ゆるすということ
『ゆるす』とか『ゆるし』という言葉が、宗教やスピリチュアルの世界でもてはやされている。世界で一番大きな宗教であるキリスト教は『ゆるしの宗教』だし、スピリチュアルや心理学、自己啓発の世界でも幸せになるためのひとつの重要手段として「ゆるし」を大事にしている。
いつだったか本屋に行った時にも、当時の話題の本のコーナーに『許す力』というタイトルの本が平積みになっていた。何度も言うが、本に書いてあるから、それをすれば幸せになるとそこに書いてあるから、という理由で何かをゆるそうと頑張っても、それに価値はない。
感謝と同じで、人に言われてやるゆるしは、ゆるしではない。相手にも失礼だ。
ましてや、「それをすると心が軽くなる」「幸せになれる」とか、何かを得る目的でゆるすのかい? それじゃ、ゆるしは商業取引と同じかい?
これだけの代金を払うからそれに見合った商品をよこせ、みたいな。それはもう、スピリチュアルではない。気分よくなるためのテクニックだ。
前回、半沢直樹のドラマからの気付きに関する記事を書く中で、ふと思った。
皆が安っぽく乱発している『ゆるし』って、本当のところは何だろう?
今日は、私なりの「ゆるし」とは何かという定義を紹介してみようと思う。
もちろん、今から言うことが正解だというつもりはない。この世界には正解などなくて、すべては趣味によるバリエーションである。だから、深刻に聞かないで参考話程度に、楽に聞いてほしい。
「ゆるす」「ゆるし」という言葉を辞書で引くと——
●過失や失敗、罪などを責めないでおく。とがめないことにする。
誰が何を言っても、何をしても——
否定や攻撃からは、何の良いものも生まれません。
何かやった他人を、ただゆるすと考えたら腹も立つし、嫌な気分になるでしょう。
どうか、相手のためでなく、あなた自身の幸せにために他人をゆるしてください。
それができれば、あなたの心に平安が訪れるでしょう——
だいたいにおいて、そういう説明がついている。
だが、この世の中で最も厄介なものは何か、分かるだろうか?
それは、見た目の悪人や、あなたにとっての分かりやすい不都合な出来事などではない。そんなもの、まだやさしい。
●もっともらしく聞こえ、間違いとは思えない正論
これが一番、人を傷付けることに気付いていない人は多い。
皆が間違っているとさえ思っていない、非の打ちどころのない言葉でも、適用される生ものとしての個々のケースにおいては案外、間違っている(それが最適解ではない)ケースは多いものだ。
ここで言う「間違い」とは、いついかなる時も例外のない「間違い」ではない。当事者が誰か、いつどこでどういう状況でか、によって同じ言葉でも正しくもなり、間違いにもなる。そういう意味であることを外さないように。
前回の記事でも言ったことだが、本当の意味でゆるすことのできるタイミングというのは、自我の意図で頑張って作れるものではない。それは来るときに来るもので、我々にできるのはその時が来た時に察知できることだけ。来たら自分で知れるというだけで、その時を意図して引き寄せることはできない。
もちろん、鈍感ならその来たということさえ見逃すが。(それすらシナリオ)
ゆるしなさい、ゆるすことで幸せになれます。ゆるせないというのは、他人ではなくあなたの問題です——。それらの言葉は間違ってはいない。
ただ、それらの言葉が救うのは、その言葉の意味を汲み取れる段階にまで準備の進んだ魂だけである。それ以外のケースに対しては、プレッシャーしか与えない。ゆるせない自分の未熟さ、ダメさ加減ばかりが目立って、自己嫌悪に陥る。
ゆるすということができたほうがいいのは当たり前、という崩しようのない前提が、まだ幼い魂を苦しめる。
子どもに、「社会で仕事をもってお金を稼ぎ、社会貢献できることがよいのは当たり前」と教え込むようなものである。それはその通りだが、子どもは大人の世話になるのが仕事のようなものである。まだその準備が整っていないので、言ってもムダである。
芸能人の子役は金稼いでるぞ? とか揚げ足取らないでね。(笑)
私は、辞書的なゆるしの意味は、ダメだと思う。
過失や失敗、罪を責めないこと。とがめないこと。これが「ゆるし」だと言うなら、むちゃくちゃだ。それを実践するように勧めるなんて、私から見たら大馬鹿だ。
過失や失敗を責めない、ということがどういうことか分かりますか?
子どもへのしつけに始まって刑法上の事件に至るまで、過失や罪などを大目に見てとがめないとか、なかったことにするなど、とんでもないことになるのは分かりますか?
えっ、相手が十分に反省したらとがめない? でもそれでは、無条件の愛でも、本当のゆるしでもないんじゃないですか? 相手が十分反省するまでは、咎めるわけでしょ?
