旅の仲間

『南総里見八犬伝』は、江戸時代後期に滝沢馬琴によって書かれた長編小説。

 28年かかって書かれ、全98巻、106冊の大作である。

 あまりにも偉大なこのお化け作品はその後も日本文学界の乗り越えるべき壁として君臨し続け、現代に至っても漫画、アニメ、映画などの題材として用いられている。

 ちなみに本書の名前は、それをもじって付けられたものである。



 安房国里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士) が主人公。

 共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉を持ち、牡丹の形の痣を身体のどこかに持っている。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。



 よく、「運命の人」という言い方をする。

 この人とは、運命の赤い糸で結ばれていた。出会うべくして出会った。

 瀬川瑛子の歌ではないが、「生まれる~前からぁあ~♪」という概念。スピリチュアルでも、そういう概念はもてはやされる。

 ソウルメイト(ホームメイト?)とかツインソウルとかツインレイとか……結構細かく分類があるらしいが、何だかそういうのが決まっているらしい。

 世界のどこかにいる、まだ出会ってないけどどこかにいるその人と出会えることを夢見る。で、そのことを励みにして日常を生きる——。



 筆者個人としては、そういう概念を信奉して、期待して生きることもひとつだと思う。確かに、胸キュンな話だしね! 世界のどこかにいる運命の人と出会える日を今か今かと待つのも。

 でも、私にはどうでもいい。むしろ、分からない時点で「どこかに決まった誰かさんがいる」という考えを持っておくことは嫌いだ。で、出会えたら「ああ、あなただったのね!」というのも、個人的に気持ち悪い。



●何も決まってなどいなかった。

 ただ、この次元の特徴である「時間」と「因果」の作用で『今』その人との出会いが起き、新たな展開が生まれたのだ。

 それがもともと決まっていたのではない。



 ヘンなことを言っているのは、百も承知である。筆者がブログで言ってきたのは「起きることはすべて決まっている」であるから。

 でもそれは、ゲームを超えた外の、身もふたもない次元の話。我々はまさに、ゲーム内の画面の中に居る。

 だから、外のコントローラーの入力通りに動いている、ということは知らなくてもいい。理解できなくて当たり前。むしろ、ゲームの世界観に浸り、何も決まっていない中、まだ起きていない未来は「切り開ける」と信じて、人生プレイを楽しむことが推奨される。

 人間が、「運命の人」という発想にメロメロに弱いのは知っている。でも、そういうのがどっかにいて、あとは出会うだけだという考えは、ゲームの楽しさが半減する。むしろ——



●自分で選べる。

 自分が世界を探求し、冒険し、乗り出していったその先で出会いがあった。人生が変わった。

 それは、決まっていた人にあなたが引き合わされたのではない。あなたが、自分の足で動き、その先でその人をその瞬間に「仲間」としたのだ。



 今日私が言っているのは、『逆トレーニング』である。

 皆、スピリチュアル的な概念に浸かり過ぎている。当たっているのだが、この次元の幻想ゲームでは「それを考え過ぎたら余計」という知識も多い。だから、スピリチュアルというのは時に有り難くもあり、時に迷惑でもある。

 筆者は、今の嫁さんとかなり遅い結婚をした。考えてみたら、私が中学生・高校生の時も、嫁さんは山口百恵の歌ではないが「日本のどこかに」いたわけだ。息をしていたわけだ。将来私と結婚するとも知らずに!

 そういう風に、時間の流れを直線として、時系列に並べて俯瞰したら、「運命の出会い」「起きるべくして起きた流れ」という解釈が起きてしまうし、実際のところそれはあながち的外れでもない。

 的外れじゃない、ということころが厄介なのだ。



●真実であれば、何でも良いものなのか、というとそうでもない。



 非二元をはじめ、悟り系の話題で語られるような、次元を超えた理屈の多くは、大多数の人にとっては役に立たない。むしろ余計ですらある。

 ちゃんとした認識を持つならいいが、もっとも誤解されやすく捉え違いの起きやすいのが、その手の知識や情報である。捉え方のズレ加減によっては「知らない方がマシだった」というケースもある。



 ゲームも映画も小説も、先が分からないから良い。ページをめくり、画面を追う楽しみがある。

 分かっていたら、楽しくないとまでは言わない。好きな本を何度も読むように、分かっていても楽しい、ということはある。でも、程度の差で言うと、やはり「先が読めない」ほうが何倍も楽しい。ドキドキがある。

 私は、生まれる前から嫁さんと出会うことが決まっていて、だからその前にした彼女つくろう、結婚しようとした努力が失敗するのは当たり前だった。だって、それが成功しちゃったら、今の嫁さんと出会えてないもの!

