が一番引き出される形で生かせる人は、そう多くない。



●外側に何か問題はないか、と恐れおののきながら生きなくていいとは思う。行き過ぎたら、自分一人だけが問題だと思い込み独り相撲を取ることになるのだから。

 それを避けるための、「問題を問題としない」なのだ。

 他者を観察して、その反応に違和感を感じたら「あなたに問題がある」可能性を疑え。そして、解決を図るのだ。



 口臭の場合は、他者からハッキリ言われるまでに気付ける方法は、会話中の他人の表情の微妙なところまで観察することである。または、世間に溢れている「口臭、大丈夫ですか?」というCMをはじめとするメディアの情報に触れた時に、謙虚に「もしかしたら自分も?」と思うこと。

 医者に行けば、「口臭の度合いを測る器具」もある。それで客観的に分かる。そこまでしなくても、歯磨きを徹底するとか、ブレスケアをここぞというタイミングでは使うとか。

 舌苔を取る、という手もよく言われるが、これは取る道具によってはかえって舌の味覚を感じる機能部分を痛めてしまうことがある、と頼り過ぎに警鐘を鳴らす情報もある。

 とにかく、面倒がらず情報をキャッチし、改善していくというプロセスが大事なのである。



 テレビゲームとは、言い換えると「問題を解決する」ことである。

 つまりは、ゲーマーという人種はわざわざやらなくていい問題に取り組み、一生懸命夢中になって解決を図ろうとしている人種なのである。ある意味、酔狂な人たちである。

 この世で生きる人生ゲームこそ、分離のない「ひとつ」による酔狂な「分離ゲーム」なのだ。自他という面倒な認識システムを構築し、無限のパターンをもつゲームに興じ始めた。

 だから、問題は問題として捉え、解決するべきである。

 ただその場合重要なのは、「あなたの思いの世界だけの問題なのか」「他にも影響を与えたり迷惑をかける範囲なのか」によって、その先が変わってくる。

 どうもあなただけなら、まさに「問題を問題視することをやめる」ことで幸せになる。しかし、口臭のようなケースならちゃんと向き合う必要がある。

 いや、問題と気付かないで他者の反応も一切気にしないで、死ぬまで気分よく生きれたぜ! なんて人生が仮にあったとしても、私はそれを偉いとは思わない。

 他との「おかげ様」な関係なくして生きられないこの世界において、「問題と認識しなければいい」という姿勢は、人として下の下である。

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