学校教育にスピリチュアル?

 某スピリチュアル系ブログのある日の記事で、こういう意見を読んだ。

『もし、学校教育にスピリチュアルが取り入れられたら、今起こっているようないじめを始めとする問題も解決されて、世の中が良くなると思う』という内容だった。

 もちろん、当たり前の話であるがこれはスピリチュアルをやっている側の意見である。その人はスピリチュアルが自分にもたらしてくれた変化・贈り物に感謝をしており、そんな良いものだから皆にもすすめたい、そして皆に幸せになってほしいという一念からの、嘘偽らざる気持ちなのであろう。

 そのことは重々汲み取ったその上で、筆者はそれにはちょっと異論を唱える。



●今の時代、公の教育にスピリチュアル(精神世界)を取り入れることは時期尚早である。というか、ここまで言うと個人の思いであるが「必要ない」と思う。



 現在の義務教科で取り入れられている科目を考えてみてほしい。

 そのほとんどに共通するある「要素」がある。言い換えれば、その要素がないと公教育科目にはしにくい、ということでもある。それは——



●誰もが確認可能であり、正解が容易に引き出せる。

 そしてその評価が、評価する個人によって大きく違うことはほぼない。



 数学・科学などは、正解・不正解がはっきり出る。

 これが、一番混乱が少ない。

 まさに、覚えたか覚えていないかが評価の分かれ目であり、そこに曖昧さがない。

 社会全般などは(地理や歴史)、その時代によって内容が変化するが、それでもその更新された情報を覚えさえすれば、問題はない。ただ、ちょっと難しい位置にあるのが国語である。

 国語は、漢字や文法などは、数学や科学と同じで、まったく同じ答えが出る。そこにグレーゾーン評価はない。ただ「主人公の気持ちを答えさせる問題」や「小論文」(小中学生には作文という表現がいいだろう)などは、解答に無限の可能性が存在する世界である。これに関してはどうか。

 答え方は確かに無限にある。しかし、そこにはやはり採点者側の一定の「ふるい」がある。ちょっと、小論文を例に取って、どういうものが良い評価を受けるかを考えてみよう。



①非凡性・創造性(その人らしさ・独自性)

②公共性(危険な思想の萌芽はないか、公共にとって益な、常識的考え方の範疇か)

③建設性(破壊性の反対。世の中を良くしていこうという志向性。希望を語っているか)



 いくら内容が面白くても、著しく考え方が過激だったりしたらアウト。

 理屈が通っており、内容としては常識の範囲ではあっても、読んでいて眠たくなるような上っ面の話はダメだし、最後に「こうしていけばいいと思う」というその人なりのしっかりとした結論(世の中が改善される希望につながる意見)でないと、評価はもらえない。



 ……と、ここまでのひとつの帰結として、学校教育で提供される内容の特徴は『程度の差こそあれ、正解(明らかな正解、あるいはその時代や社会が求める正解)がはっきりしているものが求められている』ということである。

 ここで、少々の異論がでてくることも考えて言っておこう。音楽や体育である。

 音楽は、個人的感性や潜在能力の差で、音楽理論以外ははっきりした答えもなし。実技など、同じ分量の努力をしても個人で差が出、その溝は埋めがたい。

 しかし、ここで気を付けてほしいことがある。

 音楽や体育は、その能力の優劣を競うのが主眼ではない。

 あくまでも、この時代において平均的な幸せ(最低限の文化的生活以上)を享受する上で最低限必要と思われる感性や身体能力のベース(基礎部分)が全員に備わるためのものであり、その基礎からさらに上に積み上がる部分は「任意であり、趣味の問題」である。



