最後まで見たいものを見、聞きたいことを聞く人生

 宮部みゆき原作の「ソロモンの偽証」という小説がある。

 かなりの長編で、映像化(映画化)の際にも前・後編の二作品が必要になった。今回その映画の内容は重要じゃないので、詳しいストーリー紹介は省く。

 映画劇中のセリフで、心に残ったものがある。



●人間って、心の底からの声にフタをすると、見たいものしか見たくなくなり、聞きたいことしか聞こうとしなくなるものだ、ってことがよく分かった。



 今回は、この言葉から色々考えていこう。

 まず、この言葉に対して物言いをひとつつけよう。

 別に心の底からの声に、人間は常に見たいものを見、聞きたいことを聞くものなのであるということ。精神的に良好・健康な状態でも人間はそれしかできない、ということをまず言っておく。

 だから、普段でさえ人間はそうなのだから、本心の叫びやシグナルを無視したり封印したりすれば、なおのこといっそう目立って観察されるようになるし程度が激しくなる、ということである。



 筆者の経験で言うと、その昔ある商品が通信販売で売っているのを欲しくなったことがある。

 当時私は大学生でバイトもしており、もちろん自分の稼ぎで買える。誰に遠慮する必要もない。

 ただ、それが気軽に買えるような安い買い物ではなかったのと、一応親の家に住んでいたしその保護下にまだあるので、親にはそれを買おうと思うと報告した。

 すると、親はそんなものに騙されるな、という。詐欺とまでは言わないが、宣伝文句ほどそれは役に立たないだろう、悪いことは言わないから買うのをやめとけ、と言ってきた。

 私はまだまだ人間として「青かった」ので、こちらを思ってこそ言ってくれているんだろうということはちらっと頭をかすめたが、やはりカチンときた。

 今から思えばその腹立たしさは、「もしかしたら自分の判断が誤っていて、やはり思ってるようなものではないかもしれない」という恐れが認めたくはないが実はあって、それを必死で覆い隠すための「怒り」だった。

 心のどこかで感じた狼狽を悟られたくなくて、私は全力で反論した。大丈夫だ、と。そして私は必死に何をしたかというと——



●その商品が良かったとか、支持していたり褒めていたりする内容をネットで必死に探した。



 そして、それを見ては「自分は間違ってない」と必死に自分に言い聞かせた。

 もちろん、無意識的に批判や警告めいた内容は避けていたと思う。それが自覚できていてはプライドが傷つくので、おそらく自意識が全面協力して「オレは別に都合の悪い情報を避けてなどいない」と思えることに成功した。

 今思えば、親から指摘された時、多少の「そう言われれば……」があった。でも、心の底からフツフツを湧いてくる不安を、若さゆえの青臭いプライドが邪魔をした。

 しかも、この年頃の子どもと親の関係というのは、個人差はあるが複雑だ。相手がよりによって親だから、余計につまらない意地を張ったものと思われる。

 私は、聞きたい情報だけを収集して自分は間違ってない、と何度も確認する作業をした。で、ついに購入し、私はそれを手にした。

 


 え、結果どうだったの、って?

 お恥ずかしい話だが……買って最初はおっと思ったが、すぐに使うのをやめた。

 詐欺とまではいかなかったが、買いたいと思ったその時ほどの熱狂は、すぐに冷めた。結果、無意味とまでは言わないまでも払ったお大金ほどのことはなかった。

 でも今こんな記事を書いているのだし、そういうことも今の私の肥やしになっているのだろうから、そういう意味では「ちゃんと元は取れた」ということだろうか。



 筆者だって、日々本書でたいそうなことを書いているが、やっぱり「物事を見たいように見、聞きたいように聞いている」。覚醒者と言われる人物でも、そこから逃げられない。

 たとえ私が、自分とは全く違う意見だって、その価値観で生きている人には大切なんだといくら認めたところで、やっぱり私はその意見が書かれてあるブログや本を好んで読むことはないだろう。

 いくらすべての意見に価値があると言ったって、フェイスブックで 「いいね!」を押すのはやっぱり自分が気に入った投稿だけだし、自分と違う意見はいくらそれを信じる人にとってはいいのだろうと思っても、やっぱりどんな記事にもいちいち「いいね」など押して回らない。

