お池にハマってさぁ大変!

 6年ほども前のこと、とある動物園でサルの赤ちゃんが生まれた。

 名前を「シャーロット」としたが、それはイギリス王室の王女の名前と一緒だった。ちなみにこれは偶然一緒になったとかではなく、当時動物園側が「イギリス王室で誕生した王女にちなんで」つけた名前だと公言している。つまりは「分かっていて」そうつけた名前。



 これに対し、日本では「イギリス王室に失礼だ」という抗議が殺到。その苦情件数、実に500件以上。

 これを重く受け止めた動物園側は(さすがお客さんあっての商売だけに!)名前の取り消しも含め再検討をする、という決定をした。

 どうも、この「~に失礼」という発想は、日本人に特有のものであるような気がする。このニュースを聞いて「まぁ確かに失礼だな」「なんであえてその名前にするかな? 苦情が来ることくらい予想できなかったのか?」という感想を持った人は少なくないのではないか。

 当時私が聴いていたラジオでも、DJが個人的にこう感想を述べていた。



●そもそもこの名前を外に向けて発表する以前に、動物園内部で「これ、まずいんじゃない?」ということを言う人はいなかったのか?

 もし、そういう議論すら動物園内で起こらなかったのなら、そのほうがヘン。



 それくらい、この発想は我々になじむ。

 思わず、「そうや! あんたええこと言う」くらいこのDJの言葉を褒める人すらいるのでは? でもこの事件(?)に関しては、思わず考えさせてくれる続報が報じられた。 



●イギリス王室、日本の赤ちゃんザルの名前について「つけ方は自由」



 この話題は世界にも伝わったが、どの海外メディアも単に事実だけを伝える感じのもので、「失礼だ」というニュアンスを含ませ肯定しているような記事はほぼない。それどころか、海外の反応としては——



●一体、それのどこが問題なの?

●お祝いの気持ちがあったんでしょ? 謝る意味が分からない

●別に無礼を働いたわけじゃなし

●名前くらい好きに付けられないのか

●素敵な名前じゃないの

●王室もそんなこと気にも留めないさ

●何にでもケチをつける人がいるのね

●ユーモアを理解できない人が多いのかねぇ



 だいたいにおいて、こういう反応である。 

 肝心の王室は、こちらが思っているほど問題にはしていないようだ。ってか、騒いでいるのは我々日本人だけで、当人たちは「どうでもいい」感じ。

 名前くらい、どう付けたって自由という公式コメントを王室側は出している。



 もちろん、海外の人だって探せば中には「失礼でしょ」「そりゃ変えたほうがいい」という意見の人もいるだろう。一口にイギリス人って言っても、色々な人がいるのだから。

 筆者も関西人っていうだけで「面白いことなんか言って」と言われることがある。関西人=おもろい人、ギャグかます人みたいな勝手な公式が出来上がっているが、関西人にだっておカタイ人間や暗い人がいるのだ。皆が皆、そういうくくりで見られたら迷惑だ。

 だから、海外の人が皆上記の意見なのではなく、反対意見もあるということは忘れてはならない。ただここでポイントなのは「多い方で言えば、気にするなという反応が多い」ということ。

 この海外の反応を知って「こそばかゆい」思いになる人は少なからずいるのではないかと思う。

 それは、裸の王様が「王様、裸だよ!」と言われ気付かされて恥じ入る、というのに似た感覚。日本人内輪だけなら、「けしからん」で終始して忘れ去れたかもしれないこの話題、幸いにと言おうか、海外の反応まで続報として知れたことで改めて「自分が前提として強固に持っている思い込み」に気付かせてもらえたのである。



 ~に失礼、という発想は諸刃の剣である。

 それは、うまく使えば日本が海外に誇れる美徳である。しかし、一歩使いどころを間違えると笑い者になる。今回の例は、その悪い方に出たものである。

 日本古来の良いところは、「謙虚・謙遜」 にある。

 英語でも、丁寧表現というのは限られたパターンしかないが、日本語はその点すごい。「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」など、それだけでもひとつの学問が成り立つくらい。これだけ目上の人に対する心遣いが細やかなのは、日本独特のの素敵な美点でもある。

 でも、これはバランスを欠くと「卑屈・排他主義」に陥る。

 へりくだり過ぎると、自分を必要以上に貶めることとなり、これはいただけない。

 またその「へりくだり」「謙遜」がちゃんとできない人を見つけたら、必要以上にその人物に対する許容度が低くなる。我慢がならず、指摘してやりたくなる。それはもう、ヒステリックなくらいに!

 ネットの世界でも、「炎上」ってのがあるでしょ? あれは、一応炎上させる側の言うことは正しかったり、筋は通っていたりする。でも、そんなこととは関係なく炎上という現象は起きるもので、その原因は正当な理由や理屈によるのではなく悪意である。

 ちなみに悪意とは、他人の行動やその結果に対して、世間一般の常識的尺度を冷静に当てはめることができず、その人独自の尺度で納得がいかないことだけを原因として裁きを行うことである。本当は感情的な問題なのだが、それを隠すためにもっともらしい立派な理屈で理論武装する場合が多く、そうできてしまうことがこの問題をさらに厄介にしている。

「それはもっともだ」という、こっちこそが常識的だという大義名分を振りかざした「攻撃プログラム」であるとも言える。実はあなたが触れられたくない感情の恥部から反応を引き出されているだけなのだ、ということに多くの人は自覚的になれていない。



 せっかくだから、今回の件で気付いてみようよ。

 自分の中にある、「疑いすらしない前提事項 (思い込み)」の数々を。

 あなたがが深刻に思ってることが、実はその他にはどうでもよかったり、あなたが気抜けするほど問題にしていないことというのは結構あるものである。

 今回紹介したのサルの名付け問題をやたら金切り声をあげて非難するのは、その動物園に問題があるというよりも「自分の方に問題がある」と考える方がはるかに建設的である。

 個人としても、日本人という大きなくくりでも、自分と自分の群れについて見直す必要がある。人のふり見て我がふり直せ、ということわざがあるが、あれだな。深いスピリチュアルな話もいいが、こういう人として基本的なことはもっと大事だな。



 何かの前提を疑わず、その基準をもって会わないものを攻撃する状態は——

「お池にハマってさぁ大変!」状態だといえる。

 ある発想の枠にハマってしまって抜け出せないのであるが、抜け出す気がないどころか『お池にハマっているという状況すら理解していない』こともしばしば。自分を変えていく、という作業以前に「変えなきゃいけないことに気付くことから先」。

 


 お池から抜ければ、そこには広い広い世界が広がっているのだ。

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