 今音楽と体育について言ったことは、本来通常科目(数国理社英)に当てはめてもいいくらいの理屈である。

 本来学校は、いい点を取って成績を誇るための場所ではない。悪い点を取って、自分はダメだと自己嫌悪に落ち込むための場所でもない。

 人間としての文化的生活を送る上で、(その時代にふさわしい物心両面の幸せを味わうための)最低限誰にでも共通に認識必要な情報に関して学ぶ場所である。

 しかし、昨今の学校教育は、教育機関自体がその基本を見失ってきている。

 有名校、三流校の差異。受験戦争、優等生とできの悪い子。必要な「基本ベース」から上に積み上げる部分にやたら注目し、競争に追いこむ。

 キリのないラットレースに、子どもたちは駆り立てられる。

 大人が、そんな回転車をハムスターに強制提供しなくても、ハムスター自身の考えや力で、乗りたければ進んで回転車を利用することだろう。なぜ、そこを信じてやれない。



 基礎部分は、子どもが泣こうが叫ぼうが徹底して教えたらいい。

 しかし、そこから上の部分はうるさく言わないことだ。

 むしろ、その子どもの好きなことをさせるべきだ。

 皆さんは、日常生活で関数や化学式が役に立ったことはありますか?

 学校で習ったことって、ほぼ役に立たない。テレビのクイズで、たまに一般教養の問題が出てきて、年号を知っていたり「あ、それ足利尊氏」とか言えて、少々いい気分になる程度のこと。

 お金の計算ができて、書店で売られている本や新聞の字が読めて意味が分かるなら、実はベースはそれでいい。あとは、その子が科学好きなのか、野球が何より好きなのか、文学に興味があるのかによって個別授業をしたらいい。そういうシステムの構築が期待される。



 さて。長々と寄り道しといて肝心の「精神世界(スピリチュアル)」の件だが——

 これは、学校教育に向かない。授業内容とするには適切ではない。

「誰にとっても一定範囲の混乱が生じない解答が存在し、誰にでも確認可能」

 まずこの条件を満たしていない。もちろん、残念ながら今の時代では、ということである。



●問題:何をもって精神世界(スピリチュアル)と定義するのか?



 広すぎる。そのカバーする範囲が。

 占い、開運、引き寄せ、霊魂の世界、古代文明、数秘、悟り、高次元、宇宙人、非二元。一体、どこにスポットを当てるのか?

「精神世界総論」とかつくるのかい?

 あまりにも、それぞれで言うことがバラバラだ。おそらく、「スピリチュアルが学校で教えられたらいいのに」という発言は、深く考えていない適当な発言と言われても仕方がない。かなりの確率で、この発言者が支持・実践しているその限定的スピリチュアルのことが念頭にあったはず。

 だから、恥ずかしくても正直にこう言い直すべきだ。



●(私の好きな分野・先生の) スピリチュアルが、学校で教えられたらいいのに

 (だって、私が幸せになったんだから、きっとすべての子どもにもいいと思うの)



 ちがぁ~~~~う!

 あなたにはよくても、全員が全員、あなたのように思うとは限らない。

 筆者はこれまで「スピリチュアルは部活動」だと言ってきた。部活動それぞれに優劣はなく、ただ個性。

 その時代時代において話題となったり、脚光を浴びたりして飛びぬけて希望者の多い、人気になる部は出てくるが、それをもってその部が世界で一番「正しい」ということにはならない。

 テニスブームの時のテニス部、Jリーグやワールドカップが盛り上がった時のサッカー部みたいなもので、時代の風潮に左右される部分も多い。マイナーな部活はその部なりに、存在意義がある。受け皿として、やっぱり要るのだ。

 もちろん、その人が好きなスピリチュアルには、間違いなく価値がある。でも、それはその人という独自の人生シナリオにおいて、うまくフィットしたということに過ぎない。

 


 この話題をややこしくしているのは、発言者が 「スピリチュアルが学校教育に取り入れられればいいのに」というのが、文字通りの広すぎる精神世界そのもののことではなく、その人が関わって知っている範囲のスピリチュアルのことだということ。

 そこを無意識に「スピリチュアル」ってくくりで言ってしまうもんだから、「ちょっとそれはなくね?」となる。

 あなたが人生で一番感動した映画があるとする。

「これ見て! 絶対いいから」と、あなたが友人にDVDを貸してあげたとする。その友人は確かに見たが、あなたが満足するほどの反応が返ってこないこともある。

 そんな時、あなたは憤りますか?「なんでこの良さが分からないかな~?」

 あのぅ、それはしょうがないんだよ。皆、それぞれに感性は独特なんだし……



 スピリチュアルとは、公教育機関で教わるものではない。



●自分で出会い、自分で選択するものである。



 もちろん、筆者だって最初、自分の力で見出したのではなかった。まさに偶然の出会いだったり、出来事の不思議な流れのお陰だっりした。

 でも、だからと言って学校教育にして強制的に出会わせる、というのには違和感を感じる。本当に必要なら、人生シナリオにおいて出会いは生じる。そこに人間視点での過不足はない。

