コネクション・ジレンマ
交通違反でパトカーに止められ、違反切符を切られた時、考える。
「ああもしかして、昨日母ちゃんにあんな親不孝なこと言って泣かせたのがいけなかったかなぁ?」
会社で。うっかりミスをして上司にしかられた時に考える。
「ああ。朝道端で調子の悪そうな人いたけど、関わってたらこっちが遅刻するんであえて通り過ぎたのがいけなかったのかな。やっぱり、助けてあげたほうがよかった? 今、お天道様が人でなしな振舞いの罰を私に与えているのかも?」
まぁ、他にも無数のケースが挙げられるだろう。
このように、人はその日常において、しょっちゅうこういう「理由付け」と呼ばれる行為をしている。コネクト(連結作業)と呼んでもいい。
ここで見逃してはならないのは、次の点である。
●多くのケースにおいて、結び付けられる二者同士は無関係である場合が多い。
たとえば、あなたが今目の前にいる人を殴るとする。
相手は、怒るか泣くか叫ぶか、とにかく不快感をあらわにするだろう。まぁ、「もっとぶって!」を身をくねらせて喜ぶケースはめったにないと思いたい。
これなら、まだハッキりしている。
●あなたが相手を殴った → 殴られて相手が怒った
これは、否定のしようがない。
こういう次元で因果の法則を言うなら、私としても異論はない。
しかし、人間は因果の根拠がはっきりしないこと、証明のできないことまで理由づけに挑むという悪い癖がある。そこで、この世界に多少の混乱が起こる。
最初に挙げた話で考えてみよう。
あなたが昨日、親子喧嘩でついムカッとして、母親をひどく傷付けることを言ってしまったとしても、それはあなたが今日、交通違反をして捕まったこととはまったく関係がない。
もちろん、あなたが母親に対する罪悪感を日を越して持ち越していて、運転中にそのことをボーッと考えてしまい、ついついスピードメーターを気を付けるのを忘れた、ということもあるかもしれない。
その場合だって、あなたが自己責任において抱いた思い(罪悪感)のせいであって、決して「あなたが母親を傷付けたという事実そのもの」が天界において違反と判定され、何かの超越的存在(お天道様)によって罰則が下された、という話では全然ない。
この世界には、申し訳ないが「悪いことをしたから何か大いなる存在に罰せられる」とか、「良い行いをしたら天のご褒美として良いことが起きる」という法則は存在しない。人間の主観から「そのような仕組みなっている」と見える現象も起こるが、それは「そう見えるに過ぎない」。実際の仕組みは、もっと複雑である。
悪人が悲惨な最期を遂げるとしたら、または善人が最後ハッピーエンドになるとしたら、それは本人だけではない無数の事情が絡みあって、トータルとしてたまたまそうなったということで、悪いこと → 罰・良い行い → 天からのご褒美、というアホみたいに単純な論理はお話にならない。
そりゃ、感情的な願望でしょ。そうあってほしい、そうでないと困る、みたいな。
同じ理由で、朝あなたが見捨てた道端の病人がいても、その事実自体があなたに悪さをすることはない。悪さをするならそれはあなたの「認識」というか「うしろめたさ」であって、気にするからいけないのだ。(そうは言っても、気にするスペックになっているから面倒)仮にあなたが罪悪感をまったく持たずに済めば、何も起こらないだろう。
もちろん、あなたがいくら平然としていても、悪いことをしたならそのした相手の意思において、あなたがやり返されたり復讐されたりということは起こる。これは「自業自得」の世界で、殴ったら相手を怒らせる、物を手放せば重力のせいで下に落ちる、というのと同じレベルでこれはしょうがない。
ともかく、人はその内的世界において、必ずしも関係ないような二者を結び付けて物語をつくり、変に納得しようとするクセがある。それはなぜか。
●自分の気にかかっていることを、少しでも早く放り投げたいから。
手放したいから。解放されたいから。もう気にしないで、自由になりたいから——
つまりは、『人間のエゴ』のせいである。
人が心の中で「これはしくじったかな」と思える事柄があった場合。
それがゴミだと例えると、一番早い「ゴミ回収の日」に出さないといけない。
もし、決められた曜日の朝に、指定場所にゴミを出し忘れたら、どうなる?
そのゴミをさらに次の回収日まで家に置いといたら……どんだけ臭くなるか!
それは我慢がならないでしょ? だから、絶対に早く処理したい。
人は何かのマイナス感情がしこりとして残っている精神状態の時、その後一番最初に起こった悪い出来事にこじつけて落としどころ(結論)を付けようとする。
「そうだ! 今のこれは、あの時のことが悪かったんだわ」そうオチを付けることで、いったんこの懸案はあなたの心から消えることができる。体よくふたつを結び付けて、この件はスッキリ。
つまりは、気にかかることから早く逃げたいがための、ちょっと強引な理由付けなのである。
警察が、よく取り調べで行き過ぎることがある。どうしても目の前のこいつを犯人にしてしまいたい(というか、そうであってほしい。そうでないと、またいちからの捜査が大変だ)という動機で、強引な自白をさせてしまうことも起きるが、それに似ている。
本来関係がないもの同士を、人の心の安定のために、強引に結び付けるのである。
もちろん、ケースによっては良いこともある。
「死んでしまったうちの子はいい子だったから、きっと天国で幸せに生きているわ」 という場合である。もちろん、死んだその人の子どもの魂が、天国で楽しく過ごしてるなどどこにも証拠はない。根拠はないし、なんら客観的事実ではない。いい子だったから、死んで天国へ行けるという真理もない。
ないが、ただその人の精神は、そう考えるおかげで比較的安定を保てるかもしれない。そして、それは誰にも迷惑をかけない。もちろん自分自身にも。
ガンなどの、大変な病にかかった時も、ものごとの良い側面をできるだけ見ようとしたり、事実に基づく冷静な判断以上に、希望的観測をもとうとすることもゼンゼン悪くはない。
ただ悪くはないと言うだけで、「良い」とまでは言えない。個々人が「本当にそう思いたいかどうか」が重要なので、「希望を捨てるな」とか「プラスに考えよう」ということを何か良いこととして奨励するのは押しつけである。頑張ってそう考えて、いいことなどひとつもない。
まぁ、今日のまとめとしては「全く関係のない二つの物事を、あなたはしょっちゅう結び付けて考え、処理しようとしてる。ちょっと、それに意識的になって気付いてみたら?」というススメである。
死んだ子どもは天国で元気だ、という例のように、自分にも周囲にも迷惑をかけず、プラス面を強くもたらす解釈なら、本来関係のない二者を結び付けようがそれも「方便」というもの。
しかし、単に「自己逃避」だったり、罪悪感からはやく解放されたいがための「強引な納得」である場合は、それに気付けるのと無意識なのとでは天地の差が出る。
そういう、自分のエゴに気付けると生きやすいよ。
いや、エゴが悪いっていう話ではなく、把握できたら逆手に取って味方にもしやすいよ、ってこと。要は、排除でも敵対でもなく、共存が大事。
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