何何、咎めたり責めたりするわけじゃなくて、愛による説得ですって? 愛のムチ? コラコラ、あんたの言葉遊びに付き合う気はないよ。
逃げるな。どこまで行っても、無条件の愛やゆるしなんてない。
●ハッキリ言って、相手の過失や罪を「なかったことにする」「気にしないことにする」ということがゆるしなら、くだらない。それは「逃避」である。
痛み止め薬と同じで、治療には何の効果もないが、一時的に痛みを忘れるくらいはできる、という程度のものである。
単に相手を責めない、咎めないという程度のことをゆるしと言うな。
ゆるしに失礼だろ。そんなもの、小手先のテクニックであって、何ら誇れるものではない。
ゆるすという現象は、結果である。
意図して、やろうとしてできることではなく、あなたの意図を越えて結果としてそうなっていることである。いつの間にか「ゆるせていた」と後付けで気付くことしかできない。だから、「ゆるしましょう」という不特定多数へのメッセージに、大した力はない。
まずひとつ、皆さんにお伝えしたいのは、ゆるすということは能動的には不可能な行為だということ。仮に「できた」と思えても、意図的に成し遂げられたと認識できる程度のゆるしは、底が浅いということを、ハッキリと指摘しておきたい。
では、改めて私なりの『ゆるす』という言葉の定義を言ってみよう。
相手のやったこと、言ったことに対して、決して責めないとか、なかったことにするとか忘れるとかいうことではない。責めていいし、なかったことになどしなくていい。
起こった事を、なかったなんて言っていいの? あったことはあったのだ。幻想だとか、他人はいない・相手も自分だとかそんな逃げは打たなくていい。
ただ、次の作業ができればいい。
●もしも私が相手の立場なら、同じことをしていたかもしれない、という——
相手の宇宙シナリオに対するリスペクト(尊重・敬意)を持つこと。
よく、こんな言葉を世間で聞く。
『私があなたなら、こんなことはしなかった』
この言葉は、まったくもって見当はずれの大間違いである。
私があなたなら、という言葉の意味は「私の今の人格、思考、感情をそのまま相手に移植して、それらをキープしたままで相手の立場だったら」という仮定条件である。
皆さんは気付かれるだろうか。そんなことはあり得ない、不可能だということに!
●あなたが相手だったら、なんてない。
相手は相手だ。
仮にあなたが相手になったとしたら、相手は相手であり中身があなたのままで相手になれるわけがないから、きっと同じことをする。
私だったらそうはしない、というのは論理として破綻している。
その人はその人を味わいに来ている。
私だったら、とかあの人が私なら、という言葉が出てくること自体、あなたはあなたの人生の主人公になれていない、ということの証明であり、また他者の人生をリスペクトできていない証拠でもある。
確かに、あなたというキャラの思考や感情では、相手がしたようなことはしないかもしれない。また、言わないかもしれない。でも、相手には相手の脚本があって、独特の背景や流れがあって、そうしたり言ったりせざるを得なかった世界がある。
何も、まるごと共感せよとかゆるせということではない。また、責任を咎めるなとかなかったことにせよとか言わない。ましてや「忘れなさい」とか、言葉はキレイだが暴力と同じである。
無理難題を吹っかけ、できなければ罪悪感や劣等感を植え付ける。実に見事なリピーター獲得法・資金回収法を、宗教や一部スピリチュアルは実践している。そこに競争意識と優越感を持ち込むことができたら、さらに銭もうけは安泰だ。
半沢直樹のドラマの中で、地位と引き換えに仲間(半沢)を売る同僚が現れる。
事がバレて半沢にこてんぱんに負けた彼はある日、半沢に呼び出される。
これまで半沢にえげつないことをしてきた彼なので、てっきり人でなしとか言ってけなされると思っていたのだが……半沢は、彼を責めない。むしろ、ゆるした形なる。
でも、半沢のしたそれは、決して単純にゆるしたのではない。彼は「自分がその同僚だったら?」と考えた。同じことをしないだろうか、と考えた。
自分だったら、間違った方法であっても家族と自分の幸せを守るのか、たとえ自分と愛する家族が犠牲になっても他人の名誉と「正義」を守るのか、という究極の選択を迫られたら、ほとんど前者を選ぶに違いない。半沢はその事実に思い至った。
そうしたら自然に、半沢は腹が立たなくなった。騙された、という気が全然しなくなったのだ。
ゆるそう、として意図的にゆるしたのでは全然ない。ただ、相手の人生のシナリオに敬意を払った。
もちろん、そういう相手を好きになれとか嫌うなとか、責任は追及するなということではない。ただ、相手のとった行為も、起こってしまった今となってはそれはそれだった(起こるべくして起こった)ということをただ受け入れるだけで、ただその時の流れるような感情の波を追いかけるだけで、いつの間にかゆるせていたりするものだ。
相手をゆする際、半沢は確かにゆるすための条件を相手に突きつけてはいる。でも、そのことはオマケみたいなものだ。その条件を実現するために何が何でもゆるそうとしたのではなく、自然にゆるせたがどうせなら自分の今後の目的のために役立ってもらってもバチは当たるまい、くらいの思いであると推測する。
おさらいに、もう一度言う。
ゆるすという行為は、やろうとしてできるものではない。
結果論として、「ゆるせていた」ということにあるタイミングで気付くことしかできない。それまでにあなたできることは、ゆるすという直接の行為とは関係のないことだけ。それが巡り巡って、ゆるしに繋がっていくことになる。
たとえばそれは、相手の立場に立って考えてみること。その結果、自分も同じようにしただろうという結論にたどり着くこと。それ以外に、ゆるしの道などない。
再三再四注意するが、相手の立場に立って考えるとは、自分の考え方そのままを相手の立場に移植して「自分だったらこうなのに」とシュミレーションすることではない。あくまでも、相手について知っている全データを駆使して、できるだけ相手の頭(心)に近づいた状態で考えてあげること。
何、相手のことを良く知らない? だったら、興味持ちなさい。そして交流なさい。それが、人を知るということであるり、生きる醍醐味のひとつである。
そのプロセスなしに、何でもいきなり「ゆるしなさい」なんてのは愚かだ。
ゆるされるべき問題など幻想であって、そんなもの本当にはない、というのがスピリチュアル(特に悟り系)の悪いところ。
そういう根源論からのごまかし、いい加減やめよう。
●ゆるしとは、相手を知らずして起きない。
知らないのにゆるせるとしたら、それはゆるせたという錯覚であり、底が浅い。
己を知り、相手を知れば百戦危うからず。
孫子の兵法の本当の意味は、そういうところにある。
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