 個としての分離キャラ、すなわち人間はそのゲームプレイにおいて「最低限必要な」キャラの操作方法、ゲームの勝利条件、セーブ・ロードの仕方くらいが分かれば、あとは自分で努力・工夫するもんだ。

 しんどいこともあるが、それが楽しいんじゃないか。生きる醍醐味なんじゃないか。

 もっとゲームが楽になる美味しい情報が載っている「攻略本」などは、その個人が欲しいから独自で手に入れるのだ。ゲームの説明書に最初から攻略本並の情報は載せない。



●その、基本的説明書の役割を果たすのが学校である。

 学校は、その分限を越えて出しゃばってはいけない。

 いくら親切でも、過剰なサービス(押しつけ?)が、子どもをダメにする。



 発想は理解できなくもないが、スピリチュアルを子どもの義務教育に組み込めば良くなる、なんて過剰サービスであり、過保護だ。逆に「一体何をもってスピリチュアルなのか」を巡って、教科書統一の際に絶対に混乱が起きる。

 嫌なことを言うと、「一番人気で、一番陰で実権を持っているスピリチュアルの先生の力で、そのスピリチュアルがきっと精神世界代表みたく採用される」だろう。これはもう、歴史を振り返ってもかなりの確率で起こり得る。まぁ、カネと実力次第ということである。

 


 時代(ステージ)が進めば進んだで、逆にその時代にはスピリチュアルは当たり前な「空気」のようなものになっているかもしれない。内容を言葉で教え込むものではなく、大人がその生き様をもって示すことで、空気感染のように伝わっていく、というような。

 スピリチュアルは、所詮理屈ではなく実践である。その実践は、スピリチュアルを理屈や情報として知らなくてもできることというのが多い。他人を大事にする、仲良くする。自分も大事にする。

 ゆるす、心地よく生きる——。そんなこと、一般的な知識だけでも分かることだ。

「ワンネス」「私はいない」。これを知識的に知っている人が、どれだけ醜い感情に囚われ、日々不幸に生きているか知ってますか? 根源でみなひとつ。そんな知識、知っているだけでは何の役にも立ちません。

 また、先生の質に一般科目以上のバラツキがでるだろう。

 教員免許のようなわけにはいかない。また、誰が責任もって「スピリチュアル教師にふさわしい」と判断する? また、すべての学校に行きわたらせるだけの数の教師を、確保できるのか? 質を決して落とさずに? 

 筆者には、スピリチュアルを学校授業に採用することで起きる「混乱や問題」のほうが現状では多いと考える。

 話が長くなったので、ここらでまとめに入ろう。



①学校教育とは、TVゲームで言えば 「取り扱い説明書」 である。

②それにはゲームを楽しめる最低限必要な説明がなされており、発展的なことは書かれていない。

③それは自分で見つけなさい、ということである。それが、ゲームの醍醐味である。

④なのに、ただのゲームの説明書に、裏技やゲームのすべてのMAPやイベント発生条件に関して書いてあったら? 親切かもしれないが、それはちょっとヘンだ。

⑤だから、スピリチュアルを学校教育に、というのは優しさから言っているのは分かるが、的外れである。それは、個々人が人生の流れの中でつかむべきものである。過保護になっていいことと悪いことというのがある。



 筆者には二人子どもがいるが、自分の発信やスピリチュアル的な信念は聞かれない限り伝えない。押しつけない。

 まったく、そういうスピリチュアル話はしないつもりでいる。

 ただ、その背中から(生き様から)何か汲み取ってもらえれば、とは思う。だから私は、教え込むことではなく「空気感染」に必死である。

 だから、大事なのは教えるという行為そのものより、より自分の足元である。

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