理想主義者の憂鬱

 本書をここまで読み進めて、ある程度そのノリに馴染んでくださった読者なら分かると思うが、筆者の世界観は少なくとも「理想論」ではない。

 世のすべては陰陽(二極)のバランスであって、この世界から「悪(とあなたの立場で捉えられるもの)」と「愛じゃない(とあなたが思える)もの」はなくならない。二極のうちどちらか100%に針が振りきれることはない——。本書はそう主張している。

 ……ということは、科学が進歩して世界の有様に変化があること以外、人間の営み・そこで展開される人間模様や感情ドラマについては——



●昔だって今だって、そしてこれからだってそう大きく変わりはしない。



 似たようなことを、ミクロ的史観では相似形・マクロ的史観では螺旋形で、繰り返していく定めになっている。ただしこれは「基本的には」ということであり、長い目では一本のゲームを、ゆるやかに時間を懸けて進行させているので、どこかでは区切りというか、終わりが来る。

 地球がまるい、とは言ってもちっぽけな私たちの目から見れば地面は平たい。それと同じで、終わりがあり進行中の地球ゲームであっても、たかだか100年余りしか見れない我々には「懲りもせず似たようなことを繰り返している」ようにしか見えない、というわけだ。

 摂理は確かに進んでいるが、それは気の遠くなるような運行ダイヤにのっとっているので、残念ながら人には「進んでいるようには全然見えない」。



 難しく言ったが、ざっくり一般の人の感覚で筆者の立場を言えば「現実主義者」ということになるのだろう。

 不幸や悪が世界から消え、皆が幸せになる世界が来る、善と無条件の愛だけの世界が実現する。こういった考えなのが理想主義者である。ところで、理想主義者が言う「皆が幸せ」の幸せの基準ってなんだろう? 価値判断において誰一人同じ物差しを持っていない億単位の人類が、皆それぞれの定規で同時に「幸せ」だと判断できる状況など、実現できるのだろうか?



 この仮想物理宇宙多人数一斉参加型ゲームは、満員電車に例えられる。

 椅子が一定数しかなく、そこへ椅子に座れる人数以上に人が入っているので、座れる者がいれば座れない者もいる。不公平だ! って言うんで交代しても、それは結局今まで座っていた人が立ち、今まで立っていた人が座れたというだけの「交代現象」 に過ぎず、決して座れた人が増えたわけではない。その交代劇が、周期をもって巡っていくだけ。

 筆者の世界観はざっとそういうもので、ある意味身もふたもなく聞いて楽しい話ではない。だから、そんな仕組みのことなど放っておいて、目の前のことを見て自分なりに力を尽くせばいい。そして成果が出たら喜べばいいし、出なかったらいっそう頑張ればいいし、疲れたらくじけてもいいし、しばし泣いて暮らしてもいい。すべてあなたがいいと思うタイミングで、いいと思うことをすればいい。

 私は、自分の内側に忠実である結果、そういう世界観で生きている。

 しかし、どうもこのスピリチュアル界では全体として『理想主義的』な考えが幅を利かせており、そちらのほうに分がある。結果、この手の話は相手チームから「牽制球」を投げられやすい立場にある。



 理想主義者の落とし穴は何か。

 とてもいいことを言うので、しかもそれは「本当にそうなったら結構なことだ」と誰もが思うことを言ってくれるので、ウケはいい。現実主義者より好かれやすいのは必然と言える。

 理想主義は、それに乗っかって参加する人間が「元気」であるうちは、調子が良い。その集団は盛り上がりを見せ、全体として「進歩し、成果を挙げているように見える」。しかし。全員が一律に同じ展開・同じ成果にならないのがこの世界であることを忘れてはいけない。

 理想主義者の盲点は、「今そうでない」から理想を追っている、という所。

 メンタル的にタフな人、気質的に強い人、頑張るタイプの人はよい。しかし、中には「理想は実現可能」と考えることで、自分が今そうでなく、しかも頑張っている割には努力が空回りして、指導者ほどには全然できていないと思う時、その「理想に比べてこれだけ開きがある」というところばかりクローズアップされ、気が滅入るタイプの人もいる。



 理想主義は、表面上優しく見える。意見が立派なので、輝いて見える。

 人生に現在、さほど深刻な問題を抱えていない人生サイクルの人は、そういう人に追随して賞賛し、キャーキャー騒ぐことができる。まこともってめでたい話だ。

 でも、理想とのギャップをネガティブに見ず、かえってそれを頑張る原動力にできるタイプの人ばかりではないのだ。「ようし、やったるで!」とはならず、その暗部を見て「シュン」となる人種もいる。

 そこで、現実主義の出番である。理想主義者と見た目一番違うのは、ちょいと「悪ぶって見えるところ」である。言ってることからして、理想主義者のようにキラキラしてない。現実を見ろ、的なことを言うので好かれる要素としては少ない。

 でも、見た目に反して優しいのである。なぜって? 理想論者がとりこぼす「ついていけない人、ダメな部分を肥大化させて見てしまう人」に優しいからである。その代わり、元気で優秀な人にとっては現実主義者は煙たい。

 現実、そんなもんだよ。あなたは、それでいいんだよ。精一杯生きて、今それが最善としてそうであるわけなんだ。良くやってると思うよ——

 そう言ってあげられるのが、現実主義者の特権である。理想論者は、そのスタンスを守るなら「できるはずなのに、やりようがあるのにその人は本気出してない。自分を信じ切れていない」という裁き判定になる。表面的には優しくしても、どこかで「やればできるのに」という物足りないホンネを隠し持つことになる。



