魂の記憶
この二つ前の記事『ゆるすということ』という記事に関して、いくつか質問をいただいた。その中のひとつに、ゆるしということに関してこういう質問があった。
『もし過去の記憶がなくなったら、それは本当の許しに近いのですか?』
日本語って、難しい。
私は最初、質問の意味がよく分からなかった。でも何度か読んで、勘を働かせて、何とか何を聞きたいのかのニュアンスは分かった。
そこで質問の答えだけをストレートに言うと——
●ゼンゼン近くありません。
そういう身もふたもない答えになる。
ではここからその根拠を、いくつかの具体的な例も交えて説明していこう。
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ジブリ映画の『かぐや姫の物語』。
ラスト、かぐや姫は月へ帰る。
地球での記憶を消され、何も覚えていないはずなのだが——
地球を見ると、なぜか涙が。
記憶をなくしたかぐや姫は、頭では「いったいこれは何でだろう?」と思考するかもしれない。しかし、本当は分かっているのである。忘れてなんかいないのである。
記憶喪失になって失うのは、人間キャラとしての乗り物上の情報データである。
それが無くなっても、すべての感情体験(キャラをまたいで)を記憶している部分がある。それをここでは『魂の記憶』とでも言っておこうか。
ちなみに、正確に言うと分離意識がキャラをまたいで体験したすべてを記録しているというのは間違いで、ホントのところは宇宙のすべて(アカシックレコード)を持っているが、最初の出発時にはそのすべてがベール覆われていて、人生を繰り返すことでその体験分だけ覆いがはがされていくというのが正しい。
スクラッチカードのスクラッチ部分を削っていく、というのが生きることである。だから魂の記憶とは、ないところから積み上げて増やしていくというよりは『すべて明らかなのをわざと覆い隠して、その覆いを少しずつ無くしていく』ものだということだ。
『Gu-Guガンモ』という古い漫画の最終回。
(マンガとアニメとでは終わり方が違う。今回話題にするのはマンガ版)
ガンモの正体は『
鳳凰は小さい時代を人間と暮らすことでその感性に触れ、修業する必要があった。その目的を達したガンモはもとの世界に帰り、ガンモに関わった者達はその記憶を失ってしまう。
しかし、ガンモが好きだったコーヒーを飲む時、どういうわけだか切なく、悲しくなるのである。
映画、火だるまの……じゃない『陽だまりの彼女』のラスト。
彼女の正体を知った主人公だったが、運命の別れの後その記憶を消される。
しかし、何もかも忘れたはずの主人公の日常生活の中で、彼女の好きだった音楽が聴こえて来たり思い出の場所に偶然来たりすると、何だか胸が切ない。彼女の正体だったある動物を見ると、無性に懐かしくなる。
世に存在する物語の中に、こういう例はいくらでも見つけられる。
この世界で「記憶」という言葉を使う時、そこには二つの意味があると考えていいだろう。
①データ(情報)としての記憶。三次元キャラとして生きる上で、思考分野で役立つ。データに過ぎないため、デリート(消去)可能。
②感情の記憶。データ消去されても、ここは手つかずで影響ない。絶対に消去不可
成功哲学や自己啓発で、勉強だけしても何もならないのはこの「データとしての記憶」ばかりいじっているからである。
「思考は現実化する」などと言われているが、これはちょっと言葉が悪い。
「思考(データ上のもの)」 なんて現実化しない。「魂の記憶(データとは別の感情記録・潜在意識領域下にある感情体験を伴った記憶)」こそが現実化する。
スピリチュアルや一部心理学でやろうとしてるアプローチは「潜在意識」へのものだが、ここでいう「顕在意識下での記憶が無くなっても関係なく存在し続ける魂の記憶」が、その潜在意識に当たるようだ。
潜在意識の書き換え、という言葉がよく使われる。それは有効で的を射たアプローチであるが、筆者はもっと別の表現がいい。
正確には「書き換え」ではない。だって、私たちは神として「すべてを持っている」のだから。
