気付きの瞬間

『ガラスの仮面』という演劇を描いた伝説の名作漫画がある。

 主人公の北島マヤとライバルの姫川亜弓は、共に「ヘレン・ケラー」の役に挑むことになった。

 役作りに難航する二人。特に難しいのは、井戸で手に水を浴びた時にそれに「Water」という名前があるのだ、ということに気付く瞬間の演技。

 二人はそれぞれ、苦心の末気付きを得る瞬間のヘレンをこう理解して演じた。



●亜弓は、「電気がビリビリと走ったかのような衝撃」として捉えた。

 マヤは、「水でいっぱいになって、はじける前の水風船」として捉えた。



 筆者は悟りを得たと感じて以降を思い返して、このマヤの捉え方は本当にそうだと思う。日々私たちが「スピリチュアルな気付き」をするということは、イメージとしてはそんな感じである。

 私たちは、人間としての魂の内側に、無数の水風船を持っている。それらには皆くだが繋がっており、水が送り込まれるようになっている。

 日々生きることで、そこから様々な体験を回収し、色々な感情を辿る中で、それをすればするほど風船の中に水が送り込まれる。個々人によってどの体験をすれば余計に水が送られるか、どの種類の経験だと少ないかが違うので、気付きまでのプロセスやかかる時間は一律ではない。

 


 ここで注意したいのは、このシステムと「顕在意識」とは連動していないという点だ。よって「自我意識」で気付こうとして気張るすべての行為は、直接的には無駄である。

 ただ、自我が目指すものと魂の水風船システムが志向するものとたまたま同じ方向性を追求することも起こり得るので、その場合は「意図的に気付きを引き寄せた」などと解釈できてしまう状況も起こるが、あくまでもたまたまで意図とは関係ない。



 気付きの風船を割るのは、意志でも自我でもない。

 一見、それとは関係ないと思われる「日々の体験で蓄積する感情体験の積み重ね」のなせるわざ。だから、「気付きたい」あるいは「気付きを得よう」と気張るのは早道ではない。

 よくスピリチュアルの世界では「意識的であれ」と言われるが、多くの人は浅くとらえている。皆さんが思う「意識的であること」というのは、何かのことを「忘れないでちゃんと頭にキープしているよ」程度のことでしかなかったりする。覚えている、自我で願っている程度のことを意識的と呼ぶことがあるが、違う。

 矛盾したへんな話に聞こえるかもしれないが——



●意識的であることは、意図してはできない。

 意識的であることは、意識的であろうとすることではつかめない。ただ、丁寧に生きていく中で結果として自然に「意識的になっているもの」なのである。

 あとで結果としてしか、観察することのできないものなのだ。



 そこは感謝と一緒で、意図的にやろうと思ってするものではないのである。

 よって、知識としてスピリチュアル的な概念を学んだとか半分どうでもいいから、とにかく丁寧に生きることが大事。

 風船を割りたかったら、割ろうとしないこと。割れるに任せること。風船を割ることの実行は別の何かに任せて、自我としてのあなたはとにかく、今の生きているこの瞬間を充実させること。

 あるいは、その感情を感じ切ること。感じ切れたら、「観照かんしょう」への道が開ける。そこが、気付きの第一歩である。

 逆に現象や感情に振り回されていたら、観照への道は遠くなり、気付きに何十年どころかあなたの代を越えて何世代もかけることにもなる。



 ただ、在ること。

 風林火山ではないが、状況に応じて水のように柔軟になること。

 気付きにスピリチュアル知識のあるなし、何かの法則を知ってるかどうかなど関係ない。

 ただ、趣味の問題として余裕のある範囲でスピリチュアル情報を追うのはいい。

 その代わり、必死になり過ぎたり飢餓感をもって「もっともっと」と焦ってやれば逆効果である。

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