 


●すべてに価値がある、と認めたところで人間の生活も性根もそう変わらない。

 やることは、やっぱりいつもと同じである。

 相変わらず好きなものを見、好きな言葉を聞いている。

 人類の営みは、結局それだ。



 人は皆、与えられた環境やゆるされる状況の範囲ではあるが、好きなように生きている。

 見たいものを見聞きたいことを聞くために、人はある程度それをしやすい状況を作ろうとする。同じ傾向をもつ者、志向が似た者と組むことで、それに適した「集団」に属することで、円滑にしようとたくらむ。

 そうやって皆生きている。だから、スピリチュアルに意義を見出す者、ほとんど関係なく生きている者が同じ空間に同居している。思想信条の異なる者同士が、同じ地球で息をして生きている。

 どれが間違っていてそっちには天罰が下り、これが正しいので天に祝福されうまくいく、とかいうことはない。まったく関係なく、あらゆる可能性が皆に起きる。

 


 人は死ぬまで、見たいものを見、聞きたいことを聞き続ける。ただし、その途中で「何が見たいものなのか、何が聞きたいことなのか」の内容が、人生で数回くらい書き換えられることがある。これを、人生の「強制イベント」と呼ぶ。

 人間はよほどのことがないと、自分が何を見たくて、何を聞きたいのかという内容はそう簡単には変わらない。「バカは死ななきゃなおらない」とは良く言ったもので、それほど変わり得ない頑固な代物である。

 でも、逆に言うと「死んだらなおる」=「死ぬほどの目に遭ったら変化せざるを得ない」ということでもある。

 今のあなたの世界観や認識力では、とうてい目の前のことが処理できなくなった時。降参して「これまでのものを手放し、新しいものをつかまないと生きていけない」とまで追い詰められた時、あなたは生まれ変わる。それが価値観の大転換であり、大きな「気付き」の時。



 よく、悟ると意識が「ニュートラル(中庸)」になるとか言われる。

 中庸意識で生きよう、と奨励されることがある。なぜなら、それ以外の在り方は「偏り」であるから、と。

 でも、この二元性世界で肉体を持って「主観」 というものを一生を背負って生きていく身としては、大して意味のないきれいごとと言わざるを得ない。

 もちろん、中庸ということの指し示す内容を(知識のレベルを超えて)知り、意識することは決して意味のないことではない。でも、それは「あなたが息をしているということを常に意識する」のと同じで、無理がある。または、心臓が動き続けているという事実を常に頭に置いておくというのと同じと思っていい。

 一定時間は意識できたとしても、素手でどじょうかうなぎをつかんだ時みたいに、いつかスルリと指の間から逃げていく。



 また、中庸意識なんか本当に体現できたら、人間としては廃人になる。

 まともな人間生活は送れなくなる。だから、肉体をもって普通に社会を渡り歩いておいて「中庸意識」だなんて言えてるのは、おままごと程度に浅いイミテーションの「中庸意識」だからである。

 何でも溶かす薬、というものが世にあったとして、それがおとなしくビンに入っていたりしたらおかしい。だって、何でも溶かすのならビンも溶けるはずだから。

 本物の薬を、1万倍くらい水で薄めたら、辛うじてビンが持ちこたえて保存できるのかもしれない。生きてニュートラルがどうの言ってるやつらは、その程度のことである。



 あきらめが大事である。

 逆立ちしても、見たいように見聞きたいように聞くことからは逃げられない。

 たとえあなたが反対意見に耳を傾けたり敵を優遇しても、そこにはあなたなりの「そうすれば得がある」という計算上のことでしかない。結局、それだってしたいようにすることの裏返しなのだ。

 ならば——



●見たいように見、聞きたいように聞く生き方をしながらでも、幸せになってやろうじゃないの!



 だから、いくら非二元とかくうとかを垣間見ても。すべては結局同価値で、意味がないとしても、それでも筆者は人として何かに偏ることを選んで生きる。与えられた「私」というキャラの性に合うような選択をして、私を演じる。

 いくらニュートラルが解せられても、この人間界に生きる限りその経験を良き思い出として、やっぱり私なりの価値をこの世界に見出して、見たいもの聞きたいものを取捨選択して生き続けるだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る