悟りに結び付けてはいけないもの

 自己啓発や、成功哲学系スピリチュアルで言われることがあるようだが——


 

●否定をしない。



 何につけ否定をしないこと、肯定こそが大事である、と。もっと強い表現では『否定からは何も生まれない』と言う人さえいる。



 これも、人によってとらえ方が色々になってしまう言葉である。

 発信する側は、よほど慎重に言葉を選ばないと(どんなに気を付けても限界があるが)、読む人によっては罠にかけかねない。正解などないが、一応この世ゲーム的な成功を目指す目的に沿って言うと、模範的なとらえ方は——



●自分自身を否定しない。



 自分のすべて。外見的なもののみならず、精神部分(魂、および心が思い図ること)も含む全人的側面において、否定しないということ。

 もちろん「否定してはいけません」という命令ではなく、「今まであなたは否定されるべきと思いこんできたようだけど、本当は違うんだよ。それは周り社会から刷り込まれた思い込みであって、あなたは自分を否定する必要なんかないんだよ」という、いわゆる推奨(オススメ)。否定しなくてもいいんだ、ということを受け止めてみませんか?という問いかけ。

 なのに、発信側が言葉足らずだと、字面だけを読んで早合点する読者はこう読んでしまう。

「そうか! 否定しちゃいけないんだ」

 だから、単純に否定そのものをやめよう、と頑張ってしまう。むっちゃ皮肉な話だが、結局それは——



●否定の否定



 つまり、否定することを否定するという、笑えないオチになるのだ。

 否定することを『否定する』のは、やはり「否定」になるのだ。

 だから「否定はいけません」という言い方は、人を惑わす無責任な言葉となる。結局否定させるという皮肉な結果になるという点で。



 ややこしいのがイヤな私は、否定はいけないなどとは言わない。

 否定したかったら、すれば? そうとしか言わない。

 あと、否定がイヤになったら、やめたくなったらやめたら? とも。

 しないほうがいいと言ったって、したい人はするのだ。しろと言っても、今したくない気分の人はしないのだ。結局、リアルタイムでの生の感情こそがものを言うのだから。

 筆者なら、いつ何時でも「良い」とされている方向に相手を誘導するようなことは決してしない。例えそうすることが「正しくても」だ。

 そうしてしまえば、それは即座に『偏り』となる。宇宙に必要なのはバランスである。物事にいい悪いがあっても、その良し悪し以上に大事なのは「偏らないこと」だ。



 例えばの話、鼻づまりで片方に寄っていたら、気持ち悪かろう。

 鼻が寄っていない側を下に向ける姿勢を取ってみたり、寄っている方の鼻に点鼻薬を打ったりするだろう。そのように、偏りが把握できた上でその偏りを是正しようとする正確な措置が取れるなら(そういう、人間観察のプロなら)、困っている他者に具体的アドバイスをしてもいい。

 しかし、そこまでのスキルがないくせに、やたら「否定はやめましょう」「感謝をしましょう」「人を見て腹が立ったら、相手も自分の投影だということを思い出すといいですよ」とか、TPOをわきまえずに正論を連発する者がいる。正解だから、これ言っとけば間違いない、という安心感があるからね。こういう「正論」には。

 結果として相手構わず正論を振りかざした結果、(相手の症状にお構いなしに言っているので)結局、そういうカウンセラーやセラピストに当たってしまった人にとっては、ギャンブルになる。たまたま当たるか、ハズれるか。

 本当に腕のある人は、相手の『偏り』を見抜き、それを最短距離で治せるアプローチを取れる。ただし思慮のあるプロは、そこで正論を連発などしない。必要な時には「ええっ、カウンセリングでそんなこと言っちゃうの?」ってな言葉や工夫も柔軟に使える。