 理想主義者は、見た目キラキラして魅力的で、好かれやすい。

 しかし、常に上を向き自分にも周囲にも「向上」という課題を課すので、裏に裁きの意識を隠し持っている。時々、群れの中の「怠けている、ちゃんとやってないと思われるもの」に内心腹を立てる。

 現実主義者は、言うことがスレているので、見た目ショボイ。魅力的には見えない。しかし傷付いている人・できるって言われたって、これが今の自分の精一杯なの! と苦しんでいる人には、「いいんだよ」と言ってやれる。理想を掲げて常に立ち位置を確認し向上する義務がないので、自分も楽だし相手も楽にしてやれる。



 どうも、理想主義者は現実主義者が生理的にキライらしい。

 まぁ、「やろうと思えばなんだってできる」「理想は実現できる」という元気な人から見たら、私みたいな「やってもやれないことはある」「この現実はそう変わらない」っていうのは、こたつでほうじ茶をすすっているおじいちゃんの意見みたいで、「もっと元気出しなよ!」って言いたくもなるのだろう。

 どこかで、私のようなタイプの発信者を指した次のような意見をどこかのスピリチュアルブログで読んだ。



●不幸そうな人間は社会の厳しさを伝えたがり

 幸福そうな人間は社会の素晴らしさを伝えようとしている



 これはどこぞのスピリチュアル系有名人の言葉らしいが、この言葉は一面的理解にすぎないことだと思う。

 もちろん、これは長い文章の中の一節なので、前後の文脈も含めれば主題は別になる。しかし、ここだけ聞きかじってしまえば、大いなる誤解が生じる。

 


●社会の厳しさを伝えたがるのは、本当に不幸そうな人だけか?

 社会の素晴らしさを伝えたがるのは、本当に幸福そうなひとだけか?

 そう言いきれるか?



 つまりは、例外もあるということである。

 幸せな人間でも、社会の厳しさを説く場合もある。不幸な(元の文章には、これは本人視点か他人から見てなのかのヒントがない)人であっても、世界の素晴らしさを語れる場合がある。

 時として理想論者は、愛にあふれている気になっているが、無自覚の内に「自分の話に乗ってこず、現実の厳しさを口にする人種」を下に見ている。

 こうだったらこういう人だろう、というタイプ分けは意見の「単純化」である。血液型占いにも似ているが、これを俗に決めつけとも言う。

 単純化を使ってしまうのは、得てして心に余裕のない時である。

 よくあるでしょ? 口げんかしたりして、感情が高ぶっているときに乱暴な理屈を口にしたりする。その類のこと。だから、こういう奴らは~なんだ! みたいな。

 この人の言い分でいくと、筆者は「不幸そうな人」らしい。だって本書では、日々ユルフワスピリチュアルからしたら身もふたもないことを言い続けているから。ある意味、この二元性世界に生きる厳しさを伝えているわけだから。



 もちろん、理想主義者が世に果たす役割がある。それは、元気が有り余る群れを引率すること。一番適役だから、それはもうまかせた。

 私が担当するのは、災害が起こったら逃げ遅れそうなお年寄りや体の不自由な人である。もちろん今のは比喩表現で、実際には「理想論・やればできるぞ教に疲れた人」の担当である。私は絶対に「やれるはずなのに、どうしてやらないの。いつやるの?」とは言わない。ましてや、「やればできるんだから。さぁ、頑張って!」とも言わない。

 それを言われると、励ましと取るよりも責められているように受け取る人だっている。「現実、そんなもんだよ。それでOKよ」と言える現実主義者は、実は優しい。



 気を付けたほうがいい。見た目に惑わされないほうがいい。

 日常厳しいことばかり口にするおっかないオヤジが、実はすごく面倒見が良かったり優しかったりする。一方で、世間的評判が良く、大人気の好人物が、恐ろしい裏の顔を持っていたりするではないか。

 もちろん、今言ったことも単純化であり、決めつけの一種である。

 だから、結局この世界は——



●なんでもあり。



 そのことさえわきまえておけば、その上であえて選択するのが理想論でも現実論でもかまわない。要は、自分が信じたいものを気持ちよく信じ、それぞれに『棲み分け』ができたら、それが一番いいことだ。

 だが悲しいことに、自分が信じていて確信を持っているスタンスに周囲を引きずり込もうとしている人がいる。傾向として、現実主義者よりも理想主義者の中にそういうのに熱心な人が多い。

 頑張って勝手に理想を追ってくれたらいいのに、こちらが乗ってこないのを放っておいてくれない人種がいる。構いたがり、「可哀想。はやく目覚めてね!」的なまなざしを送ってくる。

 どの道、この相対世界のバランスとして、双方の発想が一定数出るようになってるのだから、それを受け入れてめいめい独立国家としてやっていこう。

 この世界の理想形は——



●互いに攻め込まない群雄割拠



 これである。

 日本史上、戦国時代というのがあったが、あの形でなおかつ互いが他を攻めず、それぞれがずっと土地を守り自治する、というのができれば一番いい。

 豊臣秀吉が天下統一したみたいに、宗教やスピリチュアル、ひいてはものの考え方を「これが宇宙共通で良いんだ! この考え方に皆ひれ伏せ!」として画一化するのは、スピリチュアル的退化である。スピリチュアル版『天下統一』は絶対に企ててはならない。

 筆者はこれからもジジくさく、生きることの厳しさ、どう頑張ってもできないことはある、意識は万能ではないと伝え続けていく。でも、次の内容には自信がある。



●社会の厳しさを説いてはいるが、私は幸せである。 

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