書き換えも何も、書き換えたとしても「書きかえる前のもの」も「書き換えた後のもの」も依然として両方自分の中にあるのだ。だから、「当てるスポットの違い」あるいは 「ある弱い部分をカバーするために、別の個所のスクラッチを削って明らかにして、弱い部分のサポートに役立てる。またはある部分に再びスクラッチの銀色部分をかぶせて意識上から消すことで、危機を一時回避する」と表現するほうが、私にはしっくりくる。
ただし、記憶上忘れる(一度削られたはずのスクラッチにまた銀をかぶせる)ことは、痛み止め効果か応急処置程度の効果しか持たない。なぜなら、一度削られた部分はメモリー上消去したとしてもハードディスク(魂)では残り続けるからだ。これまでに挙げてきた三つの例話は、そのことを証明している。
最初の質問にかえろう。
たとえあなたが、「ゆるせない」と思ったまま何かのきっかけで記憶喪失にでもなり、そのゆるせない事件を忘れ去っても、だからと言って「ゆるした」ことになどならない。
忘れることでゆるしに変わるなど、考えが甘い。発想が幼稚だ。
(幼稚は幼稚であって、それ自体は状態を表すひとつのバリエーションで、良いも悪いもない。ここが分からないと、私に幼稚だと言われて気を悪くして終わる。収穫はそれだけ)
記憶として忘れることでは、問題解決にはならない。
ただ、筆者は本書で「問題に正面から取り組むのがしんどい場合、それにまともに取り組まないで別の楽しいことや情熱を懸けられることをやっていれば、いつの間にか間接的に解決できることがある」というメッセージを何度かしてきた。その情報と突き合わせると、忘れることで心の問題は解決できない、という今回のメッセージと矛盾するように感じる方もいるかもしれないので、補足しておこう。
①問題は解決しないでいい、というのは方便で言っている場合がある。
強すぎる敵に出会ったら、戦いを回避しませんか?
今ぶつかっても得策でない、という時。もっと成長してからの方が、その問題に有効に対処できるのでは? という時。
その時限定の最善策として、「逃げる」がある。そういう段階の人に「課題はいつか逃げずにクリアしなきゃいけないんですよ!」とか言っても、正論だろうが盛り下がること必至。それでは相手を元気にできない。
だからこそ、リベンジをいつかかける必要性にはあえてスポットを当てないで、確信犯的に「(今は)逃げてもいいよ。問題は無理に向き合わなくてもいいんだよ」と慰めるのである。
②オセロのように、連鎖解決する場合がある。
確かに、ゆるせないことや嫌な記憶に対し、そのものに真正面から取り組むことになる人生シナリオもあるだろうが、場合によっては間接的な解決法もある。
少々説明が難しいが、オセロの要領である。
ある黒をひっくり返したい時、縦かななめかその黒が含まれる列の両端を白で取れば、間の黒が全部ひっくり返る。つまり、他を操作することで結果として離れた場所の黒(問題)が解決する。
この原理と同じで、本当に一見その問題と関係のないアプローチにて解決することがある。もちろん、我々の人生ゲームは複雑で、オセロ盤のように全体の関係性を手に取るように把握できるわけではない。だから、人間が自覚的・意図的に完全把握してこのアプローチを使うことは不可能に近い。
だから、魂の内命性(魂の声、と表現する人もいる)に従う。素直な気持ちに従う。そうすることで、フタを開けてみれば心の問題が解決していた、ということが起こり得る。その成果はもちろんあなた単独の功績などではなく、計り知れないほどの無数の力学が働いた「おかげ様」の賜物である。
確かに、魂の記憶は消えない。記憶が消えても逃げられない。
でも、逃げられないと同時に、比較的楽に逃げれる道(解決できる道)も必ず用意されている。宇宙はバランスだ。試練だけでも、楽な道だけでも偏りである。
あなたが本腰を入れれば。ゲームにコミットする覚悟を持てば。必ずや、宇宙は応えてくれる。
魂の記憶は、どんどん神本来の状態へと、永遠の時間をかけて近づいていくだろう。この世界で生き続けるということは、永遠に削り終わらないスクラッチを削り続けるようなものかもしれない。
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