再現力

 私は、日々本書を通じてメッセージを書いている。

 身もふたもない話、人の目に触れるそれは、ただの文字の羅列に過ぎない。

 言語、日本語で言うと「あ」から始まって「ん」までの文字の組み合わせで人は自分を表現しようとする。よく考えるとそれは、かなり無謀な話である。

 文字で何かを発信しようとする者は、昔子どもを遠くへ奉公に出した親のようなものである。どういうことかというと——

 表現者にとって、構築した文字の羅列(記事)は、我が子のようなものである。自分の手の届かない遠くへ子どもを出せば、あとはもう親にはどうしようもない。

 子どもは、奉公先で苦労するかもしれないし、いじめられるかもしれない。反対に、可愛がられるかもしれない。そこで、一人前に世間様のお役に立てるように磨かれるかもしれない。

 親は、自分ではコントロール不可なその成り行きを、結果を風の便りに聞くだけ。そして、心配したり喜んだり。



 そこへいくと、文字情報より反応が一番分かりやすいのは、音楽や動画である。だって一目瞭然だからである。

 間に卸問屋を通さない、直売のようなもので、人の五感にダイレクトに訴えてくる。そこへいくと、無地の紙(PCやスマホなら背景)に字だけが躍っているのはどうか?

 その場合は、文字を読む個々人のある力量に頼ることになる。それは——



●再構築力。再現力。



 文字を読解して、自分の学習済情報と照らし合わせ、理解に必要な概念を呼び起こす。さらに、その引き出した情報に付随する感情情報も併せて復活させる。

 大枠では文字情報に限定された内容「いつ、誰が、何を、どうした」「何は、何だ」という具体的な情報を読み取るわけだが、その肉付けといおうか、細部の再現に至っては、その人オリジナルの体験や感情に基づくことになる。

 映画やドラマ、アニメでは主人公の顔は明らかである。好きなタイプかそうでもないか、などの感想しか持てないが、姿形そのものの情報が限定的な小説などでは、かなりの部分が読者の想像に任される。(ライトノベルとかなら、表紙や間のイラストでキャラの姿を見せてしまっている場合もあるが……)

 ある女性主人公の顔が、その人が個人的に好きな女性の顔になったりする。まさか小説の作者は、作中の登場人物の顔が、どこの誰かも知らないある女性の顔として活躍しているなど、想像もつかない。

 ここが、文筆家にとっては考えればワクワクするところだ。一旦奉公先に出したら、こちらにはどうしようもないリスクはありながらも、かわいがってもらえたら、こちらが想像もできないような素敵な羽ばたき方をするのが子ども(文章)である。

 その幸せのために、作家にとっては書くということへの情熱が湧くのだろう。



 文章で、作者がその思いを、広大すぎるその世界をたった数十パターンの文字の組み合わせであえて伝えようとする上では、読み手側の「信頼」も必要になる。

 何に対する信頼かというとー



●受け取り手がもつ、再現力。



 もちろん読者は作者じゃないので、発信者本人と同じ純度100%を受け取ることは不可能だ。でも、もとは神であり、その内にすべてを持っているはずの「人」は、ものすごいスペック(能力)を実は持っている。それは「大枠では相手の話を具体的に受け取りつつも、言葉では限定しきれない細部や想いの部分に関して、オリジナルの部品を補って立体的に完成させる能力」である。

 発信者は読者のその力を信頼することで、勇気を出してあえて誤解しやすい「文字情報」を発信する。

「この店で、いつからいつまで割引セールやってるよ!」程度の文字情報だと、ほぼ誤解も捉え違いもない。でも、小説とか詩とかになると、それはほとんどの部分が、受け取り手のインスピレーション(直観力)や想像力に頼ることになる。



 筆者は、一人ひとりの持つこの「再現力」には敬意を払っている。

 日々、本書や動画配信に対していろんなコメントや感想をもらう。それを読む中で時として、発信した私自身が、他者の「再現力」に驚くことがある。

 なんと、そう読めたか! みたいな。私がその時考えてなかった視点を「筆者さんのこれを読んで、こう感じました!」と言ってくれる人がいる。それは作者も想定外なので、書いた私の方が勉強になることもある。

 作者のオリジナル理解や想いが最高点で、それ以降は伝言ゲームのようにどんどんズレて伝わっていくしかない、という見方は一面的である。それは、他者の心の中という土壌でさらに成熟して、まったく新たな命として生まれ変わる、という側面もあるのだ。

 


 だから、伝えるということは素晴らしい。

 文字の組み合わせで思いを伝えるなんて、難しい。できるだけ正確に伝えるために単純な工夫は、「文字を多くすること」である。思いを限定するたくさんの情報を使えば、より作者の意図するところへ他者の理解を誘導できるかも……しれない。

 ただし、この手法には限界がある。長すぎても、相手が疲れてしまう。

 詩など、そもそも誤解されるために書くようなものだ。本当に、最小限の文字でどうとでも取れる言葉をコンパクトに言うだけだから。

 詩や俳句というジャンルは、人一倍読者を信頼して委ねることが求められる。



 もちろん、筆者もこれだけ書いていれば批判ももらう。人が地上にこれだけたくさんいて、賛同者ばかりなんて考えただけで在り得ない。

 だから、恐れるあまりに表現に枷をかけて、そっち(批判)を減らそうとは思わない。それよりも私は思いの限りを懸けて書くことで、「驚くべき再現者」が一人でも多く誕生することを願っている。

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