 この世界は、相対概念が支配する世界である。

 だから、良い悪いがあれば皆良いを目指す。

 光と闇があれば、光が良いとされる。

 貧しさか豊かさか、となれば豊かさを目指す。

 私は、それは別に悪いことではないと思う。だって、この幻想世界に生きてるんだもん。

 ただしゲームをするなら、そのゲーム内の独特のルールを把握し、身に付ける必要がある。だから、二元性スピリチュアル(幸せや豊かさ、成功を得ることを目的とする)や自己啓発・成功哲学などでそれをやったらいい。ただ、悟りを標榜するなら、豊かさ(目に見えた豊かさが主眼)や成功をうたってはいけない。



 悟りの境地、くうの境地は完全中立の境地。虚無の境地。

 そこには、一切の価値判断も陰陽(相対概念)もない。だから、「豊かになりたい」「成功したい」がない。

 悟った人間が結果として豊かになったり成功を収めたりするならば、それは「無欲」の副産物。執着を手放したことで生じた「豊かさという名のおまけ」。

 覚醒者が、いくら「私だって、皆さんと同じにフツーに欲しいって思ってますよおお」ってリップサービスで言っても、信用してはいけない。絶対に、結果に執着していない。そのことが覚者自身分かっていないケースもある。

 だから、覚者が自分の在り方を他者に広めても、ほとんどの人はうまくいかない。例えるなら、ある特殊能力を持ち、それが彼らの世界では当たり前な宇宙人が、地球人に会って(自分たちの感覚で、それができるのが当たり前という感覚で)その能力を地球人に教えたとする。でも、そのスペックを持たない地球人は、いつまでたっても同じようにできない。

 だから皆さん。覚醒者から何かを学ぼうと思わないほうがいいですよ。いろんな認識の前提が違うので、マネしたってダメです。

 皆さんにとって覚醒者は、「話を聞いて面白がる」くらいしか、使い道がありません(笑)。



 悟りの道を行くなら、不幸に対する幸せ、貧しさに対する豊かさを求めるのはあきらめなさい。二極の一方を目指すのは、究極の道ではない。

 ただ、目指さない結果として、コントロールを手放した結果として、不可抗力的に豊かになったり、儲かったり、地位を得たりすることはある。でもそれは、あくまでも目指さないことの結果である。

 それ以外に、悟りの道で豊かになることはない。

(この場合の豊かさとは、限定的豊かさ。真の豊かさを指さないが、究極次元においては豊かさすら偏りである。でもそんなこと、皆さんには役に立たない情報だろう)



 豊かさ、幸せ、満足を追いたければ、二元性スピリチュアル・自己啓発・成功哲学を用いなさい。それは決して恥ずかしいことではない。いや、むしろそれが人生ゲームをするには一番賢い方法だろう。

 でも、悟りとは結びつけるな! 悟りと名乗るからには、それは妥協なき、徹底した無の世界。すべてをある意味放棄した世界。原点回帰した世界。

 だから、金儲けは金儲けと素直に言いなさい。幸せになる道なら、そうなるための方法だとシンプルに宣伝なさい。そこに「くう」とか「覚醒」とかいう看板を掲げるな。



 蛇足までに、解説。

 覚醒した者が、金儲けや幸せになる道を説いてもいい。

(覚醒と、伝えている成功哲学が別物であるという正直さがあれば)

 ただ、覚醒者が自分の伝えている幸せになる道、豊かさへ至る道を自分の悟りと結び付けて語ることを、戒めているのだ。

 悟ることが幸せになる道なんて、とんでもない。もちろん、ごくまれにそういうケースもあろうが、この世界で求められるのはバリエーションである。悟りを得ても、その後どうなるかは人によってあらゆる可能性が想定される。

 悟った人が皆幸せに、豊かになっていたらそれは「偏り」である。イエス・キリストを見なさい。ブッダの人生のシナリオ的結末を見なさい。

 あなたはああいうパターンもあることを分かって、悟りを求めていますか? 幸せになろうという下心のある「悟りの探求」なんて、私は大キライだ。

 


 悟ることで幸せになろうとするよりも、普通に幸せを求めるほうが、幸せになれる確率ははるかに高い。

 それに比べ、前者で幸せになろうとするのはかなり分の悪い賭けだと言っておこう。

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