 その考え方を、筆者は今では捨てている。



●今の嫁と出会うのが決まっていたから、それまでどんなに頑張ってもダメだった?

 そんなの、正しくてもワクワクしない。「何だか違う、それじゃない」 感がある。それを認めてしまったら、この世ゲームの魅力が薄れる。

 そんな考えはイヤ! その時だって相手が好きで、全力で真剣だったの! 

 過去にフラれたのは、ただフラれただけ。その時点では決まっていたこと、なんかじゃない。

 


 今日は、スピリチュアル的には的外れな、それでいてこの世ゲームを謳歌するには「優等生的・模範的」な姿勢の紹介である。私は、聞かれたら「起きることは決まっておる」と言うが、私自身はそれを生きていない。(笑)だって、人間やっているんだもの!

 ゲームの中にいるので、出会いはこれから作るもの、と考えていいのだ。「決まった人が用意されていて、どこかで息をしていて、これから出会いに行くのだ」はロマンチックだが、どこか怠け者の考え方だ。



●運命に誰かを用意などされるな!

 己でつくれ! あなたがこれと思った人物を、その瞬間に初めて「仲間」とするのだ。決まっていたんじゃない! あなたが「決めた」のだ!



 私は、確かにすべてには流れがあり、宇宙に青写真があることを実は知っている。

 何を言おうが、自分ですると言おうが、その自由意思の選択自体が大いなるものに絡め取られていることを感じている。でも、だからなんだ。だからこそ、なんだ。

 この世界では、自分という個が切り開く未来という「夢」を信じれるからこそ、放棄していたいんだ。すべてが決まっている、という考えを。間違っているということではなく、「どうでもいい」と。



 嫁さんとの結婚は、「私が」最終的には選んだ。決められていてただ起きたのではない。私の「決断」というものが、夢の世界だろうがここの世界で確かに「あった」のだ。そこを、一番大切にしたいのだ。

 何でもかんでも宇宙のシステムを暴こうとするスピリチュアルは、時に親切すぎて人によっては知らない方がいいことまで吹き込む。この夢の世界を最大限満喫するためには、「起きることが決まっている」を忘れるがよい。

 ただひとつ注意点は、「それで傲慢になるくらいなら、起きることが決まっていると知って謙虚になれ」である。人は、調子よく行き過ぎると、傲慢になる。そうならない範囲で、「自由意思」と個が成せる可能性を追求してほしいのだ。

 


 八犬伝の八犬士たちも、出会った瞬間に「目と目で通じ合う~(工藤静香?)」 という風に都合よくはいかなかった。「孝」の玉を持つ信乃と「信」の玉をもつ現八の二人など、最初出会った時にはお互いに敵同士として、殺し合いさえしたのだ。

 そう考えると、面白い。

 今嫌いな相手、絶対に仲間なんかじゃないと思っている相手にも、可能性がある。

 ま、可能性があるとかないとか、ちょっとした楽しみ程度に考えるのはいいが、本気になりすぎるのもどうかな。風の吹くまま気の向くまま。出会ったその時、この人と何かしたい、と思ったその時からすべてが始まる、くらいでいいじゃない。



 その都度その都度、という生き方がいい。

 やっぱり、時間を直線として出来事を並べて分析するのは、学問としてはいいが生きる指針とするにはちょっと面白くない。先は真白なキャンパスで、何も描かれてはいない。だから、あなたが描く。

 この世界では、それでいいじゃないか。旅の仲間は、まだ決まり切っていない。そして出会ったなら、「今」出会ったのだ。

 そして、あなたが仲間だと「決めた」のだ。 

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