正論を言う覚悟
以前、元陸上選手の為末選手のある発言に対して批判が殺到し、炎上したことがあった。
「努力すれば成功する、は間違っている」というのが、その問題の発言である。
某アイドルが言った「あきらめなければ、夢はかなう」というのと、ちょうど反対ですな。細かくは、次のような内容である。
「やればできると言うがそれは成功者の言い分であり、例えばアスリートとして成功するためにはアスリート向きの体で生まれたかどうかが99%重要なことだ」。
これに対する、批判の内容が面白い。これをはなから「間違っている」と言う人が少ないことだ。じゃあ、間違ってないのになぜ攻撃されるのか?
それはいわゆる「感情論」のせいである。
●批判している人たちの多くは為末さんの意見が「正論」であることは分かっているようなのだが、日本のトップアスリートがそれを言ってしまうのは身も蓋もないことだし夢も希望もない、現在努力し頑張っている人に失礼だ、ということで怒っているようなのだ。また、「世の中は公平で理不尽ではない」と信じている人もいて、そうした様々な思いが「炎上」につながっている。
(以上、ニュース記事より引用)
これを受けて、為末氏は自身の言葉の意図をもう少し突っ込んで説明している。
何でもかんでもあきらめろ、と夢を持つ者を絶望させるために言ったわけではない。もちろん、夢をもって努力していい。
ただし、いくら身もふたもなかろうが、人生のどこかで自分を客観視しなければならない瞬間は訪れる。「本当に、このままでいいのか?」という。
その時に、この事実を受け入れているかどうかで明暗が分かれる。
努力至上主義、「あきらめなければ不可能はない」みたいな考えだと、今の結果は自分の単なる至らなさということになり、より自分を追いこみ責める。
人間の能力の素晴らしさは、何もひとつに限定されない。あなたの自我が「この分野だ」と決めたのかもしれないが、絶対にそれでないといけない、これしかないと決めてるのは当人のみである。他の誰でもない、彼自身が自分にゆるしを出せば、解決するのである。
「これまでよく頑張ったね。もう十分だよ。」
それは、あきらめとか楽な道では決してない。
それを自分に言ってあげる勇気がなくてしがみつき、さらに頑張ってしまう。これは、一見夢をあきらめない素敵な行為のように見えはするが、実際は勇気なき者の空元気である。
……と、かなり筆者自身の言葉が入った説明になったが、為末氏のメッセージのキモはここにある。
要するに、言ってることが正しいか間違っているか、よりも「感情的に受け入れがたい」という問題なのである。多くの人は、実は「皆がイチロー選手みたいになれるわけではない」ことくらい、頭のどこかでは分かっているし認めてもいる。だけど、男はつらいよの寅さんじゃないが——
『それを言っちゃあおしめえよ!』
つまり、ホントのところを皆で口にしないことで「生きていける」部分があるわけである。そのいい例が、子どもの学校教育である。
学校ではたくさんの道徳的きれいごとを教えられるが、世に出たらほぼ役に立たない。役に立たたないけど、だからといって身もふたもない話を子どもの時から吹き込むわけにもいかない。最初は子どもたちには夢と希望をもってほしい。
だから、一種の確信犯である。良かれと思って、実際は守られていない素敵な言葉を伝えるのだ。
結局、この為末発言騒動を見て筆者が思うことは何か。
●どっちもどっち。
批判する方は、子どもみたいである。こうあるべきだ、あああるべきだと要求する批判はものをねだる幼児の姿そのものである。
(指導者なら夢を与えろよ、みたいな)
言う方も、たとえ正しくてもTPOを考える。
そこを間違うと、いいことを言っても評価されないどころか、攻撃を食らう。
イエス・キリストがひとつの例である。
彼は、生涯を通してほぼ 「明らかに間違ったこと」は言わなかった。いわゆる「正論」と呼ばれるものだけを口にした。
犯罪など犯してもいない。なのに、処刑されてしまった。
要因は複雑で一口には言えないものの、「正論を吐く場所とタイミングと相手を間違った」ことが挙げられる。だから、幼い相手を無意味に怒らせ、その幼いやつがたまたま金持ちだったり権力者だったりした、という間の悪いことが重なったのだ。
ある有名人が、為末氏のこの騒動にこんなコメントをしていた。
●為末氏の言っていることは、意識レベルが高く深淵で、的確なところを突いている。だがそれだけに、これは伝える相手を選ぶ。
不特定多数に発信してしまっては、当然それを受け入れる準備と度量のない者は反発もする。このような内容は、ツィッターという媒介でするべきではない。ツィッターを扱っている意識レベルでは、炎上は必至でしょう。
これはもっと、場所を変えて丁寧に論じられなければならない、慎重な話。その点で、為末氏は配慮不足であった。
そう、今日紹介した発言はツィッターなどでなされたもの。
そりゃ、より大勢の人に伝わる利点はあるが、人が多いということはそれだけ色んなタイプの 「人種」 がいると考えてよい。皆いい子ちゃんなわけない。クラスのひとりかふたり反抗的な生徒がいるとすれば、それを日本国民全体規模にすれば何人になるか?
大規模なコミュニケーション媒体に言葉を載せるということは、あえて「あなたの言葉に反感を持つだろう相手にも届く」「豚に真珠で、せっかくの知恵の言葉も価値を分からない人には噛みつかれる」ということ。そうなることを避けたくてもそうはいかないのが ネットでの「発信」という行為。
だからSNSやブログで、ただの日記的文章ではない思想信条や精神世界的メッセージを発信することは、本来覚悟のいることである。なのに、気軽にホイホイやる人の多さよ!
過去の「熊本地震」を巡っても、そのあたりの人間の幼さが浮き彫りになっている。もっとやるべき支援や意識を向けるべきことがあるのに、対岸の火事のヒマ人たちは人の発信の余計な「揚げ足」を取る。
芸能人の井上晴美さんが、被災しての苦悩をブログで吐露したら「愚痴りたいのはお前だけじゃない」「有名人はいいよな、みんな慰めてくれるしな」などなど様々に言われ、耐えられないとブログ閉鎖を報告。
こうした、大きな事件を通して明るみにでる「膿み」を、我々が目を背けずどう処理していくか、が問われている。結局、キリスト処刑の歴史的事件も、大災害時のゴタゴタも、すべての諸問題の根源は「感情をどう扱うか」にある。
●感情の主人としてのあなたが幼いと、世界を混乱させ正論を伝える者を攻撃する側に回る。
たとえあなたが成熟した視点を持っていても、言う相手・言い方やタイミングひとつで要らぬ火の粉が降りかかる場合がある。
その危険が理解できていて、それでもあえてやるのが「お役目」としてのメッセンジャーである。イエスも多分、どこかで覚悟はしてのことだったはず。
筆者も、こんな調子の本書だけに、何があっても仕方なし、とは思っている。
まぁ、正論を伝え続ける者には厳しい時代となりました。
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